表紙 > ~後漢 > 方詩銘氏の「『気侠』之士袁術」を抄訳する

05) 鄭興、范升、陳元

『後漢書』列伝26・鄭興、范升、陳元伝。
吉川忠夫氏の訳注にもとづき、読みます。

鄭興

鄭興字少贛,河南開封人也。少學《公羊春秋》。晚善《左氏傳》,遂積精深思,通達其旨,同學者皆師之。天鳳中,將門人從劉歆講正大義,歆美興才,使撰條例、章句、傳詁,及校《三統曆》。

鄭興は、あざなを少贛。河南の開封の人。わかく《公羊春秋》、おそく《左氏傳》。

『東観漢記』はいう。鄭興は、博士の金子厳に『左氏伝』をまなぶ。

同学者に、師とされた。天鳳中(014-019)、門人をしたがい、劉歆kにしたがい大義を講正する(きわめただす)。劉歆は鄭興の才能をよみし、條例、章句、傳詁を撰述させ、《三統曆》を校させた。

李賢はいう。著述の体例、段落、句読、注釈した。『三統暦』は、劉歆の撰。夏、殷、周の暦をいう。ぼくは思う。鄭興は、劉歆の弟子みたいなものか。


更始立,以司直李松行丞相事,先入長安,松以興為長史,令還奉迎遷都。更始諸將皆山東人,鹹勸留洛陽。興說更始曰:「陛下起自荊楚,權政未施,一朝建號,而山西雄桀爭誅王莽,開關郊迎者,何也?此天下同苦王氏虐政,而思高祖之舊德也。今久不撫之,臣恐百姓離心,盜賊複起矣。《春秋》書'齊小白入齊',不稱侯,未朝廟故也。今議者欲先定赤眉而後入關,是不識其本而爭其末,恐國家之守轉在函穀,雖臥洛陽,庸得安枕乎?」更始曰:「朕西決矣。」拜興為諫議大夫,使安集關西及朔方、涼、益三州,還拜涼州刺史。會天水有反者,攻殺郡守,興坐免。

更始がたち、司直の李松に、行丞相事させる。さきに李松は長安にはいる。李松は、鄭興を長史として、更始を奉迎させた。更始の諸將は、みな山東人。洛陽にとどまりたい。鄭興は更始にいう。「更始が荊州にたち、権威・政令を整備せずに、天子を号した。それなのに吏民が函谷関をひらき、更始を長安に奉迎したのは、なぜか。王莽をにくむからだ。更始が長安にこなければ、百姓や離心する。『春秋』はいう。斉の桓公は、さきに臨菑に入り、即位できた。更始は、赤眉におくれるな」と。
更始は「西すると決めた」とし、鄭興を諫議大夫とす。關西および朔方、涼、益3州を安集させた。涼州刺史。たまたま天水で群守が殺され、坐免。

時赤眉入關,東道不通,興乃西歸隗囂,囂虛心禮請,而興恥為之屈,稱疾不起。囂矜己自飾,常以為西伯複作,乃與諸將議自立為王。興聞而說囂曰:「《春秋傳》雲:'口不道忠信之言為囂,耳不聽五聲之和為聾。'間者諸將集會,無乃不道忠信之言;大將軍之聽,無乃阿而不察乎?昔文王承積德之緒,加之以睿聖,三分天下,尚服事殷。及武王即位,八百諸侯不謀同會,皆曰'紂可伐矣',武王以未知天命,還兵待時。高祖征伐累年,猶以沛公行師。今令德雖明,世無宗周之祚,威略雖振,未有高祖之功,而欲舉未可之事,昭速禍患,無乃不可乎?惟將軍察之。」囂竟不稱王。後遂廣置職位,以自尊高。興複止囂曰:「夫中郎將、太中大夫、使持節官皆王者之器,非人臣所當制也。孔子曰:'惟器與名,不可以假人。'不可以假人者,亦不可以假於人也。無益于實,有損於名,非尊上之意也。」囂病之而止。

ときに赤眉が入關し、東道は不通。鄭興は西して隗囂につく。隗囂は鄭興を、虛心で禮請した。鄭興は恥じて隗囂にくっさず、仮病する。隗囂は、周の西伯(文王)をまね、王となりたい。 鄭興は隗囂にいう。「周文王は、天下の3分の2でも殷につかう。高帝は、沛公のまま戦う。隗囂は王をなるな」と。隗囂は、王をとなえず。
のちに、ひろく職位を設置し、みずから尊高した。

ぼくは思う。隗囂は、みずから王を名のらないが、官位は置いたのかあ!

