-後漢 > 『資治通鑑』和訳/巻7 前227年-前209年

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始皇帝下(前227~前208)

始皇帝二十年(前227年)

荊軻至咸陽,因王寵臣蒙嘉卑辭以求見,王大喜,朝服,設九賓而見之。荊軻奉圖以進於王,圖窮而匕首見,因把王袖而揕之;未至身,王驚起,袖絕。荊軻逐王,王環柱而走。群臣皆愕,卒起不意,盡失其度。而秦法,群臣侍殿上者不得操尺寸之兵,左右以手共搏之,且曰:「王負劍!」負劍,王遂拔以擊荊軻,斷其左股。荊軻廢,乃引匕首擿王,中銅柱。自知事不就,罵曰:「事所以不成者,以欲生劫之,必得約契以報太子也!」遂體解荊軻以徇。
王於是大怒,益發兵詣趙,就王翦以伐燕,與燕師、代師戰於易水之西,大破之。

荊軻は咸陽にゆき、秦王を襲った。

こまかいアクションは関係書籍で紹介されてます。

秦王は大怒して、兵を発して趙にいたる。王翦は燕を伐ち、燕軍・代軍と易水の西で戦い、おおいに破った。

ぼくは思う。『通鑑』秦紀を読んでます。王翦・王賁・王離が活躍して、彼らは瑯邪王氏(孫堅に殺される王叡)、太原王氏(呂布を殺す王允)の祖先だと。三国志とのコラボが楽しみなネタになりそう。


始皇帝二十一年(前226年)

冬,十月,王翦拔薊,燕王及太子率其精兵東保遼東,李信急追之。代王嘉遺燕王書,令殺太子丹以獻。丹匿衍水中,燕王使使斬丹,欲以獻王,王復進兵攻之。

冬10月、王翦が薊を抜き、燕王および太子は、精兵をひきいて東して遼東に砦する。李信が急追した。

李信

代王の嘉は、燕王に文書をやり、「太子の丹を殺して(李信に)献じろ(そうしたら秦軍の追及が緩むかも)と。太子の丹は、衍水の中に隠れたが、燕王に斬られた。秦王は兵を進めた。

王賁伐楚,取十餘城。王問於將軍李信曰:「吾欲取荊,於將軍度用幾何人而足?」李信曰:「不過用二十萬。」王以問王翦,王翦曰:「非六十萬人不可。」王曰:「王將軍老矣,何怯也!」遂使李信、蒙〔武〕(恬)將二十萬人伐楚[1];王翦因謝病歸頻陽。

王賁(王翦の子)が楚を伐ち、10餘城を取る。秦王は将軍の李信に問う。「荊(楚)を取りたいが、将軍は兵が何人いれば足りるか」

秦王の父の荘襄王の諱が「楚」なので、楚のことを「荊」という。
ぼくは思う。後漢の「荊」州は、戦国時代の「楚」の領域で、都を「郢」という。始皇帝の父の名が「楚」なので、始皇帝は「楚」のことを「荊」という。曹丕は孫権の「荊」州南部の支配を追認した変わりに、「荊」州北部を「郢」州と名づけた。「荊楚」って用法も、正史を献策すると多数ヒット。

李信「20万人もいれば」。秦王が王翦に聞くと、王翦は「60万人いないとムリ」と。秦王「王翦は老いたから、怯んでる」と。李信・蒙恬に20万をひきいて、楚を伐たせた。王翦は病といって頻陽に帰る(京兆;王翦の故郷)。

始皇帝二十二年(前225年)

王賁伐魏,引河溝以灌大梁。〔春〕,三月[2],城壞。魏王假降,殺之,遂滅魏。
王使人謂安陵君曰:「寡人欲以五百里地易安陵。」安陵君曰:「大王加惠,以大易小,甚幸。雖然,臣受地於魏之先王,願終守之,弗敢易。」王義而許之。

王賁は魏を伐ち、河溝を引いて大梁(陳留郡の浚儀県)を灌す。春3、大梁の城が壊れた。魏王の假は降り、殺された。魏が滅びた。
秦王は安陵君に人をやる。「わたしは、5百里の地を安陵に易えよう(場所を移動する代わりに面積を広げよう)」と。安陵君「ありがたいですが、わが封地は魏の先王からもらったもの。移りたくない」と。秦王は許した。

李信攻平輿,蒙〔武〕(恬)攻寢,大破楚軍。信又攻鄢郢,破之,於是引兵而西,與蒙〔武〕(恬)會城父,楚人因隨之,三日三夜不頓舍,大敗李信,入兩壁,殺七都尉;李信奔還。

李信が平輿(汝南)を攻め、蒙恬が寝(汝南)を攻め、楚軍をおおいに破る。李信は鄢郢(頴川の「鄢陵」とすべき;鄢郢はかつて秦将の白起が取った楚の旧都)を攻めて破る。ここにおいて兵を引き西にゆき、李信は、蒙恬とともに城父(沛郡)で会する。楚人はこれに随い、三日三夜 頓舍せず(停泊せずに追いかけて)おおいに李信を破って両壁に入り、7都尉を殺す。李信は奔げ還る。

この軍の都尉・将兵は、秦軍が楚を伐つのに従ったもの。秦は郡に「守」「尉」「監」を置いた。秦漢の制度では、行軍があるときは、都尉が置かれた。


王聞之,大怒,自〔馳〕至頻陽,〔見〕謝王翦曰[3]:「寡人不用將軍謀,李信果辱秦軍。〔今聞荊兵日進而西〕[4],將軍雖病,獨忍棄寡人乎!」王翦謝病不能將,王曰:「已矣,勿復言!」王翦曰:「〔大王〕必不得已用臣[5],非六十萬人不可!」王曰:「為聽將軍計耳。」於是王翦將六十萬人伐楚。王送至霸上,王翦請美田宅甚眾。王曰:「將軍行矣,何憂貧乎!」王翦曰:「為大王將,有功,終不得封侯,故及大王之向臣,以請田宅為子孫業耳。」王大笑。王翦既行,至關,使使還請善田者五輩。或曰:「將軍之乞貸亦已甚矣!」王翦曰:「不然。王怚中而不信人,今空國中之甲士而專委於我,我不多請田宅為子孫業以自堅,顧令王坐而疑我矣。」

秦王は(李信の大敗を)聞き、大怒して自ら頻陽(王翦の故郷)にゆき、,王翦に謝った。「私は将軍の謀を用いず、李信が秦軍を辱めた。将軍は私を見捨てないで」
王翦「60万人いないとムリ」
秦王は60万で楚を伐つ。秦王は覇上(長安の東30里)で見送る。王翦は、美田・宅を甚だ多く要求した。秦王「これから戦うのに、どうして貧しさを憂うのか」と。王翦「大王の将として戦ってきたが、封侯になれなかった。せめて子孫のために田宅がほしい

ぼくは思う。この田宅が、王叡・王允に伝わってたらおもしろいw

王は大笑した。王翦が進軍して関(武関)に至ると、使者を5回だして、美田がほしいと念を押した。あるひとが「財産にこだわりすぎ」という。王翦「そうではない。秦王は人を信じない。いま秦の国内の兵士を総ざらいにして私に委ねた。このように過剰に田宅を要求して保身しておかねば、秦王は私が(秦の総ざらいの兵士をつかって独立すると)疑うだろう」と。

ぼくは思う。「話題」の李信は、『通鑑』では、巻7の前226年~前225年だけに出てくる。これでおしまい。
この王翦の話は、とても楽しいので、どこかで流用したい。


始皇帝二十三年(前224年)

王翦取陳以南至平輿。楚人聞王翦益軍而來,乃悉國中兵以御之;王翦堅壁不與戰。楚人數挑戰,終不出。王翦日休士洗沐,而善飲食,撫循之;親與士卒同食。久之,王翦使人問:「軍中戲乎?」對曰:「方投石、超距。」王翦曰:「可用矣!」楚既不得戰,乃引而東。王翦追之,令壯士擊,大破楚師,至蘄南,殺其將軍項燕,楚師遂敗走。王翦因乘勝略定城邑。

王翦は陳より以南を取り、平輿に至る。楚人は王翦が兵数を増やしてきたと聞き、国中の兵で防いだ。王翦は可堅壁して戦わず。楚人はしばしば挑戦するが、ついに王翦は出ない。王翦は、士を休ませ洗沐させ、充分に飲食させ、撫循した。士卒とともに食事をした。しばらくして王翦は人に問わせる。「わが軍中は遊んでるか」と。「投石したり、超距したりして遊んでます」と。
王翦「よし戦うぞ」と。楚は、秦軍と戦えないので、引いて東に移動した。王翦は追撃して、楚軍を大いに破った。蘄南に至り、楚の將軍の項燕(項梁の父)を殺し、楚師は敗走した。王翦が勝ちに乗じて、城邑を攻略・平定した。

項梁・項籍が反乱をおこす張本である……と胡三省はいってない。


始皇帝二十四年(前223年)

