表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝21-32を抄訳し、光武のまわりを把握

06) 桓栄、丁鴻、張宗

『後漢書』列伝27・桓栄、丁鴻伝。列伝28・張宗伝。
吉川忠夫氏の訳注にもとづき、読みます。

桓栄1:

桓榮字春卿,沛郡龍亢人也。少學長安,習《歐陽尚書》,事博士九江朱普。貧窶無資,常客傭以自給,精力不倦,十五年不窺家園。至王莽篡位乃歸。會朱普卒,榮奔喪九江,負土成墳,因留教授,徒眾數百人。莽敗,天下亂。榮抱其經書與弟子逃匿山谷,雖常饑困而講論不輟,後複客授江淮間。

桓榮は、あざなを春卿。沛郡の龍亢の人。わかく長安で《歐陽尚書》をならう。博士する九江の朱普(漢書88)につかえた。

『続漢書』はいう。桓栄は、もと斉人。龍亢にうつり、桓栄まで6代と。『東観漢記』はいう。桓栄は、斉桓公の子孫。桓公の分家は、諡号をとって「桓」氏を名のる。

まずしいので、バイトした。漢新革命で、長安からさる。朱普が卒すると、九江で土をせおう。王莽がやぶれると、經書をかかえ、山谷にかくれた。饑困しても講論した。江淮に客寓した。

建武十九年,年六十餘,始辟大司徒府。時,顯宗始立為皇太子,選求明經,乃擢榮弟子豫章何湯為虎賁中郎將,以《尚書》授太子。世祖從容問湯本師為誰,湯對曰:「事沛國桓榮。」帝即召榮,令說《尚書》,甚善之。拜為議郎,賜錢十萬,入使授太子。
每朝會,輒令榮於公卿前敷奏經書。帝稱善。曰:「得生幾晚!」會歐陽博士缺,帝欲用榮。榮叩頭讓曰:「臣經術淺薄,不如同門生郎中彭閎,揚州從事皋弘。」帝曰:「俞,往,女諧。」因拜榮為博士,引閎、弘為議郎。

建武十九年(043)、桓栄は60餘歳で、大司徒府に辟された。ときに明帝は皇太子だ。明經な人をさがす。桓栄の弟子・豫章の何湯を、虎賁中郎將とした。何湯が明帝に《尚書》をさずける。

謝承『後漢書』はいう。何湯は、あざなを仲弓。豫章南昌人也。榮門徒常四百餘人,湯為高第,以才明知名。榮年四十無子,湯乃去榮妻為更娶,生三子,榮甚重之。後拜郎中,守開陽門候。上微行夜還,湯閉門不納,更從中東門入。明旦,召詣太官賜食,諸門候皆奪俸。建武十八年夏旱,公卿皆暴露請雨。洛陽令著車蓋出門,湯將衞士鉤令車收案,有詔免令官,拜湯虎賁中郎將。上嘗歎曰:『赳赳武夫,公侯干城,何湯之謂也。』湯以明經嘗授太子,推薦榮,榮拜五更,封關內侯。榮常言曰:「此皆何仲弓之力也。」 と。

なにげに光武は、何湯の本師をとう。何湯は「沛国の桓栄に習った」という。光武は桓栄に《尚書》を説かせた。桓栄は、議郎。明帝をおしえる。
朝會のたび、桓栄を公卿のまえにおき、経書について説明させた。「もっと早く、桓栄に教わりたかった」という。歐陽博士が欠けたが、桓栄は「私は、同門生の郎中する彭閎,揚州從事する皋弘にかなわない」とことわった。光武は、桓栄を博士として、彭閎と皋弘を議郎とした。

『続漢書』はいう。彭閎は、あざなを作明。
謝承『後漢書』はいう。臯弘字奉卿,吳郡人也。家代為冠族。少有英才,與桓榮相善。子徽,至司徒長史と。


車駕幸大學,會諸博士論難於前,榮被服儒衣,溫恭有蘊藉,辯明經義,每以禮讓相E74E,不以辭長勝人,儒者莫之及,特加賞賜。又詔諸生雅吹擊磬,盡日乃罷。後榮入會庭中,詔賜奇果,受者皆懷之,榮獨舉手捧之以拜。帝笑指之曰:「此真儒生也。」以是愈見敬厚,常令止宿太子宮。
積五年,榮薦門下生九江胡憲侍講,乃聽得出,旦一入而已。榮嘗寢病,太子朝夕遣中傅問病,賜以珍羞、帷、帳、奴婢,謂曰:「如有不諱,無憂家室也。」後病癒,複入侍進。

