表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝21-32を抄訳し、光武のまわりを把握

01) 郭伋、杜詩、孔奮、張堪、廉范

『後漢書』列伝21・郭伋、杜詩、孔奮、張堪、廉范
吉川忠夫氏の訳注にもとづき、読みます。

郭伋

郭B025字細侯,扶風茂陵人也。高祖父解,武帝時以任俠聞。父梵,為蜀郡太守。B025少有志行,哀、平間辟大司空府,三遷為漁陽都尉。王莽時為上谷大尹,遷並州牧。
更始新立,三輔連被兵寇,百姓震駭,強宗右姓各擁眾保營,莫肯先附。更始素聞B025名,征拜左馮翊,使鎮撫百姓。世祖即位,拜雍州牧,再轉為尚書令,數納忠諫爭。

郭伋は、あざなを細侯。扶風の茂陵の人。高祖父の郭解(漢書・遊侠伝)は、武帝のとき任侠で聞こゆ。父の郭梵は、蜀郡太守。郭伋は、哀平のとき、大司空府に辟さる。漁陽都尉。王莽の上谷大尹、並州牧。

李賢はいう。王莽は上谷を朔調という。太守を大尹とする。ぼくは思う。郭伋は、王莽のとき、太守や刺史レベル。ふつうに高官である。光武の味方になれば、とても心づよい。

更始がたち、三輔がみだれた。強宗・右姓は、擁眾・保營した。更始につかず。更始は、郭伋の名声をきき、左馮翊として、三輔の百姓を鎮撫。世祖が即位し、雍州牧。尚書令。しばしば忠臣として、諫爭する。

ぼくは思う。更始に率先して、したがったことになる。更始が三輔でほろびたとき、どうやって光武に転職したのか、書いてない。高官かつ長安あたりを治めた人なので、知りたい。


建武四年,出為中山太守。明年,彭寵滅,轉為漁陽太守。漁陽既離王莽之亂,重以彭寵之敗,民多猾惡,寇賊充斥。B025到,示以信賞,糾戮渠帥,盜賊銷散。時,匈奴數抄郡界,邊境苦之。B025整勒士馬,設攻守之略,匈奴畏憚遠跡,不敢複入塞,民得安業。在職五歲,戶口增倍。
後潁川盜賊群起,九年,征拜潁川太守。召見辭謁,帝勞之曰:「賢能太守,去帝城不遠,河潤九裏,冀京師並蒙福也。君雖精於追捕,而山道險厄,自鬥當一士耳,深宜慎之。」B025到郡,招懷山賊陽夏趙宏、襄城召吳等數百人,皆束手詣B025降,悉遣歸附農。因自劾專命,帝美其策,不以咎之。後宏、吳等党與聞B025威信,遠自江南,或從幽、冀,不期俱降,駱驛不絕。

建武四年(031)、中山太守。明年、彭寵がほろび、かわりに漁陽太守。漁陽は、王莽と彭寵のせいで、人民が猾惡で、寇賊が充斥する。彭寵は、盗賊の渠帥をうつ。匈奴が、おかさず。5年で戸数が2倍。
のちに頴川の盗賊たつ。九年(033)、潁川太守。光武は「洛陽のそばで、賢能な郭伋が、頴川太守をする。險厄な山道に、盗賊を追捕するな。死ぬな」と。郭伋は、山賊する陽夏の趙宏、襄城の召吳らを招懷し、附農させた。専断して、降伏をいれたが、光武がとがめず。江南、幽冀から、ぞくぞくと山賊の党与があつまる。

ぼくは思う。頴川がどういう土地柄なのか考えるとき、参考になる話。どうやら、全国に党与をもつ豪族が、頴川をしきる。この豪族が太守につけば、それだけで、軍隊をつかった討伐戦をやらなくても、平定される。豪族がつよいなーという話。


