1)班固の父・班彪のしごと
論文を読み、自分なりに内容をまとめて、思ったことを書いておきます。毎度のことですが、『三国志』じゃないものを読んでいますが、最後は『三国志』に落とし込みます。三国が鼎立したのは班固のせいだ、ということを明らかにします。
今日読むのは、
稲葉一郎「『漢書』の成立」(『東洋史研究』第48巻第3号、1989年)
です。初出は上記ですが、豊田市立図書館で借りてきた『中国史学史の研究』で見ています。それではまず、要約をご覧下さい。
前言
『漢書』は、『史記』とともに紀伝体の双璧。最も完成度の高い歴史叙述とされ、標準解釈・標準読が定められた。
班固の著述とされるが、父の班彪の遺作が基礎。
どのような経過で、断代史になったか。
班氏父子の生涯とその時代を見てから、考察する。
一 班氏と『漢書』
班氏は、楚の名族。
前漢元帝の末年、班況が扶風郡に移住してから、名家となる。
班況の娘が成帝に嫁ぎ、3人の子が出世した。なかでも次男と三男は、王莽と兄弟なみに交際した。
次男は賢良方正に挙げられ、王朝の門外不出の蔵書の写しを取った。この蔵書が、班氏の家学(史学)の基礎となる。
三男は、王莽政権に消極的だった――と『漢書』は伝える。しかしこれは後漢に憚って改作しただけ。三男が王莽政権に関与したと考えるのが自然。
王況の三男の子が、班彪(班固の父)。
読書好きな青年で、『太史公書(史記)』の続編の作成を思い立った。班彪が20歳のとき、王莽政権が滅亡。天水に避難し、隗囂の政権に加わった。しかし隗囂の器量にあきたらず、竇融の政権に移った。竇融が洛陽に帰順すると、班彪は後漢に使えた。
10年間、徐令として徐州に赴任。洛陽に戻り、司徒府掾。余暇に『後伝』を書いた。『漢書』の原型だ。未完のまま、52歳で死去。
班彪の長男は班固、次男は班超、女子は班昭。班固と班超は、同年生まれもしくは1歳差。
班固は58年、父の3年の喪が明けた。父の『後伝』の続修を始めた。62年、
「班固がひそかに国史を改作している」
と密告され、長安で獄に繋がれた。蔵書没収。弟の班超が無実を訴えた。
後漢の明帝は、没収された著述に感心した。明帝は班固に命じ、父の友人らと『世祖本紀』を撰述させ、『漢書』の完成を命じた。20余年後、章帝の82年に『漢書』は完成。
学問好きな章帝は、班固を重んじた。班固は、白虎観会議の議事録を作った。弟の班超は、西域都護として活躍。班固も、竇憲の部将として匈奴遠征に参加。
竇氏も班氏も三輔の豪族で、前漢のときから親しい。王莽末、班彪が竇融に仕えたのも、その縁による。
92年、和帝は宦官の鄭衆と結び、外戚の竇憲を自殺させた。班固も一党と見なされて、追放された。61歳で獄死。
班固の『漢書』は、表と志を欠いた。
妹の班昭が、和帝の命令で補った。八表と天文志は、馬融の兄・馬続が完成させた。
二-1 班彪の歴史叙述
班氏の叙述姿勢は、2つの条件で決定された。
(2)前漢と婚姻関係があり、帝室と心情的に緊密だ(精神的条件)
『史記』は、すでに昭帝のとき高級官僚に読まれた。桑弘羊の愛読が知られる。『史記』の続編は、班彪以前に10数人の学者が書いていた。だが班彪から見て、資料や表現が不充分なものばかり。班彪は、続編の決定版を作ろうと志した。
班彪は、『史記』の短所を改める目的もあった。短所とは、
(2)黄老を重んじ、五経(儒学)を軽んじて、世道・人心に有害
(3)項羽に本紀、陳勝に世家があり、紀伝体の体例が破れている
(4)本名、あざな、出身地など、標記の形式が不統一
以上は形式的、技術的な話だが、他に政治的な目的もある。
当時読まれた『史記』の続編は、劉歆と揚雄によるものだった。これらは著者の政治的立場を反映して、王莽讃美の叙述が多かった。班彪は、王莽を消極的・否定的に著すことを目的とした。
『漢書』の王莽伝は、編年形式で、主語の省略が多い。策命・詔令の引用、諸制度の叙述、天変地異・災異の記録がある。列伝よりは、帝紀の叙述に近い。
王莽伝の居摂元年正月の条に、
とある。天子気取りの王莽が記録させた叙述が、王莽伝の元だと推測できる。班彪が改編する前は、王莽の記録は本紀の形で、平帝紀の後に置かれていた。孺子嬰の記録が、王莽伝の中にあるからだ。
『漢書』叙伝上に、班彪の「王命論」がある。
後漢成立以前から、班彪は漢朝の再興を信じていた節がある。神聖性・絶対性に対する信念があった。だから「王莽(帝)紀」を抹殺した。班彪は『後伝』の末尾に「王莽伝」を移した。
『後伝』の下限を王莽の滅亡とすることを決定した。