06) 桓栄、丁鴻、張宗
『後漢書』列伝27・桓栄、丁鴻伝。列伝28・張宗伝。
吉川忠夫氏の訳注にもとづき、読みます。
桓栄1:
桓榮は、あざなを春卿。沛郡の龍亢の人。わかく長安で《歐陽尚書》をならう。博士する九江の朱普(漢書88)につかえた。
まずしいので、バイトした。漢新革命で、長安からさる。朱普が卒すると、九江で土をせおう。王莽がやぶれると、經書をかかえ、山谷にかくれた。饑困しても講論した。江淮に客寓した。
每朝會,輒令榮於公卿前敷奏經書。帝稱善。曰:「得生幾晚!」會歐陽博士缺,帝欲用榮。榮叩頭讓曰:「臣經術淺薄,不如同門生郎中彭閎,揚州從事皋弘。」帝曰:「俞,往,女諧。」因拜榮為博士,引閎、弘為議郎。
建武十九年(043)、桓栄は60餘歳で、大司徒府に辟された。ときに明帝は皇太子だ。明經な人をさがす。桓栄の弟子・豫章の何湯を、虎賁中郎將とした。何湯が明帝に《尚書》をさずける。
なにげに光武は、何湯の本師をとう。何湯は「沛国の桓栄に習った」という。光武は桓栄に《尚書》を説かせた。桓栄は、議郎。明帝をおしえる。
朝會のたび、桓栄を公卿のまえにおき、経書について説明させた。「もっと早く、桓栄に教わりたかった」という。歐陽博士が欠けたが、桓栄は「私は、同門生の郎中する彭閎,揚州從事する皋弘にかなわない」とことわった。光武は、桓栄を博士として、彭閎と皋弘を議郎とした。
謝承『後漢書』はいう。臯弘字奉卿,吳郡人也。家代為冠族。少有英才,與桓榮相善。子徽,至司徒長史と。
積五年,榮薦門下生九江胡憲侍講,乃聽得出,旦一入而已。榮嘗寢病,太子朝夕遣中傅問病,賜以珍羞、帷、帳、奴婢,謂曰:「如有不諱,無憂家室也。」後病癒,複入侍進。
光武は大学にゆく。博士たちと、桓栄はゆったり議論して、相手を説得した。桓栄は、めずらしい果物を懐にしまわず、手をあげて、ささげて拝した。光武は「桓栄が真の儒生だ」という。つねに明帝を教育した。
5年後、桓栄は、門下生する九江の胡憲を侍講とした。月1でしか、帰宅しない。桓栄が病むと、明帝は中傅(宦官)をつかわし、みまう。明帝は「桓栄が死んでも、家族を心配するな」という。治り、また侍講した。
二十八年(052)、百官を大會し、太子の傅をえらぶ。みな太子の舅・執金吾・原鹿侯の陰識(列伝22)をすすめる。博士の張佚が「外戚の陰氏でなく、天下の賢才をえらべ」という。張佚が、太子太傅となる。桓栄が太子少傅となる。
桓栄は諸生をあつめ「古典の勉強のおかげで、私は太子少傅となった。みんなも勉強しろ」と。
太子(明帝)が、經學を学びおえた。桓栄は上疏した。「朝堂で、長年おしえてきた。太子が賢いのは、天下のさいわいだ」と。
太子は、桓栄にお礼をのべた。お身体を大切に。
054年、太常となる。はじめ桓栄は、族人の桓元卿とともに、飢えた。「腹をすかせてまで、勉強しなくていいのに」と。桓栄は「太常への就任は、勉強のおかげだ。わかったか」という。明帝が即位すると、尊ばれた。以下略。
范曄の論はいう。陰識をしりぞけた博士の張佚は、すごいなあ!
