02) 外戚の樊宏、陰識
『後漢書』列伝22・樊宏伝、陰識伝。光武の外戚です。
吉川忠夫氏の訳注にもとづき、読みます。
樊宏:光武母の実家、南陽で独立採算する豪族
樊宏は、あざなを靡卿。南陽の湖陽の人。光武の舅(おじ)。祖先は、周の仲山甫である、樊に封じられ、姓とした。鄉里の著姓。
父の樊重は、あざなを君雲。世よ農稼・貨殖がうまい。3世に共財し、子孫は朝夕に禮敬した。官府のようだ。産業をおこし、うまく経営した。外孫の何氏が、財産をあらそうと、田をあたえて解決した。借金を、ぼうびき。
光武と南陽のつながりを、強調しすぎてはいけない。光武は、南陽を基盤に、天下をとらない。だが、南陽との関係を、無視してもいけない。この独立採算の豪族・樊氏が、光武の母親なんだから。
王莽末、劉縯と族兄の劉賜(列伝4)は、義兵をたつ。湖陽をくだせず。劉賜の妹は、樊宏の妻。湖陽の県令は、樊宏の妻子を殺し、劉縯の攻撃をとめたい。だが湖陽の長吏はいう。「樊重と樊宏の父子は、郷里にしたわれる。樊宏に罪はあるが、殺すな」と。
漢兵がつよまり、樊宏の妻子は、死なず。更始が樊宏をまねくが、樊宏は叩頭して「書生は兵事をならわず」という。
宗家・親屬と、營塹をつくって自守した。老弱が1千余家。ときに赤眉が、唐子鄉で殘殺した。樊宏は、赤眉を持てなし、攻撃対象からはずしてもらった。
樊宏:
光武が即し、光祿大夫、位は特進、三公つぐ。建武五年(029)、長羅侯。十三年(039)、弟の樊丹を射陽侯、兄子の樊尋を玄鄉侯、族兄の樊忠を更父侯。十五年、壽張侯に定封さる。十八年(042)、光武が南して、章陵をまつり、湖陽をとおる。父・樊重をまつる。爵諡して、壽張敬侯。湖陽に立廟。車駕が南巡するたび、墓にバラまく。
樊宏は、人となり謙柔畏慎。かるい出世をもとめない。つねに子に戒む。「富貴でハッピーエンドは、むずかしい。前漢の外戚をみよ」と。
朝会に、定刻より早くくる。光武は樊宏に、朝会の開始時刻を、ギリギリまで教えない。樊宏は、ドラフトを破棄した。あまり意見をいわない。樊宏が病気になるが、光武の見舞いをこばんだ。
論曰:昔楚頃襄王問陽陵君曰:「君子之富何如?」對曰:「假人不德不責,食人不使不役,親戚愛之,眾人善之。」若乃樊重之折契止訟,其庶幾君子之富乎!分地以用天道,實廩以崇禮節,取諸理化,則亦可以施於政也。與夫愛而畏者,何殊間哉!
二十七年(051)、樊宏は卒した。薄葬して、副葬品をなくす。樊宏は「いちど埋葬したら、棺をあけるな。死体が腐敗したら、孝子たちが心をいためる」と。恭侯。みずから光武が、葬送した。子の樊鯈がつぐ。少子の樊茂を、平望侯。樊氏で侯爵をもらうのは、計5国。明年、樊鯈の弟の樊鮪と、從昆弟7人に、銭5千萬をたまう。
范曄の論はいう。樊宏が借金証文をやぶいたのは、君子にちかい。
永平元年,拜長水校尉,與公卿雜定郊祠禮儀,以讖記正《五經》異說。
樊宏の子・樊鯈は、あざなを長魚。継母をいたみ、やつれた。光武は、中黃門をつかわし、朝暮にカユをおくる。喪があけ、侍中の丁恭について、《公羊嚴氏春秋》をまなぶ。建武中、法網がゆるいので、諸王は賓客をまねく。樊鯈は外戚だが、賓客をまじわらず。沛王の劉輔のとき、貴戚だが罰せられず。光武が崩じ、複土校尉。
永平元年(058)、長水校尉。公卿とともに、郊祠の禮儀をかんがえ、讖記により《五經》の異說をただす。以下、はぶく。
皇后の異母兄・陰識:
陰識は、あざなを次伯。南陽の新野の人。光烈皇后の前母の兄(父の先妻がうむ兄、異腹兄)。管仲に出自する。管仲の7世孫・管修は、齊から楚へゆき、陰(位置わからず)の大夫となる。姓とする。秦漢のとき、新野にきた。
