表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝21-32を抄訳し、光武のまわりを把握

04) 張純

『後漢書』列伝25・張純伝。曹褒伝はやらず。
吉川忠夫氏の訳注にもとづき、読みます。

張純

張純字伯仁,京兆杜陵人也。高祖父安世,宣帝時為大司馬衛將軍,封富平侯。父放,為成帝侍中。純少襲爵士,哀、平間為侍中,王莽時至列卿。遭值篡偽,多亡爵士,純以敦謹守約,保全前封。

張純は、あざなを伯仁。京兆の杜陵の人。高祖父の張安世は、宣帝のとき、大司馬・衛將軍(漢書59)、富平侯。父の張放は、成帝の侍中。
張純は、爵士をおそう。哀平のとき、侍中。王莽のとき列卿。漢新革命ののちも、張純は敦謹・守約なので、爵位をたもつ。

ぼくは思う。張純は、王莽を支持したってことなんじゃ?


建武初,先來詣闕,故得複國。五年,拜太中大夫,使將潁川突騎安集荊、徐、楊部,督委輸,監諸將營。反又將兵屯田南陽,遷五官中郎將。有司奏,列侯非宗室不宜複國。光武曰:「張純宿衛十有餘年,其勿廢,更封武始侯,食富平之半。」

建武初、いちはやく光武に詣闕して、国を復した。五年(029)、太中大夫。潁川の突騎をひきい、荊、徐、楊部を安集する。委輸(輸送)・將營を、督監する。兵をひきい南陽に屯田し、五官中郎將。
有司は「宗室でなければ、封国を復すな」という。光武は「張純は、封国に10余年、宿営した。封国を廃するな。武始侯とし、富平の半分をはめ」と。

李賢はいう。武始県は、魏郡にぞくす。富平県は、平原にぞくすと。だが恵棟は、武始は富平の郷名であるとする。
ぼくは思う。前漢、王莽とつづいた封国に、光武は強くのぞめない。


張純2:朱浮とともに、宗廟の制度を提案する

純在朝曆世,明習故事。建武初,舊章多闕,每有疑議,輒以訪純,自郊廟婚冠喪紀禮儀義,多所正定。帝甚重之,以純兼虎賁中郎將,數被引見,一日或至數四。純以宗廟未定,昭穆失序,十九年,乃與太僕朱浮共奏言:

張純は、前漢と王莽につかえ、故事に明習する。建武初、舊章がたりない。郊廟・婚冠・喪紀の禮儀義にはじまり、おおくを定めたい。張純は虎賁中郎將をかねた。光武は1日に4回、張純に引見する。宗廟がさだまらないので、十九年(043)、太僕の朱浮とともに上奏した。

「陛下興于匹庶,蕩滌天下,誅鋤暴亂,興繼祖宗。竊以經義所紀,人事眾心,雖實同創革,而名為中興,宜奉先帝,恭承祭祀者也。元帝以來,宗廟奉祠高皇帝為受命祖,孝文皇帝為太宗,孝武皇帝為世宗,皆如舊制。又立親廟四世,推南頓君以上盡於舂陵節侯。禮,為人後者則為之子,既事大宗,則降其私親。今禘祫高廟,陳序昭穆,而舂陵四世,君臣並列,以卑廁尊,不合禮意,設不遭王莽,而國嗣無寄,推求宗室,以陛下繼統者,安得複顧私親,違禮制乎?昔高帝以自受命,不由太上,宣帝以孫後祖,不敢私親,故為父立廟,獨群臣侍祠。臣愚謂宜除今親廟,以則二帝舊典,願下有司博采其議。」詔下公卿,大司徒戴涉、大司空竇融議:「宜以宣、元、成、哀、平五帝四世代今親廟,宣、元皇帝尊為祖、父,可親奉祠,成帝以下,有司行事,別為南頓君立皇考廟。其祭上至舂陵節侯,群臣奉祠,以明尊尊之敬,親親之恩。」帝從之。是時宗廟未備,自元帝以上,祭于洛陽高廟,成帝以下,祠于長安高廟,其南頓四世,隨所在而祭焉。

張純はいう。「光武は、傍流から即位した。宗廟は、、」と。大司徒の戴涉、大司空の竇融はいう。「宣帝から、、」と。

ぼくは思う。この議論、重要だけど、、おもしろいのか?