鄭興は隗囂をとどめた。「中郎將、太中大夫、使持節の官は、みな王者之器だ。人臣が置くものでない。実態がなく、名目にかける。光武にケチをつけるか」と。隗囂は、鄭興をいやがる。

李賢はいう。「病」とは、「難」のこと。


及囂遣子恂入侍,將行,興因恂求歸葬父母,囂不聽而徙興舍,益其秩禮。興入見囂曰:「前遭赤眉之亂,以將軍僚舊,故敢歸身明德。幸蒙覆載之恩,複得全其性命。興聞事親之道,生事之以禮,死葬之以禮,祭之以禮,奉以周旋,弗敢失墜。今為父母未葬,請乞骸骨,若以增秩徙舍,中更停留,是以親為餌,無禮甚矣,將軍焉用之!」囂曰:「囂將不足留故邪?」興曰:「將軍據七郡之地,擁羌胡之眾,以戴本朝,德莫厚焉,威莫重焉。居則為專命之使,入必為鼎足之臣。興,從俗者也,不敢深居屏處,因將軍求進,不患不達,因將軍求入,何患不親,此興之計不逆將軍者也。興業為父母請,不可以已,願留妻子獨歸葬,將軍又何猜焉?」囂曰:「幸甚。」促為辨裝,遂令與妻子俱東。時建武六年也。

隗囂は、隗恂を人質とした。ゆくとき鄭興は、隗恂に父母を歸葬させたいが、隗囂はゆるさず。鄭興の官舎をうつし、秩禮をふやす。鄭興は隗囂にいう。「赤眉のとき、隗囂は涼州太守だから、善政した。しかし隗恂の墓まいりを、ゆるさず。私は隗囂から去りたい」と。隗囂はいう。「私は鄭興が仕えるに値しないか」と。鄭興はいう。「隗囂は7郡(天水、隴西、武威、張掖、酒泉、敦煌、金城)による。そとで専命をうけ、なかで三公となる人物だ。私は隗囂が、光武につくと信じている。妻子をあずける。私をうたがうな」と。隗囂はいう。「鄭興は、隗恂を洛陽につれてゆけ」と。鄭興は、妻子をつれて洛陽にゆく。ときに建武六年(030)だ。

ぼくは思う。会話が、虚々実々。うまく抄訳できていないかも。鄭興は、更始から隗囂に転職した。いま光武に転職することになる。更始から隗囂というルートは、土地が近いから、ありえる。


鄭興2:

侍御史杜林先與興同寓隴右,乃薦之曰:「竊見河南鄭興,執義堅固,敦悅《詩》、《書》,好古博物,見疑不惑,有公孫僑、觀射父之德,宜侍帷幄,典職機密。昔張仲在周,燕冀宣王,而詩人悅喜。惟陛下留聽少察,以助萬分。」乃征為太中大夫。
明年三月晦,日食。興因上疏曰:

侍御史の杜林は、鄭興とおなじく隴右に客寓した。杜林はいう。「河南の鄭興は、執義・堅固だ。《詩》《書》がうまい。帷幄にとどめよ」と。光武の太中大夫。
明年(031)三月みそか、日食。鄭興は上疏した。

《春秋》以天反時為災,地反物為妖,人反德為亂,亂則妖災生。往年以來,謫咎連見,意者執事頗有闕焉。案《春秋》'昭公十七年夏六月甲戌朔,日有食之'。傳曰:'日過分而未至,三辰有災,於是百官降物,君不舉,避移時,樂奏鼓,祝用幣,史用辭。'今孟夏,純乾用事,陰氣未作,其災尤重。夫國無善政,則謫見日月,變咎之來,不可不慎,其要在因人之心,擇人處位也。堯知鯀不可用而用之者,是屈己之明,因人之心也。齊桓反政而相管仲,晉文歸國而任郤E067者,是不私其私,擇人處位也。今公卿大夫多舉漁陽太守郭亻及可大司空者,而不以時定,道路流言,鹹曰「朝廷欲用功臣」,功臣用則人位謬矣。願陛下上師唐、虞,下覽齊、晉,以成屈己從眾之德,以濟群臣讓善之功。
夫日月交會,數應在朔,而頃年日食,每多在晦。先時而合,皆月行疾也。日君象而月臣象,君亢急則臣下促迫,故行疾也。今年正月繁霜,自爾以來,率多寒日,此亦急咎之罰。天子賢聖之君,猶慈父之于孝子也。丁甯申戒,欲其反政,故災變仍見,此乃國之福也。今陛下高明而群臣惶促,宜留思柔克之政,垂意《洪範》之法,博采廣謀,納群下之策。

