表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝21-32を抄訳し、光武のまわりを把握

09) 第五倫、鐘離意、宋均

『後漢書』列伝31・第五倫、鐘離意、宋均伝。
吉川忠夫氏の訳注にもとづき、読みます。

第五倫

第五倫字伯魚,京兆長陵人也。其先齊諸田,諸田徙園陵者多,故以次第為氏。
倫少介然有義行。王莽末,盜賊起,宗族閭裏爭往附之。倫乃依險固築營壁,有賊,輒奮厲其眾,引強持滿以拒之,銅馬、赤眉之屬前後數十輩,皆不能下。倫始以營長詣郡尹鮮於褒,褒見而異之,署為吏。後褒坐事左轉高唐令,臨去,握倫臂訣曰:「恨相知晚。」

第五倫は、あざなを伯魚。京兆の長陵(高帝陵の周辺に建設された町)の人。祖先は、戦国斉の諸田氏。諸田氏は、おおく園陵にうつる。5番目にうつったので、第五氏とした。
第五倫は、介然(高潔)で、義行あり。王莽末、盜賊起。宗族・閭裏は、あらそって第五倫につく。第五倫は、險固により、營壁をきずく。強弓をひき、盗賊をふせぐ。銅馬・赤眉らを、くだせず。

『東観漢記』はいう。ときに穀物が値上がりして、人が食いあう。第五倫は、早死した兄の子と、外孫をやしなう。食糧をわけた。郷里は、第五倫のおこないを、賢とした。
ぼくは思う。つぎの話は、とくに脈絡のないエピソード。

はじめ第五倫は、營長となり、郡尹の鮮於褒にあう。鮮於褒は、第五倫を奇異として、郡吏とした。のちに鮮於褒は、坐事して、高唐令に左遷された。鮮於褒は、第五倫のひじをにぎり、「もっと早く会いたかった」という。

『東観漢記』はいう。第五倫は、徒歩で、鮮於褒をたずねた。10余日とどまる。鮮於褒は、第五倫をつれて、堂にのぼらせた。妻子を出して、2人きりになった。


倫後為鄉嗇夫,平徭賦,理怨結,得人歡心。自以為久宦不達,遂將家屬客河東,變名姓,自稱王伯齊,載鹽往來太原、上黨,所過輒為糞除而去,陌上號為道士,親友故人莫知其處。

のちに第五倫は、鄉の嗇夫となる。徭賦をたいらかにして、怨結をおさめた。人の歡心をえた。

吉川注はいう。県の下部にある行政単位は、郷。県の任命にかかり、おもに税役をつかさどる。

第五倫はおもう。ながく郷に仕えても、しかたない。
第五倫は、家属をひきい、河東に客した。名姓をかえ「王伯齊」と名のる。塩を、太原や上黨に輸送した。道路を清掃した。陌上(道を行き交う人)は、第五倫を道士という。親友・故人は、第五倫の行動を知らない。

ぼくは思う。第五倫は、経済官僚らしい。流通ルートを、整備したのか。


第五倫2:

數年,鮮於褒薦之于京兆尹閻興,興即召倫為主簿。時長安鑄錢多奸巧,乃署倫為督鑄錢掾,領長安市。倫平銓衡,正鬥斛,市無阿枉,百姓悅服。每讀詔書,常歎息曰:「此聖主也,一見決矣。」等輩笑之曰:「爾說將尚不下,安能動萬乘乎?」倫曰:「未遇知己,道不同故耳。」

數年して、鮮於褒は第五倫を、京兆尹の閻興にすすめた。京兆殷の主簿となる。ときに長安は、鑄錢にズルがおおい。第五倫を督鑄錢掾として、長安の市場を領させた。

『東観漢記』はいう。ときに長安の市は、まだ秩禄がない。鋳鉄の官位は、無法な人があつまる。管理する人がいない。閻興は、第五倫にまかせた。小人はみないう「第五倫がさばけば、ただしい」と。

