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07) 劉平、王望、王扶、趙孝、淳于恭、江革、劉般

『後漢書』列伝29・劉平、王望、王扶、趙孝、淳于恭、江革、劉般
吉川忠夫氏の訳注にもとづき、読みます。

毛義

孔子曰:「夫孝莫大于嚴父,嚴父莫大于配天,則周公其人也。」子路曰:「傷哉貧也!生無以養,死無以葬。」子曰:「啜菽飲水,孝也。」夫鐘鼓非樂雲之本,而器不可去;三牲非致孝之主,而養不可廢。存器而忘本,樂之遁也;調器以和聲,樂之成也。崇養以傷行,孝之累也;修已以致祿,養之大也。故言能大養,則周公之祀,致四海之祭;言以義養,則仲由之菽,甘於東鄰之牲。夫患水菽之薄,幹祿以求養者,是以恥祿親也。存誠以盡行,孝積而祿厚者,此能以義養也。

孔子はいう。「孝」がたいせつだ。

中興,廬江毛義少節,家貧,以孝行稱。南陽人張奉慕其名,往候之。坐定而府檄適至,以義守令,義奉檄而入,喜動顏色。奉者,志尚士也,心賤之,自恨來,固辭而去。及義母死,去官行服。數辟公府,為縣令,進退必以禮。後舉賢良,公車征,遂不至。張奉歎曰:「賢者固不可測。往日之喜,乃為親屈也。斯蓋所謂'家貧親老,不擇官而仕'者也。」建初中,章帝下詔褒寵義,賜穀千斛,常以八月長吏問起居,加賜羊酒。壽終於家。
推至誠以為行,行信於心而感於人,以成名受祿致禮,斯可謂能以孝養也。若夫江革、劉般數公者之義行,猶斯志也。撰其行事著於篇。

光武が中興して、廬江の毛義は、あざなを少節。家貧だが孝行をたたえらる。南陽の張奉は、毛義をしたい訪問した。召書がきて、毛義を安陽尉から、廬江の守令(県令みならい)とする。毛義は、任命をよろこんだ。張奉は志尚の士だ。毛義をいやしみ、毛義を去った。
毛義の母が死ぬと、服喪した。三公府に辟され、毛義は県令となる。のちに賢良となるが、毛義はつかず。張奉はいう。「賢者は、むずかしい。毛義が守令をよろこんだのは、親にラクさせるためだった。名誉の欲じゃなかった」と。
建初中(076-084)、章帝は毛義に賞賜した。壽終於家。
范曄はいう。毛義は、孝行だと名声があった。名声により、任官した。任官のおかげで、両親をやしなった。

劉平

劉平字公子,楚郡彭城人也。本名曠,顯宗後改為平。王莽時為郡吏,守CC41丘長,政教大行。其後每屬縣有劇賊,輒令平守之,所至皆理,由是一郡稱其能。

劉平は、あざなを公子。楚郡の彭城の人。本名は劉曠だが、顯宗ののち、劉平と改名した。王莽のとき郡吏。シ丘長を守す(下が上をかねる)。政教は大行した。のちに屬縣ごとに、劇賊(はげしい反乱)あり。すぐに劉平がたいらぐ。楚郡は、劉平の能力をたたえた。

更始時,天下亂,平弟仲為賊所殺。其後賊複忽然而至,平扶侍其母,奔走逃難。仲遺腹女始一歲,平抱仲女而棄其子。母欲還取之,平不聽,曰:「力不能兩活,仲不可以絕類。」遂去不顧,與母俱匿野澤中。平朝出求食,逢餓賊,將亨之,平叩頭曰:「今旦為老母求菜,老母待曠為命,願得先歸,食母畢,還就死。」因涕泣。賊見其至誠,哀而遣之。平還,既食母訖,因白曰:「屬與賊期,義不可欺。」遂還詣賊。眾皆大驚,相謂曰:「常聞烈士,乃今見之。子去矣,吾不忍食子。」於是得全。

