01) もとは孫堅とペアで記述された
陶謙は、袁術と袁紹にならぶ第三勢力だった。
これを言います。
『三国志』陶謙伝を引きながら、気まぐれに訳し、気まぐれに注釈し、袁紹、袁術、陶謙の鼎立があったことを示します。黄河の下流に成立した、小さめの鼎立ですが。
鼎立ときいて思い浮かべるのは、もちろん、
曹操、孫権、劉備、です。
この3人は、上に書いた鼎立を、引き継いでいます。
曹操は袁紹の戦略に乗っかり、孫権は袁術の戦略に乗っかりました。劉備は、一時期、陶謙の戦略に乗っかりました。
陶謙が目指したのは、何か。劉備が乗っかったのは、何か。今回は、これを明らかにしたいと思います。
丹楊兵を率いて、天下をねらう
陶謙字恭祖,丹楊人。
陶謙は、あざなを恭祖。丹楊郡の人。
この出身地がポイントです。丹楊郡は、強兵の産地。陶謙は、丹楊兵を率いることで、天下を望んだ人物だったのだと思います。丹楊兵を従えたのだから、大人しい儒者のたぐいではない。
丹楊兵の強さは、折り紙つきだ。
たとえば、武帝紀の曹操。
太祖兵少,乃與夏侯惇等詣揚州募兵,刺史陳温、丹楊太守周昕與兵四千餘人.還到龍亢,士卒多叛.[一]至銍﹑建平,復收兵得千餘人,進屯河内.
董卓を攻めるとき、兵の少ない曹操は、揚州で兵を集めた。
おもに丹楊郡で、曹操は兵を得た。河内郡から丹楊郡は、すごく遠い。でも、急ごしらえで軍を強化するに、真っ先に揚州に行った。曹操がそう判断するくらい、丹楊兵はつよい。
ほかには、孫討逆伝(孫策伝)がひく江表伝
未肯還其父兵。術謂策曰:「孤始用貴舅為丹楊太守,賢從伯陽為都尉,彼精兵之地,可還依召募。」策遂詣丹楊依舅,得數百人,而為涇縣大帥祖郎所襲,幾至危殆。
孫策が袁術に、臣従した。だが袁術は、孫堅の兵を返さない。袁術は、孫策に指示を出した。
「丹楊郡は、孫策の親戚に任せてあるんだ。丹楊は、精兵の地である。丹楊で、新しく兵を集めたらいいだろう」
孫策は丹楊郡で、数百人を得た。だが反逆され、孫策は死にかけた、と。孫策は、曹操をマネたように、丹楊兵を集めにいき、離反されて苦労した。丹楊兵は、諸刃の剣である。
陶謙が、丹楊兵に離反されたという話を、ぼくは見つけていない。郷里の親分として、丹楊兵をきっちり治めたいたのだろう。陶謙の競合優位性は、丹陽兵である。また、先主伝がいう。
謙以丹楊兵四千益先主,先主遂去楷歸謙。
陶謙は劉備に、丹楊兵を4千あたえた。この丹楊兵が、劉備を襲ったという話はない。陶謙の統制のつよさが分かる。
韋昭『呉書』での描かれ方
ぼくは孫呉を読むとき、『呉書見聞』というサイトで予習します。このなかに「謎の人・陶謙」という話があります。
曰く。魏側(晋の陳寿の本文が、その態度をうけつぐ)は、曹操の虐殺に理由をつけるため、陶謙の悪評を強調した。
いっぽう呉側から見ると、曹操の虐殺は、魏の不当性を強調できる素材だ。虐殺により、徐州の士人たちが、孫呉政権にくわわった。だから『呉書』では、陶謙=名君となる、と。
だいたい賛成です。でもぼくが裴注『呉書』を読む範囲では、『呉書』は必ずしも陶謙をほめていない。
その理由は、陶謙が孫堅とキャラのかぶるライバルと見なされたからだと思う。陶謙と孫堅とに共通点があれば、陶謙をほめる。自動的に、孫堅の株があがる。陶謙と孫堅とに違う点があれば、陶謙をけなす。自動的に、孫堅の株があがる。『呉書』のしくみは、こうだと思う。
ミカンをほめるため、レモンを引き合いに出す。「レモンは柑橘類で、ビタミンが豊富だよ!」とほめれば、ミカンの株があがる。「でもレモンは酸っぱくて、食べにくいんだ」とけなせば、甘いミカンの株があがる。
陶謙伝の裴注は、韋昭『呉書』からの紹介がおおい。孫堅との相違点に着目して、読みたいと思います。
結婚を、親族に反対される話
吳書曰:謙父,故餘姚長。謙少孤,始以不羈聞於縣中。年十四,猶綴帛為幡,乘竹馬而戲,邑中兒童皆隨之。
故蒼梧太守同縣甘公出遇之塗,見其容貌,異而呼之,住車與語,甚悅,因許妻以女。甘公夫人聞之,怒曰:「妾聞陶家兒敖戲無度,如何以女許之?」公曰:「彼有奇表,長必大成。」遂妻之。
『呉書』より。陶謙が14歳で、餘姚長の父が死んだ。
蒼梧太守で、同県出身の甘公が、陶謙の容貌をほめた。甘公は、娘を娶れと陶謙にいった。甘公の夫人が怒った。
「私は聞いています。陶家のガキは、敖戲で無度と。どうしてあんなガキに、娘を嫁がせるなんて、約束したんですか」
甘公は言った。「陶謙くんは、大成するのだ」と。結婚できた。
どこかで読んだなあ、と思えば、孫堅呉夫人伝。
孫堅聞其才貌,欲娶之。吳氏親戚嫌堅輕狡,將拒焉,堅甚以慚恨。夫人謂親戚曰:「何愛一女以取禍乎?如有不遇,命也。」於是遂許為婚。
孫堅は、呉夫人の才貌を聞き、嫁にしたいと思った。呉氏の親戚は、
「孫堅は、輕狡だ。断りなさい」
と反対した。孫堅は、呉氏の親戚をうらんだ。親戚がいう。
「どうして1人の娘をおしんで、禍いを招くのか。とっとと、孫堅に嫁がせてしまえばいいだろう」
孫堅は、呉夫人と結婚することができた。
社会的な身分が低いのは、陶謙も孫堅も同じ。結婚するとなれば、相手の家がいやがる。
陶謙は、受身で、結婚した。孫堅は、相手を圧倒して、結婚した。ぼくの感覚からすると、強引な孫堅より、引き立てを受けた陶謙のほうが、カッコいい。でも『呉書』を書いた韋昭の意図は、もちろん逆。孫堅と陶謙の、似て非なるエピソードを、比べさせたのでしょう。
のちに陳寿が、韋昭をパクッて『三国志』を書いた。孫堅の話は、呉志の妃ヒン伝に入った。陶謙の話は、陳寿が捨てた。
裴松之が、韋昭の陶謙の記述を注釈した。しかし、韋昭が2人を対照させた意図は、気づかれにくくなった。以上、妄想。笑
次回、孫堅との比較対照が、ますます明らかに。