光武は大学にゆく。博士たちと、桓栄はゆったり議論して、相手を説得した。桓栄は、めずらしい果物を懐にしまわず、手をあげて、ささげて拝した。光武は「桓栄が真の儒生だ」という。つねに明帝を教育した。
5年後、桓栄は、門下生する九江の胡憲を侍講とした。月1でしか、帰宅しない。桓栄が病むと、明帝は中傅(宦官)をつかわし、みまう。明帝は「桓栄が死んでも、家族を心配するな」という。治り、また侍講した。

二十八年,大會百官,詔問誰可傅太子者,群臣承望上意,皆言太子舅執金吾原鹿侯陰識可。博士張佚正色曰:「今陛下立太子,為陰氏乎?為天下乎?即為陰氏,則陰侯可;為天下,則固宜用天下之賢才。」帝稱善,曰:「欲置傅者,以輔太子也。今博士不難正朕,況太子乎?」即拜佚為太子太傅,而以榮為少傅,賜以輜車、乘馬。榮大會諸生,陳其車馬、印綬,曰:「今日所蒙,稽古之力也,可不勉哉!」

二十八年(052)、百官を大會し、太子の傅をえらぶ。みな太子の舅・執金吾・原鹿侯の陰識(列伝22)をすすめる。博士の張佚が「外戚の陰氏でなく、天下の賢才をえらべ」という。張佚が、太子太傅となる。桓栄が太子少傅となる。

ぼくは思う。陰氏への反発、はげしいなあ!

桓栄は諸生をあつめ「古典の勉強のおかげで、私は太子少傅となった。みんなも勉強しろ」と。

榮以太子經學成畢,上疏謝曰:「臣幸得侍帷幄,執經連年,而智學淺短,無以補益萬分。今皇太子以聰睿之姿,通明經義,觀覽古今,儲君副主莫能專精博學若此者也。斯誠國家福祐,天下幸甚。臣師道已盡,皆在太子,謹使掾臣汜再拜歸道。」太子報書曰:「莊以童蒙,學道九載,而典訓不明,無所曉識。夫《五經》廣大,聖言幽遠,非天下之至精,豈能與於此!況以不才,敢承誨命。昔之先師謝弟子者有矣,上則通達經旨,分明章句,下則去家慕鄉,求謝師門。今蒙下列,不敢有辭,願君慎疾加餐,重愛玉體。」

太子(明帝)が、經學を学びおえた。桓栄は上疏した。「朝堂で、長年おしえてきた。太子が賢いのは、天下のさいわいだ」と。

ぼくは思う。経学に、卒業なんてあるんだなあ!

太子は、桓栄にお礼をのべた。お身体を大切に。

三十年,拜為太常。榮初遭倉卒,與族人桓元卿同饑厄,而榮講誦不息。元卿嗤榮曰:「但自苦氣力,何時複施用乎?」榮笑不應。及為太常,元卿歎曰:「我農家子,豈意學之為利乃若是哉!」顯宗即位,尊以師禮,甚見親重,拜二子為郎。榮年逾八十,自以衰老,數上書乞身,輒加賞賜。(以下略)

054年、太常となる。はじめ桓栄は、族人の桓元卿とともに、飢えた。「腹をすかせてまで、勉強しなくていいのに」と。桓栄は「太常への就任は、勉強のおかげだ。わかったか」という。明帝が即位すると、尊ばれた。以下略。

論曰:張佚訐切陰侯,以取高位,危言犯眾,義動明後,知其直有餘也。若夫一言納賞,志士為之懷恥;受爵不讓,風人所以興歌。而佚廷議戚援,自居全德,意者以廉不足乎?昔樂羊食子,有功見疑;西巴放ED47,以罪作傅。蓋推仁審偽,本乎其情。君人者能以此察,則真邪幾於辨矣。

范曄の論はいう。陰識をしりぞけた博士の張佚は、すごいなあ!