更始のとき、劉平の弟・劉仲は、賊に殺された。にげるとき劉平は、弟の娘をたすけ、自分の子を捨てた。
のちに飢えた賊にあう。劉平は叩頭した。「老母に食糧を届けたい。届けおわったら、もどる。私をたべろ」と。劉平がもどると、賊は劉平をころさず。「烈士を食らうのは、しのびず」と。

建武初,平狄將軍龐萌反于彭城,攻敗郡守孫萌。平時複為郡吏,冒白刃伏萌身上,被七創,困頓不知所為,號泣請曰:「願以身代府君。」賊乃斂兵止,曰:「此義士也,勿殺。」遂解去。萌傷甚氣絕,有頃蘇,渴求飲,平傾其創血以飲之。後數日萌竟死,平乃裹創,扶送萌喪,至其本縣。

建武初、平狄將軍の龐萌が、彭城でそむく。はじめ彭越太守の孫萌がやぶれた。劉平は、郡吏だ。白刃をおかし、孫萌の身をおおう。10傷をうけた。劉平は号泣して「太守の孫萌の、身代わりになりたい」と。賊は「義士を殺せない」という。キズのため気絶した。のどが乾き、自分の血を飲んだ。数日、孫萌が死んだ。孫萌の死体を、本縣までとどけた。

後舉孝廉,拜濟陰郡丞,太守劉育甚重之,任以郡職,上書薦平。會平遭父喪去官。服闋,拜全椒長。政有恩惠,百姓懷感,人或增貲就賦,或減年從役。刺使、太守行部,獄無系囚,人自以得所,不知所問,唯班詔書而去。後以病免。
顯宗初,尚書僕射鐘離意上書薦平及琅邪王望、東萊王扶曰:「臣竊見琅邪王望、楚國劉曠、東萊王扶,皆年七十,執性恬淡,所居之處,邑裏化之,修身行義,應在朝次。臣誠不足知人,竊慕推士進賢之義。」書奏,有詔征平等,特賜辦裝錢。至皆拜議郎,並數引見。平再遷侍中,永平三年,拜宗正,數薦達名士承宮、郇恁等。在位八年,以老病上疏乞骸骨,卒於家。

のちに孝廉にあがり、濟陰郡丞。太守の劉育に、郡職を一任された。上書して、すすめられた。父が死に、去官。喪があけ、全椒長。資産をおおく申告し、税金をおおく納める人がいた。年齢をへらして申告し、労役につく老人がいた。刺史や太守は、囚人がいないので、劉平の職務につき、チェックする内容がない。病免。
明帝のはじめ、尚書僕射の鐘離意は、劉平、瑯邪の王望、東莱の王扶を、朝廷にすすめた。以下略。

鐘離意が劉平とならべた、王望、王扶

王望字慈卿,客授會稽,自議郎遷青州刺史,甚有威名,是時,州郡災旱,百姓窮荒,望行部,道見饑者,裸行草食,五百餘人,湣然哀之,因以便宜出所在布粟,給其廩糧,為作褐衣。事畢上言,帝以望不先表請,章示百官,詳議其罪。時公卿皆以為望之專命,法有常條。
鐘離意獨曰:「昔華元、子反,楚、宋之良臣,不稟君命,擅平二國,《春秋》之義,以為美談。今望懷義忘罪,當仁不讓,若繩之以法,忽其本情,將乖聖朝愛育之旨。」帝嘉意議,赦其不罪。

王望は、あざなを慈卿。會稽に客授した。議郎から、青州刺史へ。州郡は災旱し、百姓は窮荒した。王望は、麻布と穀物を、皇帝にことわらず、ほどこした。百官は、王望の罪とした。
鐘離意だけが、王望をほめた。皇帝は、鐘離意にしたがい、王望を罪せず。