王翦、蒙武虜楚王負芻,以其地置(楚)郡[6]。

王翦・蒙武は、楚王の負芻をとらえ、その値に楚郡を置いた。

のちに秦が36郡を置いたとき「楚郡」はない。楚が滅亡したとき、一時的に置いたのだろう。のちに、九江郡・ショウ郡・会稽郡の3つに分割された。


始皇帝二十五年(前222年)

大興兵,使王賁攻遼東,虜燕王喜。

秦はおおいに兵を興し、王賁が遼東を攻めて、燕王の喜を虜にした。

燕の滅亡に関する司馬光らの議論ははぶく。


王賁攻代,虜代王嘉。
王翦悉定荊江南地,降百越之君,置會稽郡。 〔夏〕,五月,天下大酺[7]。

王賁が代を攻めて、代王の嘉を虜とした。王翦はことごとく荊・江南の地を定め、百越の君を降し、会稽郡(郡治は呉県)を置いた。

ぼくは思う。李信ではなく、王翦の功績に帰したのね。


初,齊君王后賢,事秦謹,與諸侯信;齊亦東邊海上。秦日夜攻三晉、燕、楚,五國各自救,以故齊王建立四十餘年不受兵。
及君王后且死,戒王建曰:「群臣之可用者某。」王曰:「請書之。」君王后曰:「善!」王取筆牘受言,君王后曰;「老婦已忘矣。」君王后死,后勝相齊,多受秦間金。賓客入秦,秦又多與金。客皆為反間,勸王朝秦,不修攻戰之備,不助五國攻秦,秦以故得滅五國。

はじめ斉の君王后(襄王の后)は賢であり、秦につかえて謹しみ、諸侯と信をむすぶ。斉は東邊の海上にある(秦と国境を接さずに、兵に侵されない)。秦は日夜、三秦・燕・楚を攻めて、5国は自らで戦った。(5国とは対照的に)斉王の建は40余年、兵を受けない。
君王后が死にかけると、斉王の建に戒めた。「群臣のなかで用いるべきなのは、××である(言語障害)」と。斉王「書いて教えてくれ」と。君王后「よろしい」と。斉王が筆記用具を与えると、君王后は「老いて忘れてしまった」と。
君王后が死ぬと、后勝が斉の国相となり、秦から多くのカネを受けとった。賓客が秦にゆくと、賓客も秦からカネをもらった。買収された賓客は、斉王に「秦に朝せよ」といい、戦備を怠らせた。だから斉は5国を救わず、秦は5国を滅ぼすことができた。

ほんとにこんなにマヌケで、カネで解決できたのか? 秦が天下統一した理由を、矮小化して分かったフリになってしまうのは、残念なことです。


齊王將入朝,雍門司馬〔橫戟當馬〕前曰[8]:「所為立王者,為社稷耶,為王耶?」王曰:「為社稷。」司馬曰:「為社稷立王,王何以去社稷而入秦?」齊王還車而返。

斉王が、秦に入朝しようとすると、雍門司馬(城門司馬のこと)が進みでた。「王を立てるのは、社稷のためか、王自身のためか」と。斉王「社稷のため」と。司馬「社稷のために王を立てるのに、王は社稷をすてて秦にゆくの?」斉王は車の向きをかえて帰った。

即墨大夫聞之,見齊王曰:「齊地方(數)千里,帶甲數〔十〕(百)萬[9]。夫三晉大夫皆不便秦,而在阿、鄄之間者百數;王收而與之〔十〕(百)萬人之眾,使收三晉之故地,即臨晉之關可以入矣。鄢郢大夫不欲為秦,而在城南下者百數,王收而與之〔十〕(百)萬之師,使收楚故地,即武關可以入矣。如此,則齊威可立,秦國可亡,豈特保其國家而已哉!」齊王不聽。

即墨の大夫はこれを聞き、斉王に会う。「齊地は方は数千里、帶甲は數百萬。三秦の大夫は、みな秦に勝てずに、阿・鄄の間に漂うものが百数である。斉王は彼らを収容して、三秦の故地に返してやれ。臨晋の関から入る(秦に攻めこむ)ことができる。鄢郢の大夫は秦に支配されたくなく、城南のもとに百數がいる。斉王は彼らを収容して、楚の故地を回復してやれ。武関から入る(秦に攻めこむ)ことができる。そうすれば斉が立ち、秦が滅びる」と。斉王は聴かず。

始皇帝二十六年(前221年)

王賁自燕南攻齊,卒入臨淄,民莫敢格者。秦使人誘齊王,約封以五百里之地。齊王遂降,秦遷之共,處之松柏之間,餓而死。齊人怨王建不早與諸侯合從,聽奸人賓客以亡其國,歌之曰:「松耶,柏耶,住建共者客耶!」疾建用客之不詳也。

王賁は燕より南にゆき、斉をせめる。兵卒が臨菑にゆくと、妨害する民はいない。秦は斉王を誘って、「五百里の地に封じる」と約した。齊王は降った。共(河内郡の共県)に移し、松柏の間に住まわせ、斉王を餓死させた。斉人は、斉王が諸侯を合従して秦に対抗せず、秦に買収された賓客の言うことを聞いて国を滅ぼしたことを恨んだ。「松や柏や。(斉王の)建を共県にとどめたのは(秦に買収された)客だ」と。斉王がうまく食客を使いこなせなかったことを残念がった。

王初并天下,自以為德兼三皇,功過五帝,乃更號曰「皇帝,命為「制」,令為「詔」,自稱曰「朕」。追尊莊襄王為太上皇。制曰:「死而以行為謚,則是子議父,臣議君也,甚無謂。自今以來,除謚法。朕為始皇帝,後世以計數,二世、三世至于萬世,傳之無窮。」

秦王が初めて天下をあわせると、自ら「德は三皇を兼ね、功は五帝に過ぐ」と考えた。「皇帝」と号して、命を「制」といい、令を「詔」といい、自称を「朕」とした。莊襄王に追尊して太上皇とした。制して曰く、「死んでから謚するのは、子が父について議し、臣が君について議すことえある。甚だ謂われのないことだ。これより謚法を除く。朕を始皇帝とし、後世は代数をカウントして、二世・三世から萬世まで無限に伝える」

初,齊威、宣之時,鄒衍論著終始五德之運;及始皇并天下,齊人奏之。始皇採用其說,以為周得火德,秦代周,從所不勝,為水德。始改年,朝賀皆自十月朔;衣服、旌旄、節旗皆尚黑,數以六為紀。

はじめ、斉の威王・宣王のとき、鄒衍が五德の運が終始すること論著した。始皇が天下をあわせると、斉人が上奏した。始皇はこれを採用して、周を火徳とし、秦を火に勝てる水徳とした。年を改め、朝賀は10月朔にする。衣服・旌旄・節旗は、(水の色である)黒をとうとび、数は(水の数である)6を紀とした。

丞相〔王〕綰〔等〕言[10]:「燕、齊、荊地遠,不為置王,無以鎮之。請立諸子。」始皇下其議。廷尉斯曰:「周文、武所封子弟同姓甚眾,然後屬疏遠,相攻擊如仇讎,周天子弗能禁止。今海內賴陛下神靈一統,皆為郡、縣,諸子功臣以公賦稅重賞賜之,甚足易制,天下無異意,則安寧之術也。置諸侯不便。」始皇曰:「天下共苦戰鬥不休,以有侯王。賴宗廟,天下初定,又復立國,是樹兵也;而求其寧息,豈不難哉!廷尉議是。」
分天下為三十六郡,郡置守、尉、監。

丞相の王綰らがいう。「燕・齊・楚は地が遠いから、王を置かねば、鎮せない。(始皇の親族の)諸子を王に立てよ」と。始皇は議を下した。
廷尉の李斯はいう。「周文王・周武王は、同姓の子弟をたくさん封じたが、やがて疎遠になり、周の天子ですら争いを防げない。せっかく天下統一したのだから、郡県をおけ。諸子・功臣には、税収から財産を与えればよく(土着しないので)異志も持たない。諸侯を置くな」と。
始皇「天下が戦い続けたのは、王侯がいたから。せっかく統一したのだから、諸侯を立てて紛争のタネを作ることはない。李斯の意見を用いる」と。
天下を36郡に分けて、郡に守・尉・監を置いた。

收天下兵聚咸陽,銷以為鍾鐻、金人十二,重各千石,置宮廷中。一法度、衡、石、丈尺。徙天下豪傑於咸陽十二萬戶。
諸廟及章臺、上林皆在渭南。每破諸侯,寫放其宮室,作之咸陽北阪上,南臨渭,自雍門以東至涇、渭,殿屋、覆道、周閣相屬,所得諸侯美人、鐘鼓以充入之。

天下の兵を咸陽にあつめ、武器で金人12個をつくり、宮廷におく。度・衡・石・丈尺をひとつに定める。天下の豪傑を咸陽に移すこと12萬戸。
諸廟および章臺・上林は、すべて渭南にある。諸侯を破るごとに、その宮室を写放し、……(宮殿まわりの建築をした)

始皇帝二十七年(前220年)

