4)三国鼎立は、班固のしわざ
稲葉氏の論文を元に、感じたことを書いておきます。
班氏を知りたい
「班氏を知りたい。『漢書』の叙伝、『後漢書』の列伝を読みたい」
これが、今のいちばんの気持ちです。
『漢書』『後漢書』の両方に、詳しい記述を持っている人は、他にない。しかも序伝は、班氏が自分で書いたもの。ナマの声だ。
テレビ通販みたいなノリですが、
・・・班氏の特典は、それだけではありません!
と叫んでおきたい。
序伝も列伝も、複数巻に渡っている。よほどの功臣でも、専伝(1人で1巻)が立てられるだけだ。巻にまたがるとは、反則級のサービスだ。
王莽と班氏はシンメトリ
王莽と班固は、好対称をなしている。そう感じたプロセスを書きます。
正史だけ眺めていれば、王莽は前漢の人で、班固は後漢の人だ。別時代の人物に思えて、2人を比較するという発想そのものが湧いてこない。だが、2人は突き合わせてみると、けっこう発見が多い。
前漢の成帝や哀帝のとき、いろんな本が書き散らかされて、宮廷の図書館がゴチャゴチャになった。
稲葉氏が紹介していたが、『史記』の続編作成が10人以上に試みられたのは、この文脈だ。儒教の諸説が繚乱して、『春秋××伝』の関連本が量産されたのも、この時期だ。
――なぜ、著述ラッシュが起きたのか。
『漢書』が手元にないから、印象だけで述べますが、
「漢の衰退が色濃くなり、新しいパラダイムの発見が急がれたから」
ではないか。
宣帝が王朝に延命処置をしたが、元帝以後、王朝は傾き続ける。ほっといても磐石ならば、正当性の主張なんて不必要です。傾いているから、正当化するためのロジックが必要です。史書や儒教が漢を支えるために、枝分かれして進化しました。
儒教は、2つの選択肢を出したと思う。
(2)劉氏の漢は、何があっても永続すべきだ
突き詰めれば、この2択だ。
長いすったもんだの結果、前者の学説が勝利した。王莽という一流の学者が、政治家を兼ねて、論争の終わりを継げた。ところが、王莽政権はうまくいかなかった。
2択の1つが却下されたら、正解はもう1つだ。劉氏の漢を永続させることに決まりました。
では、後者の学説の勝利に、もっとも尽力したのは誰か。
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「光武帝でしょ?」
と聞き返されるのを期待して、縦スペースを入れてみましたが(笑)、ぼくは班固だと言いたい。
光武帝がやったのは、王莽末の群雄割拠を、武力で平定しただけだ。正当性の源泉は軍事力であり、もっと強い人が出てきたら、いつでもひっくり返されるリスクがある。現に公孫述は、長らく屈服してくれない。
漢の永続性を確定するには、光武帝の戦さ上手は必要条件であっても、充分条件ではなかった。
この不安定を補ったのが、班固の『漢書』でしょう。劉邦をトップにして、王莽をボトムにして、王朝の正統を描ききった。
『漢書』という強い武器を手に入れて、はじめて章帝は政権の安定を確信した。白虎観会議を開いて、
「後漢は、儒教をこう解釈するよ」
と、オフィシャルな見解を宣言した。
成帝や哀帝のときの執筆ラッシュから続いていた、パラダイムの発明合戦に終止符を打った。
白虎観は、国の基盤を固める重要な会議だ。議事録を任せて安心なのは、誰か。他の誰でもない、『漢書』で国に貢献した班固だ。
王莽と班氏がやったことは対称だ。
王莽は(1)案を実行に移して、失敗した。班固は(2)案を実行に移して、成功した。選んだ結論は正反対だが、同じ土俵に立って、テーマを共有して頭を悩ました戦友だ。
だから稲葉氏が言うように、班氏は王莽を批判しつつも、無視しきれない。話題にする価値もないバカなら、批判すら要らない。王莽に一理あるから、ムキになって『漢書』で攻撃した。
曹操や劉備を縛ったもの
晩年の曹操がいちばん頭痛のタネとしたのは、禅譲問題だ。永続すると信じられているものを、終わらせるのは至難だ。軍事的な優位だけでは、片付かない問題だ。
劉備が天下に影響力を発揮できたのは、漢室を継承するというスローガンだ。漢が途絶えるはずがないと信じられていたから、劉備は割拠できた。弱小でも、黙殺されなかった。
曹操や劉備をはじめ、三国志の人々の思考を規定したのは、誰か。ぼくが導きたい答えは、お察しのとおりです。
「強いものが皇帝になる」
というフラットな状態ならば、三国鼎立という不自然な勢力図が成り立つわけがない。曹操は脛に傷を持たず王朝を開き、天下の支持を得られる。劉備は立ち消える。孫権は素直に降伏する。そうなったはずだ。
今回の結論です。『三国志』が始まった画期は、班固が『漢書』を上梓したときかも知れない。090809
蛇足ですが、父子の共同作業っていいなあ。司馬談と司馬遷、劉向と劉歆、班彪と班固。ぼくの父は本を読まない人なので、共同作業はありえない。息子をもうける予定もない。こうなったら1人で完結するしかないなあ・・・