王扶字子元,掖人也。少修節行,客居琅邪不其縣,所止聚落化其德。國相張宗謁請,不應,欲強致之,遂杖策歸鄉里。連請,固病不起。太傅鄧禹辟,不至。後拜議郎,會見,恂恂似不能言。然性沈正,不可幹以非義,當世高之。永平中,臨邑侯劉複著《漢德頌》,盛稱扶為名臣雲。

王扶は、あざなを子元。掖の人。琅邪の不其縣に客居した。國相の張宗に謁請されたが、あわず。強制されたので、帰郷した。太傅の鄧禹が辟したが、いたらず。のち議郎。恭順な顔で、何もいわない。永平中(058-075)、臨邑侯の劉複は《漢德頌》をかき、王扶を名臣といった。

趙孝

趙孝字長平,沛國蘄人也。父普,王莽時為田禾將軍,任孝為郎。每告歸,常白衣步擔。嘗從長安還,欲止郵亭。亭長先時聞孝當過,以有長者客,掃灑待之。孝既至,不自名,長不肯內,因問曰:「聞田禾將軍子當從長安來,何時至乎?」孝曰:「尋到矣。」於是遂去。

趙孝は、あざなを長平。沛國の蘄の人。父の趙普は、王莽の田禾將軍。趙孝を郎とす。休暇のとき、白衣で徒歩だ。長安から帰り、郵亭の亭長にとどめられた。亭長は趙孝に「趙普の子・趙孝が、ここを通るらしい。いつかな」と、聞く。趙孝は(服装が粗末で、自分だと気づかれないので)、「やがて到らん」という。

及天下亂,人相食。孝弟禮為餓賊所得,孝聞之,即自縛詣賊,曰:「禮久餓羸瘦,不如孝肥飽。」賊大驚,並放之,謂曰:「可且歸,更持米E05F來。」孝求不能得,複往報賊,願就亨。眾異之,遂不害。鄉常服其義。州郡辟召,進退必以禮。舉孝廉,不應。
永平中,辟太尉府,顯宗素聞其行,詔拜諫議大夫,遷侍中,又遷長樂衛尉。複征弟禮為禦史中丞。禮亦恭謙行已,類於孝。帝嘉其兄弟篤行,欲寵異之,詔禮十日一就衛尉府,太官送供具,令共相對盡歡。數年,禮卒,帝令孝從官屬送喪歸葬。後歲余,複以衛尉賜告歸,卒於家。孝無子,拜禮兩子為郎。

天下が乱れ、人が食いあう。趙孝の弟・趙禮が、飢えた賊にとらわれた。みずから趙孝は縛り「弟より私のほうが、肥えておいしい」という。賊はおどろき「きみら兄弟を食べない。帰って、米をもってこい」という。州郡と孝廉におうじず。
永平(058-075)、趙孝と、弟の趙礼は高官となる。

王琳、魏譚、児萌、車成ら、食べられる人々

時,汝南有王琳巨尉者,年十余歲喪父母。因遭大亂,百姓奔逃,惟琳兄弟獨守塚廬,號泣不絕。弟季,出遇赤眉,將為所哺,琳自縛,請先季死,賊矜而放遣,由是顯名鄉邑。後辟司徒府,薦士而退。

ときに汝南の王琳、あざなは巨尉がいた。10余歳で、父母が死ぬ。大亂のとき、王琳の兄弟はにげず、両親の塚廬をまもる。弟の王季が、赤眉に食われそうになった。みずから王琳はしばり「弟より先に、私を食べろ」という。賊は食わず。のちに司徒府に辟されたが、他の士人をすすめて、ひく。

琅邪魏譚少閑者,時亦為饑寇所獲,等輩數十人皆束縛,以次當亨。賊見譚似謹厚,獨令主B261,暮輒執縛。
賊有夷長公,特哀念譚,密解其縛,語曰:「汝曹皆應就食,急從此去。」對曰:「譚為諸君B261,恒得遺余,餘人皆菇草萊,不如食我。」長公義之,相曉赦遣,並得俱免。譚永平中為主家令。