劉縯が起兵したとき、陰識は長安に遊學する。学業をすて、新野にかえる。子弟、宗族、賓客1千餘人をひきい、劉縯にゆく。校尉。更始元年(023)、偏將軍。劉縯にしたがい、宛県を攻む。べつに、新野、淯陽、杜衍、冠軍、湖陽をくだす。二年(024)、更始は陰識を、陰德侯、行大將軍事とする。
建武元年、光武は陰貴人を、新野からむかえる。あわせて陰識を徴す。陰識は、陰貴人にしたがう。騎都尉、陰鄉侯。
二年、征伐の軍功により、增封。陰識は叩頭して、ことわる。「統一戦争を、はじめたばかり。外戚だから爵邑が増えれば、天下に示せない」と。光武はほめ、關都尉、函谷関に鎮せしむ。侍中、母が死んで辭歸。
十五年(039)、原鹿侯に定封。明帝(陰貴人の子)が皇太子となると、執金吾。東宮を輔導した。光武が郡國をめぐるごと、陰識は京師を鎮守して、禁兵をゆだねらる。賓客と、国事をかたらず。掾史に賢者をえらぶ。虞廷、傅寬、薛愔らは、みな公卿や校尉となる。
明帝が即位し、執金吾、位は特進。永平二年(059)、卒した。本官(執金吾)の印綬をおくり、貞侯。子の陰躬がつぐ。
皇后の同母弟・陰興:姉さんは読書をしないのか
陰識の弟は、陰興。あざなを君陵。光烈皇后の同母弟だ。膂力あり。建武二年、黃門侍郎、期門僕射(天子の護衛長官)を守す。武騎をつれ、郡國をたいらぐ。光武にしたがい、カサをもち、ドロをふみ、ツユをはらう。賓客にほどこすが、門に侠客なし。
同郡の張宗(列伝28)と、上谷の鮮于ホウ(列伝31・第五倫伝)とは、仲がわるいが長所をほめ、公職にあげた。友人の張汜、杜禽は、仲がよいが、プライベートに財産をあたえ、公職にあげず。陰識は、忠平をたたえらる。第宅はボロい。風雨をふせぐのみ。
十九年,拜衛尉,亦輔導皇太子。明年夏,帝風眩疾甚,後以興領侍中,受顧命於雲台廣室。會疾廖,召見興,欲以代吳漢為大司馬。興叩頭流涕,固讓曰:「臣不敢惜身,誠虧損聖德,不可苟冒。」至誠發中,感動左右,帝遂聽之。
九年(033)、侍中にうつる。關內侯。光武は封じたいので、印綬を陰識の前におく。韻鏡はことわる。「私は戦功がないのに、外戚だから封じられるのは、おかしい」と。光武は、封じず。陰貴人は、ワケをきいた。陰識はいう。「貴人(姉さん)は、書物を読まないか。外戚がおごると、ロクでもない」と。陰貴人は、へりくだる。
十九年(043)、衛尉。皇太子を輔導する。明年夏、光武は、風眩が疾甚。陰興に侍中を領させ、顧命(遺言)を、雲台(南宮)の廣室(広徳殿)におく。光武がなおり、呉漢にかえて陰興を、大司馬としたい。陰興は叩頭・流涕した。ことわった。
二十三年(047)、陰興は卒した。39歳。陰興と、從兄の陰嵩は、仲がわるい。だが陰興は死にぎわ、席広と陰嵩をおした。光武は、席廣を光祿勳、陰嵩を中郎將とした。陰嵩は、10余年、羽林を監した。明帝が即位すると、長樂衛尉、執金吾。永平元年の詔は、「私の母系・陰氏バンザイ」と。はぶく。
贊曰:權族好傾,後門多毀。樊氏世篤,陰亦戒侈。恂恂苗胤,傳龜襲紫。
陰氏から侯爵は、4人でた。はじめ陰氏は、世よ管仲之祀をたてまつり、「相君」という。宣帝のとき、陰子方は、孝あり仁恩。臘日の祭の日、あさにカマドの神をみる。黄羊をそなえると、にわかに巨万の富。輿馬と僕隸(車馬と奴隷)は、諸侯にちかい数。つねに陰子方は「子孫は強大となる」という。陰識まで3世、繁昌した。カマドの神にお礼参りして、黃羊を供えなおした。
范曄の贊はいう。權族でも、かたむくもの。樊氏は世よ篤く、陰氏も侈を戒めた。一族から、侯爵がおおくでた。
つぎ『後漢書』列伝23。朱浮とか。つづきます。