第五倫は、銓衡(はかり)をそろえ、鬥斛(ます)をただした。市場に不正がなくなり、百姓は悅服した。
第五倫は詔書を読むたび「光武は、聖主だ。いちど会い、キッパリ決めたい」と。みな笑った。「第五倫は、刺史すら説得できないのに、萬乘(天子)をうごかせるか」と。第五倫はいう。「いまだ知己にあわない。刺史と私は、道がちがうのだ」という。

華嶠『後漢書』をひく。蓋延は、鮮于輔にかわり、馮翊となる。非法がおおい。第五倫は、しばしば蓋延を切諫したが、蓋延にうらまれた。ゆえに第五倫は、馮翊にたのんだのに、決まらないことが多かった。
ぼくは思う。華嶠『後漢書』がないと、范曄『後漢書』を理解できないじゃないか。范曄は、はぶきすぎたらしい。左馮翊の蓋延に、こまらされているから、それを飛びこえ、光武に訴えようというのだ。


第五倫:光武にからかわれ、会稽太守

建武二十七年,舉孝廉,補淮陽國醫工長,隨王之國。光武召見,甚異之。二十九年,從王朝京師,隨官屬得會見,帝問以政事,倫因此酬對政道,帝大悅。明日,複特召入,與語至夕。帝戲謂倫曰:「聞卿為吏E054婦公,不過從兄飯,甯有之邪?」倫對曰:「臣三娶妻皆無父。少遭饑亂,實不敢妄過人食。」帝大笑。

建武二十七年(051)、孝廉にあげらる。淮陽國(国都は陳県)の醫工長(医薬をつかさどる、比4百石)となる。王にしたがい、国へゆく。光武は召見して、第五倫を奇異とする。
二十九年(053)、王にしたがい洛陽にくる。官属にしたがい、会見した。光武に政事をこたえた。明日、また光武に召され、夕方まで語る。光武は戯れに「第五倫は吏となり、妻の父をムチったか。兄子をよぎり、飯を食わなかったか」と。第五倫はこたえた。「私は3たび結婚したが、みな父なし。わかいとき飢えたが、人によぎりて食らわず」と。光武は大笑した。

ぼくは思う。兄の子の「よぎりて」が、よくわからん。
華嶠『後漢書』はいう。光武は問う。「長安の市で掾をしたとき、母に1ハコのモチをおくった人がいた。第五倫は、ハコをうばい、母の口をあけてモチをさぐったか」と。第五倫はいう。「それもウソ。衆人は、私がおろかなので、ジョークをつくるのです」と。


倫出,有詔以為扶夷長,未到官,追拜會稽太守。雖為二千石,躬自斬芻養馬,妻執炊爨。受俸裁留一月糧,餘皆賤貿與民之貧羸者。會稽俗多淫祀,好蔔筮。民常以牛祭神,百姓財產以之困匱,其自食牛肉而不以薦祠者,發病且死先為牛鳴,前後郡將莫敢禁。倫到宮,移書屬縣,曉告百姓。其巫祝有依託鬼神詐怖愚民,皆案論之。有妄屠牛者,吏輒行罰。民初頗恐懼,或祝詛妄言,倫案之愈急,後遂斷絕,百姓以安。(以下略)

第五倫は、扶夷長となる。赴任するまえに、會稽太守。2千石だが、みずからマグサを切り、妻が炊事をした。官秩は、貧者にバラまく。會稽の習俗は、淫祀がおおく、蔔筮をこのむ。つねに民はウシを神にまつる。百姓の財産はたまらない。もしウシを祭らなければ、病を発して、死にかける。ウシのように鳴く。前後の太守は、ウシ祭を禁じない。第五倫は、ウシ祭を禁じた。ウシを殺せば、罰した。はじめ百姓は恐れたが、そのうち安んじた。

ぼくは補う。第五倫は、086年の「数年後」まで、生きている。第五倫の功績は、光武の時期でなく、もっとあとだ。第五倫の魅力は、これだけじゃない。はぶく。


鐘離意:

鐘離意字子阿,會稽山陰人也。少為郡督郵。時部縣亭長有受人酒禮者,府下記案考之。意封還記,入言于太守曰:「《春秋》先內後外,《詩》雲'刑于寡妻,以禦於家邦',明政化之本,由近及遠。今宜先清府內,且闊略遠縣細微之愆。」太守甚賢之,遂任以縣事。建武十四年,會稽大疫,死者萬數,意獨身自隱親,經給醫藥,所部多蒙全濟。

鐘離意は、あざなを子阿。會稽の山陰の人。わかく郡の督郵。ときに管轄する縣の亭長に、酒禮(もてなし)をうける人がいた。郡府からの書きつけをくだし、鐘離意がしらべた。鐘離意は太守に、報告した。「政治をただすのは、内から外へ。まず郡府を清めてから、県の亭長を罰しましょう」と。太守は鐘離意を賢として、縣事をまかす。建武十四年(038)、會稽に大疫あり。鐘離意は、親身になって医薬をはこぶ。管轄する県は、みな生き延びた。

舉孝廉,再遷,辟大司徒侯霸府。詔部送徒詣河內,時冬寒,徒病不能行。路過弘農,意輒移屬縣使作徒衣,縣不得已與之,而上書言狀,意亦具以聞。光武得奏,以視霸,曰:「君所使掾何乃仁於用心?誠良吏也!」意遂于道解徒桎梏,恣所欲過,與克期俱至,無或違者。還,以病免。

孝廉にあげられ、再遷、侯霸の大司徒府に辟された。刑徒をおくり、河内をとおる。冬でさむい。刑徒は病んで、すすめず。弘農をとおる。鐘離意は、刑徒の衣服をつくらせた。やむをえず属県は、衣服をつくる。
鐘離意は、光武に報告した。光武は侯覇にいった。「きみの部下の鐘離意は、仁だ。まことに良吏だ」と。鐘離意は道で、手かせ足かせを、はずした。集合の時間を約束して、刑徒を好きにあるかせた。刑徒は、約束をまもった。鐘離意は、かえりて病免。

後除瑕丘令。吏有檀建者,盜竊縣內,意屏人問狀,建叩頭服罪,不忍加刑,遣令長休。建父聞之,為建設酒,謂曰:「吾聞無道之君以刃殘人,有道之君以義行誅。子罪,命也。」遂令建進藥而死。二十五年,遷堂邑令。縣人防廣為父報仇,系獄,其母病死,廣哭泣不食。意憐傷之,乃聽廣歸家,使得殯斂。丞掾皆爭,意曰:「罪自我歸,義不累下。」遂遣之。廣斂母訖,果還入獄。意密以狀聞,廣竟得以減死論。顯宗即位,征為尚書。(以下略)

のち瑕丘令。吏の檀建は、県内で盜竊した。鐘離意は、刑をくわえず、休職させた。檀建の父は「有道の君は、義により誅すのだ。鐘離意は、檀建をゆるしたのでない」と。檀建は、服毒した。
二十五年(049)、堂邑令。縣人の防廣は、父を報仇した。防廣を系獄したが、防廣の母が病死したので、鐘離意は「私が責任をもつ」と、防廣を帰宅させた。防廣は帰ってきた。死刑を減じられた。顯宗が即位し、尚書。(以下略)

ぼくは思う。この鐘離意も、明帝のとき、活躍した人。まだ光武のときは、辺境で、罪人をゆるしまくっているだけ。


宋均

宋均字叔癢,南陽安眾人也。父伯,建武初為五官中郎將。均以父任為郎,時年十五,好經書,每休沐日,輒受業博士,通《詩》、《禮》,善論難。至二十餘,調補辰陽長。其俗少學者而信巫鬼,均為立學校,禁絕淫祀,人皆安之。以祖母喪去官,客授潁川。

宋均は、あざなを叔癢。南陽の安眾の人。父の宋伯は、建武初に五官中郎將。宋均は質任して、郎。15歳で、経書をこのむ。休沐の日ごと、博士に受業した。《詩》《禮》につうじ、論難をよくす。20余歳で、辰陽長。習俗は、学者がすくなく、巫鬼を信じる。宋均は、学校をたて、淫祀を禁絕した。祖母が死んだので、去官した。潁川で客授した。