鄭興はいう。「善政しないと、日月が異変する。いま公卿・大夫は、漁陽太守の郭伋を大司空にせよという。時期があわず、大司空となっていない。もし功臣を高位につけたら、不適任である」と。

書奏,多有所納。帝嘗問興郊祀事,曰:「吾欲以讖斷之,何如?」興對曰:「臣不為讖。」帝怒曰:「卿之不為讖,非之邪?」興惶恐曰:「臣於書有所未學,而無所非也。」帝意乃解。興數言政事,依經守義,文章溫雅,然以不善讖故不能任。

光武は、おおく鄭興をもちいる。光武は郊祀につき、鄭興にきいた。「讖文で決めたいが、どうか」鄭興は「私は讖文をやらない」という。光武は「讖文を非難するか」といかる。鄭興は惶恐して「学ばないだけで、非難はしない」という。経書にくわしく、おだやかな性格だが、讖文をやらないので、高官につかない。

九年,使監征南、積弩營於津鄉,會征南將軍岑彭為刺客所殺,興領其營,遂與大司馬吳漢俱擊公孫述。述死,詔興留屯成都。頃之,侍御史舉奏興奉使私買奴婢,坐左轉蓮勺令。是時喪亂之餘,郡縣殘荒,興方欲築城郭,修禮教以化之,會以事免。
興好古學,尤明《左氏》、《周官》,長於歷數,自杜林、桓譚、衛宏之屬,莫不斟酌焉。世言《左氏》者多祖於興,而賈逵自傳其父業,故有鄭、賈之學。興去蓮勺,後遂不復仕,客授閿鄉,三公連辟不肯應,卒於家。子眾。

九年(033)、征南将軍(岑彭)、積弩将軍(傅俊)の軍營を、津鄉で監した。たまたま征南將軍の岑彭が、刺殺された。鄭興は、岑彭の軍営を領した。大司馬の吳漢と、公孫述をうつ。公孫述が死ぬと、鄭興は成都にとどまる。このころ、侍御史が舉奏した。「鄭興はひそかに、奴婢をかう」と。蓮勺令に左遷された。郡県が荒れるので、復興したいが、以事免。
鄭興は古学をやる。《左氏》《周官》に明るく、暦数がうまい。杜林、桓譚、衛宏らは、鄭興の教えを支持した。世に《左氏》を言う人は、鄭興を祖とする。賈逵の学問と、双璧をなす。蓮勺令のあと、つかえず。三公が辟したが応じず、卒於家。子は鄭衆。

范升

範升字辯卿,代郡人也。少孤,依外家居。九歲通《論語》、《孝經》,及長,習《梁丘易》、《老子》,教授後生。

范升は、あざなを辯卿。代郡の人。父が死に、母家に育てらる。9歲で《論語》《孝經》につうず。長じて《梁丘易》《老子》をやり、後輩におしえる。

王莽大司空王邑辟升為議曹史。時莽頻發兵役,征賦繁興,升乃奏記邑曰:「升聞子以人不間于其父母為孝,臣以下不非其君上為忠。今眾人鹹稱朝聖,皆曰公明。蓋明者無不見,聖者無不聞。今天下之事,昭昭於日月,震震于雷霆,而朝雲不見,公雲不聞,則元元焉所呼天?公以為是而不言,則過小矣;知而從令,則過大矣。二者於公無可以免,宜乎天下歸怨於公矣。朝以遠者不服為至念,升以近者不悅為重憂。今動與時戾,事與道反,馳鶩覆車之轍,探湯敗事之後,後出益可怪,晚發愈可懼耳。方春歲首,而動發遠役,藜藿不充,田荒不耕,穀價騰躍,斛至數千,吏人陷於湯火之中,非國家之人也。如此,則胡、貊守關,青、徐之寇在於帷帳矣。升有一言,可以解天下倒縣,免元元之急,不可書傳,願蒙引見,極陳所懷。」邑雖然其言,而竟不用。升稱病乞身,邑不聽,令乘傳使上黨。升遂與漢兵會,因留不還。

王莽の大司空・王邑は、范升を辟して議曹史(議曹掾におなじ)とする。兵役と徴税がおおい。范升は「百姓の負担をへらせ」という。王邑は同意したが、王莽は范升を、もちいず。