始皇巡隴西、北地,至雞頭山,過回中焉。
作信宮渭南,已,更命曰極廟。自極廟道通驪山,作甘泉前殿,築甬道自咸陽屬之,治馳道於天下。

始皇は隴西・北地を巡り、雞頭山に至り、回中を過ぐ。
信宮を渭南に作り、完成すると「極廟」と命名した。極廟より道を驪山に通して、甘泉の前殿をつくった。甬道を築って咸陽からつなげ、馳道を天下につくった。

宮殿周りの建築について、『資治通鑑』が記事を2年にわたって書いているのは、適当に散らしたんだろうな。


始皇帝二十八年(前219年)

始皇東行郡、縣,上鄒嶧山,立石頌功業。於是召集魯儒生七十人,至泰山下,議封禪。諸儒或曰:「古者封禪,為蒲車,惡傷山之土石、草木;掃地而祭,席用菹秸。」議各乖異。始皇以其難施用,由此絀儒生。而遂除車道,上自泰山陽至顛,立石頌德;從陰道下,禪於梁父。其禮頗采太祝之祀雍上帝所用,而封藏皆秘之,世不得而記也。
於是始皇遂東遊海上,行禮祠名山、大川及八神。始皇南登琅邪,大樂之,留三月,作琅邪臺,立石頌德,明得意。

始皇は東して郡・縣に行き、鄒の嶧山にのぼり、石を立てて功業を頌べた。魯の儒生七十人を召集して、泰山の下で、封禅を議せしむ。諸儒の誰かが、「古の封禅では、蒲車をつくり、山の土石・草木が傷つかないようにした。地を掃って祭るとき、席は菹秸でつくった」と。議論はおのおの食い違った。始皇は儒者を信頼しなくなった。ついに車道を除き、みずから泰山の陽を登って山頂に至り、石を立てて德を頌した。陰道から下山し、梁父で禅した。その礼は、太祝の祀で上帝を雍するものに準拠したが、秘密にされて記録がない。
東の海上に遊び、名山・大川・八神に礼を行う。南して瑯邪に登り、おおいに楽しみ、3ヶ月留まって「瑯邪台」をつくって、石碑を立てた。

初,燕人宋毋忌、羨門子高之徒稱有仙道、形解銷化之術,燕、齊迂怪之士皆爭傳習之。自齊威王、宣王、燕昭王皆信其言,使人入海求蓬萊、方丈、瀛洲,雲此三神山在勃海中,去人不遠。患且至,則風引舡去。嘗有至者,諸仙人及不死之藥皆在焉。及始皇至海上,諸方士齊人徐市等爭上書言之,請得齊戒與童男女求之。於是遣徐市發童男女數千人入海求之。舡交海中,皆以風解,曰:「未能至,望見之焉。」
始皇還,過彭城,齋戒禱祠,欲出周鼎泗水,使千人沒水求之,弗得。乃西南渡淮水,之衡山、南郡。浮江至湘山祠,逢大風,幾不能渡。上問博士曰:「湘君何神?」對曰:「聞之:堯女,舜之妻,葬此。」始皇大怒,使刑徒三千人皆伐湘山樹,赭其山。遂自南郡由武關歸。

始皇が仙薬を探して、失敗する話。嵐で渡れない川を渡ろうとする話。

始皇帝二十九年(前218年)

初,韓人張良,其父、祖以上五世相韓。及韓亡,良散千金之產,欲為韓報仇。始皇東遊,至陽武博浪沙中,張良令力士操鐵椎狙擊始皇,誤中副車。始皇驚,求,弗得;令天下大索十日。
始皇遂登之罘,刻石;旋,之琅邪,道上黨入。

はじめ韓人の張良は、その父・祖父より上の5世代にわたり、韓の相だった。韓が滅びると、よく千金の産を散じて、韓の仇に報いようとした。始皇が東を旅すると、陽武(河南)の博浪沙中で、張良は力士に鐵椎を操らせ、始皇を狙撃した。誤って副車にあたった。始皇は驚いたが、犯人がつかまらず。天下を10日間、探させた。
始皇は之罘山(東莱の睡県)に登り、石に刻む。ひきかえして琅邪に行き、上党への道に入る。

始皇帝三十一年(前216年)

黔首(民;黒巾を頭に巻いてる)に自ら田を実らしめた。

ぼくは思う。政策らしい政策、政争らしい政争もなく、全土をウロウロしているだけである。司馬遼太郎の『項羽と劉邦』で、こっけいな始皇帝が出てきたが、『資治通鑑』でも変わらないな。


始皇帝三十二年(前215年)

始皇之碣石,使燕人盧生求羨門,刻碣石門。壞城郭,決通堤坊。始皇巡北邊,從上郡入。盧生使入海還,因奏《錄圖書》曰:「亡秦者胡也。」始皇乃遣將軍蒙恬發兵三十萬人,北伐匈奴。

始皇は碣石(右北平・遼西)にゆき、燕人の盧生に羨門で求めさせた。碣石の城門に(始皇帝の徳について)刻んだ。城郭を壊して、堤坊が決壊させた。始皇は北辺をめぐり、上郡から入った。盧生の使者が海から還ってきて、『録図書』を奏した。「秦を亡す者は胡なり」と。
始皇は將軍の蒙恬に兵30万を発せしめ、北して匈奴を伐った。

始皇帝三十三年(前214年)

發諸嘗逋亡人、贅婿、賈人為兵,略取南越陸梁地,置桂林、南海、象郡;以謫徙民五十萬人戍五嶺,與越雜處。
蒙恬斥逐匈奴,收河南地為四十四縣。築長城,因地形,用制險塞。起臨洮至遼東,延袤萬餘里。於是渡河,據陽山,逶迤而北。暴師於外十餘年。蒙恬常居上郡統治之,威振匈奴。

諸々の嘗逋の亡人・贅婿・賈人を発して、秦の兵にした。南越・陸梁の地を略取し、桂林・南海・象郡を置いた。徙刑にした民50萬人に五嶺を守らせ、越族と雑居させた。
蒙恬が匈奴を斥逐し、河南の地を收めて44県とした。長城を築き、地形によって、険塞を制した。臨洮から遼東まで、萬餘里をつなぐ。蒙恬はつねに上郡にいて統治し、匈奴に威を振るわす。

地形について、243頁。



始皇帝三十四年(前213年)

謫治獄吏不直及覆獄故、失者,築長城及處南越地。
丞相李斯上書曰:「異時諸侯並爭,厚招遊學。今天下已定,法令出一,百姓當家則力農工,士則學習法令。今諸生不師今而學古,以非當世,惑亂黔首,相與非法教。人聞令下,則各以其學議之,入則心非,出則巷議,誇主以為名,異趣以為高,率群下以造謗。如此弗禁,則主勢降乎上,黨與成乎下。禁之便!臣請史官非秦記皆燒之;非博士官所職,天下有藏《詩》、《書》、百家語者,皆詣守、尉雜燒之。有敢偶語《詩》、《書》,棄市;以古非今者族;吏見知不舉,與同罪。令下三十日,不燒,黔為城旦。所不去者,醫藥、卜筮、種樹之書。若有欲學法令者,以吏為師。」制曰:「可。」

獄吏のうち、判決が適切でないものを、長城の建築か南越への移住にあてる。
丞相の李斯が上書した。「諸侯が並争するときは、遊学者を厚遇した。しかし天下が定まり、法令は統一された。百姓は肉体労働をすればよく、士は法令を学べばよい。諸子百家は要らない。秦以外の歴史記録を焼け。その他の種類の本も焚書せよ。医薬・卜筮・種樹の本は有用だから焼くな」と。

李斯のキャラ・思想は強烈なので、『史記』を熟読すべし。


魏人陳餘謂孔鮒曰:「秦將滅先王之籍,而子為書籍之主,其危哉!」子魚曰:「吾為無用之學,知吾者惟友。秦非吾友,吾何危哉!吾將藏之以待其求;求至,無患矣。」

魏人の陳餘が孔鮒(孔子の八世孫)にいう。「秦が先王の籍を滅そうとする。あたなは書籍の主(蔵書家)だから、危ういぞ」と。子魚「私は無用の學をやる。私を知っているのは友だけ。秦はわが友ではない。どうして危ういか。私は蔵書を持ちつづけ(友が?世間が?本を必要とするのを)待つよ。求められたら、患うことはない」

孔鮒×孔融が読みたいですね。この孔鮒は、陳勝に辟される。


始皇帝三十五年(前212年)

使蒙恬除直道,道九原,抵雲陽,塹山堙谷千八百里,數年不就。
始皇以為咸陽人多,先王之宮廷小,乃營作朝宮渭南上林苑中,先作前殿阿房,東西五百步,南北五十丈,上可以坐萬人,下可以建五丈旗,周馳為閣道,自殿下直抵南山,表南山之顛以為闕。為衣覆道,自阿房渡渭,屬之咸陽,以象天極閣道、絕漢抵營室也。隱宮、徒刑者七十〔餘〕萬人[11],乃分作阿房宮或作驪山。發北山石槨,寫蜀、荊地材,皆至;關中計宮三百,關外四百餘。於是立石東海上朐界中,以為秦東門。因徙三萬家驪邑,五萬家雲陽,皆復不事十歲。

