07) 劉平、王望、王扶、趙孝、淳于恭、江革、劉般
『後漢書』列伝29・劉平、王望、王扶、趙孝、淳于恭、江革、劉般
吉川忠夫氏の訳注にもとづき、読みます。
毛義
孔子はいう。「孝」がたいせつだ。
推至誠以為行,行信於心而感於人,以成名受祿致禮,斯可謂能以孝養也。若夫江革、劉般數公者之義行,猶斯志也。撰其行事著於篇。
光武が中興して、廬江の毛義は、あざなを少節。家貧だが孝行をたたえらる。南陽の張奉は、毛義をしたい訪問した。召書がきて、毛義を安陽尉から、廬江の守令(県令みならい)とする。毛義は、任命をよろこんだ。張奉は志尚の士だ。毛義をいやしみ、毛義を去った。
毛義の母が死ぬと、服喪した。三公府に辟され、毛義は県令となる。のちに賢良となるが、毛義はつかず。張奉はいう。「賢者は、むずかしい。毛義が守令をよろこんだのは、親にラクさせるためだった。名誉の欲じゃなかった」と。
建初中(076-084)、章帝は毛義に賞賜した。壽終於家。
范曄はいう。毛義は、孝行だと名声があった。名声により、任官した。任官のおかげで、両親をやしなった。
劉平
劉平は、あざなを公子。楚郡の彭城の人。本名は劉曠だが、顯宗ののち、劉平と改名した。王莽のとき郡吏。シ丘長を守す(下が上をかねる)。政教は大行した。のちに屬縣ごとに、劇賊(はげしい反乱)あり。すぐに劉平がたいらぐ。楚郡は、劉平の能力をたたえた。
更始のとき、劉平の弟・劉仲は、賊に殺された。にげるとき劉平は、弟の娘をたすけ、自分の子を捨てた。
のちに飢えた賊にあう。劉平は叩頭した。「老母に食糧を届けたい。届けおわったら、もどる。私をたべろ」と。劉平がもどると、賊は劉平をころさず。「烈士を食らうのは、しのびず」と。
建武初、平狄將軍の龐萌が、彭城でそむく。はじめ彭越太守の孫萌がやぶれた。劉平は、郡吏だ。白刃をおかし、孫萌の身をおおう。10傷をうけた。劉平は号泣して「太守の孫萌の、身代わりになりたい」と。賊は「義士を殺せない」という。キズのため気絶した。のどが乾き、自分の血を飲んだ。数日、孫萌が死んだ。孫萌の死体を、本縣までとどけた。
顯宗初,尚書僕射鐘離意上書薦平及琅邪王望、東萊王扶曰:「臣竊見琅邪王望、楚國劉曠、東萊王扶,皆年七十,執性恬淡,所居之處,邑裏化之,修身行義,應在朝次。臣誠不足知人,竊慕推士進賢之義。」書奏,有詔征平等,特賜辦裝錢。至皆拜議郎,並數引見。平再遷侍中,永平三年,拜宗正,數薦達名士承宮、郇恁等。在位八年,以老病上疏乞骸骨,卒於家。
のちに孝廉にあがり、濟陰郡丞。太守の劉育に、郡職を一任された。上書して、すすめられた。父が死に、去官。喪があけ、全椒長。資産をおおく申告し、税金をおおく納める人がいた。年齢をへらして申告し、労役につく老人がいた。刺史や太守は、囚人がいないので、劉平の職務につき、チェックする内容がない。病免。
明帝のはじめ、尚書僕射の鐘離意は、劉平、瑯邪の王望、東莱の王扶を、朝廷にすすめた。以下略。
鐘離意が劉平とならべた、王望、王扶
鐘離意獨曰:「昔華元、子反,楚、宋之良臣,不稟君命,擅平二國,《春秋》之義,以為美談。今望懷義忘罪,當仁不讓,若繩之以法,忽其本情,將乖聖朝愛育之旨。」帝嘉意議,赦其不罪。
王望は、あざなを慈卿。會稽に客授した。議郎から、青州刺史へ。州郡は災旱し、百姓は窮荒した。王望は、麻布と穀物を、皇帝にことわらず、ほどこした。百官は、王望の罪とした。
鐘離意だけが、王望をほめた。皇帝は、鐘離意にしたがい、王望を罪せず。
王扶は、あざなを子元。掖の人。琅邪の不其縣に客居した。國相の張宗に謁請されたが、あわず。強制されたので、帰郷した。太傅の鄧禹が辟したが、いたらず。のち議郎。恭順な顔で、何もいわない。永平中(058-075)、臨邑侯の劉複は《漢德頌》をかき、王扶を名臣といった。
趙孝
趙孝は、あざなを長平。沛國の蘄の人。父の趙普は、王莽の田禾將軍。趙孝を郎とす。休暇のとき、白衣で徒歩だ。長安から帰り、郵亭の亭長にとどめられた。亭長は趙孝に「趙普の子・趙孝が、ここを通るらしい。いつかな」と、聞く。趙孝は(服装が粗末で、自分だと気づかれないので)、「やがて到らん」という。
永平中,辟太尉府,顯宗素聞其行,詔拜諫議大夫,遷侍中,又遷長樂衛尉。複征弟禮為禦史中丞。禮亦恭謙行已,類於孝。帝嘉其兄弟篤行,欲寵異之,詔禮十日一就衛尉府,太官送供具,令共相對盡歡。數年,禮卒,帝令孝從官屬送喪歸葬。後歲余,複以衛尉賜告歸,卒於家。孝無子,拜禮兩子為郎。