ぼくは思う。『後漢書』は、王莽についての記述がおおい。王莽の為政を、語りつくせるほど。しかし、まとめて記さない。列伝に散らばす。これが王莽への仕打ちなんだろうか。まあ『漢書』王莽伝との重複を避けたとも言えるが、だったら王莽について、くわしく引用する必要がへる。
『後漢書』の登場人物は、光武より年上がいる。たいてい「哀帝と平帝のころ」に起家(就職)している。それより、さかのぼらない。光武について知るなら、哀帝と平帝について、いちおうアタマに入れておくべきだろうな。

范升は仮病でさりたいが、王邑がゆるさず。駅伝にのり、范升を上党にゆかす。ついに漢兵とあわさり、王邑にかえらず。

ぼくは思う。王莽から、更始や光武への転職を、すんなりできた。上党という辺境だから、現地の世論にのっかったのだろう。中央と辺境で、王莽から後漢への移りかたに差異があるのか、確かめておきたい。


范升2:光武に問われ『左氏伝』博士を否定する

建武二年,光武征詣懷宮,拜議郎,遷博士,上疏讓曰:「臣與博士梁恭、山陽太守呂羌俱修《梁丘易》。二臣年並耆艾,經學深明,而臣不以時退,與恭並立,深知羌學,又不能達,慚負二老,無顏於世。誦而不行,知而不言,不可開口以為人師,願推博士以避恭、羌。」帝不許,然由是重之,數詔引見,每有大議,輒見訪問。

建武二年(026)、光武が懷宮(懐県の離宮)にゆく。范升は議郎、博士。上疏してことわる。「博士の梁恭、山陽太守の呂羌とともに、《梁丘易》を修めた。梁恭と呂羌は、老年で学問がある。博士にするなら、この2人せよ」と。光武はゆるさず。光武は、范升を博士とした。大議のたび、問われた。

時,尚書令韓歆上疏,欲為《費氏易》、《左氏春秋》立博士,詔下其議。四年正月,朝公卿、大夫、博士,見於雲台。帝曰:「范博士可前平說。」升起對曰:「《左氏》不祖孔子,而出於丘明,師徒相傳,又無其人,且非先帝所存,無因得立。」遂與韓歆及太中大夫許淑等互相辯難,日中乃罷。升退而奏曰:

ときに尚書令の韓歆が上疏した。《費氏易》《左氏春秋》に博士を立てよと。四年(028)正月、公卿、大夫、博士が、雲台にくる。光武に問われ、范升はいう。「左氏伝は、孔子を祖としない。左丘明がつくり、学統もない。前漢の皇帝も、重視しない」と。韓歆と、太中大夫の許淑らと、昼すぎまで討論した。范升は退いて、光武に上奏した。

ぼくは思う。范升は『左氏伝』をかろんじる。『左氏伝』反対派、後漢末には少ないから新鮮。光武が下問して、こういう討論がおこなわれているのだなあ。


臣聞主不稽古,無以承天;臣不述舊,無以奉君。陛下湣學微缺,勞心經藝,情存博聞,故異端競進。近有司請置《京氏易》博士,群下執事,莫能據正。《京氏》既立,《費氏》怨望,《左氏春秋》複以比類,亦希置立。《京》、《費》已行,次複《高氏》,《春秋》之家,又有《騶》、《夾》。如今《左氏》、《費氏》得置博士,《高氏》、《騶》、《夾》,《五經》奇異,並複求立,各有所執,乖戾分爭。從之則失道,不從則失人,將恐陛下必有CA75倦之聽。孔子曰:「博學約之,弗叛矣夫。」夫學而不約,必叛道也。顏淵曰:「博我以文,約我以禮。」孔子可謂知教,顏淵可謂善學矣。《老子》曰:「學道日損。」損猶約也。又曰:「絕學無憂。」絕末學也。今《費》、《左》二學,無有本師,而多反異,先帝前世,有疑於此,故《京氏》雖立,輒複見廢。疑道不可由,疑事不可行。《詩》、《書》之作,其來已久。孔子尚周流遊觀,至於如命,自衛反魯,乃正《雅》、《頌》。今陛下草創天下,紀綱未定,雖設學官,無有弟子,《詩》、《書》不講,禮樂不修,奏立《左》、《費》,非政急務,孔子曰:「攻乎異端,斯害也已。」傳曰:「聞疑傳疑,聞信傳信,而堯、舜之道存。」願陛下疑先帝之所疑,信先帝之所信,以示反本,明不專已。天下之事所以異者,以不一本也。《易》曰:「天下之動,貞夫一也。」又曰:「正其本,萬事理。」《五經》之本自孔子始,謹奏《左氏》之失凡十四事。時難者乙太史公多引《左氏》,升又上太史公違戾《五經》,謬孔子言,及《左氏春秋》不可錄三十一事。詔以下博士。