蒙恬に直道(直通の道?)を除かせ、九原に道をつなぎ、雲陽を経由させた。山を塹り谷を堙ること千八百里、数年たっても完成しない。

蒙恬は、領土を拡張する担当。前210年に死にます。

始皇が思うに、咸陽の人が多いので、先王の宮廷では小さい。阿房宮をつくる。全国から労働力・資材を集めるが、なかなか完成しない。

盧生說始皇曰:「方中:人主時為微行以辟惡鬼。惡鬼辟,真人至。願上所居宮毋令人知,然後不死之藥殆可得也。」始皇曰:「吾慕真人。」自謂「真人」,不稱「朕」。乃令咸陽之旁二百里內宮觀二百七十,複道、甬道相連,帷帳、鐘鼓、美人充之,各案署不移徙。行所幸,有言其處者,罪死。始皇幸梁山宮,從山上見丞相車騎眾,弗善也。中人或告丞相,丞相後損車騎。始皇怒曰:「此中人泄吾語!」案問,莫服,捕時在旁者,盡殺之。自是後,莫知行之所在。群臣受決事者,悉於咸陽宮。

盧生にそそのかされ、始皇は人を遠ざけた。始皇の居場所は内緒にされて、口外したら殺された。郡臣が決裁を受けるのは、すべて咸陽宮である。

侯生、盧生相與譏議始皇,因亡去。始皇聞之,大怒曰:「盧生等,吾尊賜之甚厚,今乃誹謗我!諸生在咸陽者,吾使人廉問,或為妖言以亂黔首。」於是御史悉案問諸生。諸生傳相告引,乃自除犯禁者四百六十餘人,皆坑之咸陽,使天下知之,以懲後;益發謫徙邊。始皇長子扶蘇諫曰:「諸生皆誦法孔子。今上皆重法繩之,臣恐天下不安。」始皇怒,使扶蘇北監蒙恬軍於上郡。

侯生・盧生は、始皇をそしって逃げた。始皇は怒って、民をまどわす諸生を穴埋めにした。長子の扶蘇が諌めた。「諸生はみな孔子の言葉を、行動規範にしています。彼らを厳しく罰したら、天下が不安になる恐れがあります」と。始皇は怒って、扶蘇を上郡の蒙恬の軍にゆかせた。

始皇が崩御したとき、蒙恬・扶蘇がセットなのは、こういう理由による。なんか、儒者による偏向が入っている気がして、いまいちリアリティがない。「儒者をかばった扶蘇を、辺境に飛ばすから、始皇は後継者問題で失敗したんだぞ」と。
もしも扶蘇が二世皇帝になったら……胡亥よりマシなのか?


始皇帝三十六年(前211年)

有隕石于東郡。或刻其石曰:「始皇死而地分。」始皇使御史逐問,莫服;盡取石旁居人誅之,燔其石。
遷河北榆中三萬家;賜爵一級。

隕石が東郡(もとの衛地)におちる。あるひとが隕石に「始皇が死んで地は分れる」と刻んだ。始皇は御史に逐問させたが、犯人は捕まらず。石のそばの居住者を、すべて誅して、隕石は焼いた。
河北(河北とは北河の北のこと)の榆中の3萬家を移住させ、爵1級を賜はる。

始皇帝三十七年(前210年)

冬,十月,癸丑,始皇出遊;左丞相李斯從,右丞相馮去疾守。始皇二十餘子,少子胡亥最愛,請從;上許之。

冬10月の癸丑、始皇は出遊した。左丞相の李斯が従い、右丞相の馮去疾が留守する。始皇には20餘子があり、少子の胡亥が最も愛された。胡亥が同行を請い、始皇が許した。

十一月,行至雲夢,望祀虞舜於九疑山。浮江下,觀藉柯,渡海渚,過丹陽,至錢唐,臨浙江。水波惡,乃西百二十里,從陿中渡。上會稽,祭大禹,望于南海;立石頌德。還,過吳,從江乘渡。並海上,北至琅邪、罘。見巨魚,射殺之。遂並海西,至平原津而病。

11月、雲夢に至り、虞舜を九疑山で祀りたい。江に浮いて下り、藉柯を觀て、海渚を渡り、丹陽を過ぎて、銭唐に至り、浙江に臨む。波が高いので、西に120里ゆき、陿中から渡る。會稽山に登り、大禹を祭り、南海を望む。石を立てて德を頌ぶ。還って呉を過ぎ、江乘から渡る。海上を北にゆき、琅邪・之罘にいたる。巨魚を見て、射殺した。ついに海西をとおり、平原津に至って病む。

地理のことは、胡三省が247頁に。


始皇惡言死,群臣莫敢言死事。病益甚,乃令中軍府令行符璽事趙高為書賜扶蘇曰:「與喪,會咸陽而葬。」書已封,在趙高所,未付使者。秋,七月,丙寅[12],始皇崩於沙丘平臺。丞相斯為上崩在外,恐諸公子及天下有變,乃秘之不發喪,棺載轀涼車中,故幸宦者驂乘。所至,上食、百官奏事如故,宦者輒從車中可其奏事。獨胡亥、趙高及幸宦者五六人知之。

始皇は「死」というのを憎み、郡臣は死のことを言わない。中軍府令・行符璽事の趙高が、扶蘇に文書を与えた。「喪と咸陽で会して(始皇の死体と咸陽で合流して)葬れ」と。文書は封じられたが、趙高のところで留められ、使者に渡らない。
秋7月の丙寅、始皇沙丘の平臺で崩じた。丞相の李斯は、始皇が都のそとで崩じたから、諸公子や天下に事変があるのを恐れて、喪を発さない。棺は轀涼車に載せて、故幸の宦者が同乗した。通過したところでは、食事を差し上げ、百官の奏事はもとのまま。宦者は車中から奏事を裁可した。ひとり胡亥・趙高および親幸された宦者5・6人だけが、始皇の崩御を知る。

◆蒙氏のこと

初,始皇尊寵蒙氏,信任之。蒙恬任外將,蒙毅常居中參謀議,名為忠信,故雖諸將相莫敢與之爭。趙高者,生而隱宮,始皇聞其強力,通於獄法,舉以為中車府令,使教胡亥決獄,胡亥幸之。趙高有罪,始皇使蒙毅治之;毅當高法應死。始皇以高敏於事,赦之,復其官。趙高既雅得幸於胡亥,又怨蒙氏,乃說胡亥,請詐以始皇命誅扶蘇而立胡亥為太子。胡亥然其計。

はじめ始皇は、蒙氏を尊寵し、信任した。蒙恬を外將に任じ、蒙毅は常に中に居り謀議に参じた。名づけて忠信と參す。故に諸將相も、あえて蒙氏と争わない。
趙高は、隠宮に生まれた。始皇は「趙高は力が強く、獄法に通じる」と聞き、挙げて中車府令として、胡亥に決獄について指導させ、胡亥は趙高を慕った。趙高に罪があると、始皇は蒙毅に裁かせた。蒙毅は、趙高が死罪にあたると判断した。始皇は趙高が便利なので、赦して官職にもどした。
趙高は、すでに胡亥から信頼され、また蒙氏を恨んでいる。胡亥に説き、始皇の遺命をいつわって扶蘇を廃して胡亥を太子にした。胡亥はこの計画に同意した。

趙高曰:「不與丞相謀,恐事不能成。」乃見丞相斯曰:「上賜長子書及符璽,皆在胡亥所。定太子,在君侯與高之口耳。事將何如?」斯曰:「安得亡國之言!此非人臣所當議也!」高曰:「君侯材能、謀慮、功高、無怨、長子信之,此五者皆孰與蒙恬?」斯曰:「不及也。」高曰:「然則長子即位,必用蒙恬為丞相,君侯終不懷通侯之印歸鄉里明矣!胡亥慈仁篤厚,可以為嗣。願君審計而定之!」丞相斯以為然,乃相與謀,詐為受始皇詔,立胡亥為太子。更為書賜扶蘇,數以不能闢地立功,士卒多耗,〔反〕數上書[13],直言誹謗,日夜怨望不得罷歸為太子,將軍恬不矯正,知其謀,皆賜死,以兵屬裨將王離。

趙高「丞相の李斯が賛同してくれないと、計画は成功しない。
趙高は李斯にいう。「始皇は、長子の扶蘇に文書・符璽を与えましたが、すべて胡亥のところに(留めて)あります。太子を決めるのは、あなたと私の口だけです。どうでしょ」
李斯「なぜ亡国の言を聞くものか。人臣が議することじゃない」
趙高「あなたは5つのスペックが蒙恬に及びますか?」
李斯「及ばない」

蒙恬のスペックが「材能、謀慮、功高、無怨、長子信之」であることが、間接的に証明されました。「怨まれてない」もスペックのひとつなのね。

趙高「それなら長子の扶蘇が即位すれば、蒙恬を丞相にする」
李斯は趙高に同意して、胡亥を太子にした。扶蘇は士卒を損耗させたから、死を賜る。扶蘇の兵は、王離(王翦の孫・王賁の子)に属させた。

