表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝21-32を抄訳し、光武のまわりを把握

03) 朱浮、馮魴、虞延

『後漢書』列伝23・朱浮、馮魴、虞延です。
吉川忠夫氏の訳注にもとづき、読みます。

朱浮1:上谷太守・彭寵にそむかれた幽州牧

朱浮字叔元,沛國蕭人也。初從光武為大司馬主簿,遷偏將軍,從破邯鄲。光武遣吳漢誅更始幽州牧苗曾,乃拜浮為大將軍幽州牧,守薊城,遂討定北邊。建武二年,封舞陽侯,食三縣。

朱浮は、あざなを叔元。沛國の蕭県の人。はじめ光武の大司馬の主簿となる。偏將軍。邯鄲をやぶる。吳漢が幽州牧の苗曾を誅した。朱浮を大將軍・幽州牧とする。薊城で、北邊をさだむ。建武二年(025)、舞陽侯。3県をはむ。

ぼくは思う。なぜ朱浮が、いきなり幽州牧なんてリッパな役職をもらったのか、説明がない。出身地は、理解のカギにならないし。むー。


浮年少有才能,頗欲厲風跡,收士心,辟召州中名宿涿郡王岑之屬,以為從事,及王莽時故吏二千石,皆引置幕府,乃多發諸郡倉穀,稟贍其妻子。漁陽太守彭寵以為天下未定,師旅方起,不宜多置官屬,以損軍實,不從其實。浮性矜急自多,頗有不平,因以峻文詆,寵亦很強,歉負其功,嫌怨轉積。浮密奏寵遣吏迎妻而不迎其母,又受貨賄,殺害友人,多聚兵谷,意計難量。寵既積怨,聞之,遂大怒,而舉兵攻浮。浮以書質責之曰:

わかくから朱浮は気だかく、士心をあつめる。州中の名宿(ながく名声ある人)である、涿郡の王岑の屬を辟召し、從事とした。

李賢はいう。王岑は、のちに梁州牧となる。

朱浮は、王莽のときの故吏・二千石を、みな幕府におく。諸郡の倉穀を、妻子に稟贍する。漁陽太守の彭寵は「まだ天下が定まらないのに、朱浮が、幽州の武器と兵糧をバラまくのは、よくない」と考える。朱浮はプライドがたかい。きびしい法令で、彭寵をとりしまる。彭寵も強情である。朱浮は「彭寵は、吏人の妻をむかえるが、母をむかえない。賄賂をうける。友人を殺害する。兵糧と兵士をあつめる」と。彭寵は怒り、朱浮を攻めた。朱浮は、彭寵に文書した。

蓋聞知者順時而謀,愚者逆理而動,常竊悲京城太叔以不知足而無賢輔,卒自棄于鄭也。
伯通以名字典郡,有佐命之功,臨人親職,愛惜倉庫,而浮秉征伐之任,欲權時救急,二者皆為國耳。即疑浮相譖,何不詣闕自陳,而為族滅之計乎?朝廷之于伯通,恩亦厚矣,委以大郡,任以威武,事有柱石之寄,情同子孫之親。匹夫媵母尚能致命一餐,豈有身帶三綬,職典大邦,而不顧恩義,生心外畔者乎!伯通與吏人語,何以為顏?行步拜起,何以為容?坐臥念之,何以為心?引鏡窺影,何施眉目?舉措建功,何以為人?惜乎棄休令之嘉名,造梟鴟之逆謀,捐傳世之慶祚,招破敗之重災,高論堯、舜之道,不忍桀、紂之性,生為世笑,死為愚鬼,不亦哀乎!
伯通與耿俠游俱起佐命,同被國恩。俠游廉讓,屢有降挹之言;而伯通自伐,以為功高天下。往時遼東有豕,生子白頭,異而獻之,行至河東,見群豕皆白,懷慚而還。若以子之功論於朝廷,則為遼東豕也。今乃愚妄,自比六國。六國之時,其勢各盛,廓土數千里,勝兵將百萬,故能據國相持,多歷年世。今天下幾裏,列郡幾城,奈何以區區漁陽而結怨天子?此猶河濱之人捧土以塞孟津,多見其不知量也!
方今天下適定,海內願安,土無賢不肖,皆樂立名於世。而伯通獨中風狂走,自捐盛時,內聽驕婦之失計,外信讒邪之諛言,長為群後惡法,永為功臣鑒戒,豈不誤哉!定海內者無私仇,勿以前事自誤,願留意顧老母幼弟。凡舉事無為親厚者所痛,而為見仇者所快。

