01) 郭伋、杜詩、孔奮、張堪、廉范
『後漢書』列伝21・郭伋、杜詩、孔奮、張堪、廉范
吉川忠夫氏の訳注にもとづき、読みます。
郭伋
更始新立,三輔連被兵寇,百姓震駭,強宗右姓各擁眾保營,莫肯先附。更始素聞B025名,征拜左馮翊,使鎮撫百姓。世祖即位,拜雍州牧,再轉為尚書令,數納忠諫爭。
郭伋は、あざなを細侯。扶風の茂陵の人。高祖父の郭解(漢書・遊侠伝)は、武帝のとき任侠で聞こゆ。父の郭梵は、蜀郡太守。郭伋は、哀平のとき、大司空府に辟さる。漁陽都尉。王莽の上谷大尹、並州牧。
更始がたち、三輔がみだれた。強宗・右姓は、擁眾・保營した。更始につかず。更始は、郭伋の名声をきき、左馮翊として、三輔の百姓を鎮撫。世祖が即位し、雍州牧。尚書令。しばしば忠臣として、諫爭する。
後潁川盜賊群起,九年,征拜潁川太守。召見辭謁,帝勞之曰:「賢能太守,去帝城不遠,河潤九裏,冀京師並蒙福也。君雖精於追捕,而山道險厄,自鬥當一士耳,深宜慎之。」B025到郡,招懷山賊陽夏趙宏、襄城召吳等數百人,皆束手詣B025降,悉遣歸附農。因自劾專命,帝美其策,不以咎之。後宏、吳等党與聞B025威信,遠自江南,或從幽、冀,不期俱降,駱驛不絕。
建武四年(031)、中山太守。明年、彭寵がほろび、かわりに漁陽太守。漁陽は、王莽と彭寵のせいで、人民が猾惡で、寇賊が充斥する。彭寵は、盗賊の渠帥をうつ。匈奴が、おかさず。5年で戸数が2倍。
のちに頴川の盗賊たつ。九年(033)、潁川太守。光武は「洛陽のそばで、賢能な郭伋が、頴川太守をする。險厄な山道に、盗賊を追捕するな。死ぬな」と。郭伋は、山賊する陽夏の趙宏、襄城の召吳らを招懷し、附農させた。専断して、降伏をいれたが、光武がとがめず。江南、幽冀から、ぞくぞくと山賊の党与があつまる。
始至行部,到西河美稷,有童兒數百,各騎竹馬,道次迎拜。B025問:「兒曹何自遠來?」對曰:「聞使君到,喜,故來奉迎。」B025辭謝之。及事訖,諸兒複送至郭外,問:「使君何日當還?」B025謂別駕從事,計日告之。行部既還,先期一日,B025為違信于諸兒,遂止於野亭,須期乃入。
十一年(035)、朔方刺史をはぶき、並州にあわす。盧芳が北土にいるので、郭伋を並州牧とす。光武は、皇太子や諸王とともに、宴語して見おくる。郭伋は「天下の賢俊をもちいよ。南陽の人を專用するな」という。光武は納れた。并州で郭伋は、耆德・雄俊を聘求して、并州牧に参政させた。人民の生活は改善した。
西河の美稷にきた。児童が竹馬で、郭伋を見にきた。「郭伋は、つぎ、いつ来る?」と聞かれ、期日をこたえた。別駕從事に、日数をカウントさせた。1日早く着いたので、野亭(野外の宿泊)にとどまり、児童との約束をまもった。
B025以老病上書乞骸骨。二十二年,征為太中大夫,賜宅一區,及帷帳錢谷,以充其家,B025輒散與宗親九族,無所遺餘。明年卒,時年八十六。帝親臨吊,賜塚塋地。
おおく朝廷の人は、郭伋を大司空にあげる。光武は、盧芳と匈奴がいるので、召さず。盧芳は夙賊(年期のはいった盗賊)なので、にわかに力制できない。烽候で見はり、購賞(懸賞金)をかけた。盧芳の将・隋昱が、盧芳をおどした。盧芳は、匈奴ににげた。
郭伋は、老病だから退職したい。二十二年(046)、太中大夫。賞賜をもらうが、宗親・九族にあたえる。明年(047)、卒した。86歳。光武は、みずから臨吊した。
杜詩:
杜詩は、あざなを君公。河內の汲県の人。郡の功曹(人事)につかえ、公平とたたえらる。更始のとき、大司馬府に辟された。建武元年(025)、歲中に3遷して、侍御史。洛陽を安集した。ときに將軍の蕭廣は、兵士が百姓にあばれる。杜詩は、蕭廣をなぐり殺した。
光武は召見して、ケイ戟(木製の儀礼ホコ)をたまう。河東にゆかせ、逆賊の楊異らをくだす。杜詩が大陽にくると、楊異は長史とともに、船をやき、杜詩を北にわたれなくする。杜詩は、いそいで楊異を斬る。成皋令。3年で、政治は尤異(治績がすぐれる)にあがる。沛郡都尉、汝南都尉。ほめらる。
詩自以無勞,不安久居大郡,求欲降避功臣,乃上疏曰:
七年(031)、南陽太守。性は節儉で、政治は清平。誅暴・立威して、計略によし。民役を省愛する。水排を造作して、農器を鋳造する。陂池を修治し、土田を廣拓する。郡內は比室(のきなみ)、殷足した。ときの人は、召信臣(漢書・循吏伝)になぞらう。南陽は「前有召父、後有杜母」という。
だが杜詩は、みずから功績がないので、おおきな汝南太守の資格がないと思う。功臣に、汝南太守をゆずりたい。上疏した。
臣詩伏自惟忖,本以史吏一介之才,遭陛下創制大業,賢俊在外,空乏之間,超受大恩,牧養不稱,奉職無效,久竊祿位,令功臣懷慍,誠惶誠恐。八年,上書乞避功德,陛下殊恩,未許放退。臣詩蒙恩尤深,義不敢苟冒虛請,誠不勝至願,願退大郡,受小職。及臣齒壯,力能經營劇事,如使臣詩必有補益,複受大位,雖析珪授爵,所不辭也。惟陛下哀矜!