十一年,省朔方刺史屬並州。帝以盧芳據北土,乃調B025為並州牧。過京師謝恩,帝即引見,並召皇太子諸王宴語終日,賞賜車馬衣服什物。B025因言選補眾職,當簡天下賢俊,不宜專用南陽人。帝納之。B025前在並州,素結恩德,及後入界,所到縣邑,老幼相攜,逢迎道路。所過問民疾苦,聘求耆德雄俊,設幾杖之禮,朝夕與參政事。
始至行部,到西河美稷,有童兒數百,各騎竹馬,道次迎拜。B025問:「兒曹何自遠來?」對曰:「聞使君到,喜,故來奉迎。」B025辭謝之。及事訖,諸兒複送至郭外,問:「使君何日當還?」B025謂別駕從事,計日告之。行部既還,先期一日,B025為違信于諸兒,遂止於野亭,須期乃入。

十一年(035)、朔方刺史をはぶき、並州にあわす。盧芳が北土にいるので、郭伋を並州牧とす。光武は、皇太子や諸王とともに、宴語して見おくる。郭伋は「天下の賢俊をもちいよ。南陽の人を專用するな」という。光武は納れた。并州で郭伋は、耆德・雄俊を聘求して、并州牧に参政させた。人民の生活は改善した。
西河の美稷にきた。児童が竹馬で、郭伋を見にきた。「郭伋は、つぎ、いつ来る?」と聞かれ、期日をこたえた。別駕從事に、日数をカウントさせた。1日早く着いたので、野亭(野外の宿泊)にとどまり、児童との約束をまもった。

ぼくは思う。郭伋は、光武とは独立して名声をもった、北方のすぐれた地方官だ。


是時,朝廷多舉B025可為大司空,帝以並部尚有盧芳之儆,且匈奴未安,欲使久於其事,故不召。B025知盧芳夙賊,難卒以力制,常嚴烽候,明購賞,以結寇心。芳將隋昱遂謀脅芳降B025,芳及亡入匈奴。
B025以老病上書乞骸骨。二十二年,征為太中大夫,賜宅一區,及帷帳錢谷,以充其家,B025輒散與宗親九族,無所遺餘。明年卒,時年八十六。帝親臨吊,賜塚塋地。

おおく朝廷の人は、郭伋を大司空にあげる。光武は、盧芳と匈奴がいるので、召さず。盧芳は夙賊(年期のはいった盗賊)なので、にわかに力制できない。烽候で見はり、購賞(懸賞金)をかけた。盧芳の将・隋昱が、盧芳をおどした。盧芳は、匈奴ににげた。
郭伋は、老病だから退職したい。二十二年(046)、太中大夫。賞賜をもらうが、宗親・九族にあたえる。明年(047)、卒した。86歳。光武は、みずから臨吊した。

杜詩:

杜詩字君公,河內汲人也。少有才能,仕郡功曹,有公平稱。更始時,辟大司馬府。建武元年,歲中三遷為侍御史,安集洛陽。時,將軍蕭廣放縱兵士,暴橫民間,百姓惶擾,詩敕曉不改,遂格殺廣,還以狀聞。世祖召見,賜以C97D戟,複使之河東,誅降逆賊楊異等。詩到大陽,聞賊規欲北度,乃與長史急焚其船,部勒郡兵,將突騎趁擊,斬異等,賊遂剪滅。拜成皋令,視事三歲,舉政尤異。再遷為沛郡都尉,轉汝南都尉,所在稱治。

杜詩は、あざなを君公。河內の汲県の人。郡の功曹(人事)につかえ、公平とたたえらる。更始のとき、大司馬府に辟された。建武元年(025)、歲中に3遷して、侍御史。洛陽を安集した。ときに將軍の蕭廣は、兵士が百姓にあばれる。杜詩は、蕭廣をなぐり殺した。

ぼくは思う。更始から光武に、転職した時期と理由が、よくわからん。

光武は召見して、ケイ戟(木製の儀礼ホコ)をたまう。河東にゆかせ、逆賊の楊異らをくだす。杜詩が大陽にくると、楊異は長史とともに、船をやき、杜詩を北にわたれなくする。杜詩は、いそいで楊異を斬る。成皋令。3年で、政治は尤異(治績がすぐれる)にあがる。沛郡都尉、汝南都尉。ほめらる。

七年,遷南陽太守。性節儉而政治清平,以誅暴立威,善於計略,省愛民役。造作水排,鑄為農器,用力少,見功多,百姓便之。又修治陂池,廣拓土田,郡內比室殷足。時人方於召信臣,故南陽為之語曰:「前有召父,後有杜母。」
詩自以無勞,不安久居大郡,求欲降避功臣,乃上疏曰:

