表紙 > 人物伝 > 袁紹と袁術に立ち向かい、袁術に敗れた野心家・陶謙伝

02) 胡族を討ち、徐州チケットを得る

陶謙は、袁術と袁紹にならぶ第三勢力だった。
これを言います。

勉強して、幽州刺史となる

少好學,為諸生,仕州邵,舉茂才,除盧令。

特徴のない経歴だなあ。笑
陶謙の生まれは132年だ。裴注『呉書』は、陶謙の享年を63とする。逆算すると、生年が出る。曹操より、22歳も年上。

三好徹『三国志傑物伝』は、陶謙の話を設ける。陶謙が、せめてあと10年若ければ、歴史が変わっただろうという。
余談だが、三好徹氏の本は、いつも面白くない。笑

陶謙が15歳のとき、146年だ。陶謙が学問をがんばったころ、順帝、沖帝、質帝、桓帝と、皇帝が代わったころだ。三国志の気配などないころ、ふつうに勉強して、役人になった人なんだ。

吳書曰:謙性剛直,有大節,少察孝廉,拜尚書郎,除舒令。
郡守張磐,同郡先輩,與謙父友,意殊親之,而謙恥為之屈。
謙在官清白,無以糾舉,祠靈星,有贏錢五百,欲以臧之。謙委官而去。

陶謙は、剛直だった。赴任先、廬江太守の張磐は、同郡の先輩だった。張磐は、父と友だった。陶謙は、張磐に屈することを恥とした。

『呉書』には、陶謙が恥じた詳細がある。張磐のために、陶謙がダンスしなかったと。どうせ小説なので、今回はいいです。

陶謙は、金銭横領にイヤケがさして、退職した。きっと霊帝の時期のできごとでしょう。

遷幽州剌史,徵拜議郎。

陶謙は、幽州刺史になった。あまり知られていない経歴だが、すごい! 幽州刺史の就任が、劉虞とどちらが先なのか、気になる。
劉虞は、胡族を手なずけた。でも陶謙は、胡族に対して、強硬な態度で臨んだと思う。さもなくば、涼州の戦場に招かれない。

涼州に、幽州の兵をつかうという愚考

參車騎將軍張溫軍事,西討韓遂。

陶謙は、張温にしたがって、韓遂を討伐した。

これより前、張温は皇甫嵩と、涼州を討った。
吳書曰:會西羌寇邊,皇甫嵩為征西將軍,表請武將。召拜謙揚武都尉,與嵩征羌,大破之。
皇甫嵩と陶謙のからみは、陳寿本文に見えないことである。


『後漢書』劉虞伝や、『三国志』公孫瓚伝にある。185年、張温が涼州を征伐するとき、幽州の兵を使おうとした。

發幽州烏桓三千突騎。

だが、涼州から幽州は、距離が離れている。かなりムリがある。案の定、失敗した。途中で烏丸たちが、叛乱を起こしてしまった。
こんなバカなことを考えたのは、誰か。
陶謙ではないか。

陶謙は、幽州刺史の経験がある。陶謙は、自分が鍛えた兵を、涼州に使おうとした。もともと頑固な陶謙は、経験を多くつみ、さらに頑固になった。自分の影響力を大きくしたいから、横車を押した。

張温とケンカするのは、孫堅を引き立てるため

呉書曰:後邊章、韓遂為亂,司空張溫銜命征討;又請謙為參軍事,接遇甚厚,而謙輕其行事,心懷不服。(中略)時溫于宮門見謙,謙仰曰:「謙自謝朝廷,豈為公邪?」溫曰:「恭祖癡病尚未除邪?」遂為之置酒,待之如初。

裴注『呉書』を、大幅に中略しました。韓遂を討ちにいったとき、張温と陶謙が、メンツをかけて衝突している場面です。
張温と陶謙は、ケンカがずるずると長引き、二転三転し、どちらがオトナなのか、よく分からない。機転の利いた、悪口の応酬があるなら、ゆるせる。でも、違う。ただ意地を張っているだけ。

