表紙 > 読書録 > 稲葉一郎「『漢書』の成立」を読む

2)『漢書』が断代史になった理由

『漢書』のもとになった、班彪『後伝』について見てきました。全て赤文字&大文字&黄枠囲いにしたいくらい面白いです。

二-2 班固の歴史叙述

『漢書』の中の班彪の比重を推定することは困難。賛から推測するだけ。
班固は、父の主義主張を継承し、徹底させた。

班彪には矛盾があった。
『後伝』は『史記』の続編だ。秦の歴史の後に、漢の歴史が続いてしまう。
「漢は、儒学を弾圧した秦をついで生まれた王朝」
だと認めれば、秦の歴史的存立の意義を認めてしまう。漢朝の神聖性・絶対性を表現したいのに、著述の立場の一貫性に支障をきたす。
班固は、叙述の対象を漢に限定した。神聖な漢朝の諸皇帝の叙述を、百王の末に続ける不当性を解消した。
班彪が『後伝』で、下限を王莽伝にした。班固が『漢書』で、上限を漢の高祖に置いた。初めて「断代史」が誕生した。

班固の理想は、『漢書』を『詩』『書』になぞらえ、後世に伝えること。充実した構成を必要とした。
班彪は余暇の仕事だった。だが班固は蘭台令史として、東観の新集の史料も利用できた。構想を具現化できる便宜を与えられていた。

班固が作った体裁とは・・・
『史記』で省かれた恵帝紀を設けて、皇帝として復権させた。皇帝(皇后)のすべてに帝紀を立てた。歴史を大観できるようにした。
班彪が列伝に組みかえた項羽と陳勝を冒頭に置いた。漢室の政権獲得の経過を明らかにした。
『史記』で専伝があった韓信と英布、合伝の英布を、格下げした。その方法とは、『史記』に立伝されていなかった呉ゼイとまとめて1巻としたこと。帝室の尊厳を高めた。
列伝のの配列を、専伝、合伝、類伝に編成した。時代順に改めた。
異民族の列伝を後尾に移し、華夷の区別を明確にした。儒教的な列伝的世界を完結させた。
王莽伝の由来を明らかにするため、外戚伝、元后伝を最期に配し、王莽伝で締めくくった。
漢帝国の由来と結末、歴史展開と空間的広がりとが充分表現されている。王莽伝は逆臣の末路を描いて、後世を鮮烈に戒めた。

諸侯王表の序文は、班固が諸侯王表を作成した目的を記す。藩屏を弱体化したことが、王莽の出現を許した所以だと。
表は『史記』同様、時間的空間的関係を明示することが目的。だが歴史的価値に乏しく、立伝しがたい人物(事象)を記録・保存する場でもある。
『漢書』には、古今人表がある。
西漢以前の人物を品評した。紀伝で触れられなった前代について、表明した。班固は、制度や事象の歴史的変化の大勢を見ていた。班固は、狭隘な断代主義の立場から、漢朝のみを見つめたのではない。本紀が高祖からなのは、暴君の後に聖王を置きたくなかったからだ。

三 資料批判

班氏の歴史研究の基本を振りかえる。
班彪は、班氏の蔵書を利用しにくかった。更始帝軍・赤眉軍、地方赴任のためだ。班固が7年自家にこもり、東観の蔵書を利用できたのと、対照的だ。
班彪は、蔵書とは別の種本を持っていたはずだ。劉歆や揚雄を利用し、改竄したのではないか。『西京雑記』跋文の記事が、その裏づけとなる。以下、ぼくが適当に抄訳しました。

葛洪の家に、劉歆の『漢書』100巻がある。インデックスは付いておらず、甲乙丙丁・・・と巻数を示しただけ。劉歆は『漢書』を編もうとしたが、完成せずに亡んでしまった。だから完成版がなく、バラバラである。
班固の『漢書』と比較したとき、ほぼ同じである。班固が流用しなかったところは、2万文字ちょいだ。

班彪は、王莽讃美だけに気をつければ、不備を補充するだけで充分だった。

班彪は劉歆の『漢書』を、どんな要領・原則で取捨選択したか。
『漢書』は、董仲舒伝や東方朔伝で、列伝の題材とされた人物の著述を、原文に近いかたちで引用している。『史記』ではなく、劉氏の『漢書』を書き写した証拠だ。
なぜなら『史記』は、司馬談ができごと中心で書くことを好んだから、作品を要約・節略してしまうことが多かった。『史記』に原文はない。
『後漢書』の班彪伝上で、班彪はこう言った。

司馬遷は『史記』を書いた。性質の異なる『左氏春秋』や『国語』『世本』『戦国策』『楚漢春秋』を強引にまとめてしまった。ダメである。文献の原文を載せて、著者の真意を伝えることが、良心的だ。

班固も父と同じで、原典主義だった。

原文を引用するなら、資料批判が不可欠だ。仮託された文献、虚偽の資料を引用したら、美志があだになる。後世を誤らせる。
班氏の父子は、劉向が校定した資料を基礎にした。もちろん班氏が、自分で真偽を判定した証左もあるけど。張湯伝で、張良との血の繋がりを検討した跡がある。「先人の志」に後付けすることを警戒した。