断片でしか見えないが、秦で力のある将軍は、王翦から直系の子孫がおり、蒙恬がいて、、李信はどこかに消えた。


扶蘇發書,泣,入內舍,欲自殺。蒙恬曰:「陛下居外,未立太子;使臣將三十萬眾守邊,公子為監,此天下重任也。今一使者來,即自殺,安知其非詐!復請而後死,未暮也。」使者數趣之。扶蘇謂蒙恬曰:「父賜子死,尚安復請!」即自殺。蒙恬不肯死,使者以屬吏,繫諸陽周。更置李斯舍人為護軍,還報。胡亥已聞扶蘇死,即欲釋蒙恬。會蒙毅為始皇出禱山川,還至。趙高言於胡亥曰:「先帝欲舉賢立太子久矣,而毅諫以為不可,不若誅之!」乃繫諸代。

扶蘇が自殺しようとした。蒙恬がいう。「陛下は外にいて太子を立ててない。私が30万で扶蘇を守れば、天下の重任である。1人の使者がきて、すぐに自殺したら、ウソに気づけない。よく確かめてから自殺しても遅くない」
使者がしばしばきた。扶蘇は蒙恬にいう。
「父が子に(始皇が私に)死を賜うという(とても辛いことだ)。それでも自殺を思い止まれというのか」
蒙恬は死を肯んぜず、陽周(上郡)に残った。李斯の舎人が護軍となり、李斯に還って報告した。胡亥は、すでに扶蘇が死んだと聞き、蒙恬を赦したい。
たまたま蒙毅が始皇のために山川で祷りに出ており、還ってきた。趙高は胡亥にいう。「先帝は賢を挙げて(あなた胡亥を)太子に立てたいと思っていた。しかし蒙毅が諌めて妨害していた。誅殺するのがベストだ」と。蒙毅は(山川から)代郡に還ったところを捕縛された。

ぼくは思う。蒙恬は祭祀・祈祷まで代行する。いちばん信任されているのは、蒙恬・蒙毅というのは、本当かも。李斯はトザマだしな。


遂從井陘抵九原。會暑,轀車臭,乃詔從官令車載一石鮑魚以亂之。從直道至咸陽,發喪。太子胡亥襲位。
九月,葬始皇於驪山,下錮三泉;奇器珍怪,徙藏滿之。令匠作機弩,有穿近者輒射之。以水銀為百川、江河、大海,機相灌輸。上具天文,下具地理。後宮無子者,皆令從死。葬既已下,或言工匠為機藏,皆知之,藏重即泄。大事盡,閉之墓中。

(始皇の喪は)井陘から九原へ。暑くて匂うので、鮑魚でごまかす。直道より咸陽に至る。喪を発して、太子の胡亥が位を襲ふ。
9月、始皇を驪山に葬る。陵墓を凝る。後宮の子がないものは、みな殺された。葬り終わり、あるひとが「工匠は機藏をつくったから、陵墓を知っており、洩らすかも」という。墓のなかに閉じこめられた。

二世欲誅蒙恬兄弟。二世兄子子嬰諫曰:「趙王遷殺李牧而用顏聚,齊王建殺其故世忠臣而用後勝,卒皆亡國。蒙氏,秦之大臣謀士也,而陛下欲一旦棄去之。誅殺忠臣而立無節行之人,是內使群臣不相信,而外使鬥士之意離也。」二世弗聽,遂殺蒙毅及內史恬。恬曰:「自吾先人及至子孫,積功信於秦三世矣。今臣將兵三十餘萬,身雖囚繫,其勢足以倍畔。然自知必死而守義者,不敢辱先人之教,以不忘先帝也。」乃吞藥自殺。

二世(胡亥)は、蒙恬の兄弟を誅したい。二世は兄子の子嬰が諌めた。「趙王遷は李牧を殺して顔聚を用い、齊王建は故世の忠臣を殺して後勝を用い、どちらもすぐに亡国した。蒙氏は秦の大臣・謀士である。

蒙氏を、趙の李牧(匈奴を警戒・討伐して大功あり。『通鑑』巻6で読んだ)になぞらえている。よく分かる例え。

陛下が蒙氏を捨てれば、忠臣を誅殺して、節行なき人を立てることになり、内は群臣が相ひ信ぜず、外は闘士の意が離れる」と。

イイネ!

二世は子嬰を聽かず、ついに蒙毅および内史の蒙恬を殺した。
蒙恬「わが祖先から子孫まで、功信を積むこと秦に於いて三世なり。いま私は30余万をひきいた。身は獄に繋がれても、勢は背反するに足る。しかし義を守る者は(君主に背反して)祖先の教えを辱めず、先帝を忘れないのである」と。薬を飲んで自殺した。

ぼくは思う。始皇帝は蒙氏を信頼し、内では蒙毅に謀議・祭祀をやらせ、外では蒙恬に30万を預ける。蒙恬とともに代郡にいるのは、正論を吐いて始皇帝の不興を買った、長子の扶蘇。胡亥・李斯・趙高ラインでなく、扶蘇・蒙毅・蒙恬が秦の二世皇帝になったら……というイフは、質的には需要がある(量的には知らない)

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二世皇帝上(前209)

二世皇帝元年(前209年)

冬,十月,戊寅,大赦。
春,二世東行郡縣,李斯從;到碣石,並海,南至會稽;而盡刻始皇所立刻石,旁著大臣從者名,以章先帝成功盛德而還。

冬10月の戊寅、大赦した。
春、二世は東して郡縣に行き、李斯が從う。碣石に到り、海をわたり、南して會稽に至る。尽く始皇の立てた刻石に刻み、旁に大臣・從者の名を著し、先帝の成功・盛德を章して還る。

夏,四月,二世至咸陽,謂趙高曰:「夫人生居世間也,譬猶騁六驥過決隙也。吾既已臨天下矣,欲悉耳目之所好,窮心志之所樂,以終吾年壽,可乎?」高曰:「此賢主之所能行,而昏亂主之所禁也。雖然,有所未可。臣請言之:夫沙丘之謀,諸公子及大臣皆疑焉;而諸公子盡帝兄,大臣又先帝之所置也。今陛下初立,此其屬意怏怏皆不服,恐為變。臣戰戰慄栗,唯恐不終,陛下安得為此樂乎!」二世曰:「為之奈何?」趙高曰:「陛下嚴法而刻刑,令有罪者相坐,誅滅大臣及宗室;然後收舉遺民,貧者富之,賤者貴之。盡除去先帝之故臣,更置陛下之所親信者,此則陰德歸陛下,害除而奸謀塞,群臣莫不被潤澤,蒙厚德,陛下則高枕肆志寵樂矣。計莫出於此。」二世然之。乃更為法律,務益刻深,大臣、諸公子有罪,輒下高鞠治之。於是公子十二人僇死咸陽市,十公主矺死於杜,財物入於縣官,相連逮者不可勝數。

夏4月、二世は咸陽に至り、趙高にいう。「人生は、六驥を騁して決隙を過ぎるほど短い紀。すでに吾は天下に臨み、好きなものを見聞きして楽しんで寿命を迎えたいがどうか」

バカ君主のフラグ。

趙高「これは賢主ができることで、昏乱の主には禁じられてること。(二世は賢主だからやっていいが)まだダメだ。沙丘の謀(扶蘇の廃嫡と殺害)を、諸公子および大臣は疑ってる。諸公子は全員が帝の兄である(胡亥が末子だから)。大臣は先帝が置いた人々だ。陛下が立ち、彼らの意は怏怏として服せず、政変の恐れがある。陛下は楽しんでいる場合でない」
二世「どうしたらいい?」
趙高「法を厳しくして、大臣・宗室を殺せ。彼らの遺民を収容して、貧者は富ませ、賎者を貴くせよ(恩を施せ)。先帝の故臣を除き、陛下に親信するものを置け。そうすれば枕を高く(耳目を楽しませる遊びが)できる」
二世はそのとおりにした。法律をいじり、大臣・諸公子を有罪とした。公子12人が咸陽の市に晒され、10公主が杜で死体を裂かれた。財物は県官(国庫)に入れ、相い連なって逮われる者は数えきれない。

公子將閭昆弟三人囚於內宮,議其罪獨後。二世使使令將閭曰:「公子不臣,罪當死!吏致法焉。」將閭曰:「闕廷之禮,吾未嘗敢不從賓贊也,廊廟之位,吾未嘗敢失節也,受命應對,吾未嘗敢失辭也,何謂不臣?願聞罪而死!」使者曰:「臣不得與謀,奉書從事。」將閭乃仰天大呼「天」者三,曰:「吾無罪!」昆弟三人皆流涕,拔劍自殺。宗室振恐。公子高欲奔,恐收族,乃上書曰:「先帝無恙時,臣入〔則〕(門)賜食[14],出則乘輿,御府之衣,臣得賜之,中廄之寶馬,臣得賜之。臣當從死而不能,為人子不孝,為人臣不忠。不孝不忠者,無名以立於世,臣請從死,願葬驪山之足。唯上幸哀憐之!」書上,二世大說,召趙高而示之,曰:「此可謂急乎?」趙高曰:「人臣當憂死而不暇,何變之得謀!」二世可其書,賜錢十萬以葬。