「ちかごろ有司は『京氏易』の博士をたてたい。群臣は、正誤を判定できない。『京氏易』をたてれば、『費氏易』がうらむ。『左氏伝』もおなじ。ひとつ立てれば、ほかと争論になる。『左氏伝』がダメな理由は14ある」と。
『左氏伝』に反対する人はいう。司馬遷『史記』は、『左氏伝』をおおくひき、孔子が五経につたえた教えを誤ったと。ほかに范升は、『左氏伝』の欠点を31あげた。

ぼくは思う。『左氏伝』博士のことは、つぎの陳元伝にもちこし。陳元は肯定派。


後升為出妻所告,坐系,得出,還鄉里。永平中,為聊城令,坐事免,卒於家。

のちに范升は、離婚した妻にチクられ、郷里にかえる。永平中(058-075)、聊城令、坐事免,卒於家。

ぼくは思う。ほんとに、妻にチクられて、それだけで失脚したのか。『左氏伝』を擁護する人たちに、論争でやぶれたんじゃないかな。列伝のおわりが、スッキリしすぎている。


陳元1:范升を負かし『左氏伝』博士をたてる

陳元字長孫,蒼梧廣信人也。父欽,習《左氏春秋》,事黎陽賈護,與劉歆同時而別自名家。王莽從欽受《左氏》學,以欽為CA75難將軍。元少傳父業,為之訓詁,銳精覃思,至不與鄉里通。以父任為郎。
建武初,元與桓譚、杜林、鄭興俱為學者所宗。時議欲立《左氏傳》博士,范升奏以為《左氏》淺末,不宜立。元聞之,乃詣闕上疏曰:

陳元は、あざなを長孫。蒼梧の廣信の人。父の陳欽は、《左氏春秋》をならう。黎陽の賈護につかえ、劉歆とおなじころ、学派をつくる。王莽は、陳欽から《左氏》をならう。陳欽は、ヨウ難將軍となる。

吉川注はいう。〔冒犬〕難とは、まじないによって、困難をはらいのけること。ぼくは思う。王莽に学問をおしえるなんて、すごく、えらい人だなあ!

陳元は、わかく父の業をつたえる。『左氏伝』の訓詁をつくる。学問につくし、郷里と交通せず。質任により、郎となる。
建武初、桓譚(列伝18)、杜林(列伝17)、鄭興(列伝26)らとともに、学者に師事された。ときに《左氏傳》博士を立てようと議す。范升は「左氏伝が淺末だ」と、反対した。陳元は、范升に反論した。

陛下撥亂反正,文武並用,深湣經藝謬雜,真偽錯亂,每臨朝日,輒延群臣講論聖道。知丘明至賢,親受孔子,而《公羊》、《穀梁》傳聞於後世,故詔立《左氏》,博詢可否,示不專已,盡之群下也。今論者沉溺所習,玩守舊聞,固執虛言傳受之辭,以非親見實事之道。《左氏》孤學少與,遂為異家之所複冒。夫至音不合眾聽,故伯牙絕弦;至寶不同眾好,故卞和泣血。仲尼聖德,而不容於世,況于竹帛余文,其為雷同者所排,固其宜也。非陛下至明,孰能察之!
臣元竊見博士范升等所議奏《左氏春秋》不可立,及太史公違戾凡四十五事。案升等所言,前後相違,皆斷B257小文,C841黷微辭,以年數小差,掇為巨謬,遺脫纖微,指為大尤。抉瑕E74E釁,掩其弘美,所謂「小辯破言,小言破道」者也。升等又曰:「先帝不以《左氏》為經,故不置博士,後主所宜因襲。」臣愚以為若先帝所行而後主必行者,則盤庚不當遷于殷,周公不當營洛邑,陛下不當都山東也。往者,孝武皇帝好《公羊》,衛太子好《穀梁》,有詔詔太子受《公羊》,不得受《F8B6梁》,孝宣皇帝在人間時,聞衛太子好《穀梁》,於是獨學之。及即位,為石渠論而《穀梁氏》興,至今與《公羊》並存。此先帝后帝各有所立,不必其相因也。孔子曰,純,儉,吾從眾;至於拜下,則違之。夫明者獨見,不惑于朱紫,聽者獨聞,不謬於清濁,故離朱不為巧眩移目,師曠不為新聲易耳。方今干戈少弭,戎事略EAAB,留思聖藝,眷顧儒雅,采孔子拜下之義,卒淵聖獨見之旨,分明白黑,建立《左氏》,解釋先聖之積結,洮汰學者之累惑,使基業垂于萬世,後進無複狐疑,則天下幸甚。
臣元愚鄙,嘗傳師言。如得以褐衣召見,俯伏庭下,誦孔氏之正道,理丘明之宿冤;若辭不合經,事不稽古,退就重誅,雖死之日,生之年也。