朱浮はいう。「彭寵は、漁陽太守、建忠侯、大将軍の3綬をもらう。だが彭寵は、光武にさからうか」と。

ぼくは思う。はぶきすぎなのは、わかっています。しかしケンカなんて、夫婦のものでなくても、イヌが食わない。めあたらしい事実を、朱浮が言っているのでない。


朱浮2:彭寵から光武に、急援をもとめる

寵得書愈怒,攻浮轉急。明年,涿郡太守張豐亦舉兵反。 時,二郡畔戾,北州憂恐,浮以為天子必自將兵討之,而但遣遊擊將軍鄧隆陰助浮。浮懷懼,以為帝怠於敵,不能救之,乃上疏曰:

彭寵は、いよいよ怒る。きつく朱浮を攻める。翌年、涿郡太守の張豊も、そむく。ときに漁陽と涿郡の2郡がそむく。朱浮は、光武にたすけてもらいたい。だが光武は、遊擊將軍の鄧隆をおくるのみ。朱浮は、光武に援軍を催促した。

昔楚、宋列國,俱為諸侯,莊王以宋執其使,遂有投袂之師。魏公子顧朋友之要,觸冒強秦之鋒。夫楚、魏非有分職匡正之大義也,莊王但為爭強而發忿,公子以一言而立信耳。今彭寵反畔,張豐逆節,以為陛下必棄捐它事,以時滅之,既歷時月,寂寞無音。從圍城而不救,放逆虜而不討,臣誠惑之。昔高祖聖武,天下既定,猶身自征伐,未嘗甯居。陛下雖興大業,海內未集,而獨逸豫,不顧北垂,百姓遑遑,無所系心。三河、冀州,曷足以傳後哉!今秋稼已熟,複為漁陽所掠。張豐狂悖,奸黨日增,連年拒守,吏士疲勞,甲胄生蟣虱,弓弩不得施,上下焦心,相望救護,仰希陛下生活之恩。
詔報曰:「往年赤眉跋扈長安,吾策其無穀必東,果來歸降。今度此反虜,勢無久全,其中必有內相斬者。今軍資未充,故須後麥耳。」浮城中糧盡,人相食。會上谷太守耿況遣騎來救浮,浮乃得遁走。南至良鄉,其兵長反遮之,浮恐不得脫,乃下馬刺殺其妻,僅以身免,城降于寵,尚書令侯霸奏浮敗亂幽州,構成寵罪,徒勞軍師,不能死節,罪當伏誅。帝不忍,以浮代賈複為執金吾,徙封父城侯。後豐、寵並自敗。

朱浮は上疏した。「光武は、安心してないで、幽州をたすけて」と。
光武は詔書でこたえた。「赤眉をうつとき、兵糧をつかいきった」と。上谷太守の耿況が、薊県から朱浮をにがした。朱浮は妻を刺殺し、にげきった。幽州牧の薊県は、彭寵にくだる。

ぼくは思う。朱浮、とことんナゾな人物。上に書いたように、なぜ幽州牧という、おもい役職をもらったか、不明。彭寵とのケンカは、性格が悪いせいにされた。性格に帰するとき、たいてい歴史書は、ウソをついている。光武が、本腰で朱浮を救わないのも、意味がわからない。詔書に、誠意がない。
なにか史書に抹殺された事実が、幽州にからめて、あったのかも。王莽の旧臣をとりたてた政策が、クサいか。朱浮は、新興の光武の仲間ではなく、光武に掣肘する「前代にくわしい学者」の一味かも知れない。光武は、前代からの儒者と、仲がわるい。彭寵は、腕っぷしのみで、光武の新興をサポートした人物だから、意見がちがうか。

尚書令の侯霸は「彭寵にそむかせた朱浮を伏誅せよ」という。光武はしのびず。朱浮を、賈複にかえて執金吾とする。父城侯。のちに張豊と彭寵は、自敗した。

朱浮2:

帝以二千石長吏多不勝任,時有纖微之過者,必見斥罷,交易紛擾,百姓不甯。六年,有日食之異,浮因上疏曰:
臣聞日者眾陽之所宗,君上之位也。凡居官治民,據郡典縣,皆為陽為上,為尊為長。若陽上不明,尊長不足,則幹動三光,垂示王者。五典紀國家之政,《鴻範》別災異之文,皆宣明天道,以征來事者也。陛下哀湣海內新罹禍毒,保宥生人,使得蘇息。而今牧人之吏,多未稱職,小違理實,輒見斥罷,豈不粲然黑白分明哉!然以堯、舜之盛,猶如三考,大漢之興,亦累功效,吏皆積久,養老於官,至名子孫,因為氏姓。當時吏職,何能悉理;論議之徒,豈不喧嘩。蓋以為天地之功不可倉卒,艱難之業當累日也。而間者守宰數見換易,迎新相代,疲勞道路。尋其視事日淺,未足昭見其職,既加嚴切,人不自呆,各自顧望,無自安之心。有司或因睚眥以騁私怨,苟求長短,求媚上意。二千石及長吏迫於舉劾,懼於刺譏,故爭飾詐偽,以希虛譽。斯皆群陽騷動,日月失行之應。夫物暴長者必矢折,功卒成者必亟壞,如摧長久之業,而造速成之功,非陛下之福也。天下非一時之用也,海內非一旦之功也。願陛下游意于經年之外,望化於一世之後,天下幸甚。
帝下其議,群臣多同於浮,自是牧守易代頗簡。

光武は、太守や長吏を、わずかなミスで交代させた。ころころ長官がかわり、百姓は安らがず。建武六年(030)、日食のとき朱浮は上疏した。
「堯舜は、ミスを3回まで待った。光武も待て」と。郡臣も、朱浮におなじ。これより牧守は、コロコロかわらない。

ぼくは思う。朱浮は、幽州牧としては、コケた。しかし、この上疏は郡臣を代表した。朱浮は、わりに価値観がズレない。朱浮が幽州でコケた理由と、どう整合させるか。


舊制,州牧奏二千石長吏不任位者,事皆先下三公,三公遣掾史案驗,然後黜退。帝時用明察,不復委任三府,而權歸刺舉之吏。浮複上疏曰:「陛下清明履約,率禮無違,自宗室諸王、外家後親,皆奉遵繩墨,無黨勢之名。至或乘牛車,齊於編人。斯固法令整齊,下無作威者也。求之於事,宜以和平,而災異猶見者,而豈徒然?天道信誠,不可不察。竊見陛下疾往者上威不行,不專國命,即位以來,不用舊典,信賴舉之宮,黜鼎輔之任,至於有所劾奏,便加免退,複案不關三府,罪譴不蒙澄察。陛下以使者為腹心,而使者以從事為耳目,是為尚書之平,決于百石之吏,故群下苛刻,各自為能。兼以私情容長,憎愛在職,皆競張空虛,以要時利,故有罪者心不厭服,無咎者坐被空文,不可經盛衰,貽後王也。夫事積久則自重,吏安則人自靜。傳曰:'五年再閏,天道乃備。'夫以天地之靈,猶五載以成其化,況人道哉!臣浮愚戇,不勝忄卷々,願陛下留心千里之任,省察偏言之奏。」

旧制では、州牧が、不適任な太守や長吏をチクれば、皇帝が検討しない。はじめに三公にくだし、三公の掾史が案驗した。だが光武はきびしく、三公にくださず、みずから不適任をさばいた。ゆえに州牧の属吏に、権限があつまった。

ぼくは思う。おもしろい。皇帝に権限があつまるのでなく、皇帝に直接チクれる、州牧の属吏がつよくなるんだなあ。朱浮の上疏は、たいてい『資治通鑑』に載っている。司馬光から見ると、後漢初の政策を決めるとき、朱浮は重要な人物だった。

朱浮は上疏した。「まだ日食などの災異があるのは、光武が専権して、三公に任せないからだ」と。

ぼくは思う。後漢の政治・制度史をやるなら、この記事を重視するのですね。


朱浮3:

七年,轉太僕。浮又以國學既興,宜廣博士之選,乃上書曰:
夫太學者,禮義之官,教化所由興也。陛下尊敬先聖,垂意古典,官室未飾,干戈未休,而先建太學,進立橫舍,比日車駕親臨觀饗,將以弘時雍之化,顯勉進之功也。尋博士之官,為天下宗師,使孔聖之言傳而不絕。舊事,策試博士,必廣求詳選,爰自畿夏,延及四方,是以博舉明經,惟賢是登,學者精勵,遠近同慕,伏聞詔書更試五人,惟取見在洛陽城者。臣恐自今以往,將有所失。求之密邇,容或未盡,而四方之學,無所勸樂。凡策試之本,貴得其真,非有期會,不及遠方也。又諸所征試,皆私自發遣,非有傷費煩擾於事也。語曰:「中國失禮,求之於野。」臣浮幸得與講圖讖,故敢越職。帝然之。