七年(031)、南陽太守。性は節儉で、政治は清平。誅暴・立威して、計略によし。民役を省愛する。水排を造作して、農器を鋳造する。陂池を修治し、土田を廣拓する。郡內は比室(のきなみ)、殷足した。ときの人は、召信臣(漢書・循吏伝)になぞらう。南陽は「前有召父、後有杜母」という。
だが杜詩は、みずから功績がないので、おおきな汝南太守の資格がないと思う。功臣に、汝南太守をゆずりたい。上疏した。

陛下亮成天工,克濟大業,偃兵修文,群帥反旅,海內合和,萬世蒙福,天下幸甚。唯匈奴未譬聖德,威侮三垂,陵虐中國,邊民虛耗,不能自守,臣恐武猛之將雖勤,亦未得解甲EA72弓也。夫勤而不息亦怨,勞而不休亦怨,怨恨之師,難複責功。臣伏睹將帥之情,功臣之望,冀一休足於內郡,然後即戎出命,不敢有恨。世愚以為「師克在和不在眾」,陛下雖垂念北邊,亦當頗泄用之。昔湯、武善禦眾,故無忿鷙之師。陛下起兵十有三年,將帥和睦,士卒鳧B24B。今若使公卿郡守出於軍壘,則將帥自厲;士卒之複,比于宿衛,則戎士自百。何者?天下已安,各重性命,大臣以下,咸懷樂土,不讎其功而厲其用,無以勸也。陛下誠宜虛缺數郡,以俊振旅之臣,重複厚賞,加於久役之士。如此,緣邊屯戍之師,競而忘死,乘城拒塞之吏,不辭其勞,則烽火精明,守戰堅固。聖王之政,必因人心。今猥用愚薄,塞功臣之望,誠非其宜。
臣詩伏自惟忖,本以史吏一介之才,遭陛下創制大業,賢俊在外,空乏之間,超受大恩,牧養不稱,奉職無效,久竊祿位,令功臣懷慍,誠惶誠恐。八年,上書乞避功德,陛下殊恩,未許放退。臣詩蒙恩尤深,義不敢苟冒虛請,誠不勝至願,願退大郡,受小職。及臣齒壯,力能經營劇事,如使臣詩必有補益,複受大位,雖析珪授爵,所不辭也。惟陛下哀矜!
帝惜其能,遂不許之。

杜詩は「私は、汝南太守をやめたい」という。光武は、杜詩の能力をおしみ、汝南太守にとどめる。

詩雅好推賢,數進知名士清河劉統及魯陽長董崇等。
初,禁網尚簡,但以璽書發兵,未有虎符之信,詩上疏曰:「臣聞兵者國之兇器,聖人所慎。舊制發兵,皆以虎符,其餘徵調,竹使而已。符第合會,取為大信,所以明著國命,斂持威重也。間者發兵,但用璽書,或以詔令,如有奸人詐偽,無由知覺。愚以為軍旅尚興,賊虜未殄,徵兵郡國,宜有重慎,可立虎符,以絕奸端。昔魏之公子,威傾鄰國,猶假兵符,以解趙圍,若無如姬之仇,則其功不顯。事有煩而不可省,費而不得已,蓋謂此也。」書奏,從之。

杜詩は、推賢をこのむ。清河の劉統、魯陽長の董崇らをすすめる。
はじめ禁網(法網)はおろそかで、璽書をつかい發兵した。虎符之信がない。杜詩は上疏した。「旧制では、兵をうごかすのは虎符、さもなくば竹使だ。璽書は、偽造される。初期コストがかかるが、虎符をつかえ」と。光武は、したがう。

詩身雖在外,盡心朝廷,讜言善策,隨事獻納。視事七年,政化大行。十四年,坐遣客為弟報仇,被征,會病卒。司隸校尉鮑永上書言詩貧困無田宅,喪無所歸。詔使治喪郡邸,賻絹千匹。

杜詩は地方にいるが、中央に心をつくし、善言した。汝南を7年おさめ、政化は大行。十四年(038)、食客に弟の報仇をさせた。徴されたが、病卒。

ぼくは思う。後漢の人は、死にぎわに、報仇を試みるらしい。道づれの覚悟が、できるからか。平素は、すずしい顔をしているが、じつは報仇したくて、メラメラしているのだ。『後漢書』郅惲伝もおなじ。

