09) 第五倫、鐘離意、宋均
『後漢書』列伝31・第五倫、鐘離意、宋均伝。
吉川忠夫氏の訳注にもとづき、読みます。
第五倫
倫少介然有義行。王莽末,盜賊起,宗族閭裏爭往附之。倫乃依險固築營壁,有賊,輒奮厲其眾,引強持滿以拒之,銅馬、赤眉之屬前後數十輩,皆不能下。倫始以營長詣郡尹鮮於褒,褒見而異之,署為吏。後褒坐事左轉高唐令,臨去,握倫臂訣曰:「恨相知晚。」
第五倫は、あざなを伯魚。京兆の長陵(高帝陵の周辺に建設された町)の人。祖先は、戦国斉の諸田氏。諸田氏は、おおく園陵にうつる。5番目にうつったので、第五氏とした。
第五倫は、介然(高潔)で、義行あり。王莽末、盜賊起。宗族・閭裏は、あらそって第五倫につく。第五倫は、險固により、營壁をきずく。強弓をひき、盗賊をふせぐ。銅馬・赤眉らを、くだせず。
ぼくは思う。つぎの話は、とくに脈絡のないエピソード。
はじめ第五倫は、營長となり、郡尹の鮮於褒にあう。鮮於褒は、第五倫を奇異として、郡吏とした。のちに鮮於褒は、坐事して、高唐令に左遷された。鮮於褒は、第五倫のひじをにぎり、「もっと早く会いたかった」という。
のちに第五倫は、鄉の嗇夫となる。徭賦をたいらかにして、怨結をおさめた。人の歡心をえた。
第五倫はおもう。ながく郷に仕えても、しかたない。
第五倫は、家属をひきい、河東に客した。名姓をかえ「王伯齊」と名のる。塩を、太原や上黨に輸送した。道路を清掃した。陌上(道を行き交う人)は、第五倫を道士という。親友・故人は、第五倫の行動を知らない。
第五倫2:
數年して、鮮於褒は第五倫を、京兆尹の閻興にすすめた。京兆殷の主簿となる。ときに長安は、鑄錢にズルがおおい。第五倫を督鑄錢掾として、長安の市場を領させた。
第五倫は、銓衡(はかり)をそろえ、鬥斛(ます)をただした。市場に不正がなくなり、百姓は悅服した。
第五倫は詔書を読むたび「光武は、聖主だ。いちど会い、キッパリ決めたい」と。みな笑った。「第五倫は、刺史すら説得できないのに、萬乘(天子)をうごかせるか」と。第五倫はいう。「いまだ知己にあわない。刺史と私は、道がちがうのだ」という。
ぼくは思う。華嶠『後漢書』がないと、范曄『後漢書』を理解できないじゃないか。范曄は、はぶきすぎたらしい。左馮翊の蓋延に、こまらされているから、それを飛びこえ、光武に訴えようというのだ。
第五倫:光武にからかわれ、会稽太守
建武二十七年(051)、孝廉にあげらる。淮陽國(国都は陳県)の醫工長(医薬をつかさどる、比4百石)となる。王にしたがい、国へゆく。光武は召見して、第五倫を奇異とする。
二十九年(053)、王にしたがい洛陽にくる。官属にしたがい、会見した。光武に政事をこたえた。明日、また光武に召され、夕方まで語る。光武は戯れに「第五倫は吏となり、妻の父をムチったか。兄子をよぎり、飯を食わなかったか」と。第五倫はこたえた。「私は3たび結婚したが、みな父なし。わかいとき飢えたが、人によぎりて食らわず」と。光武は大笑した。
華嶠『後漢書』はいう。光武は問う。「長安の市で掾をしたとき、母に1ハコのモチをおくった人がいた。第五倫は、ハコをうばい、母の口をあけてモチをさぐったか」と。第五倫はいう。「それもウソ。衆人は、私がおろかなので、ジョークをつくるのです」と。
第五倫は、扶夷長となる。赴任するまえに、會稽太守。2千石だが、みずからマグサを切り、妻が炊事をした。官秩は、貧者にバラまく。會稽の習俗は、淫祀がおおく、蔔筮をこのむ。つねに民はウシを神にまつる。百姓の財産はたまらない。もしウシを祭らなければ、病を発して、死にかける。ウシのように鳴く。前後の太守は、ウシ祭を禁じない。第五倫は、ウシ祭を禁じた。ウシを殺せば、罰した。はじめ百姓は恐れたが、そのうち安んじた。