帝惜其能,遂不許之。
杜詩は「私は、汝南太守をやめたい」という。光武は、杜詩の能力をおしみ、汝南太守にとどめる。
初,禁網尚簡,但以璽書發兵,未有虎符之信,詩上疏曰:「臣聞兵者國之兇器,聖人所慎。舊制發兵,皆以虎符,其餘徵調,竹使而已。符第合會,取為大信,所以明著國命,斂持威重也。間者發兵,但用璽書,或以詔令,如有奸人詐偽,無由知覺。愚以為軍旅尚興,賊虜未殄,徵兵郡國,宜有重慎,可立虎符,以絕奸端。昔魏之公子,威傾鄰國,猶假兵符,以解趙圍,若無如姬之仇,則其功不顯。事有煩而不可省,費而不得已,蓋謂此也。」書奏,從之。
杜詩は、推賢をこのむ。清河の劉統、魯陽長の董崇らをすすめる。
はじめ禁網(法網)はおろそかで、璽書をつかい發兵した。虎符之信がない。杜詩は上疏した。「旧制では、兵をうごかすのは虎符、さもなくば竹使だ。璽書は、偽造される。初期コストがかかるが、虎符をつかえ」と。光武は、したがう。
杜詩は地方にいるが、中央に心をつくし、善言した。汝南を7年おさめ、政化は大行。十四年(038)、食客に弟の報仇をさせた。徴されたが、病卒。
司隸校尉の鮑永(列伝19)は上書して、杜詩に田宅がなく、埋葬する場所がないという。光武は、死体を郡邸(各郡が治所にもうけた出張所)にうめた。
孔奮
遭王莽亂,奮與老母、幼弟避兵河西。建武五年,河西大將軍竇融請奮署議曹掾,守姑臧長。八年,賜爵關內侯。時天下擾亂,惟河西獨安,而姑臧稱為富邑,通貨羌胡,市日四合,每居縣者,不盈數月輒致豐積。奮在職四年,財產無所增。事母孝謹,雖為儉約,奉養極求珍膳。躬率妻、子,同甘菜茹。時天下未定,士多不修節操,而奮力行清潔,為眾人所笑,或以為身處脂膏,不能以自潤,徒益苦辛耳。奮既立節,治貴仁平,太守梁統深相敬待,不以官屬禮之,常迎於大門,引入見母。
孔奮は、あざなを君魚。扶風の茂陵の人。曾祖の孔霸は、元帝の侍中。孔奮は、劉歆から《春秋左氏傳》をならう。劉歆は門人に「すでに私は、ぎゃくに孔奮から教わるほどだ」と言った。
王莽のとき、老母、幼弟とともに、河西にのがる。建武五年(029)、河西大將軍の竇融は、孔奮を議曹掾(奏曹掾におなじ)とし、姑臧長を守せしむ。
ぼくは思う。劉歆にならった孔奮は、はじめ、竇融に就職するのですね。竇融は、独自に西方をおさめる権利を、光武からもらい、このように人材をあつめている。
八年、關內侯。ときに天下は乱れるが、河西だけ安全。姑臧は富邑といわれる。通貨は羌胡と流通し、日ごとに市場が4つたつ。県の人は、1ヶ月未満で、たんまり蓄財できた。姑臧を4年おさめたが、孔奮は財産はふえず。母に孝謹で飽食させ、妻子は野菜だけ粗食する。太守の梁統は、孔奮を官属としてあつかわず、つねに大門にむかえた。孔奮の母とも、面会した。
時,隴西餘賊隗茂等夜攻府舍,殘殺郡守,賊畏奮追急,乃執其妻子,欲以為質。奮年已五十,唯有一子,終不顧望,遂窮力討之。吏民感義,莫不倍用命焉。郡多氐人,便習山谷,其大豪齊鐘留者,為群氐所信向。奮乃率厲鐘留等令要遮抄擊,共為表裏。賊窘懼逼急,乃推奮妻子以置軍前,冀當退卻,而擊之愈厲,遂禽滅茂等,奮妻、子亦為所殺。世祖下詔褒美,拜為武都太守。
隴蜀がたいらぎ、河西の守令は、みな徵召された。財貨は、轂(くるま)をつらぬ。川澤をわたる。孔奮のみ、單車で就路した。
姑臧の吏民と、羌胡は、孔奮にプレゼントしたが、うけず。洛陽にゆき、孔奮は武都の郡丞。