丁鴻

丁鴻字孝公,潁川定陵人也。
公綝,字幼春,王莽末守潁陽尉。世祖略地潁陽,潁陽城守不下,綝說其宰,遂與俱降,世祖大喜,厚加賞勞,以綝為偏將軍,因從征伐。綝將兵先度河,移檄郡國,攻營略地,下河南、陳留、潁川二十一縣。

丁鴻は、あざなを孝公。潁川の定陵の人。
父の丁綝は、あざなを幼春。王莽末、潁陽尉を守す。光武が潁陽を略地した。丁綝は、県宰(県令)をとき、光武にくだる。丁綝は偏將軍。さきに黄河をわたり、郡國に移檄した。河南、陳留、潁川の21県をくだす。

建武元年,拜河南太守。及封功臣,帝令各言所樂,諸將皆占豐邑美縣,惟綝願封本鄉。或謂綝曰:「人皆欲縣,子獨求鄉,何也?」綝曰:「昔孫叔敖敕其子,受封必求磽埆之地,今綝能蒲功微,得鄉亭厚矣。」帝從之,封定陵新安鄉侯,食邑五千戶,後徙封陵陽侯。
鴻年十三,從桓榮受《歐陽尚書》,三年而明章句,善論難,為都講,遂篤志精銳,布衣荷擔,不遠千里。

建武元年、丁綝は河南太守。功臣は、豐邑や美縣に封じられたい。丁綝だけは、本鄉(出身の郷、郷は県より下の区分)をねがった。丁綝は理由をのべた。「むかしむかし孫叔敖は、やせた土地をほしがれと、子に戒めた。私は功績がうすいので、やせた土地でいい。出身の郷で充分だ」と。光武はしたが、定陵の新安鄉侯とする。5千戶。のちに陵陽侯。
丁鴻は13歳で、桓栄から《歐陽尚書》をうける。3年で章句にあかるく、論難をよくす。都講となる。庶民の衣服で、千里をあるく。

初,綝從世祖征伐,鴻獨與弟盛居,憐盛幼小而共寒苦。及綝卒,鴻當襲封,上書讓國于盛,不報。既葬,乃掛縗絰於塚廬而逃去,留書與盛曰:「鴻貪經書,不顧恩義,弱而隨師,生不供養,死不飯BE3F,皇天先祖,並不祐助,身被大病,不任茅土。前上疾狀,願辭爵仲公,章寢不報,迫且當襲封。謹自放棄。逐求良醫。如遂不瘳,永歸溝壑。」

はじめ丁綝は、光武と征伐する。丁鴻と、弟の丁盛だけのこる。丁鴻は、丁盛をあわれんだ。丁綝が卒すと、丁鴻がつぐべきだが、弟の丁盛にゆずるという。だが光武にゆるされず。丁鴻は服喪して「私は、父・丁綝をつぐ資格がない」という。

鴻初與九江人鮑駿同事桓榮,甚相友善,及鴻亡封,與駿遇于東海,陽狂不識駿。駿乃止而讓之曰:「昔伯夷、吳劄亂世權行,故得申其志耳。《春秋》之義,不以家事廢王事。今子以兄弟私恩而絕父不滅之基,可謂智乎?」鴻感悟,垂涕歎息,乃還就國,開門教授。鮑駿亦上書言鴻經學至行,顯宗甚賢之。

丁鴻ははじめ、九江の鮑駿とともに、桓栄に学ぶ。仲がよい。丁鴻がつがない。鮑駿は、東海で丁鴻と会ったが、丁鴻は、ワザと鮑駿を気づかないふりした。
鮑駿は丁鴻をとがめて「春秋の義では、家事のせいで王事をダメにしない。兄弟の私情のために、父親の家業をダメにしない。これが智だ」という。丁鴻は感悟し、垂涕・歎息して、かえって就國した。開門して教授した。鮑駿は上書して、丁鴻を明帝にすすめた。

ぼくは思う。いいトモダチ。しかし、いつの間に明帝の世になってた?


張宗

張宗字諸君,南陽魯陽人也。王莽時,為縣陽泉鄉佐。會莽敗,義兵起,宗乃率陽泉民三四百人起兵略地,西至長安,更始以宗為偏將軍。宗見更始政亂,因將家屬客安邑。

張宗は、あざなを諸君。南陽の魯陽の人。王莽のとき、縣の陽泉鄉佐(郷をたすけ徴税)となる。王莽がやぶれ、義兵がたつ。張宗は、陽泉の民3、4百人をつれ、起兵・略地した。西して長安へゆく。更始は、張宗を偏將軍とする。