丁鴻
公綝,字幼春,王莽末守潁陽尉。世祖略地潁陽,潁陽城守不下,綝說其宰,遂與俱降,世祖大喜,厚加賞勞,以綝為偏將軍,因從征伐。綝將兵先度河,移檄郡國,攻營略地,下河南、陳留、潁川二十一縣。
丁鴻は、あざなを孝公。潁川の定陵の人。
父の丁綝は、あざなを幼春。王莽末、潁陽尉を守す。光武が潁陽を略地した。丁綝は、県宰(県令)をとき、光武にくだる。丁綝は偏將軍。さきに黄河をわたり、郡國に移檄した。河南、陳留、潁川の21県をくだす。
鴻年十三,從桓榮受《歐陽尚書》,三年而明章句,善論難,為都講,遂篤志精銳,布衣荷擔,不遠千里。
建武元年、丁綝は河南太守。功臣は、豐邑や美縣に封じられたい。丁綝だけは、本鄉(出身の郷、郷は県より下の区分)をねがった。丁綝は理由をのべた。「むかしむかし孫叔敖は、やせた土地をほしがれと、子に戒めた。私は功績がうすいので、やせた土地でいい。出身の郷で充分だ」と。光武はしたが、定陵の新安鄉侯とする。5千戶。のちに陵陽侯。
丁鴻は13歳で、桓栄から《歐陽尚書》をうける。3年で章句にあかるく、論難をよくす。都講となる。庶民の衣服で、千里をあるく。
はじめ丁綝は、光武と征伐する。丁鴻と、弟の丁盛だけのこる。丁鴻は、丁盛をあわれんだ。丁綝が卒すと、丁鴻がつぐべきだが、弟の丁盛にゆずるという。だが光武にゆるされず。丁鴻は服喪して「私は、父・丁綝をつぐ資格がない」という。
丁鴻ははじめ、九江の鮑駿とともに、桓栄に学ぶ。仲がよい。丁鴻がつがない。鮑駿は、東海で丁鴻と会ったが、丁鴻は、ワザと鮑駿を気づかないふりした。
鮑駿は丁鴻をとがめて「春秋の義では、家事のせいで王事をダメにしない。兄弟の私情のために、父親の家業をダメにしない。これが智だ」という。丁鴻は感悟し、垂涕・歎息して、かえって就國した。開門して教授した。鮑駿は上書して、丁鴻を明帝にすすめた。
張宗
張宗は、あざなを諸君。南陽の魯陽の人。王莽のとき、縣の陽泉鄉佐(郷をたすけ徴税)となる。王莽がやぶれ、義兵がたつ。張宗は、陽泉の民3、4百人をつれ、起兵・略地した。西して長安へゆく。更始は、張宗を偏將軍とする。
張宗は、更始が政亂すると見て、家屬をひきい、安邑に客した。
大司徒の鄧禹が西征した。河東をさだめた。張宗は、鄧禹に帰した。鄧禹は、張宗に權謀がおおいので、偏將軍とする。鄧禹は、栒邑にきた。赤眉がきそう。鄧禹は後退して、堅城にゆきたい。だが後詰を、だれもしたくない。鄧禹は竹簡でクジをつくった。張宗が、後拒(しんがり)を自薦した。「1人で100人分、戦えばいい」と。
鄧禹は「張宗の兵は、100万にあたる。赤眉は、小雪が沸湯にとびこむようなもの」という。鄧禹は2千をつかわし、張宗にあわせた。赤眉をしりぞけた。
長安にかえる。張宗は、夜に赤眉をおそい、肩胛骨をホコをあてらる。流矢があたる。死にかけた。
鄧禹が関中から、洛陽の光武にかえる。光武は、張宗を京輔都尉とする。
突騎をひきい、征西大將軍の馮異とともに、關中の營保をやぶる。河南都尉(都尉は太守の補佐、比2千石)。
建武六年(030)、都尉の官がはぶかれた。太中大夫。八年(032)、潁川の桑中で、盜賊が群起した。張宗がさだめた。のちに、青州と冀州の盜賊が、山澤に屯聚する。張宗は、謁者となり、諸郡兵を督して、平らげた。
十六年(040)、琅邪、北海の盜賊がたつ。2郡の兵で、懸賞をかけ、盗賊をやぶる。ここにおいて、沛、楚、東海、臨淮の群賊は、張宗の威武をおそれた。盗賊が裏切りあい、數千人を捕斬した。青州と徐州は、震栗した。のち琅邪相。政治は嚴猛、敢殺伐。永平二年(059)、卒於官。
つぎ、カニバリズム列伝。列伝29へつづく。