ときに隴西の餘賊・隗茂(西南夷伝によれば、隗囂の族人)は、夜に府舍をせめ、郡守を殘殺した。孔奮の妻子が、人質となる。孔奮は、50歳で1子しかいないが、人質をかえりみず。
武都には、氐人がおおい。山谷に便習する。氐族の大豪・齊鐘留は、氐族にしたわれる。孔奮は、齊鐘留とともに、隗茂をほろぼす。妻子は殺された。武都太守。
弟奇,遊學洛陽。奮以奇經明當仕,上病去官,守約鄉閭,卒於家。奇博通經典,作《春秋左氏刪》。奮晚有子嘉,官至城門校尉,作《左氏說》雲。
孔奮は、府丞のときから敬重された。いま武都太守となり、郡をあげて改操した。郡中は、孔奮を清平とする。
弟の孔奇は、洛陽に遊學する。孔奮が考えるに、孔奇は經明なので、後漢に仕えるべき。孔奮は病で去官して、郷里でつつましく、卒於家。孔奇は經典に博通する。《春秋左氏刪》をつくる。孔奮の晩年の子・孔嘉は、城門校尉までなり、《左氏說》をつくる。
張堪
世祖微時,見堪志操,常嘉焉。及即位,中郎將來歙薦堪,召拜郎中,三遷為謁者。使送委輸縑帛,並領騎七千匹,詣大司馬吳漢伐公孫述,在道追拜蜀郡太守。時漢軍餘七日糧,陰具船欲遁去。堪聞之,馳往見漢,說述必敗,不宜退師之策。漢從之,乃示弱挑敵,述果自出,戰死城下。成都既拔,堪先入據其城,撿閱庫藏,收其珍寶,悉條列上言,秋毫無私。慰撫吏民,蜀人大悅。
張堪は、あざなを君游。南陽の宛県の人。郡の族姓(名族)。だ。はやくに孤。先父の余財を、兄子にゆずる。16歳で、長安でまなび、行動がすぐれ、諸儒から「聖童」とよばる。
世祖が微(無名)のとき、張堪の志操をみて、よみす。
光武が即位すると、中郎將の來歙は、張堪をすすめ、郎中、謁者。
委輸の(車ではこぶ)縑帛を、はこばす。大司馬の吳漢につき、公孫述をうち、蜀郡太守。ときに呉漢は、のこる兵糧が7日のみ。張堪は「公孫述をやぶれる。ひくな」と説き、成都をぬいた。庫藏の珍寶を、すこしも私せず。蜀人は大悅した。
蜀郡太守を2年。騎都尉。のとに票騎將軍の杜茂の軍営を領した。匈奴を高柳でうつ。漁陽太守。匈奴が漁陽にはいり、やぶる。郡界は、しずか。狐奴に稻田をひらく。百姓はいう。「桑も麦も、めずらしい豊作。張堪のおかげ」と。漁陽太守を8年、匈奴は犯塞せず。
光武は、諸郡の計吏に、諸郡の風土や、前後の守令の能否をきく。蜀郡計掾の樊顯はいう。「漁洋太守の張堪は、公孫述の珍宝が10世も遊んでくらせたが、珍宝をとらず。異動のとき、麻布のバックのみで蜀郡をさる」と。光武は、張堪を魚複(巴郡)長とした。徴されたとき、病卒。
廉范
京兆、隴西二郡更請召,皆不應,永平初,
廉范は、あざなを叔度。京兆の杜陵の人。戦国趙の將・廉頗(史記81)の子孫だ。前漢、廉氏は豪宗だから、苦陘より杜陵にうつる。世よ、辺境の郡守。ある人は、隴西の襄武に葬らる。ゆえ隴西につかえる。曾祖父の廉褒は、成哀のとき右將軍。祖父の廉丹は、王莽のとき大司馬・庸部(益州)牧。廉范の父は、蜀漢で客死した。
廉范は、西州(巴蜀)に流寓した。西州が平らぎ(公孫述がやぶれ)、鄉里にかえる。15歳、母に辞して、父の喪を西にむかえる。蜀郡太守の張穆は、父・廉丹の故吏。張穆は、重資をくれたが、廉范はうけず。食客と徒歩で、廉丹の棺をかつぎ、葭萌にゆく。船がしずみ、棺をさがしだす。京師で、博士の薛漢(儒林伝)にならう。
京兆、隴西の2郡は、廉范を召したいが、おうじず。明帝の永平初、、はぶく。
范曄の論はいう。張堪と廉范は気侠で、危急をすくった。壮である。張堪と廉范は、財物にこだわらず、すばらしい。あっそう。次巻へ、つづく。