このとき宗廟は、まだ備わらず。元帝より上は、洛陽の高廟でまつる。成帝より下は、長安の高廟でまつる。光武の直系・南頓の4世は、故郷でまつる。

明年,純代朱浮為太僕。二十三年,代杜林為大司空。在位慕曹參之跡,務于無為,選辟椽史,皆知名大儒。明年,上穿陽渠,引洛水為漕,百姓得其利。

明年(044)、朱浮にかわり太僕。二十三年、杜林にかわり大司空。張純は、曹参をマネて、無為につとめた。椽史を辟し、辟されたのは、知名の大儒。明年、陽渠をうがち、洛水をひいいて漕(水運)とする。

張純3:

二十六年,詔純曰:「禘、祫之祭,不行已久矣。'三年不為禮,禮必壞;三年不為樂,樂必崩'。宜據經典,詳為其制。」純奏曰:「《禮》,三年一祫,五年一禘。《春秋傳》曰:'大祫者何?合祭也。'毀廟及未毀廟之主皆登,合食乎太祖,五年而再殷。漢舊制三年一祫,毀廟主合良高廟,存廟主未嘗合祭。元始五年,諸王公列侯廟會,始為禘祭。又前十八年親幸長安,亦行此禮。禮說三年一閏,天氣小備;五年再閏,天氣大備。故三年一祫,五年一禘。禘之為言諦,諦定昭穆尊卑之義也。禘祭以夏四月,夏者陽氣在上,陰氣在下,故正尊卑之義也。祫祭以冬十月,冬者五穀成孰,物備禮成,故合聚飲食也。斯典之廢,於茲八年,謂可如禮施行,以時定議。」定從之,自是禘、祫遂定。

二十六年(050)、張純に「禘祫之祭をしらべよ」と詔する。張純がいうとおり、祭をさだめた。

ぼくは思う。どんな祭か。興味がでたら、しらべます。


時,南單于及烏桓來降,邊境無事,百姓新去兵革,歲仍有年,家給人足。純以聖王之建辟雍,所以崇尊禮義,既富而教者也。乃案七經讖、明堂圖、河間《古辟雍記》、孝武太山明堂制度,及平帝時議,欲具奏之。未及上,會博士桓榮上言宜立辟雍、明堂,章下三公、太常,而純議同榮,帝乃許之。

博士の博栄とともに上奏し、辟雍、明堂をつくらせた。

三十年,純奏上宜封禪,曰:「自古受命而帝,治世之隆,必有封禪,以告成功焉。《樂動聲儀》曰:'以《雅》治人,《風》成於《頌》。'有周之盛,成、康之間,郊配封禪,皆可見也。書曰:'歲二月,東巡狩,至於岱宗,祡',則封禪之義也。臣伏見陛下受中興之命,平海內之亂,修復祖宗,撫存萬姓,天下曠然,咸蒙更生,恩德雲行,惠澤雨施,黎元安寧,夷狄慕義。《詩》雲:「受天之祜,四方來賀。'今攝提之歲,倉龍甲寅,德在東宮。宜及嘉時,遵唐帝之典,繼孝武之業,以二月東巡狩,封于岱宗,明中興,勒功勳,複祖統,報天神,禪梁父,祀地祇,傳祚子孫,萬世之基也。」中元元年,帝乃東巡岱宗,以純視御史大夫從,並上元封舊儀及刻石文。三月,薨,諡曰節候。

054年、封禅すべきという。056年、光武は封禅する。張純は、御史大夫。同年3月、張純は薨じた。節侯。子の張奮がつぐ。

ぼくは思う。重要すぎるから、はぶきました。それぞれの議題を、論文をよんで、たしかめたい。表面的に、言葉だけ置きかえても、どうせなにも分からない。
この巻の列伝は、つぎに曹褒と、鄭玄がある。儒者のビッグネーム。ともに光武の時代でない。はぶく。おもたい儒者については、張純のキャラに背負わせれば、よいのだ。

まだ儒者がつづくなあ。次巻につづきます。