表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝21-32を抄訳し、光武のまわりを把握

02) 外戚の樊宏、陰識

『後漢書』列伝22・樊宏伝、陰識伝。光武の外戚です。
吉川忠夫氏の訳注にもとづき、読みます。

樊宏:光武母の実家、南陽で独立採算する豪族

樊宏字靡卿,南陽湖陽人也,世祖之舅。其先周仲山甫,封于樊,因而氏焉,為鄉里著姓。父重,字君雲,世善農稼,好貨殖。重性溫厚,有法度,三世共財,子孫朝夕禮敬,常若公家。其營理產業,物無所棄,課役童隸,各得其宜,故能上下戮力,財利歲倍,至乃開廣田土三百餘頃。其所起廬舍,皆有重堂高閣,陂渠灌注。又池魚牧畜,有求必給。嘗欲作器物,先種梓漆,時人嗤之,然積以歲月,皆得其用,向之笑者鹹求假焉。資至巨萬,而賑贍宗族,恩加鄉閭。外孫何氏兄弟爭財,重恥之,以田二頃解其忿訟。縣中稱美,推為三老。年八十餘終。其素所假貸人間數百萬,遺令焚削文契。責家聞者皆慚,爭往償之,諸子從敕,竟不肯受。

樊宏は、あざなを靡卿。南陽の湖陽の人。光武の舅(おじ)。祖先は、周の仲山甫である、樊に封じられ、姓とした。鄉里の著姓。

吉川注はいう。仲山甫とは、周の宣王が中興するとき、たすけた賢臣。光武の母親は、樊宏の姉妹。

父の樊重は、あざなを君雲。世よ農稼・貨殖がうまい。3世に共財し、子孫は朝夕に禮敬した。官府のようだ。産業をおこし、うまく経営した。外孫の何氏が、財産をあらそうと、田をあたえて解決した。借金を、ぼうびき。

ぼくは思う。こまかい経営の内容がかいてあるが、はぶく。まるで独立採算の国家のように、南陽で豪族をやっていることがわかる。経済的に自立すると、政治や法律にも、自立性がでてくる。南陽がそういう先進地域だとは、諸論文にあるとおり。
光武と南陽のつながりを、強調しすぎてはいけない。光武は、南陽を基盤に、天下をとらない。だが、南陽との関係を、無視してもいけない。この独立採算の豪族・樊氏が、光武の母親なんだから。


宏少有志行。王莽末,義兵起,劉伯升與族兄賜俱將兵攻湖陽,城守不下。賜女弟為宏妻,湖陽由是收系宏妻子,令出譬伯升,宏因留不反。湖陽軍帥欲殺其妻子,長吏以下共相謂曰:「樊重子父,禮義恩德行於鄉里,雖有罪,且當在後。」會漢兵日盛,湖陽惶急,未敢殺之,遂得免脫。更始立,欲以巨集為將,巨集叩頭辭曰:「書生不習兵事。」竟得免歸。與宗家親屬作營塹自守,老弱歸之者千餘家。時赤眉賊掠唐子鄉,多所殘殺,欲前攻巨集營,巨集遣人持牛酒米谷,勞遺赤眉。赤眉長老先聞宏仁厚,皆稱曰:「樊君素善,且今見待如此,何心攻之。」引兵而去,遂免寇難。

王莽末、劉縯と族兄の劉賜(列伝4)は、義兵をたつ。湖陽をくだせず。劉賜の妹は、樊宏の妻。湖陽の県令は、樊宏の妻子を殺し、劉縯の攻撃をとめたい。だが湖陽の長吏はいう。「樊重と樊宏の父子は、郷里にしたわれる。樊宏に罪はあるが、殺すな」と。

ぼくは思う。漢兵は、はじめ、樊氏らの郷里への規制力をつかって、県令に圧力をかけた。更始や光武は、ただの飾り。じつは南陽の豪族が、王莽の県令に、ノーをつきつけた。光武らの起兵は、そういう意味なんだろう。光武の志は、そりゃ、あるだろうが、個人的な問題。重要でない。

