表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝21-32を抄訳し、光武のまわりを把握

08) 班彪

『後漢書』列伝30・班彪伝。
吉川忠夫氏の訳注にもとづき、読みます。

班彪

班彪字叔皮,扶風安陵人也。祖況,成帝時為越騎校尉。父稚,哀帝時為廣平太守。

班彪は、あざなを叔皮。扶風の安陵の人。祖父の班況は、成帝の越騎校尉。父の班稚は、哀帝の廣平太守。

銭大昕はいう。『後漢書』班超伝では、扶風の平陵の人とある。どちらかが、誤りちお。班超は、班彪の末子。


彪性沈重好古。年二十餘,更始敗,三輔大亂。時隗囂擁眾天水,彪乃避難從之。囂問彪曰:「往者周亡,戰國並爭,天下分裂,數世然後定。意者從橫之事複起於今乎?將承運迭興,在於一人也?願生試論之。」對曰:「周之廢興,與漢殊異。昔周爵五等,諸侯從政,本根既微,枝葉強大,故其末流有從橫之事,勢數然也。漢承秦制,改立郡縣,主有專已之威,臣無百年之柄。至於成帝,假借外家,哀、平短祚,國嗣三絕,故王氏擅朝,因竊號位。危自上起,傷不及下,是以即真之後,天下莫不引領而歎。十餘年間,中外搔擾,遠近俱發,假號雲合,咸稱劉氏,不謀同辭。方今雄桀帶州域者,皆無七國世業之資,而百姓謳吟,思仰漢德,已可知矣。」囂曰:「生言周、漢之勢可也;至於但見愚人習識劉氏姓號之故,而謂漢家復興,疏矣。昔秦失其鹿,劉季逐而羈之,時人複知漢乎?」

班彪は、性質が沈重・好古。20余歳のとき、更始がやぶれ、三輔が大亂。ときに隗囂が天水にいる。班彪は、隗囂に避難した。隗囂は班彪に問う。「周室がほろび、戦国が並爭し、数世のちに定まった。蘇秦と張儀のいう分裂がはじまるか。もしくは、だれか1人が更始をつぎ、まとめるか。班彪は試論せよ」と。
班彪はこたえた。「周室の廢興は、漢室の廢興とちがう。周室は爵五等をもうけたが、諸侯がつよかった。漢室は郡県制をもうけ、皇帝がつよい。漢室の皇帝でない人が、百年の権柄をもてない。成帝は外戚がつよく、哀帝と平帝は短命だった。だから王莽が革命した。だがキズは臣民におよばず。みな劉氏を待望する。いま盧芳や王郎が、劉氏をとなえるのは、その証拠だ。戦国列強がならぶのでなく、漢室が復興する。1人がまとめあげる」と。
隗囂はいう。「周室と漢室の区別は、そのとおり。だが愚民たちが、劉氏の王朝に、なれ親しむから、漢室が復興するというのは、ザツな議論だ。秦末、高帝が天下をとったとき、だれも劉氏を知らなかったことが、その反例だ」と。

ぼくは思う。隗囂は、光武本紀や隗囂伝では、何をしたいのか、わからない。しかし班彪伝を読むと、更始の滅びたのち、独立する気持ちが大きかったことがわかる。というか、学者として純粋に、大陸の情勢がどうなるか、検討していた感じ。「漢室がおこるとは、かぎらない」というのは、むしろ冷静な分析にもとづく。班彪なんかより、大陸をよく見ている。隗囂の態度が決まらないのは、「確たることは、なにも言えない」という、学者の慎重な態度のせいだろうか。


彪既疾囂言,又傷時方限,乃著《王命論》,以為漢德承堯,有靈命之符,王者興祚,非詐力所致,欲以感之,而囂終不寤,遂避地河西。河西大將軍竇融以為從事,深敬待之,接以師友之道。彪乃為融畫策事漢,總西河以拒隗囂。

班彪は、隗囂の言葉をにくむ。時世に心をいためた。《王命論》をあらわす。漢室は帝堯の徳をつぐ。靈命之符があい、王者は興祚する。詐術と武力では、王者は興祚しないと。だが隗囂は納得しないので、班彪は河西にさけた。河西大將軍の竇融は、班彪を從事とする。ふかく敬待した。師友之道として接した。班彪は、竇融が光武につかえて、すべて河西が隗囂をこばむよう、畫策した。

吉川注はいう。竇融伝に、従事をおいて5郡を監察させる。とある。ぼくは思う。竇融は、隗囂から将軍号をうけている。しかし竇融は、隗囂の言いなりでない。なぜなら、隗囂と対立した班彪が、かけこむくらいだから。のちに竇融は、隗囂を見すてて、光武につく。