七年(031)、太僕。朱浮は「国学をつくったのだから、博士の選出をひろめよ」と考えた。上書した。「学者をえらび、博士とせよ。私は国学で、図讖をやった。だから、これを言うのだ」と。光武は、みとめた。

ぼくは思う。朱浮の後半の活躍を見ると、ますます、なぜ幽州牧になったか。なぜ彭寵とモメて失敗したか。がわからなくなる。キャリアの前半と後半に、一貫性がない。


二十年,代竇融為大司空,二十二年,坐賣弄國恩免。二十五年,徙封新息侯。
帝以浮陵轢同列,每銜之,惜其功能,不忍加罪。永平中,有人單辭告浮事者,顯宗大怒,賜浮死。長水校尉樊B34A言於帝曰:「唐堯大聖,兆人獲所,尚優遊四凶之獄,厭服海內之心,使天下鹹知,然後殛罰。浮事雖昭明,而未達人聽,宜下廷尉,章著其事。」帝亦悔之。

二十年(044)、竇融にかわり大司空。二十二年、國恩を賣弄する(天子の寵恩をカサにきる)ので、免ず。二十五年、新息侯。
朱浮は、同列を陵轢し(同輩をバカにし)、トラブルをおこす。朱浮に功能があるから、罪されず。永平中(058-075)、朱浮がトラブルをおこし、明帝から死をたまう。長水校尉の樊鯈(列伝22)が、明帝にいう。「朱浮のトラブルを、よく調べよ」と。明帝は、朱浮ごろしを悔いた。

論曰:吳起與田文論功,文不及者三,朱買臣難公孫弘十策,弘不得其一,終之田文相魏,公孫宰漢,誠知宰相自有體也。故曾子曰:「君子所貴乎道者三,籩豆之事則有司存。」而光武、明帝躬好吏事,亦以課核三公,其人或失而其禮稍薄,至有誅斥詰辱之累。任職責過,一至於此,追感賈生之論,不亦篤乎!朱浮譏諷苛察欲速之弊,然矣,焉得長者之言哉!

范曄の論はいう。光武も明帝も、実務をこのみ、三公をかろんじた。官吏をきびしく考課して、ハジをかかせた。だから朱浮は、これを批判した。ただし朱浮の発言は、完全でなかった。

ぼくは思う。李賢の注釈に、光武や朱浮のただしさについて、ながい議論がある。テーマにしぼって、見てみたい問題ではある。


馮魴:

馮魴字孝孫,南陽湖陽人也。其先魏之支別,食菜馮城,因以氏焉。秦滅魏,遷于湖陽,為郡族姓。
王莽末,四方潰畔,魴乃聚賓客,招豪桀,作營塹,以待所歸。是時湖陽大姓虞都尉反城稱兵,先與同縣申屠季有仇,而殺其兄,謀滅季族。季亡歸魴,魴將季欲還其宮,道逢都尉從弟長卿來,欲執季。魴叱長卿曰:「我與季雖無素故,士窮想歸,要當以死任之,卿為何言?」遂與俱歸。季謝曰:「蒙恩得全,死無以為報,有牛馬財物,願悉獻之。」魴作色曰:「吾老親弱弟皆在賊城中,今日相與,尚無所顧,何雲財物乎?」季慚不敢複言。魴自是為縣邑所敬信,故能據營自固。

馮魴は、あざなを孝孫。南陽の湖陽の人。祖先は、戦国魏の支別。馮城に食菜したので、姓とする。戦国秦が戦国魏をほろぼすと、湖陽にうつり、郡の族姓となる。

『東観漢記』はいう。祖先は、戦国魏に別封されて、華侯という。華侯の孫・長卿が、馮城にうつる。馮魴の父の名は、馮揚という。

王莽末、賓客・豪傑をあつめ、營塹をつくる。このとき、湖陽の大姓・虞都尉が、城をあげてそむく。さき虞都尉は、に同縣の申屠季に兄を殺されたので、申屠季を殺したい。馮魴は、知人でもない申屠季をまもった。ために馮魴は、老親が虞都尉の手におちた。だが馮魴は、申屠季から謝礼をうけず。馮魴は、縣邑に敬信された。營塹をまもった。

ぼくは思う。固有名詞がタイヘンなことになってる。ようは馮魴は、家族をすててまで、とっさに逃げこんできた他人を助けたということ。
ところで、荊州は、自守するなあ。劉表の政策と、関係、、ないな。