ぼくは思う。郷佐から、偏将軍。すごい出世。民をつれた集団が、よほど強かったらしい。自守する人はいても、略地する

張宗は、更始が政亂すると見て、家屬をひきい、安邑に客した。

及大司徒鄧禹西征,定河東,定詣禹自歸。禹聞宗素多權謀,乃表為偏將軍。禹軍到BF51邑,赤眉大眾且至,禹以BF51邑不足守,欲引師進就堅城,而眾人多畏賊追,憚為後拒。禹乃書諸將名於竹簡,署其前後,亂著笥中,令各探之。宗獨不肯探,曰:「死生有命,張宗豈辭難就逸乎!」禹歎息謂曰:「將軍有親弱在營,奈何不顧?」宗曰:「愚聞一卒畢力,百人不當;萬夫致死,可以橫行。宗今擁兵數千,以承大威,何遽其必敗乎!」遂留為後拒。

大司徒の鄧禹が西征した。河東をさだめた。張宗は、鄧禹に帰した。鄧禹は、張宗に權謀がおおいので、偏將軍とする。鄧禹は、栒邑にきた。赤眉がきそう。鄧禹は後退して、堅城にゆきたい。だが後詰を、だれもしたくない。鄧禹は竹簡でクジをつくった。張宗が、後拒(しんがり)を自薦した。「1人で100人分、戦えばいい」と。

諸營既引兵,宗方勒厲軍士,堅壘壁,以死當之。禹到前縣,議曰:「以張將軍之眾,當百萬之師,猶以小雪投沸湯,雖欲戮力,其勢不全也。」乃遣步騎二千人反還迎宗。宗引兵始發,而赤眉卒至,宗與戰,卻之,乃得歸營,於是諸將服其勇。及還到長安,宗夜將銳士入城襲赤眉,中矛貫胛,又轉攻諸營保,為流矢所激,皆幾至於死。

鄧禹は「張宗の兵は、100万にあたる。赤眉は、小雪が沸湯にとびこむようなもの」という。鄧禹は2千をつかわし、張宗にあわせた。赤眉をしりぞけた。
長安にかえる。張宗は、夜に赤眉をおそい、肩胛骨をホコをあてらる。流矢があたる。死にかけた。

及鄧禹征還,光武以宗為京輔都尉,將突騎與征西大將軍馮異共擊關中諸營保,破之,還河南都尉。建武六年,都尉官省,拜太中大夫。八年,潁川桑中盜賊群起,宗將兵擊定之。後青、冀盜賊屯聚山澤,宗以謁者督諸郡兵討平之。

鄧禹が関中から、洛陽の光武にかえる。光武は、張宗を京輔都尉とする。

『漢書』百官公卿表上はいう。秦は軍ごとに、尉1人をおく。兵禁をつかさどる。前漢の景帝が、都尉とあらためる。武帝は、左右輔、京輔都尉をおく。おのおの1人、2千石。

突騎をひきい、征西大將軍の馮異とともに、關中の營保をやぶる。河南都尉(都尉は太守の補佐、比2千石)。
建武六年(030)、都尉の官がはぶかれた。太中大夫。八年(032)、潁川の桑中で、盜賊が群起した。張宗がさだめた。のちに、青州と冀州の盜賊が、山澤に屯聚する。張宗は、謁者となり、諸郡兵を督して、平らげた。

十六年,琅邪、北海盜賊複起,宗督二郡兵討之,乃設方略,明購賞,皆悉破散,於是沛、楚、東海、臨淮群賊懼其威武,相捕斬者數千人,青、徐震栗。後遷琅邪相,其政好嚴猛,敢殺伐。永平二年,卒於官。

十六年(040)、琅邪、北海の盜賊がたつ。2郡の兵で、懸賞をかけ、盗賊をやぶる。ここにおいて、沛、楚、東海、臨淮の群賊は、張宗の威武をおそれた。盗賊が裏切りあい、數千人を捕斬した。青州と徐州は、震栗した。のち琅邪相。政治は嚴猛、敢殺伐。永平二年(059)、卒於官。

ぼくは思う。青州や徐州は、どうも盗賊がでる。泰山のまわり、山があるからか。海ににげこめるか。後漢末も、おなじ。この列伝28は、この地域を討伐した地方官の列伝。つぎは法雄、滕撫、馮緄、度尚、楊センとつづく。時代がくだるから、はぶいた。


つぎ、カニバリズム列伝。列伝29へつづく。