表紙 > 人物伝 > 袁紹と袁術に立ち向かい、袁術に敗れた野心家・陶謙伝

03) 徐州牧として、李傕を討つ

陶謙は、袁術と袁紹にならぶ第三勢力だった。
これを言います。

董卓に封じられて、董卓に逆らう

董卓之亂,州郡起兵,天子都長安,四方斷絕,謙遣使間行致貢獻,遷安東將軍、徐州牧,封溧陽侯。

董卓の乱で、献帝は長安に連れて行かれた。陶謙は、献帝に使者を出して、安東将軍、徐州牧にしてもらった。

陶謙は、霊帝の徐州刺史から、献帝の徐州牧へ。
「牧」になれば、強い権限で国を治めることができる。自立できる。なぜなら、「牧」の設置を言い出した劉焉のねらいが、自立だったから。


これだけ読むと、陶謙は、董卓の朝廷の与党になったように見える。もちろん、違う。『後漢書』朱儁伝より。

及董卓被誅,傕、汜作戰,俊時猶在中牟。陶謙以俊名臣,數有戰功,可委以大事,乃與諸豪傑共推俊為太師,因移檄牧伯,同討李傕等,奉迎天子。徐州刺史陶謙、前楊州刺史周乾、琅邪相陰德、東海相劉馗、彭城相汲廉、北海相孔融、沛相袁忠、太山太守應劭、汝南太守徐璆、前九江太守服虔、博士鄭玄等,敢言。

董卓が殺された。李傕と郭汜が、関東を攻めた。陶謙は、朱儁を太師にもちあげ、李傕と郭汜を討とうとした。
これこそ!
なぜか「知る人ぞ知る」ということになっている、陶謙がリーダーの、反董卓連合軍です。ちゃっかり董卓の朝廷から官位をもらい、権限を得ておきながら、董卓の朝廷に歯向かう。これは、袁紹や袁術がやったことと、同じである。

ただ陶謙は、3つの点で袁紹や袁術に出遅れた。
まずタイミング。董卓の生前に、行動しなかった。
つぎにメンバー。同盟者は、名声は高かろうが、武力が劣る。
最後にロケーション。陶謙の根拠地は、徐州だ。徐州からどれだけ気を吐いても、長安どころか、洛陽にも届かない。

陶謙が主催した同盟は、朱儁にOKがもらえず、機能しなかった。
ともあれ、陶謙が、袁術や袁紹の後を追って、群雄に化けようとしていることは、確認できたと思います。

陶謙の悪政は、誰にでも書ける

是時,徐州百姓殷盛,谷米封贍,流民多歸之。而謙背道任情:廣陵太守琊邪趙昱,徐方名士也,以忠直見疏。曹宏等,讒慝小人也,謙親任之。刑政失和,良善多被其害,由是漸亂。下邳闕宣自稱天子,謙初與合從寇鈔,後遂殺宣,並其眾。

陶謙の悪政を、陳寿がいう。
陶謙は、道理にそむいて、感情まかせだ。有能な人物を虐げて、邪悪な人物を重んじると。たしかに、これを読めば、
「陶謙は、悪いやつだ。曹操が虐殺するのも仕方ない」
ってことになるが(なるのか?)
ぼくは、これだけでは判断ができない。ただ、陶謙と趙昱とは人間関係がこじれたんだなあ、と推測するのみ。100%邪悪な人格障害者でなくても、誰かと対立するしね。

趙昱についての詳細は、ここの裴注『呉書』を参照。


陶謙の悪政をいう記述は、定型文である。陶謙について、何も見聞きしていなくても、書けてしまう。文例集から選んで送る、電報みたいなものだ。袁術が南陽郡で搾取しまくった、と同じパタンだ。

袁術を弁護するのは、ぼくが好きだからだ。10年のGWは、袁術を学ぶはずが、陶謙に逸れている。まあ陶謙を理解するもの、目的の一環だが。
以下、袁術のお祭りが始まります。


曹操の徐州虐殺の真相

初平四年,太祖征謙,攻拔十餘城,至彭城大戰。謙兵敗走,死者萬數,泗水為之不流。謙退守郯。太祖以糧少引軍還。

193年、曹操は陶謙を征った。10余城をぬき、彭城で大戦した。陶謙は敗走した。死者は1万をかぞえた。泗水は、死体のせいで、流れが止まった。
陶謙は退いて、郯城を守った。曹操は兵糧がつきて、撤退した。

さて、最大の見せ場。徐州虐殺!
ぼくは虐殺は、袁紹の差し金だと思う。曹嵩の死は、史書がこじつけた出兵の理由である。

ほんとは「袁紹の指示で、曹操は徐州を攻めました」なのだが、それじゃあ魏の歴史書として、ダサい。わが王朝の太祖さまは、パシりかと。
だから(おそらく同年の)曹操の父の死を、うまく絡めた。『演義』顔負けのアレンジである。 このアレンジにより、曹操はパシりを卒業し、「行き過ぎた親孝行者」になった。儒教的にはOKか。


この時期の天下は、袁紹と袁術の二大勢力のにらみ合いだ。

徐州は、袁紹と袁術のあいだにあり、どちらにも属していない。
袁紹の頭の中を推測。袁紹は、まだ袁術と直接対決を避けたい。損害をこうむるからだ。袁術と当たらず、袁術を圧倒する方法は、1つだ。袁術が治めていない州を、手に入れることだ。
同じことは、袁術にも言える。袁術は、袁紹が徐州をとる前に徐州を得たい。一刻の猶予もない、奪い合いである。袁紹と袁術は、少々のムチャをしてもいいから、兄弟を出し抜かねばならない。

直前の192年、袁術が南陽を出て、寿春に入った。袁術から見て、徐州は至近距離になった。
袁紹は、とても焦ったに違いない。
「こら曹操。かなりの手荒はゆるす。ぜったいに徐州を得てこい!もしお前が潰れても、家族の面倒は、必ず見てやるから!袁術だけには、徐州を得させてはいけないのだ」
曹操の徐州出兵は、不自然にタイトなスケジュールである。192年、曹操は青州を平定。初めての根拠地を得た。193年、曹操は徐州に進攻。194年にも進攻。

そりゃ、兵糧が途中で尽きるよな、という行軍だ。
『蒼天航路』で荀彧が、歳入から逆算して、出せる兵の数を決めろといっていた。それが出来れば、だれも苦労しない。いま袁紹は、袁術に徐州を取らせないため、必死である。


陶謙は、独立を志した。
山東では唯一、袁紹にも袁術にも、靡かなかった群雄かも知れない。
もし陶謙が袁紹派なら、袁紹は曹操に、徐州を攻めさせない。もし袁術派なら、袁術が寿春に入ったときに、使者の交換があったはずだ。いずれもなかった。
陶謙のガンバリが、徐州の虐殺を招いた。皮肉だな。次回、袁術が袁紹にやり返します。しかし、袁術の意図は、失敗します。