ちくま訳をお持ちのかたは、「陶謙伝」を読んでください。笑
指揮の手腕をあなどる、酒の席で侮辱する、左遷する、謝るか謝らないかモメる、皮肉を叩きつける。。

ストーリーの構成が甘いことには、理由があると思う。孫堅がいかに優れているかを、浮き立たせるためだ。以下、孫破虜伝。

堅時在坐,前耳語謂溫曰:「卓不怖罪而鴟張大語,宜以召不時至,陳軍法斬之。」溫曰:「卓素著威名於隴蜀之間,今日殺之,西行無依。」堅曰:「明公親率王兵,威震天下,何賴於卓?(中略)今明公垂意於卓,不即加誅,虧損威刑,於是在矣。」溫不忍發舉,乃曰:「君且還,卓將疑人。」

韓遂を討ちにきた。孫堅は、張温に耳打ちした。
「董卓は、張温さまのお召しに、遅刻しました。軍法に照らして、董卓を斬るべきです
張温はいう。
「董卓は、この地方で有名だ。董卓を斬れば、心もとない」
孫堅が断言した。
「張温さまは、天子の兵を率いています。なぜ董卓を頼る必要がありましょうか。天子に与えられた裁断権を、行使なさるべきです」

孫堅はここで、董卓の3つの罪を、整然と述べた。今回は略。

張温は董卓を殺せず、孫堅を追い払った。
「孫堅よ。お前が耳打ちするのを見たら、董卓が怪しむぞ」

陶謙と孫堅からの突き上げ。どちらも事実だったとしたら、司空の張温さまは、おつかれさまでした。笑
事実かどうかは分かりませんが。ぼくは、歴史家が「陶謙と孫堅を、同じ場面に登場させ、対照的に記録したこと」に着目したい。
陶謙は、その場限りのメンツを満足させただけの男。言っていることの筋が通らない。孫堅は、董卓による禍いを見通して、的確な進言をした。主張とその根拠を、明快に宣言した。
『呉書』をつくった韋昭の思いが、見えてきそうだ。

韋昭の脚色をのぞけば、この時点で陶謙は、「勉強熱心、戦争が強い」という程度の人。キャラが立つのは、次からだ。


黄巾が蜂起し、徐州に拠る

會徐州黃巾起,以謙為徐州剌史,擊黃巾,破走之。

徐州で黄巾が挙兵した。陶謙は徐州刺史となり、黄巾を破った。
注意が必要なのは、これが184年ではない、ということ。
陳寿が前に書いている韓遂討伐が、185年なんだから。たとえば青州黄巾は、曹操に組み込まれるまで暴れていた。同じように、徐州黄巾も、あとから飛び火して、暴発したんだろう。

186年から188年のいずれか。董卓の前だし。


黄巾討伐は、辺境で胡族と戦った将軍の仕事だ。
皇甫嵩は涼州で、朱儁は交州で、名を上げていた。だから、184年の黄巾の乱のとき、現場のトップに任命された。
いま陶謙が徐州に行かされたのも、皇甫嵩や朱儁と同じ理由だ。辺境の業績を買われたからだろう。

『呉書』による、韓遂討伐のウソが、ひとつ剥がれた。もし陶謙が、張温とケンカだけして、役に立たなかったら、徐州平定を任されない。


ただ陶謙は、皇甫嵩や朱儁と違った。陶謙は、徐州から離れなかった。
皇甫嵩や朱儁は、ひき続き転戦し、中央に召されて帰っていった。皇甫嵩と朱儁は、群雄になりそびれた「後漢の忠臣」である。

皇甫嵩は、帝位をこばんだ。群雄になんて、もともと、なりたくなかったのかも。世代間ギャップだろうか。

陶謙は、なぜ徐州に留まったか。理由は3つかな。
まず、すでに言ったように、独立する野心があった。つぎに、たまたま徐州を平定したタイミングで、董卓が洛陽に乱入した。洛陽の様子を、外野から観望しているほうが、安全となった。最後に、陶謙がすぐに徐州から帰還しなくても、洛陽の混乱により、朝廷から咎められなくなった。この3つで、陶謙は徐州に留まったんだと思う。

徐州は、陶謙の故郷・丹楊郡に近い。
「自前で兵を供給しますから、私に徐州黄巾を平定させてください」
と、陶謙が言い出したのかも知れない。
たまたま董卓が突っこんだおかげで、陶謙は好立地に留まれた。


次回、陶謙が、袁紹と袁術につづく、第3勢力となります。