公子の將閭と昆弟3人は、内宮に捕らわれ、罪を後で議された。二世は使者から將閭に伝えた。「公子は不臣である(臣下としての分限を越えた)。罪は死にあたる。吏は法を執行せよ」
將閭「闕廷の禮で、私は賓贊に従わなかったことがなく、廊廟の位で、私は節を失ったことがない。受命・応対で、私は辞を失したことがない。なぜ不臣なのか」
使者「内容は知らん。命令書どおりに死刑を執行するだけ」
將閭は天を仰いで「天よ、天よ、天よ」といい、「私は無罪だ」という。昆弟3人は流涕して、剣を抜いて自殺した。
宗室は恐れに振るえ、公子の高は奔りたいが、一族が捕らわれるのを恐れ、上書した。「先帝が存命のとき、私は入りては食を賜ひ、出ては輿に乗った。御府の衣を先帝からもらったもの。中廄の寶馬も、先帝からもらったもの。先帝に殉死しなかったのは、人の子として不孝であり、人臣として不忠であった。不孝・不忠な者は、世に名を立てられない。死んで驪山(先帝の陵墓)のふもとに葬ってほしい」
上書を見て、二世は大いに喜び(立派な心がけだから、公子の高を赦そうと思って)趙高に示した。「これは急と謂うべきでは(重んじるべきでは)ないか」と。趙高「人臣は死を憂いて暇せず(死に際に必死になっているだけだ)。どうして(皇族を全殺するという)計画を変更してよいものか」と。二世は上書を評価して、銭10万を賜って葬った。

皇族(二世の兄)を全殺するとか、すごいな。皇族たちの悲劇は、この政策の誤りをほのめかしているのだが、二世は気づいてない。身の安全・人生の娯楽だけを考えてるという描かれ方。


復作阿房宮。盡徵材士五萬人為屯衛咸陽,令教射。狗馬禽獸當食者多,度不足,下調郡縣,轉輸菽粟、芻稿。皆令自齎糧食;咸陽三百里內不得食其穀。

また阿房宮をつくり、材士5万人に咸陽を屯衛させ、射術を教えさせた。狗馬・禽獸で食料になるものが多いが(食料が)足りず、郡県から徴発して、菽粟・芻稿を転輸させた。糧食を自前で調達させたが、咸陽の3百里内では穀物が(食い尽くされ)食べられない。

陳勝・呉広の乱

秋,七月,陽城人陳勝、陽夏人吳廣起兵於蘄。是時,發閭左戍漁陽,九百人屯大澤鄉,陳勝、吳廣皆為屯長。會天大雨,道不通,度已失期。失期,法皆斬。陳勝、吳廣因天下之愁怨,乃殺將尉,召令徒屬曰;「公等皆失期當斬,假令毋斬,而戍死者固什六七。且壯士不死則已,死則舉大名耳!王侯將相寧有種乎!」眾皆從之。

秋7月、陽城(頴川)のひと陳勝・陽夏(淮陽)のひと吳広が、蘄(沛郡;大沢郷がある)で起兵した。このとき閭左(貧者)を發して漁陽を戍らしめ、
9百人が大澤郷に屯す。
陳勝・吳廣はどちらも屯長となる。たまたま大雨で道が通ぜず、着任の期限に遅れそう。遅れたら法により斬られる。陳勝・吳廣は、天下が(秦の悪政に)愁怨するから、將尉を殺し、徒属を召して令す。「きみらは期限に遅れたから斬られる。斬られずとも、10人に6人か7人は漁陽の任地で死ぬ。荘士は死なねば已み、死ねば大名を挙げろ。王侯・将相 寧んぞ種あらんか」と。衆はみな従う。

乃詐稱公子扶蘇、項燕,為壇而盟,稱大楚;陳勝自立為將軍,吳廣為都尉。攻大澤鄉,拔之。收而攻蘄,蘄下。乃令符離人葛嬰將兵徇蘄以東,攻銍、酇、苦、柘、譙,皆下之。行收兵,比至陳,車六七百乘,騎千餘,卒數萬人。攻陳,陳守、尉皆不在,獨守丞與戰譙門中,不勝;守丞死,陳勝乃入據陳。

公子の扶蘇・項燕と詐称し、壇をつくって盟い、「大楚」と称す。陳勝は自ら將軍となり、吳廣は都尉となり、大澤郷を攻めて抜く。收めて蘄を攻め、蘄が下る。符離のひと葛嬰に、兵をひきいて蘄より東を徇えさせ、銍・酇・苦・柘・譙を攻めて皆くだす。陳に至るころ、車は6・7百乗・騎は千餘・卒は數萬人である。陳(楚襄王が築いた陳国城)を攻め、陳の守・尉はいないから、陳の守丞だけが譙の門中で戦って勝たず。守丞が死に、陳勝は陳に拠る。

初,大梁人張耳、陳餘相與為刎頸交。秦滅魏,聞二人魏之名士,重賞購求之。張耳、陳餘乃變名姓,俱之陳,為里監門以自食。里吏嘗以過笞陳餘,陳餘欲起,張耳躡之,使受笞。吏去,張耳乃引陳餘之桑下,數之曰:「始吾與公言何如?今見小辱而欲死一吏乎!」陳餘謝之。陳涉既入陳,張耳、陳餘詣門上謁。陳涉素聞其賢,大喜。陳中豪傑父老請立涉為楚王,涉以問張耳、陳餘。耳、餘對曰:「秦為無道,滅人社稷,暴虐百姓。將軍出萬死之計,為天下除殘也。今始至陳而王之,示天下私。願將軍毋王,急引兵而西。遣人立六國後,自為樹黨,為秦益敵。敵多則力分,與眾則兵強。如此,則野無交兵,縣無守城,誅暴秦,據咸陽,以令諸侯。諸侯亡而得立,以德服之,〔如此〕則帝業成矣[15]。今獨王陳,恐天下懈也。」陳涉不聽,遂自立為王,號「張楚」。

はじめ大梁のひと張耳・陳餘は、ともに刎頸の交をなす。秦が魏を滅すと、2人が魏の名士と聞き、高い懸賞金をかけた。張耳・陳餘は名姓を変えて、2人で陳にゆき、里の監門となり食いつなぐ。里吏はかつて過失がある陳餘を笞うつ。陳餘が(屈辱を受け入れず)抵抗しよう(立とう)とすると、張耳が躡いて笞でうたれた。吏が去ると、張耳は陳餘を桑のしたに引く、「2人で話したことを忘れたか。小辱にあって(抵抗して)里吏に殺されるのか」と。陳余は謝った。
陳勝(陳渉)が陳に入ると、2人は門にゆき上謁した。陳涉は2人の賢を聞いており、大いに喜ぶ。陳の豪傑・父老が、陳勝を楚王に立てようとした。陳勝は、張耳・陳餘に問う。答えた。
「秦は無道をなし、人・社・稷を滅し、百姓に暴虐した。將軍は萬死の計を出し、天下のために殘を除け。いま陳国で王を称せば、天下に私心を示す。王を称さず、急ぎ西に兵を動かせ。戦国6国の子孫を(王に)立てて、陳勝軍の助けにすれば、秦の敵を増やせる。秦軍を分散させ、秦を敗れ。戦国6国の諸侯を立てれば、天下が徳に服し、陳勝は帝業を成せる。王を自称するな」
陳勝は聴かず、王を自称して「張楚」と号した。

當是時,諸郡縣苦秦法,爭殺長吏以應涉。謁者使從東方來,以反者聞。二世怒,下之吏。後使者至,上問之,對曰:「群盜鼠竊狗偷,郡守、尉方逐捕,今盡得,不足憂也。」上悅。
陳王以吳叔為假王,監諸將以西擊滎陽。

このとき、諸々の郡県は、秦法に苦しむから、争って長吏を殺して陳勝に応じた。東方からきた使者は、二世に実態を話すと、二世は怒って獄吏に下した。以後、使者は本当のことを言わなくなった。「反乱はすぐに鎮圧され、心配ないです」と。二世は悦んだ。
陳王は吳叔を假王とし、諸將を監して西にゆき滎陽を撃つ。

張耳、陳餘復說陳王,請奇兵北略趙地。於是陳王以故所善陳人武臣為將軍,邵騷為護軍,以張耳、陳餘為左、右校尉,予卒三千人,徇趙。
陳王又令汝陰人鄧宗徇九江郡。當此時,楚兵數千人為聚者不可勝數。
葛嬰至東城,立襄彊為楚王。聞陳王已立,因殺襄彊還報。陳王誅殺葛嬰。
陳王令〔魏人〕周市北徇魏地[16]。以上蔡人房君蔡賜為上柱國。
陳王聞周文,陳之賢人也,習兵,乃與之將軍印,使西擊秦。

張耳・陳餘は陳王(陳勝)に説き、「奇兵をつかって北で趙地を略せよ」という。陳王は古くから親しい陳ひとの武臣(人名)を將軍とし、邵騷を護軍とし、張耳・陳餘を左・右校尉とし、予卒3千人で趙を徇る。
陳王は汝陰のひと鄧宗に九江郡を徇らしむ。このとき楚兵は數千人おり、集まるものは数えきれない。
葛嬰が東城に至り、襄彊を立てて楚王とした。陳王がすでに立つと聞き、襄彊を殺して陳王に報せた。陳王は葛嬰を誅殺した。
陳王は魏ひと周市に北へゆき魏地を徇らせる。上蔡のひと房君の蔡賜を上柱國とする。
陳王は、周文・陳之が賢人であり兵に習ふと聞き、將軍印を与えて、西して秦を撃たしむ。