漢兵がつよまり、樊宏の妻子は、死なず。更始が樊宏をまねくが、樊宏は叩頭して「書生は兵事をならわず」という。

ぼくは思う。樊宏は、更始につかず、劉縯(やがて光武)につく。「漢兵」というおおきなカテゴリで、判断しない。枝わかれした、劉縯を支持したのですね。豪族は、自守することが目標。防壁1つを自守するなら、天下国家の議論より、目先の支持者えらびが大切。更始と劉縯の対立も、ここに根っこがある。

宗家・親屬と、營塹をつくって自守した。老弱が1千余家。ときに赤眉が、唐子鄉で殘殺した。樊宏は、赤眉を持てなし、攻撃対象からはずしてもらった。

樊宏:

世祖即位,拜光祿大夫,位特進,次三公。建武五年,封長羅侯。十三年,封弟丹為射陽侯,兄子尋玄鄉侯,族兄忠更父侯。十五年,定封宏壽張侯。十八年,帝南祠章陵,過湖陽,祠重墓,追爵諡為壽張敬侯,立廟于湖陽,車駕每南巡,常幸其墓,賞賜大會。

光武が即し、光祿大夫、位は特進、三公つぐ。建武五年(029)、長羅侯。十三年(039)、弟の樊丹を射陽侯、兄子の樊尋を玄鄉侯、族兄の樊忠を更父侯。十五年、壽張侯に定封さる。十八年(042)、光武が南して、章陵をまつり、湖陽をとおる。父・樊重をまつる。爵諡して、壽張敬侯。湖陽に立廟。車駕が南巡するたび、墓にバラまく。

ぼくは思う。光武の外戚である。もう、いるだけで尊い。樊宏が、具体的に、なにか統一戦争で功績をたてているわけでない。ここのところ、イヤにあっさり。


宏為人謙柔畏慎,不求苟進。常戒其子曰:「富貴盈溢,未有能終者。吾非不喜榮勢也,天道惡滿而好謙,前世貴戚皆明戒也。保身全己,豈不樂哉!」每當朝會,輒迎期先到,俯伏待事,時至乃起。帝聞之,常敕騶騎臨朝乃告,勿令豫到。宏所上便宜及言得失,輒手自書寫,毀削草本。公朝訪逮,不敢眾對。宗族染其化,未嘗犯法。帝甚重之。及病困,車駕臨視,留宿,問其所欲言。宏頓首自陳:「無功享食大國,誠恐子孫不能保全厚恩,令臣魂神慚負黃泉,願還壽張,食小鄉亭。」帝悲傷其言,而竟不許。

樊宏は、人となり謙柔畏慎。かるい出世をもとめない。つねに子に戒む。「富貴でハッピーエンドは、むずかしい。前漢の外戚をみよ」と。
朝会に、定刻より早くくる。光武は樊宏に、朝会の開始時刻を、ギリギリまで教えない。樊宏は、ドラフトを破棄した。あまり意見をいわない。樊宏が病気になるが、光武の見舞いをこばんだ。

ぼくは思う。加点しなくても、ただで尊い。だから減点をふせいでいる。トータルの得点をふやすには、2とおりの方法があるのだなあ。


二十七年,卒。遺敕薄葬,一無所用,以為棺柩一臧,不宜複見,如有腐敗,傷孝子之心,使與夫人同墳異臧。帝善其令,以書示百官,因曰:「今不順壽張侯意,無以彰其德。且吾萬歲之後,欲以為式。」賻錢千萬,布萬匹,諡為恭侯,贈以印綬,車駕親送葬。子B34A嗣。帝悼宏不已,複封少子茂為平望侯。樊氏侯者凡五國。明年,賜B34A弟鮪及從昆弟七人合錢五千萬。
論曰:昔楚頃襄王問陽陵君曰:「君子之富何如?」對曰:「假人不德不責,食人不使不役,親戚愛之,眾人善之。」若乃樊重之折契止訟,其庶幾君子之富乎!分地以用天道,實廩以崇禮節,取諸理化,則亦可以施於政也。與夫愛而畏者,何殊間哉!