琅邪の魏譚、あざなは少閑は、饑寇にとらわれた。等輩の數十人とともに、しばられ、順番に亨らる。賊は、魏譚が謹厚なので、食糧の調理をしきらせた。日暮れ、また魏譚はしばられた。
賊の夷長公は、魏譚をあわれみ「にげろ」という。魏譚は賊に「私は調理をまかされた。きみらの残飯にありついた。きみらは、私を食べるがよい」と。賊は、魏譚を義として、にがした。永平中、主家令(公主家の令=執事)。

又齊國児萌子明、梁郡車成子威二人,兄弟並見執於赤眉,將食之,萌、成叩頭,乞以身代,賊亦哀而兩釋焉。

また齊國の児萌、あざなは子明と、梁郡の車成、あざなは子威の2人は。兄弟とともに、赤眉にとらわれた。食われるとき、叩頭して「兄弟の代わりに、私を食え」という。赤眉は、くわず。

淳于恭

淳于恭字孟孫,北海淳於人也。善說《老子》,清靜不慕榮名。家有山田果樹,人或侵盜,輒助為收采。又見偷刈禾者,恭念其愧,因伏草中,盜去乃起,裏落化之。

淳于恭は、あざなを孟孫。北海の淳於の人。よく《老子》をとく。家の山田果樹がぬすまれると、盗賊を手伝って、収穫した。稲を盗み刈られるのを見つけた。盜人が恥じぬように、草のなかにかくれた。

王莽末,歲饑兵起,恭兄崇將為盜所亨,恭請代,得俱免。後崇卒,恭養孤幼,教誨學問,有不如法,輒反用杖自B258,以感悟之,兒慚而改過。初遭賊寇,百姓莫事農桑。恭常獨力田耕,鄉人止之曰:「時方淆亂,死生未分,何空自苦為?」恭曰:「縱我不得,他人何傷。」墾耨不輟。

王莽末、淳于恭の兄・淳于崇が、盗賊に亨られそう。淳于恭は「兄に代わりたい」という。死なずにすんだ。のちに兄の子を教育し、無法をやめさせた。
賊にあらされ、百姓は農桑せず。淳于恭だけは、田耕した。鄉人が「生死がさだかでない。自分で食べられないかも知れないのに、なぜ苦労して、農業をするか」と、とどめた。淳于恭は「私じゃなくても、誰かが食べる」と。雑草とりを、やめず。

後州郡連召,不應,遂幽居養志,潛於山澤。舉動周旋,必由禮度。建武中,郡舉孝廉,司空辟,皆不應,客隱琅邪黔陬山,遂數十年。
建初元年,肅宗下詔美恭素行,告郡賜帛二十匹,遣詣公車,除為議郎。引見極日,訪以政事,遷侍中騎都尉,禮待甚優。其所薦名賢,無不徵用。進對陳政,皆本道德,帝與之言,未嘗不稱善。五年,病篤,使者數存問,卒於官。詔書褒歎,賜穀千斛,刻石表閭。除子孝為太子舍人。

州郡におうじず。建武中(025-056)、郡は孝廉にあげた。司空が辟した。おうじず。客として、琅邪の黔陬山にかくれた。數十年。076年、章帝が、、はぶく。

江革

江革字次翁,齊國臨淄人也。少失父,獨與母居。遭天下亂,盜賊並起,革負母逃難,備經阻險,常采拾以為養。數遇賊,或劫欲將去,革輒涕泣求哀,言有老母,辭氣願款,有足感動人者。賊以是不忍犯之,或乃指避兵之方,遂得俱全於難。革轉客下邳,窮貧裸跣,行傭以供母,便身之物,莫不必給。

江革は、あざなを次翁。齊國臨淄人也。天下がみだれ、母をせおった。盗賊にあっても「老母があるので、たすけて」と涕泣して、生きのびた。下邳に客して、はだかで日雇い労働した。母は、不自由せず。