武臣等從白馬渡河,至諸縣,說其豪傑,豪傑皆應之。乃行收兵,得數萬人。號武臣為武信君。下趙十餘城。餘皆城守。乃引兵東北擊范陽。范陽蒯徹說武信君曰:「足下必將戰勝而後略地,攻得然後下城,臣竊以為過矣。誠聽臣之計,可不攻而降城,不戰而略地,傳檄而千里定,可乎?」武信君曰:「何謂也?」徹曰:「范陽令徐公,畏死而貪,欲先天下降。君若以為秦所置吏,誅殺如前十城,則邊地之城皆為金城、湯池,不可攻也。君若賚臣侯印以授范陽令,使乘朱輪華轂,驅馳燕、趙之郊,即燕、趙城可毋戰而降矣。」武信君曰:「善!」以車百乘、騎二百、侯印迎徐公。燕、趙聞之,不戰以城下者三十餘城。

武臣らは白馬より渡河し、諸縣に至り、そこの豪傑に説き、豪傑はみな応ず。武臣は「武信君」を号する。趙地の10餘城を下し、残りはまだ城を守る。東北にゆき范陽を撃つ。范陽の蒯徹が武信君にいう。
「あなたは戦って勝ち、地を攻略し、攻めて城を下す。私はこれを過ちと考える。私の計略をつかってくれたら、攻めずに城を降し、戦わずに地を略して、檄を伝えるだけで千里を平定できる。聴けるか」
武信君「計略とは?」
蒯徹「范陽令の徐公は、死を畏れて貪り、天下に先んじて降ろうとしている。もしきみが秦に置かれた吏なら、さきに10城で(同僚が)誅されたのを見たら、金城湯池の守りをするだろう。もしきみが秦の吏に、侯の印をもたらして范陽令に授け、彼を朱輪の華轂に乗せて、燕・趙の郊を驅馳させたら(武臣軍に降れば厚遇されると思って)燕・趙の城は戦わずに降るだろう」
武信君「善し」。戦わずに30余城を降した。

陳王既遣周章,以秦政之亂,有輕秦之意,不復設備。博士孔鮒諫曰:「臣聞兵法:『不恃敵之不我攻,恃吾不可攻。』今王恃敵而不自恃,若跌而不振,悔之無及也。」陳王曰:「寡人之軍,先生無累焉。
周文行收兵至關,車千乘,卒數十萬至戲,軍焉。二世乃大驚,與群臣謀曰:「奈何?」少府章邯曰:「盜已至,眾強,今發近縣,不及矣。驪山徒多,請赦之,授兵以擊之。」二世乃大赦天下,使章邯免驪山徒、人奴產子,悉發以擊楚軍,大敗之。周文走。

陳王は周章をつかわした。秦政が乱れたから、秦を軽んじる心があり、充分に準備しない。博士の孔鮒が(陳王を)諌めた。「兵法では、『敵が我を攻めないのを頼まず(敵が我を攻めないことに期待せず)、我を攻めることができないのを頼め(敵が攻められないほど我は防備をしておけ)』という。ちゃんと準備しないと後悔するよ」
陳王「わが軍のことは、先生に心配してもらう必要がない」
周文は兵をおさめて関に至り、車は千乘、卒は數十萬で戲水(京兆の新豊)にいたる。二世は大いに驚き、郡臣に謀った。「どうしよう」と。少府の章邯
「盗賊がすでに至り、軍勢は強い。いま近県から兵を調発しても及ばない。驪山の徒は多いから、赦して兵に転用しましょう
二世は天下を大赦し、章邯に驪山の徒を免ぜしめ、人奴・産子、すべてを楚軍にぶつけた。大いに破り、周文は敗走した。

孔子の子孫の言うことを聴いておけば、陳勝は負けずに済んだ。


張耳、陳餘至邯鄲,聞周章卻,又聞諸將為陳王徇地還者多以讒毀得罪誅,乃說武信君令自王。八月,武信君自立為趙王,以陳餘為大將軍,張耳為右丞相,邵騷為左丞相;使人報陳王。陳王大怒,欲盡族武信君等家而發兵擊趙。相國房君諫曰:「秦未亡而誅武信君等家,此生一秦也;不如因而賀之,使急引兵西擊秦。」陳王然之,從其計,徙繫武信君等家宮中,封張耳子敖為成都君,使使者賀趙,令趣發兵西入關。張耳、陳餘說趙王曰:「王王趙,非楚意,特以計賀王。楚已滅秦,必加兵於趙。願王毋西兵,北徇燕、代,南收河內以自廣。趙南據大河,北有燕、代,楚雖勝秦,必不敢制趙;不勝秦,必重趙。趙乘秦、楚之敝,可以得志於天下。」趙王以為然,因不西兵,而使韓廣略燕,李良略常山,張黶略上黨。

張耳・陳餘は邯鄲に至り、周章が撤退してくると聞いた。また陳王のために各地で戦って還ったものが罪を着せられ誅されたと聞いた。そこで張耳・陳余は、武信君に王の自称を勧めた。

陳勝には、王を名乗るのが早いといったのに。
張耳・陳余は、刎頸のノリも、知性に任せて王号を操って、戦局をまぜるところも、袁紹の臣下に通じるものを感じる。活躍した地域も、400年後の袁紹の領土だし。

8月、武信君が自ら立ち趙王となり、陳餘を大將軍、張耳を右丞相、邵騷を左丞相とした。使者をやり陳王に報せた。陳王は大怒し、武信君らの家族を誅して、趙を撃ちたい。相國の房君が諌めた。「秦は未だ亡せず、而るに武信君らの家を誅せば、此れ一秦を生ぜしむるなり。如かず、因りて之を賀す(趙王の即位を祝う)に。急ぎ兵を引きて西して秦を撃たしめよ」と。
陳王は従い、武信君らの家族を宮中におき、張耳の子の張敖を成都君として、使者に趙を賀させ、兵を発して西して関に入れと令した。
張耳・陳餘は趙王にいう。「王が趙に王たるは、楚の意にあらず。特に計を以て王を賀すなり。楚 已に秦を滅さば、必ず兵を趙に加ふ。願はくは王、兵を西するなかれ。北して燕・代を徇り、南して河內を收めて以て自ら廣くせよ。趙 南は大河に據り、北は燕・代あり。楚 秦に勝つと雖も、必しも敢えて趙を制せず。秦に勝たざれば、必ず趙を重んぜん。趙は秦・楚の敝に乘じ、以て志を天下に得る可し
趙王は西に兵をむけず(秦と戦わず)韓廣をして燕を略せしめ、李良に常山を略せしめ、張黶に上黨を略せしむ。

張楚と趙は、互いが争っている場合ではないことは知りつつ、どちらが秦と正面衝突するというババを引くのか、牽制しあっている。張耳・陳余がひっかき回したせいだ、という気がしないでもない。


劉邦・項籍・張耳&陳余・田儋の起兵

九月,沛人劉邦起兵於沛,下相人項梁起兵於吳,狄人田儋起兵於齊。
劉邦,字季,為人隆准、龍顏,左股有七十二黑子。愛人喜施,意豁如也。常有大度,不事家人生產作業。初為泗上亭長,單父人呂公,好相人,見季狀貌,奇之,以女妻之。

9月、沛のひと劉邦が沛で起兵した。下相のひと項梁が於吳で起兵した。狄のひと田儋が齊で起兵した。

沛とは、秦の泗水郡の属県である。小沛のこと。ちなみに劉備が、呂布に下邳を奪われて小沛にくるのは、196年夏6月~秋。
下相は、臨淮郡に属する。


劉邦,字季,為人隆准、龍顏,左股有七十二黑子。愛人喜施,意豁如也。常有大度,不事家人生產作業。初為泗上亭長,單父人呂公,好相人,見季狀貌,奇之,以女妻之。
既而季以亭長為縣送徒驪山,徒多道亡。自度比至皆亡之,到豐西澤中亭,止飲,夜,乃解縱所送徒曰:「公等皆去,吾亦從此逝矣!」徒中壯士願從者十餘人。
劉季被酒,夜徑澤中,有大蛇當徑,季拔劍斬蛇。有老嫗哭曰:「吾子,白帝子也,化為蛇,當道。今赤帝子殺之!」因忽不見。劉季亡匿於芒、碭山澤〔巖石〕之間[17],數有奇怪;沛中子弟聞之,多欲附者。

劉邦の人となり、呂氏との結婚、亭長として秦から離脱、神話。

及陳涉起,沛令欲以沛應之。掾、主吏蕭何、曹參曰:「君為秦吏,今欲背之,率沛子弟,恐不聽。願君召諸亡在外者,可得數百人,因劫眾,眾不敢不聽。」乃令樊噲召劉季。劉季之眾已數十百人矣。沛令後悔,恐其有變,乃閉城城守,欲誅蕭、曹。蕭、曹恐,逾城保劉季。劉季乃書帛射城上,遺沛父老,為陳利害。父老乃率子弟共殺沛令,開門迎劉季,立以為沛公。蕭、曹等為收沛子弟,得二三千人,以應諸侯。