二十七年(051)、樊宏は卒した。薄葬して、副葬品をなくす。樊宏は「いちど埋葬したら、棺をあけるな。死体が腐敗したら、孝子たちが心をいためる」と。恭侯。みずから光武が、葬送した。子の樊鯈がつぐ。少子の樊茂を、平望侯。樊氏で侯爵をもらうのは、計5国。明年、樊鯈の弟の樊鮪と、從昆弟7人に、銭5千萬をたまう。
范曄の論はいう。樊宏が借金証文をやぶいたのは、君子にちかい。

B34A字長魚,謹約有父風。事後母至孝,及母卒,哀思過禮,毀病不自支,世祖常遣中黃門朝暮送B17E粥。服闋,就侍中丁恭受《公羊嚴氏春秋》。建武中,禁網尚闊,諸王既長,各招引賓客,以B34A外戚,爭遣致之,而B34A清靜自保,無所交結。及沛王輔事發,貴戚子弟多見收捕,B34A以不豫得免。帝崩,B34A為複土校尉。
永平元年,拜長水校尉,與公卿雜定郊祠禮儀,以讖記正《五經》異說。

樊宏の子・樊鯈は、あざなを長魚。継母をいたみ、やつれた。光武は、中黃門をつかわし、朝暮にカユをおくる。喪があけ、侍中の丁恭について、《公羊嚴氏春秋》をまなぶ。建武中、法網がゆるいので、諸王は賓客をまねく。樊鯈は外戚だが、賓客をまじわらず。沛王の劉輔のとき、貴戚だが罰せられず。光武が崩じ、複土校尉。

吉川注はいう。複土校尉は、葬事をつかさどる。墓穴をもどす。

永平元年(058)、長水校尉。公卿とともに、郊祠の禮儀をかんがえ、讖記により《五經》の異說をただす。以下、はぶく。

皇后の異母兄・陰識:

陰識字次伯,南陽新野人也,光烈皇后之前母兄也。其先出自管仲,管仲七世孫修,自齊適楚,為陰大夫,因而氏焉。秦、漢之際,始家新野。 及劉伯升起義兵,識時遊學長安,聞之,委業而歸,率子弟、宗族、賓客千餘人往詣伯升。伯升乃以識為校尉。更始元年,遷偏將軍,從攻宛,別降新野、BF73陽、杜衍、冠軍、湖陽。二年,更始封識陰德侯,行大將軍事。

陰識は、あざなを次伯。南陽の新野の人。光烈皇后の前母の兄(父の先妻がうむ兄、異腹兄)。管仲に出自する。管仲の7世孫・管修は、齊から楚へゆき、陰(位置わからず)の大夫となる。姓とする。秦漢のとき、新野にきた。

ぼくは思う。なんてザックリな祖先の話。わかりゃしねえ。

劉縯が起兵したとき、陰識は長安に遊學する。学業をすて、新野にかえる。子弟、宗族、賓客1千餘人をひきい、劉縯にゆく。校尉。更始元年(023)、偏將軍。劉縯にしたがい、宛県を攻む。べつに、新野、淯陽、杜衍、冠軍、湖陽をくだす。二年(024)、更始は陰識を、陰德侯、行大將軍事とする。

ぼくは思う。ふつうに将軍として、ふつうに戦う。特徴といえば、強いというくらい。劉縯軍の、主力なんだろう。だが更始に吸収されたかんじ。劉縯は、更始に殺されるので。


建武元年,光武遣使迎陰貴人于新野,並征識。識隨貴人至,以為騎都尉,更封陰鄉侯。二年,以征伐軍功增封,識叩頭讓曰:「天下初定,將帥有功者眾,臣托屬掖廷,仍加爵邑,不可以示天下。」帝甚美之,以為關都尉,鎮函穀。遷侍中,以母憂辭歸。

建武元年、光武は陰貴人を、新野からむかえる。あわせて陰識を徴す。陰識は、陰貴人にしたがう。騎都尉、陰鄉侯。

ぼくは思う。建武元年、まだ更始は生きている。どうやら陰識は、妹が光武の貴人になったので、それに運命をあわせ、光武にしたがったようだ。更始が長安にいたが、新野にのこっていた理由が、気になる。豪族にお得意の、自守か?