陳元はいう。「左丘明こそ、ぢかに孔子に教わった。『公羊伝』『穀梁伝』は、後世につくられた。『左氏伝』が学者がすくないが、重要度はゆるがない。范升は、前漢の皇帝が『左氏伝』を重んぜずという。ちがう。武帝は、、衛太子は、、宣帝は石渠閣で、、と。『左氏伝』の博士を立てよ。命をかけていい」と。

ぼくは思う。はぶき過ぎですが。ここに、何が書いてあるかという、メタなポイントだけ押さえれば、いまは良いのです。すみません。


書奏,下其議,範升複與元相辯難,凡十餘上。帝卒立《左氏》學,太常選博士四人,元為第一。帝以元新忿爭,乃用其次司隸從事李封,於是諸儒以《左氏》之立,論議F446嘩,自公卿以下,數廷爭之。會封病卒,《左氏》複廢。

陳元が上奏した。范升と10余回、あらそう。光武は《左氏》學をたてた。太常は、博士4人を選ぶ。陳元は、『左氏伝』博士の第一。陳元は、范升と論争したばかり。光武は、司隸從事の李封を博士の第二として、諸儒に『左氏伝』研究をはじめさせた。たまたま李封病が卒したので、《左氏》学が廃された。

陳元2:三公の権限を司隷校尉がしばらない

元以才高著名,辟司空李通府。時,大司農江馮上言,宜令司隸校尉督察三公。事下三府。元上疏曰:

陳元は、司空の李通の府に辟された。ときに大司農の江馮は上言した。「司隷校尉に、三公を督察させよ」と。三府に議題がおりた。陳元は、上疏した。

ぼくは思う。三公に議題をおろし、検討するのは、けっこうだが。三公の権限をよわめる提案を、三公府がOKするはずがないよなあ。


臣聞師臣者帝,賓臣者霸。故武王以太公為師,齊桓以夷吾為仲父。孔子曰:「百官總己聽於塚宰。」近則高帝優相國之禮,太宗假宰輔之權。及亡新王莽,遭漢中衰,專操國柄,以偷天下,況已自喻,不信群臣。奪公輔之任,損宰相之威,以刺舉為明,徼訐為直。至乃陪僕告其君長,子弟變其父兄,罔密法峻,大臣無所措手足。然不能禁董忠之謀,身為世戮。故人君患在自驕,不患驕臣;失在自任,不在任人。是以文王有日昊之勞,周公執吐握之恭,不聞其崇刺舉,務督察也。方今四方尚擾,天下未一,百姓觀聽,咸張耳目。陛下宜修文武之聖典,襲祖宗之遺德,勞心下士,屈節待賢,誠不宜使有司察公輔之名。

陳元はいう。「王者であるためには、対等以上にうやまう臣下がいる。三公を弱めると、光武は、王者になれない」と。

帝從之,宣下其議。李通罷,元後復辟司徒歐陽歙府,數陳當世便事、郊廟之禮,帝不能用。以病去,年老,卒於家。子堅卿,有文章。

光武は、陳元にしたがう。李通が司空をやめたので、のちに歐陽歙の司徒府に辟された。時事問題や、郊廟之礼について、のべた。病んで老いて 、卒於家。

ぼくは思う。『左氏伝』博士は、028年に議論された。范升と陳元をクローズアップして、光武の物語で、あつかってもいいかも。このあたり『全訳後漢書』を見ておきたいな。つぎ、賈逵伝があるけど、すこし時代がくだるので、はぶく。


つぎ、桓栄伝、丁鴻伝。桓栄の子孫はやりません。つづく。