時天下未定,而四方之士擁兵矯稱者甚眾,唯魴自守,兼有方略。光武聞而嘉之,建武三年,征詣行在所,見於雲台,拜虞令。為政敢殺伐,以威信稱。遷郟令。後車駕西征隗囂,潁川資賊群起,郟賊延褒等眾三千餘人,攻圍縣舍,魴率吏士七十許人,力戰連日,弩矢盡,城陷,魴乃遁去。帝聞郡國反,即馳赴潁川,魴詣行在所。帝案行鬥處,知魴力戰,乃嘉之曰:「此健令也。所當討擊,勿拘州郡。」褒等聞帝至,皆自髡剔,負鈇鑕,將其眾請罪。帝且赦之,使魴轉降諸聚落,縣中平定,詔乃悉以褒等還魴誅之。魴責讓以行軍法,皆叩頭曰:「今日受誅,死無所恨。」魴曰:「汝知悔過伏罪,今一切相赦,聽各反農桑,為令作耳目。」皆稱萬歲。是時每有盜賊,並為褒等所發,無敢動者,縣界清靜。

馮魴は、天子や将軍を名のらず。光武は、馮魴をよみす。建武三年(027)、光武と雲台であい、虞令。郟(頴川)令。光武が隗囂をうち、頴川がそむくと、馮魴は力戦してまもった。光武は「馮魴は、県境をこえて守ってよい」という。

ぼくは思う。頴川の反乱を知りたければ、ここを見ればいい。

光武がもどると、賊はくだる。光武は、馮魴に処理をまかす。馮魴は、くだった賊を殺さない。「きみたちは、罪を悔いた。農桑せよ」と。縣界は清靜となる。

十三年,遷魏郡太守。二十七年,以高等入代趙憙為太僕。中元元年,從東封岱宗,行衛尉事。還,代張純為司空,賜爵關內侯。二年,帝崩,使魴持節起原陵,更封楊邑鄉侯,食三百五十戶。永平四年,坐考隴西太守鄧融,聽任奸吏,策免,削爵士。六年,顯宗幸魯,複行衛尉事。七年,代陰嵩為執金吾。
魴性矜嚴公正,在位數進忠言,多見納用。十四年,詔複爵士。明年,東巡郡國,留魴宿衛南宮。建初三年,以老病乞身,肅宗許之。其冬為五更,詔魴朝賀,就列侯位。元和二年,卒,時年八十六。

十三年(027)、魏郡太守。二十七年(051)、高第をもって、趙憙にかわり太僕。中元元年(056)、泰山で封禅するとき、行衛尉事。かえり、張純にかわり司空、關內侯。二年(057)、光武が崩じた。馮魴に持節させ、原陵をつくる。楊邑鄉侯。以下、明帝のときの記事は、はぶく。085年、86歳で卒す。

虞延:

虞延字子大,陳留東昏人也。延初生,其上有物若一匹練,遂上升上,占者以為吉。及長,長八尺六寸,要帶十圍,力能扛鼎。少為戶牖亭長。時王莽貴人魏氏賓客放從,延率吏卒突入其家捕之,以此見怨,故位不升。性敦樸,不拘小節,又無鄉曲之譽。王莽末,天下大亂,延常嬰甲胄,擁衛親族,B473禦抄盜,賴其全者甚眾。延從女弟年在孩乳,其母不能活之,棄於溝中,延聞其號聲,哀而收之,養至成人。
建武初,仕執金吾府,除細陽令。每至歲時伏臘,輒休遣徒系,各使歸家,並感其恩德,應期而還。有囚於家被病,自載詣獄,既至而死,延率掾史,殯於門外,百姓感悅之。

虞延は、あざなを子大。陳留の東昏の人。生まれたとき、ネリギヌが天にのぼる。198センチ。力づよい。牖亭(陳留の東の属郷)長。
ときに王莽の貴人・魏氏の賓客が放從だった。虞延は、賓客をとらえた。うらまれ、昇進せず。コセコセしない。王莽末、虞延は武装して、親族を擁衛する。虞延は、母がすてた從女弟を、ミゾから救う。かわりに養い、成人させた。
建武初、執金吾府につかえ、細陽令。毎年の伏臘(夏冬の祭)ごとに、囚人を帰宅させた。囚人が家で病気になり、それでも獄にもどる。虞延は、掾史をひきい、囚人に、もがりした。