二年、征伐の軍功により、增封。陰識は叩頭して、ことわる。「統一戦争を、はじめたばかり。外戚だから爵邑が増えれば、天下に示せない」と。光武はほめ、關都尉、函谷関に鎮せしむ。侍中、母が死んで辭歸。

ぼくは思う。函谷関で、赤眉と更始をふせいだのですね。もっとも重要な、防御の拠点です。光武が陰識を、身内として信頼していたことがわかる。


十五年,定封原鹿侯。及顯宗立為皇太子,以識守執金吾,輔導東宮。帝每巡郡國,識常留鎮守京師,委以禁兵。入雖極言正議,及與賓客語,未嘗及國事。帝敬重之,常指識以敕戒貴戚,激厲左右焉。識所用掾史皆簡賢者,如虞廷、傅寬、薛C924等,多至公卿校尉。 顯宗即位,拜為執金吾,位特進。永平二年,卒,贈以本官印綬,諡曰貞侯。子躬嗣。

十五年(039)、原鹿侯に定封。明帝(陰貴人の子)が皇太子となると、執金吾。東宮を輔導した。光武が郡國をめぐるごと、陰識は京師を鎮守して、禁兵をゆだねらる。賓客と、国事をかたらず。掾史に賢者をえらぶ。虞廷、傅寬、薛愔らは、みな公卿や校尉となる。
明帝が即位し、執金吾、位は特進。永平二年(059)、卒した。本官(執金吾)の印綬をおくり、貞侯。子の陰躬がつぐ。

皇后の同母弟・陰興:姉さんは読書をしないのか

識弟興。興字君陵,光烈皇后母弟也,為人有膂力。建武二年,為黃門侍郎,守期門僕射,典將武騎,從征伐,平定郡國。興每從出入,常操持小蓋,障翳風雨,躬履塗泥,率先期門。光武所幸之處,輒先入清宮,甚見親信。雖好施接賓,然門無俠客。與同郡張宗、上谷鮮於D9F6不相好,知其有用,猶稱所長而達之;友人張汜、杜禽與興厚善,以為華而少實,但私之以財,終不為言:是以世稱其忠平。第宅苟完,裁蔽風雨。

陰識の弟は、陰興。あざなを君陵。光烈皇后の同母弟だ。膂力あり。建武二年、黃門侍郎、期門僕射(天子の護衛長官)を守す。武騎をつれ、郡國をたいらぐ。光武にしたがい、カサをもち、ドロをふみ、ツユをはらう。賓客にほどこすが、門に侠客なし。
同郡の張宗(列伝28)と、上谷の鮮于ホウ(列伝31・第五倫伝)とは、仲がわるいが長所をほめ、公職にあげた。友人の張汜、杜禽は、仲がよいが、プライベートに財産をあたえ、公職にあげず。陰識は、忠平をたたえらる。第宅はボロい。風雨をふせぐのみ。

ぼくは思う。光武の外戚は、みな大人しい。政策としてでなく、状況が、外戚の繁栄をゆるさなかったのだろう。まだ後漢の基盤がよわいから。外戚が強まるには、2つの要因がいると思う。王朝の基礎がつよいこと、皇帝がよわいこと。いま、この2つのどちらも、満たしていない。光武の晩年は、前者は満たすけれど。