鐘離意:
鐘離意は、あざなを子阿。會稽の山陰の人。わかく郡の督郵。ときに管轄する縣の亭長に、酒禮(もてなし)をうける人がいた。郡府からの書きつけをくだし、鐘離意がしらべた。鐘離意は太守に、報告した。「政治をただすのは、内から外へ。まず郡府を清めてから、県の亭長を罰しましょう」と。太守は鐘離意を賢として、縣事をまかす。建武十四年(038)、會稽に大疫あり。鐘離意は、親身になって医薬をはこぶ。管轄する県は、みな生き延びた。
孝廉にあげられ、再遷、侯霸の大司徒府に辟された。刑徒をおくり、河内をとおる。冬でさむい。刑徒は病んで、すすめず。弘農をとおる。鐘離意は、刑徒の衣服をつくらせた。やむをえず属県は、衣服をつくる。
鐘離意は、光武に報告した。光武は侯覇にいった。「きみの部下の鐘離意は、仁だ。まことに良吏だ」と。鐘離意は道で、手かせ足かせを、はずした。集合の時間を約束して、刑徒を好きにあるかせた。刑徒は、約束をまもった。鐘離意は、かえりて病免。
のち瑕丘令。吏の檀建は、県内で盜竊した。鐘離意は、刑をくわえず、休職させた。檀建の父は「有道の君は、義により誅すのだ。鐘離意は、檀建をゆるしたのでない」と。檀建は、服毒した。
二十五年(049)、堂邑令。縣人の防廣は、父を報仇した。防廣を系獄したが、防廣の母が病死したので、鐘離意は「私が責任をもつ」と、防廣を帰宅させた。防廣は帰ってきた。死刑を減じられた。顯宗が即位し、尚書。(以下略)
宋均
宋均は、あざなを叔癢。南陽の安眾の人。父の宋伯は、建武初に五官中郎將。宋均は質任して、郎。15歳で、経書をこのむ。休沐の日ごと、博士に受業した。《詩》《禮》につうじ、論難をよくす。20余歳で、辰陽長。習俗は、学者がすくなく、巫鬼を信じる。宋均は、学校をたて、淫祀を禁絕した。祖母が死んだので、去官した。潁川で客授した。
のちに謁者。武陵蠻がそむき、武威將軍の劉尚をかこむ。光武は、宋均を駅馬にのせて、江夏の奔命3千人で、劉尚をすくわす。つくと、すでに劉尚は沒した。伏波將軍の馬援がいたり、宋均を監軍した。武陵蛮のため、すすめず。馬援の兵は、溫濕で疾病した。死者は太半。
宋均は、馬援がかえってしまうと思った。諸将にいう。「天子の命令で遠征したなら、将軍が専命できるのだ」と。矯制して、伏波司馬の呂種を沅陵長として、武陵蛮に恩信をほどこす。武陵蛮は、宋均をおそれ、大帥を斬ってくだった。本郡にかえらせ、長吏をおいて、ひいた。宋均は光武に「呂種を任じたのは、出すぎました」と自首した。光武はゆるし、宋均に相談するようになる。
上蔡令。ときに府は記をくだし、喪葬の奢侈を禁じたい。宋均はいう。「喪葬の奢侈は、軽罪である。教化すればいい」と。罰さない。
中元元年,山陽、楚、沛多蝗,其飛至九江界者,輒東西散去,由是名稱遠近。浚遒縣有唐、後二山,民共祠之,眾巫遂取百姓男女以為公嫗,歲歲改易,既而不敢嫁娶,前後守令莫敢禁。均乃下書曰:「自今以後,為山娶者皆娶巫家,勿擾良民。」於是遂絕。
九江太守。郡には、虎暴がおおく、民患となる。つねにワナをつくるが、トラの害がおおい。宋均はいう。「南方にトラがおおいのは、北方に鶏豚がいるのとおなじ。トラがいる自体、問題でない。むしろトラ捕獲の強制労働が、民をくるしめる」と。のちに、トラは東して、長江をわたったと。
中元元年(056)、山陽、楚国、沛国にイナゴ。九江の境界にきたら、東西に散った。浚遒縣の淫祠をやめさせ、祭りの男女が結婚できないルールをやめた。
つぎは光武10王列伝。そろそろ、おわりだなあ!