建武末年,與母歸鄉里。每至歲時,縣當案比,革以母老,不欲搖動,自在轅中挽車,不用牛馬,由是鄉里稱之曰「江巨孝」。太守嘗備禮召,革以母老不應。及母終,至性殆滅,嘗寢伏塚廬,服竟,不忍除。郡守遣丞掾釋服,因請以為吏。
永平初,舉孝廉為郎,補楚太僕。(以下略)

建武末年(056)、母と帰郷した。戸籍の長沙で、老母をみせて感動された。牛馬をつかわず、みずから母をはこぶ。太守は、礼をそなえて召したが「老母がいるので」と、おうじず。母が死ぬと、江革も死にそうになる。郡吏となる。

ぼくは思う。なんだこいつ?、という程度の話でしたが。あとの皇帝のとき、活躍するのです。光武の時期は、母と暮らして、おしまい。


劉般

劉般字伯興,宣帝之玄孫也。宣帝封子囂于楚,是為孝王。孝王生思王衍,衍生王紆,紆生般。自囂至般,積累仁義,世有名節,而紆尤慈篤。早失母,同產弟原鄉侯平尚幼,紆親自鞠養,常與共臥起飲食。及成人,未嘗離左右。平病卒,紆哭泣歐血,數月亦歿。初,紆襲王封,因值王莽篡位,廢為庶人,因家于彭城。

劉般は、あざなを伯興。宣帝の玄孫だ。積累、仁義あり。劉般の父は、劉紆。劉紆の母が死に、同母弟の劉平がおさない。成人しても、家族べったり。弟の劉平が死ぬと、劉紆は血をはき、劉紆も死んだ。王莽により、劉紆は庶人となっていた。彭越にすむ。

般數歲而孤,獨與母居。王莽敗,天下亂,太夫人聞更始即位,乃將般俱奔長安。會更始敗,複與般轉側兵革中,西行上隴,遂流至武威。般雖尚少,而篤志修行,講誦不怠。其母及諸舅,以為身寄絕域,死生未必,不宜苦精若此,數以曉般,般猶不改其業。

劉般は、数歳で、父の劉紆が死んだ。母とくらす。母は「更始が長安にいる。長安にゆこう」という。更始が敗れると、戦乱をうろうろ。上隴、武威。生死があきらかでないが、劉般は勉強をつづけた。

ぼくは思う。前漢の皇族が、どうふるまったか、よくわかる。長安に更始がいて、支持をあつめたのは、こういう「どこに行ったらいいか、分からない」人たちが多かったからだろう。


建武八年,隗囂敗,河西始通,般即將家屬東至洛陽,修經學于師門。明年,光武下詔,封般為CC41丘侯,奉孝王祀,使就國。後以國屬楚王,徙封杼秋侯。
十九年,行幸沛,詔問郡中諸侯行能。太守薦言般束修至行,為諸侯師。帝聞而嘉之,乃賜般綬,錢百萬,繒二百匹。二十年,複與車駕會沛,因從還洛陽,賜穀什物,留為侍祠侯。
永平元年,以國屬沛,徙封居巢侯,複隨諸侯就國。(以下略)

建武八年(032)、隗囂がやぶれた。河西が開通した。劉般は家属をひきい、洛陽へゆく。經學を師門にまなぶ。明年、光武は劉般をシ丘侯として、祖先をまつらす。国にゆかす。国が楚王にふくまれたので、杼秋侯にうつる。
十九年(043)、光武は沛郡へゆく。諸侯の行能を問う。沛郡太守は、劉般をほめた。「諸侯の模範です」と。044年、光武が沛郡にきた。劉般は、ともに洛陽へゆく。 永平元年(058)、国が沛郡に属するので、居巢侯にうつる。以下、はぶく。

つぎは、大本命の班彪伝。この列伝は、バラバラだったなあ。