九年,遷侍中,賜爵關內侯。帝后召興,欲封之,置印綬於前,興固讓曰:「臣未有先登陷陣之功,而一家數人並蒙爵士,令天下觖望,誠為盈溢。臣蒙陛下、貴人恩澤至厚,富貴已極,不可複加,至誠不願。」帝嘉興之讓,不奪其志。貴人問其故,興曰:「貴人不讀書心邪?'亢龍有悔。'夫外戚家苦不知廉退,嫁女欲配侯王,取婦眄睨公主,愚心實不安也。富貴有極,人當知足,誇奢益為觀聽所譏。」貴人感其言,深自降挹,卒不為宗親求位。
十九年,拜衛尉,亦輔導皇太子。明年夏,帝風眩疾甚,後以興領侍中,受顧命於雲台廣室。會疾廖,召見興,欲以代吳漢為大司馬。興叩頭流涕,固讓曰:「臣不敢惜身,誠虧損聖德,不可苟冒。」至誠發中,感動左右,帝遂聽之。

九年(033)、侍中にうつる。關內侯。光武は封じたいので、印綬を陰識の前におく。韻鏡はことわる。「私は戦功がないのに、外戚だから封じられるのは、おかしい」と。光武は、封じず。陰貴人は、ワケをきいた。陰識はいう。「貴人(姉さん)は、書物を読まないか。外戚がおごると、ロクでもない」と。陰貴人は、へりくだる。
十九年(043)、衛尉。皇太子を輔導する。明年夏、光武は、風眩が疾甚。陰興に侍中を領させ、顧命(遺言)を、雲台(南宮)の廣室(広徳殿)におく。光武がなおり、呉漢にかえて陰興を、大司馬としたい。陰興は叩頭・流涕した。ことわった。

ぼくは思う。陰識も陰興も、キャラがかぶる。小説に登場させるなら、陰皇后のついででよい。陰氏がでるとき、つねに陰皇后を登場させれば、陰識と陰興に、独自の役割をあたえなくてよい。


二十三年,卒,時年三十九。興素與從兄嵩不相能,然敬其威重。興疾病,帝親臨,問以政事以群臣能不。興頓首曰:「臣愚不足以知之。然伏見議郎席廣、謁者陰嵩,並經行明深,逾於公卿。」興沒後,帝思其言,遂擢廣為光祿勳;嵩為中郎將,監羽林十餘年,以謹敕見幸。顯宗即位,拜長樂衛尉,遷執金吾。

二十三年(047)、陰興は卒した。39歳。陰興と、從兄の陰嵩は、仲がわるい。だが陰興は死にぎわ、席広と陰嵩をおした。光武は、席廣を光祿勳、陰嵩を中郎將とした。陰嵩は、10余年、羽林を監した。明帝が即位すると、長樂衛尉、執金吾。永平元年の詔は、「私の母系・陰氏バンザイ」と。はぶく。

初,陰氏世奉管仲之祀,謂為「相君」。宣帝時,陰子方者,至孝有仁恩,臘日晨炊而灶神形見,子方再拜受慶。家有黃羊,因以祀之。自是已後,暴至巨富,田有七百餘頃,輿馬僕隸,比於邦君。子方常言「我子孫必將強大」,至識三世而遂繁昌,故後常以臘日祀灶,而薦黃羊焉。
贊曰:權族好傾,後門多毀。樊氏世篤,陰亦戒侈。恂恂苗胤,傳龜襲紫。

陰氏から侯爵は、4人でた。はじめ陰氏は、世よ管仲之祀をたてまつり、「相君」という。宣帝のとき、陰子方は、孝あり仁恩。臘日の祭の日、あさにカマドの神をみる。黄羊をそなえると、にわかに巨万の富。輿馬と僕隸(車馬と奴隷)は、諸侯にちかい数。つねに陰子方は「子孫は強大となる」という。陰識まで3世、繁昌した。カマドの神にお礼参りして、黃羊を供えなおした。
范曄の贊はいう。權族でも、かたむくもの。樊氏は世よ篤く、陰氏も侈を戒めた。一族から、侯爵がおおくでた。

つぎ『後漢書』列伝23。朱浮とか。つづきます。