天下が乱れ、人が食いあう。趙孝の弟・趙禮が、飢えた賊にとらわれた。みずから趙孝は縛り「弟より私のほうが、肥えておいしい」という。賊はおどろき「きみら兄弟を食べない。帰って、米をもってこい」という。州郡と孝廉におうじず。
永平(058-075)、趙孝と、弟の趙礼は高官となる。
王琳、魏譚、児萌、車成ら、食べられる人々
ときに汝南の王琳、あざなは巨尉がいた。10余歳で、父母が死ぬ。大亂のとき、王琳の兄弟はにげず、両親の塚廬をまもる。弟の王季が、赤眉に食われそうになった。みずから王琳はしばり「弟より先に、私を食べろ」という。賊は食わず。のちに司徒府に辟されたが、他の士人をすすめて、ひく。
賊有夷長公,特哀念譚,密解其縛,語曰:「汝曹皆應就食,急從此去。」對曰:「譚為諸君B261,恒得遺余,餘人皆菇草萊,不如食我。」長公義之,相曉赦遣,並得俱免。譚永平中為主家令。
琅邪の魏譚、あざなは少閑は、饑寇にとらわれた。等輩の數十人とともに、しばられ、順番に亨らる。賊は、魏譚が謹厚なので、食糧の調理をしきらせた。日暮れ、また魏譚はしばられた。
賊の夷長公は、魏譚をあわれみ「にげろ」という。魏譚は賊に「私は調理をまかされた。きみらの残飯にありついた。きみらは、私を食べるがよい」と。賊は、魏譚を義として、にがした。永平中、主家令(公主家の令=執事)。
また齊國の児萌、あざなは子明と、梁郡の車成、あざなは子威の2人は。兄弟とともに、赤眉にとらわれた。食われるとき、叩頭して「兄弟の代わりに、私を食え」という。赤眉は、くわず。
淳于恭
淳于恭は、あざなを孟孫。北海の淳於の人。よく《老子》をとく。家の山田果樹がぬすまれると、盗賊を手伝って、収穫した。稲を盗み刈られるのを見つけた。盜人が恥じぬように、草のなかにかくれた。
王莽末、淳于恭の兄・淳于崇が、盗賊に亨られそう。淳于恭は「兄に代わりたい」という。死なずにすんだ。のちに兄の子を教育し、無法をやめさせた。
賊にあらされ、百姓は農桑せず。淳于恭だけは、田耕した。鄉人が「生死がさだかでない。自分で食べられないかも知れないのに、なぜ苦労して、農業をするか」と、とどめた。淳于恭は「私じゃなくても、誰かが食べる」と。雑草とりを、やめず。
建初元年,肅宗下詔美恭素行,告郡賜帛二十匹,遣詣公車,除為議郎。引見極日,訪以政事,遷侍中騎都尉,禮待甚優。其所薦名賢,無不徵用。進對陳政,皆本道德,帝與之言,未嘗不稱善。五年,病篤,使者數存問,卒於官。詔書褒歎,賜穀千斛,刻石表閭。除子孝為太子舍人。
州郡におうじず。建武中(025-056)、郡は孝廉にあげた。司空が辟した。おうじず。客として、琅邪の黔陬山にかくれた。數十年。076年、章帝が、、はぶく。
江革
江革は、あざなを次翁。齊國臨淄人也。天下がみだれ、母をせおった。盗賊にあっても「老母があるので、たすけて」と涕泣して、生きのびた。下邳に客して、はだかで日雇い労働した。母は、不自由せず。
永平初,舉孝廉為郎,補楚太僕。(以下略)
建武末年(056)、母と帰郷した。戸籍の長沙で、老母をみせて感動された。牛馬をつかわず、みずから母をはこぶ。太守は、礼をそなえて召したが「老母がいるので」と、おうじず。母が死ぬと、江革も死にそうになる。郡吏となる。
劉般
劉般は、あざなを伯興。宣帝の玄孫だ。積累、仁義あり。劉般の父は、劉紆。劉紆の母が死に、同母弟の劉平がおさない。成人しても、家族べったり。弟の劉平が死ぬと、劉紆は血をはき、劉紆も死んだ。王莽により、劉紆は庶人となっていた。彭越にすむ。
劉般は、数歳で、父の劉紆が死んだ。母とくらす。母は「更始が長安にいる。長安にゆこう」という。更始が敗れると、戦乱をうろうろ。上隴、武威。生死があきらかでないが、劉般は勉強をつづけた。
十九年,行幸沛,詔問郡中諸侯行能。太守薦言般束修至行,為諸侯師。帝聞而嘉之,乃賜般綬,錢百萬,繒二百匹。二十年,複與車駕會沛,因從還洛陽,賜穀什物,留為侍祠侯。
永平元年,以國屬沛,徙封居巢侯,複隨諸侯就國。(以下略)
建武八年(032)、隗囂がやぶれた。河西が開通した。劉般は家属をひきい、洛陽へゆく。經學を師門にまなぶ。明年、光武は劉般をシ丘侯として、祖先をまつらす。国にゆかす。国が楚王にふくまれたので、杼秋侯にうつる。
十九年(043)、光武は沛郡へゆく。諸侯の行能を問う。沛郡太守は、劉般をほめた。「諸侯の模範です」と。044年、光武が沛郡にきた。劉般は、ともに洛陽へゆく。
永平元年(058)、国が沛郡に属するので、居巢侯にうつる。以下、はぶく。
つぎは、大本命の班彪伝。この列伝は、バラバラだったなあ。