ぼくは思う。王莽のとき、王莽のあと、百姓の生活が、どんなふうに苦しかったか、具体的にわかる列伝。乳児は、ミゾに捨てたのですね。 謝承『後漢書』はいう。虞延が成人させた從女弟は、同県の王氏にとつぐ。


後去官還鄉里,太守富宗聞延名,召署功曹。宗性奢靡,車服器物,多不中節。延諫曰:「昔晏嬰輔齊,鹿裘不完,季文子相魯,妾不衣帛,以約失之者鮮矣。」宗不悅,延即辭退。居有頃,宗果以侈從被誅,臨當伏刑,攬涕而歎曰:「恨不用功曹虞延之諫!」光武聞而奇之。
二十年東巡,路過小黃,高帝母昭靈後園陵在焉,時延為部督郵,詔呼引見,問園陵之事。延進止從容,占拜可觀,其陵樹株蘖,皆諳其數,俎豆犧牲,頗曉其禮。帝善之,敕延從駕到魯。還經封丘城門,門下小,不容羽蓋,帝怒,使撻侍御史,延因下見引咎,以為罪在督郵。言辭激揚,有感帝意,乃制誥曰:「以陳留督郵虞延故,貰禦史罪。」延從送車駕西盡郡界,賜錢及劍帶佩刀還郡,於是聲名遂振。

官位をさり、帰郷。陳留太守の富宗は、虞延を功曹とする。富宗は、奢侈のため誅された。「虞延の言うとおり、奢侈をやめればよかった」といった。
二十年(044)、光武は小黃をとおり、高帝の母・昭靈後の園陵にいる。虞延は部督郵として、園陵のことをくわしく教えた。光武は、虞延をつれて魯県へ。封丘の城門がちいさく、光武の羽蓋がとおれない。虞延は「私の罪です」とかぶり、光武から佩刀をもらう。名声をえた。

ぼくは思う。物語に、どう加えたら、おもしろいのか。光武は、ただの横暴な旅行者である。虞延をほめるより、光武がまきちらす迷惑が、気になる。光武は、統一の前後とも、移動がおおい。国庫がなくなるよ。


二十三年,司徒玉況辟焉。時元正朝賀,帝望而識延,遣小黃門馳問之,即日召拜公車令。明年,遷洛陽令。是時,陰氏有客馬成者,常為奸盜,延收考之。陰氏屢請,獲一書輒加E054二百。信陽侯陰就乃訴帝,譖延多所冤枉。帝乃臨禦道之館,親錄囚徒。延陳其獄狀可論者在東,無理者居西。成乃回欲趨東,延前執之,謂曰:「爾人之巨蠹,久依城社,不畏熏燒。今考實未竟,宜當盡法!」成大呼稱枉,陛戟郎以戟刺延,叱使置之。帝知延不私,謂成曰:「汝犯王法,身自取之!」呵使速去。後數日伏誅,於是外戚斂手,莫敢幹法。在縣三年,遷南陽太守。

二十三年(047)、司徒の玉況に辟された。ときに光武は、元正(元旦)の朝賀で、虞延が洛陽にいると知り、公車令(公車司馬令)に召す。明年、洛陽令。
このとき、外戚・陰氏の賓客である馬成は、奸盜する。蓋延がムチうつと、信陽侯の陰就が光武に「蓋延が冤枉した」という。光武の前で、蓋延は「馬成は害虫。冤枉でない」と主張。外戚は、手をひそめた。

ぼくは思う。さっき陰識伝を読んだとき、陰識と陰興の兄弟は、つつしみ深かった。食客をかこわず。しかしこれは、誇張して美しくしたのだろう。外戚の陰氏は、

洛陽令を3年やり、南陽太守。(以下略)

ぼくは思う。明帝のとき、外戚の鄧氏とたたかう。地に足がついて、人民の生活を守る人らしい。王朝とか外戚とか、そういう抽象的で大きなものに、圧倒されないらしい。前漢の園陵を、こまかく覚えていたり、フィールドワークが得意な人のようだ。
楚王の疑獄で、自殺させられた。清貧で、子孫は衣食にこまったそうだ。


贊曰:朱定北州,激成寵尤。魴用降帑,延感歸囚。鄭、竇怨偶,代相為仇,周章反道,小智大謀。

范曄の賛はいう。朱浮は幽州をさだめ、彭寵のトガを、激しく証拠だてた。馮魴は、くだった頴川の賊を、生産に活かした。虞延は、帰宅させた囚人に、感じさせた。

列伝24・梁統伝は、昔やったので、つぎは列伝25にすすむ。