司隸校尉の鮑永(列伝19)は上書して、杜詩に田宅がなく、埋葬する場所がないという。光武は、死体を郡邸(各郡が治所にもうけた出張所)にうめた。

ぼくは思う。子孫がいないの?無縁仏みたいなもの。仏教じゃなくて、儒教だけど。


孔奮

孔奮字君魚,扶風茂陵人也。曾祖霸,元帝時為侍中。奮少從劉歆受《春秋左氏傳》,歆稱之,謂門人曰:「吾已從君魚受道矣。」
遭王莽亂,奮與老母、幼弟避兵河西。建武五年,河西大將軍竇融請奮署議曹掾,守姑臧長。八年,賜爵關內侯。時天下擾亂,惟河西獨安,而姑臧稱為富邑,通貨羌胡,市日四合,每居縣者,不盈數月輒致豐積。奮在職四年,財產無所增。事母孝謹,雖為儉約,奉養極求珍膳。躬率妻、子,同甘菜茹。時天下未定,士多不修節操,而奮力行清潔,為眾人所笑,或以為身處脂膏,不能以自潤,徒益苦辛耳。奮既立節,治貴仁平,太守梁統深相敬待,不以官屬禮之,常迎於大門,引入見母。

孔奮は、あざなを君魚。扶風の茂陵の人。曾祖の孔霸は、元帝の侍中。孔奮は、劉歆から《春秋左氏傳》をならう。劉歆は門人に「すでに私は、ぎゃくに孔奮から教わるほどだ」と言った。
王莽のとき、老母、幼弟とともに、河西にのがる。建武五年(029)、河西大將軍の竇融は、孔奮を議曹掾(奏曹掾におなじ)とし、姑臧長を守せしむ。

李賢はいう。低い官位の人が、高い官位を代行するのが「守」と。ぼくは思う。何回やっても、どうも覚わらない。
ぼくは思う。劉歆にならった孔奮は、はじめ、竇融に就職するのですね。竇融は、独自に西方をおさめる権利を、光武からもらい、このように人材をあつめている。

八年、關內侯。ときに天下は乱れるが、河西だけ安全。姑臧は富邑といわれる。通貨は羌胡と流通し、日ごとに市場が4つたつ。県の人は、1ヶ月未満で、たんまり蓄財できた。姑臧を4年おさめたが、孔奮は財産はふえず。母に孝謹で飽食させ、妻子は野菜だけ粗食する。太守の梁統は、孔奮を官属としてあつかわず、つねに大門にむかえた。孔奮の母とも、面会した。

ぼくは思う。隗囂の領域と、竇融や梁統の領域と、なにか違いがあるのか。光武にたいして、中立ないしは、やんわりとした臣従をする人たちは、経済的に独立しているのだね。これは、孫権とおなじだ。洛陽と交渉しなくても、ゆたかならば、はなれてゆく。


隴蜀既平,河西守令鹹被徵召,財貨連轂,彌竟川澤。惟奮無資,單車就路。姑臧吏民及羌胡更相謂曰:「孔君清廉仁賢,舉縣蒙恩,如何今去,不共報德!」遂相賦斂牛、馬、器物千萬以上,追送數百里。奮謝之而已,一無所受。既至京師,除武都郡丞。
時,隴西餘賊隗茂等夜攻府舍,殘殺郡守,賊畏奮追急,乃執其妻子,欲以為質。奮年已五十,唯有一子,終不顧望,遂窮力討之。吏民感義,莫不倍用命焉。郡多氐人,便習山谷,其大豪齊鐘留者,為群氐所信向。奮乃率厲鐘留等令要遮抄擊,共為表裏。賊窘懼逼急,乃推奮妻子以置軍前,冀當退卻,而擊之愈厲,遂禽滅茂等,奮妻、子亦為所殺。世祖下詔褒美,拜為武都太守。