後為謁者。會武陵蠻反,圍武威將軍劉尚,詔使均乘傳發江夏奔命三千人往救之。既至而尚已沒。會伏波將軍馬援至,詔因令均監軍,與諸將俱進,賊拒厄不得前。及馬援卒于師,軍士多溫濕疾病,死者太半。均慮軍遂不反,乃與諸將議曰:「今道遠士病,不可以戰,欲權承制降之何如?」諸將皆伏地莫敢應。均曰:「夫忠臣出竟,有可以安國家,專之可也。」乃矯制調伏波司馬呂種守沅陵長,命種奉詔書入虜營,告以恩信,因勒兵隨其後。蠻夷震怖,即共斬其大帥而降,於是入賊營,散其眾,遣歸本郡,為置長吏而還。均未至,先自劾矯制之罪。光武嘉其功,迎賜以金帛,令過家上塚。其後每有四方異議,數訪問焉。

のちに謁者。武陵蠻がそむき、武威將軍の劉尚をかこむ。光武は、宋均を駅馬にのせて、江夏の奔命3千人で、劉尚をすくわす。つくと、すでに劉尚は沒した。伏波將軍の馬援がいたり、宋均を監軍した。武陵蛮のため、すすめず。馬援の兵は、溫濕で疾病した。死者は太半。

ぼくは思う。宋均がつれている江夏の兵は、病気にならない。馬援の兵は、暑気と湿気にやられた。馬援は、北方の兵をつれていたんだろうなあ。

宋均は、馬援がかえってしまうと思った。諸将にいう。「天子の命令で遠征したなら、将軍が専命できるのだ」と。矯制して、伏波司馬の呂種を沅陵長として、武陵蛮に恩信をほどこす。武陵蛮は、宋均をおそれ、大帥を斬ってくだった。本郡にかえらせ、長吏をおいて、ひいた。宋均は光武に「呂種を任じたのは、出すぎました」と自首した。光武はゆるし、宋均に相談するようになる。

ぼくは思う。馬援ですら、武陵蛮への対処が、うまくいかなかった。それを、宋均が成功させた。曹操が赤壁でやぶれたのも、仕方ないなあ。


遷上蔡令。時府下記,禁人喪葬不得侈長。均曰:「夫送終逾制,失之輕者。今有不義之民,尚未循化,而遽罰過禮,非政之先。」竟不肯施行。

上蔡令。ときに府は記をくだし、喪葬の奢侈を禁じたい。宋均はいう。「喪葬の奢侈は、軽罪である。教化すればいい」と。罰さない。

遷九江太守。郡多虎暴,數為民患,常募設檻阱而猶多傷害。均到,下記屬縣曰:「夫虎豹在山,黿鼉在水,各有所托。且江淮之有猛獸,猶北土之有雞豚也。今為民害,咎在殘吏,而勞勤張捕,非憂恤之本也。其務退奸貪,思進忠善,可一去檻阱,除削課制。」其後傳言虎相與東游度江。
中元元年,山陽、楚、沛多蝗,其飛至九江界者,輒東西散去,由是名稱遠近。浚遒縣有唐、後二山,民共祠之,眾巫遂取百姓男女以為公嫗,歲歲改易,既而不敢嫁娶,前後守令莫敢禁。均乃下書曰:「自今以後,為山娶者皆娶巫家,勿擾良民。」於是遂絕。

九江太守。郡には、虎暴がおおく、民患となる。つねにワナをつくるが、トラの害がおおい。宋均はいう。「南方にトラがおおいのは、北方に鶏豚がいるのとおなじ。トラがいる自体、問題でない。むしろトラ捕獲の強制労働が、民をくるしめる」と。のちに、トラは東して、長江をわたったと。
中元元年(056)、山陽、楚国、沛国にイナゴ。九江の境界にきたら、東西に散った。浚遒縣の淫祠をやめさせ、祭りの男女が結婚できないルールをやめた。

つぎは光武10王列伝。そろそろ、おわりだなあ!