班彪2:光武

及融征還京師,光武問曰:「所上章奏,誰與參之?」融對曰:「皆從事班彪所為。」帝雅聞彪才,因召入見,舉司隸茂才,拜徐令,以病免。後數應三公之命,輒去。

竇融が洛陽に徴された。光武は竇融に「竇融があげた章奏は、だれがつくったか」と問う。竇融はこたえた。「みな従事の班固がつくった」と。光武は、雅(もと)より、班彪の才能をきく。司隸校尉が茂才にあげ、徐令。病免。のちに、しばしば三公の命に応じたが、すぐに去る。

ぼくは思う。この職務のみじかさは、何が理由だろう。光武にそむくのでない。著述に専念したいから、ふつうの仕事をする時間がないのだろうか。空理空論をもてあそぶ派で、実務はできないのか。まあ、空理空論をする人でないと、光武から離れた三輔で「漢室が興隆する!」なんて『王命論』なんて、書けやしないか。


彪既才高而好述作,遂專心史籍之間。武帝時,司馬遷著《史記》,自太初以後,闕而不錄,後好事者頗或綴集時事,然多鄙俗,不足以踵繼其書。彪乃繼采前史遺事,傍貫異聞,作後傳數十篇,因斟酌前史而譏正得失。其略論曰:

班彪は、才能があり述作をこのむ。ついに史籍之間に專心した。武帝のとき、司馬遷『史記』が書かれた。つづきは、鄙俗なものがおおく、『史記』の続編にならない。

李賢はいう。揚雄、劉歆、陽城杖、褚少孫、史孝山らが、歴史マニアである。その時代の歴史を編修したが、いまいち。

班彪は、前漢の遺事をとり、異聞をあつめて、『後傳』數十篇をつくった。『史記』を検討して、得失をそしり正した。その略論で、班彪はいう。

唐、虞三代,《詩》、《書》所及,世有史官,以司典籍,暨于諸侯,國自有史,故《孟子》曰:「楚之《檮杌》,晉之《乘》,魯之《春秋》,其事一也。」定、哀之間,魯君子左丘明論集其文,作《左氏傳》三十篇,又撰異同,號曰《國語》,二十一篇,由是《乘》、《檮杌》之事遂E63D,而《左氏》、《國語》獨章。又有記錄黃帝以來至春秋時帝王公侯卿大夫,號曰《世本》,一十五篇。春秋之後,七國並爭,秦並諸侯,則有《戰國策》三十三篇。漢興定天下,太中大夫陸賈記錄時功,作《楚漢春秋》九篇。孝武之世,太史令司馬遷采《左氏》、《國語》,刪《世本》、《戰國策》,據楚、漢列國時事,上自黃帝,下訖獲麟,作本紀、世家、列傳、書、表百三十篇,而十篇缺焉。遷之所記,從漢元至武以絕,則其功也。至於采經摭傳,分散百家之事,甚多疏略,不如其本,務欲以多聞廣載為功,論議淺而不篤。其論術學,則崇黃老而薄《五經》;序貨殖,則輕仁義而羞貧窮;道遊俠,則賤守節而貴俗功:此其大敝傷道,所以遇極刑之咎也。然善述序事理,辯而不華,質而不野,文質相稱,蓋良史之才也。誠令遷依《五經》之法言,同聖人之是非,意亦庶幾矣。

班彪はいう。「堯舜から、いろいろ歴史書が書かれた。だが『史記』は、儒教にそわない。いけない」と。


夫百家之書,猶可法也。若《左氏》、《國語》、《世本》、《戰國策》、《楚漢春秋》、《太史公書》,今之所以知古,後之所由觀前,聖人之耳目也。司馬遷序帝王則曰本紀,公侯傳國則曰世家,卿士特起則曰列傳。又進項羽、陳涉而黜淮南、衡山,細意委曲,條例不經。若遷之著作,采獲古今,貫穿經傳,至廣博也。一人之精,文重思煩,故其書刊落不盡,尚有盈辭,多不齊一。若序司馬相如,舉郡縣,著其字,至蕭、曹、陳平之屬,及董仲舒並時之人,不記其字,或縣而不郡者,蓋不暇也。今此後篇,慎核其事,整齊其文,不為世家,惟紀、傳而已。傳曰:「殺史見極,平易正直,《春秋》之義也。」

班彪はいう。「司馬遷は、項羽や陳渉に本紀をたてた。蕭何、曹参、陳平、董仲舒のあざなを、書きもらした。衛青や張釈之は、出身の表記にルールがない」と。

班彪3:

彪復辟司徒玉況府。時,東宮初建,諸王國並開,而官屬未備,師保多闕。彪上言曰:
孔子稱:「性相近,習相遠也。」賈誼以為:「習為善人居,不能無為善,猶生長于齊,不能無齊言也。習與惡人居,不能無為惡,猶生長于楚,不能無楚言也。」是以聖人審所與居,而戒慎所習。昔成王之為孺子,出則周公,邵公、太史佚,入則大顛、閎夭、南宮括、散宜生,左右前後,禮無違者,故成王一日即位,天下曠然太平。是以《春秋》「愛子教以義方,不納於邪。驕奢浮佚,所自邪也」。《詩》雲:「詒厥孫謀,以宴翼子。」言武王之謀遺子孫也。

班彪は、ふたたび玉況の司徒府に辟された。

李賢はいう。記事の時間が、前後する。玉況が司徒となったのは、047年。043年、明帝を太子とする。041年、諸王を封じた。

ときに東宮が建てられたばかり。諸王國が、ひらかれた。官屬はそなわらず、師保がたりない。班彪は上言した。「孔子はいう。人間は、先天的な性質はにているが、後天的な習慣はバラバラと。賈誼(漢書48)はいう。そだった国俗にそまる」と。

漢興,太宗使晁錯導太子以法術,賈誼教梁王以《詩》、《書》。及至中宗,亦令劉向、王褒、蕭望之、周堪之徒,以文章儒學保訓東宮以下,莫不崇簡其人,就成德器。今皇太子諸王,雖結髮學問,修習禮樂,而傅相未值賢才,官屬多闕舊典。宜博選名儒有威重明通政事者,以為太子太傅,東宮及諸王國,備置官屬。又舊制,太子食湯沐十縣,設周衛交戟,五日一朝,因坐東箱,省視膳食,其非朝日,使僕、中允旦旦請問而已,明不C841黷,廣其敬也。書奏,帝納之。

班彪はいう。「前漢がおこると、文帝は太子に晁錯(漢書49)をつけ、法術をおしえた。宣帝は劉向、王褒、蕭望之、周堪らを東宮につけ、文章・儒學を教えた。いま後漢は、教育する人がいない。太子太傅をおき、太子や諸王国に博士を任じよ」と。光武は、納れた。

後察司徒廉為望都長,吏民愛之。建武三十年,年五十二,卒官。所著賦、論、書、記、奏事合九篇。 二子:固、超。超別有傳。
論曰:班彪以通儒上才,傾側危亂之間,行不逾方,言不失正,仕不急進,貞不違人,敷文華以緯國典,守賤薄而無悶容。彼將以世運未弘,非所謂賤焉恥乎?何其守道恬淡之篤也。

のちに司徒の廉に察(察挙)され、望都長。吏民に愛さる。建武三十年(054)、52歳で卒官。9篇をしるす。2子あり。班固、班超。班超は、べつに列伝あり。
范曄の論はいう。班彪は通儒。乱世にまようが、儒教ルールで行動した。美文をつくり、國典をつらぬく。貧しくても、あっさりして、ルールをまもった。

固字孟堅。年九歲,能屬文誦詩賦,及長,遂博貫載籍,九流百家之言,無不窮究。所學無常師,不為章句,舉大義而已。性寬和容眾,不以才能高人,諸儒以此慕之。 永平初,東平王蒼以至戚為驃騎將軍輔政,開東B22B,延英雄。時固始弱冠,奏記說蒼曰(以下略)

班固は、あざなを孟堅。9歳で、よく屬文して、詩賦を誦した。長じて、ひろく載籍につうじる。九流百家の諸家(道、儒、墨、名、法、陰陽、農、雑、縦横)を、すべて窮究した。常師なく、章句(一字一句)をやらない。大義をあげるのみ。性質は寬和で、眾を容れた。才能があるが、おごらず。諸儒にしたわれた。

ぼくは補う。班固は032年生まれ。父が光武に属してから、育った。

永平初(058-)、東平王の劉蒼は、ちかい親戚を驃騎將軍として、輔政させた。東コウ(東の小門)をひらき、英雄をまねく。班固は弱冠だが、奏記して、劉蒼に説いた。(以下略)

ぼくは思う。『漢書』は、班彪と班固のどちらが書いた部分か、わけるのが難しいそうだ。光武と同伴するキャラなら、班彪をクローズアップすべきだな。年齢的に。


つぎ、第五倫伝です。光武にまつわる列伝も、終盤。つづきます。