隴蜀がたいらぎ、河西の守令は、みな徵召された。財貨は、轂(くるま)をつらぬ。川澤をわたる。孔奮のみ、單車で就路した。

ぼくは思う。任地を富ませ、長官は富まない。これが、もっとも理想な、長官の態度なんだろう。儒教は清貧をとくが、おそらく「GDPを減らせ」とまで、言わないはずだ。飢饉で、死にたくない。

姑臧の吏民と、羌胡は、孔奮にプレゼントしたが、うけず。洛陽にゆき、孔奮は武都の郡丞。

李賢はいう。武都の郡治は、下弁。丞は、太守を補佐する、次官。ぼくは思う。あんまり、えらくなってないなあ。河西という、条件にめぐまれた土地で、県レベルを富ますだけでは、昇進がこの程度なのか。

ときに隴西の餘賊・隗茂(西南夷伝によれば、隗囂の族人)は、夜に府舍をせめ、郡守を殘殺した。孔奮の妻子が、人質となる。孔奮は、50歳で1子しかいないが、人質をかえりみず。
武都には、氐人がおおい。山谷に便習する。氐族の大豪・齊鐘留は、氐族にしたわれる。孔奮は、齊鐘留とともに、隗茂をほろぼす。妻子は殺された。武都太守。

ぼくは思う。氐族をつかう、異民族対策を、すでにやってる。後漢をつうじて、ずっと、おなじことをやる。妻子が殺されて、子孫が残らない。50歳というのは、もう子づくりができない、という意味で書いているのだろう。


奮自為府丞,已見敬重,及拜太守,舉郡莫不改操。為政明斷,甄善疾非,見有美德,愛之如親,其無行者,忿之若仇,郡中稱為清平。
弟奇,遊學洛陽。奮以奇經明當仕,上病去官,守約鄉閭,卒於家。奇博通經典,作《春秋左氏刪》。奮晚有子嘉,官至城門校尉,作《左氏說》雲。

孔奮は、府丞のときから敬重された。いま武都太守となり、郡をあげて改操した。郡中は、孔奮を清平とする。
弟の孔奇は、洛陽に遊學する。孔奮が考えるに、孔奇は經明なので、後漢に仕えるべき。孔奮は病で去官して、郷里でつつましく、卒於家。孔奇は經典に博通する。《春秋左氏刪》をつくる。孔奮の晩年の子・孔嘉は、城門校尉までなり、《左氏說》をつくる。

張堪

張堪字君游,南陽宛人也,為郡族姓。堪早孤。讓先父余財數百萬與兄子。年十六,受業長安,志美行厲,諸儒號曰「聖童」。
世祖微時,見堪志操,常嘉焉。及即位,中郎將來歙薦堪,召拜郎中,三遷為謁者。使送委輸縑帛,並領騎七千匹,詣大司馬吳漢伐公孫述,在道追拜蜀郡太守。時漢軍餘七日糧,陰具船欲遁去。堪聞之,馳往見漢,說述必敗,不宜退師之策。漢從之,乃示弱挑敵,述果自出,戰死城下。成都既拔,堪先入據其城,撿閱庫藏,收其珍寶,悉條列上言,秋毫無私。慰撫吏民,蜀人大悅。

張堪は、あざなを君游。南陽の宛県の人。郡の族姓(名族)。だ。はやくに孤。先父の余財を、兄子にゆずる。16歳で、長安でまなび、行動がすぐれ、諸儒から「聖童」とよばる。
世祖が微(無名)のとき、張堪の志操をみて、よみす。

ぼくは思う。光武が長安に遊学して、つくった人脈を網羅せねば。

光武が即位すると、中郎將の來歙は、張堪をすすめ、郎中、謁者。 委輸の(車ではこぶ)縑帛を、はこばす。大司馬の吳漢につき、公孫述をうち、蜀郡太守。ときに呉漢は、のこる兵糧が7日のみ。張堪は「公孫述をやぶれる。ひくな」と説き、成都をぬいた。庫藏の珍寶を、すこしも私せず。蜀人は大悅した。

在郡二年,征拜騎都尉,後領票騎將軍杜茂營,擊破匈奴于高柳,拜漁陽太守。捕擊奸猾,賞罰必信,吏民皆樂為用。匈奴嘗以萬騎入漁陽,堪率數千騎奔擊,大破之,郡界以靜。乃於狐奴開稻田八千餘頃,勸民耕種,以致殷富。百姓歌曰:「桑無附枝,麥穗兩岐。張君為政,樂不可支。」視事八年,匈奴不敢犯塞。