陳涉が起つと、沛令は沛県ごと応じようとした。掾・主吏の蕭何・曹参が県令にいう。「君は秦吏である。いま背き、沛の子弟を率ゐても、おそらく支持されない。外に亡している者(劉邦)を召せば、数百人を得られる」
樊噲に劉季を召させる。劉季の衆は、すでに数十百人。沛令は後悔して(劉邦による)変事を恐れ、城門を閉ざし、蕭何・曹参を誅したい。蕭何・曹参は、城壁をこえて劉邦をたよる。劉邦が父老に利害を説くと、沛令を殺して劉邦を迎えた。「沛公」となる(県公というのは楚の制度)。蕭何・曹参は、沛の子弟を収容し、2・3千人を得て、諸侯に応じた。

項梁者,楚將項燕子也,嘗殺人,與兄子籍避仇吳中。吳中賢士大夫皆出其下。籍少時學書,不成,去;學劍,又不成。項梁怒之。籍曰:「書,足以記名姓而已!劍,一人敵,不足學。學萬人敵!」於是項梁乃教籍兵法,籍大喜;略知其意,又不肯竟學。籍長八尺餘,力能扛鼎,才器過人。
會稽守殷通聞陳涉起,欲發兵以應涉,使項梁及桓楚將。是時,桓楚亡在澤中。梁曰:「桓楚亡,人莫知其處,獨籍知之耳。」梁乃誡籍持劍居外,復入,與守坐,曰:「請召籍,使受命召桓楚。」守曰:「諾。」梁召籍入。須臾,梁眴籍曰「可行矣!」於是籍遂拔劍斬守頭。項梁持守頭,佩其印綬。門下大驚,擾亂。籍所擊殺數十百人,一府中皆懾伏,莫敢起。梁乃召故所知豪吏,諭以所為起大事,遂舉吳中兵,使人收下縣,得精兵八千人。梁為會稽守,籍為裨將,徇下縣。籍是時年二十四。

項梁は、楚將の項燕の子である。殺人して、兄子とともに呉中に仇を避けた。項籍は「剣は一人の敵、学ぶに足らず」といい、項籍から兵法を習った。
會稽守の殷通は、陳涉が起つと聞き、呼応したい。項梁および桓楚を将とした。このとき、桓楚が澤中で行方不明になった。項梁「桓楚が消えた。人は居所を知らない。項籍だけが居所を知る」と。項梁は、項籍に剣を持って外に立たせた。項梁は、また中に入って殷通とともに座り、「項籍に桓楚を召させよ」と。殷通「やれ」
すぐに項梁は項籍に目配せをした。「やってよし」と。項籍は剣を抜き、殷通の首を斬った。項梁は殷通の頭をもち、その印綬を(奪って自分が)佩いた。門下は大驚し擾亂した。項籍は数十百人を殺し、一府のなかで皆が懾伏して敢えて(項氏に)逆らわない。項梁は、旧知の豪吏を召し、大事を始める理由を諭し、ついに呉中で起兵した。郡下の県を接収して、精兵8千人を得た。項梁は會稽守となり、項籍は裨將となり、会稽郡の管轄下にある県を徇る。項籍はこのとき24歳。

田儋〔者〕[18],故齊王族也。儋從弟榮,榮弟橫,皆豪健,宗強,能得人。周市徇地至狄,狄城守。田儋詳為縛其奴,從少年之廷,欲謁殺奴,見狄令,因擊殺令,而召豪吏子弟曰:「諸侯皆反秦自立。齊,古之建國也;儋,田氏,當王!」遂自立為齊王,發兵以擊周市。周市軍還去。田儋率兵東略定齊地。韓廣將兵北徇燕,燕地豪傑欲共立廣為燕王。廣曰:「廣母在趙,不可!」燕人曰:「趙方西憂秦,南憂楚,其力不能禁我。且以楚之強,不敢害趙王將相之家,趙獨安敢害將軍家乎!」韓廣乃自立為燕王。居數月,趙奉燕王母家屬歸之。

田儋は、もとの斉の王族である。田儋の從弟である田榮と、田榮の弟である田橫は、みな豪健・宗強であり、よく人を得た。
周市(魏のひと)は地を徇って狄に至り、(周市が狄城を得て)狄城を守った。田儋は詳らかに(奴を罰する理由を、狄城の県令に説明できるようにして)奴を縛り、少年に従って県廷ゆき、狄令に謁して(許可をといって)奴を殺したいという。狄令にあうと(奴を殺す件は、狄令に会うための口実だった)狄令を撃ち殺し、豪吏の子弟を召した。
「諸侯はみな秦に反いて自立する。齊は、古に国を建てた。儋は田氏なり、當に王たるべし!
ついに自ら立ち斉王となる。兵を発して周市を撃つ。周市の軍は還り去る。
田儋は兵をひきいて東して、斉地を略定した。韓廣は兵をひきいて北して燕を徇る。燕地の豪傑は、ともに韓広を立てて燕王にしたい。韓広「わが母が趙にいる。だめだ」と。
燕ひと「趙は西は秦を憂い(境界を接して攻撃されるリスクがあり)、南は楚を憂い、趙の国力ではわれら(燕国)を征圧できない。かつ楚は強いのに、あえて趙王の將相の家を殺害しない。趙だけがどうして、将軍の家族を殺害するものか」
韓広は自ら立ち燕王となる。居ること数ヶ月、趙は燕王の母・家属を燕に連れてきた。

母を連れてきて王になる、ではただの腕力による解決。さきに趙が、韓広の母を殺せない状況を説明して、納得させて王にした。あとで母を連れてきた(母が安全に越したことはないから)


趙王與張耳、陳餘北略地燕界,趙王間出,為燕軍所得,燕囚之,慾求割地;使者往請,燕輒殺之。有廝養卒走燕壁,見燕將曰:「君知張耳、陳餘何欲?」曰:「欲得其王耳。」趙養卒笑曰:「君未知此兩人所欲也。夫武臣、張耳、陳餘,杖馬棰下趙數十城,此亦各欲南面而王,豈欲為將相終已邪?顧其勢初定,未敢參分而王,且以少長先立武臣為王,以持趙心。今趙地已服,此兩人亦欲分趙而王,時未可耳。今君乃囚趙王,此兩人名為求趙王,實欲燕殺之,此兩人分趙自立。夫以一趙尚易燕,況以兩賢王左提右挈而責殺王之罪?滅燕易矣!」燕將乃歸趙王,養卒為御而歸。

趙王と張耳・陳餘は、北して燕との境界を攻略した。趙王は隙を見て微行し、燕軍に捕らわれた。燕は(趙王を人質にして)領地の割譲を求めた。使者が行って請うと、燕は使者を殺した。賎者を養って趙の兵卒にしたものがおり、その兵卒が燕の城壁に走った。燕将に会っていう。
「張耳・陳余が何を欲すか知っているか」
燕将「その趙王を取り戻したいのだろう」
趙の兵卒が笑う。「きみは2人の欲するものを知らない。そもそも武臣・張耳・陳餘は、それぞれ南面して3人とも王になりたい。どうして将相で終わるものか。当初、趙地を奪った直後なので、まだ3人は王にならなかった。年齢順から武臣を趙王にして、趙の人々の心を保持した。いま趙地が服したら、この2人は趙地を分けて2人とも王になるだろう。燕には、武臣(趙王)を殺してもらえば、2人は趙で自立できる。趙王が1人の現状なら、燕にとって易しい。しかし(燕が趙王を殺せば)2人が王となって、燕が趙王を殺した罪を責めて攻めてくる。燕を滅ぼすのは易しいぞ」
燕將は趙王に帰して、趙の兵卒を御者として(趙国に)帰った。

周市自狄還,至魏地,欲立故魏公子寧陵君咎為王。咎在陳,不得之魏。魏地已定,諸侯皆欲立周市為魏王。市曰:「天下昏亂,忠臣乃見。今天下共畔秦,其義必立魏王后乃可。」諸侯固請立市,市終辭不受;迎魏咎於陳,五反,陳王乃遣之,立咎為魏王,市為魏相。
是歲,二世廢衛君角為庶人,衛絕祀。

周市は狄より還り(狄城を失って)、魏地に至る。もと魏の公子たる寧陵君の咎を魏王にしたい。咎は陳にいて、魏に行けない。魏地がすでに定まり、諸侯は周市を魏王に立てたい。
周市「天下は昏亂し、忠臣が現れた。いま天下は共に秦に反するが、その義として必ず魏王の後裔を立てるとよい」と。諸侯はつよく周市に求めたが、周市は受けない。魏の王族の咎を陳で迎えた。五たび(迎えるのを)反復し、陳王はゆくのを許した。咎を立てて魏王とし、周市は魏相となる。
この歳、二世は衛君の角を廃して庶人とし、衛は祭祀が絶えた。150730

周の列国のうち、衛が最後に滅びた。

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