蜀郡太守を2年。騎都尉。のとに票騎將軍の杜茂の軍営を領した。匈奴を高柳でうつ。漁陽太守。匈奴が漁陽にはいり、やぶる。郡界は、しずか。狐奴に稻田をひらく。百姓はいう。「桑も麦も、めずらしい豊作。張堪のおかげ」と。漁陽太守を8年、匈奴は犯塞せず。

『資治通鑑』に胡三省はいう。桑をきるとき、ながい枝をのこすと、翌年に茂る。麦は、1つの茎に、1つの穂。2つの穂はめずらしい。これを瑞とする。


帝嘗召見諸郡計吏,問其風土及前後守令能否。蜀郡計掾樊顯進曰:「漁洋太守張堪昔在蜀,其仁以惠下,威能討奸。前公孫述破時,珍寶山積,F8C7握之物,足富十世,而堪去職之日,乘折轅車,布被囊而已。」帝聞,良久歎息,拜顯為魚複長。方征堪,會病卒,帝深悼惜之,下詔褒揚,賜帛百匹。

光武は、諸郡の計吏に、諸郡の風土や、前後の守令の能否をきく。蜀郡計掾の樊顯はいう。「漁洋太守の張堪は、公孫述の珍宝が10世も遊んでくらせたが、珍宝をとらず。異動のとき、麻布のバックのみで蜀郡をさる」と。光武は、張堪を魚複(巴郡)長とした。徴されたとき、病卒。

廉范

廉范字叔度,京兆杜陵人也,趙將廉頗之後也。漢興,以廉氏豪宗,自苦陘徙焉。世為邊郡守,或葬隴西襄武,故因仕焉。曾祖父褒,成、哀間為右將軍,祖父丹,王莽時為大司馬庸部牧,皆有名前世。范父遭喪亂,客死于蜀漢,範遂流寓西州。西州平,歸鄉里。年十五,辭母西迎父喪。蜀郡太守張穆,丹之故吏,乃重資送范,範無所受,與客步負喪歸葭萌。載船觸石破沒,範抱持棺柩,遂俱沉溺,眾傷其義,鉤求得之,療救僅免於死。穆聞,複馳遣使持前資物追范,範又固辭。歸葬服竟,詣京師受業,事博士薛漢。
京兆、隴西二郡更請召,皆不應,永平初,

廉范は、あざなを叔度。京兆の杜陵の人。戦国趙の將・廉頗(史記81)の子孫だ。前漢、廉氏は豪宗だから、苦陘より杜陵にうつる。世よ、辺境の郡守。ある人は、隴西の襄武に葬らる。ゆえ隴西につかえる。曾祖父の廉褒は、成哀のとき右將軍。祖父の廉丹は、王莽のとき大司馬・庸部(益州)牧。廉范の父は、蜀漢で客死した。
廉范は、西州(巴蜀)に流寓した。西州が平らぎ(公孫述がやぶれ)、鄉里にかえる。15歳、母に辞して、父の喪を西にむかえる。蜀郡太守の張穆は、父・廉丹の故吏。張穆は、重資をくれたが、廉范はうけず。食客と徒歩で、廉丹の棺をかつぎ、葭萌にゆく。船がしずみ、棺をさがしだす。京師で、博士の薛漢(儒林伝)にならう。

ぼくは思う。王莽の重臣・廉丹は、棺が水没して、キャラ立ちした!

京兆、隴西の2郡は、廉范を召したいが、おうじず。明帝の永平初、、はぶく。

ぼくは思う。廉范は、光武の時代をやるなら、いらないなあ。


論曰:「張堪、廉範皆以氣俠立名,觀其振危急,赴險厄,有足壯者。堪之臨財,范之忘施,亦足以信意而感物矣。若夫高祖之召欒布,明帝之引廉範,加怒以發其志,就戮更延其寵,聞義能徙,誠君道所尚,然情理之樞,亦有開塞之感焉。

范曄の論はいう。張堪と廉范は気侠で、危急をすくった。壮である。張堪と廉范は、財物にこだわらず、すばらしい。あっそう。次巻へ、つづく。