-後漢 > 『資治通鑑』巻14 漢文帝の中を抄訳 (前177-170)

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前三年(前177) 済北王の謀反、張釈之の登用

前177夏、文帝の弟・淮南王が仇討

冬,十月,丁酉晦,日有食之。十一月,丁卯晦,日有食之。
詔曰:「前遣列侯之國,或辭未行。丞相,朕之所重,其為朕率列侯之國!」十二月,免丞相勃,遣就國。乙亥,以太尉灌嬰為丞相;罷太尉官,屬丞相。

冬10月と11月に日食あり。
詔した。「まえに列侯を国に行かせたが、まだ行かない者がいる。丞相は私が重んじる者である。私のために列侯をひきいて国にゆけ」と。
12月、周勃を丞相から免じて、国にゆかせた。乙亥、太尉の灌嬰を丞相とした。太尉の官職を廃止して、丞相に属させた。

夏,四月,城陽景王章薨。
初,趙王敖獻美人於高祖,得幸,有娠。及貫高事發,美人亦坐系河內。美人母弟趙兼因辟陽侯審食其言呂后,呂後妒,弗肯白。美人已生子,恚,即自殺。吏奉其子詣上,上悔,名之曰長,令呂后母之,而葬其母真定。後封長為淮南王。

夏4月、城陽景王の劉章が薨じた。
はじめ、趙王の張敖は、美人を高祖に献じて、妊娠した。貫高の事が明らかになると(高祖九年)、美人もまた連座して河内にゆく。美人の母弟である趙兼は、辟陽侯の審食其をつうじて呂后に言った。呂后はねたみ、河内ゆきを許さない。美人は子を産んでから、自殺した。吏が高祖に子をとどけると、高祖は悔やんで、劉長と名づけ、呂后を母とした。実母の美人を真定に葬った。劉長は、のちに淮南王となった。

淮南王蚤失母,常附呂後,故孝惠、呂后時得無患;而常心怨辟陽侯,以為不強爭之於呂后,使其母恨而死也。及帝即位,淮南王自以最親,驕蹇,數不奉法;上常寬假之。是歲,入朝,從上入苑囿獵,與上同車,常謂上「大兄」。王有材力,能扛鼎。乃往見辟陽侯,自袖鐵椎椎辟陽侯,令從者魏敬剄之;馳走闕下,肉袒謝罪。帝傷其志為親,故赦弗治。當是時,薄太后及太子、諸大臣皆憚淮南王。淮南王以此,歸國益驕恣,出入稱警蹕,稱制擬於天子。袁盎諫曰:「諸侯太驕,必生患。」上不聽。

淮南王は母がいないが、呂后をしたったので、恵帝期と呂太后期を生き延びた。だが心では、審食其を怨みつづけた。
漢文帝が即位すると、淮南王はもっとも親しいから(生き残った兄弟は2人だけ)、驕蹇して、しばしば法を犯した。だが漢文帝はゆるした。この歳に入朝して、漢文帝に従って苑に入って囿獵した。漢文帝と同じ車にのり、漢文帝を「大兄」とよんだ。淮南王には腕力があり、鼎を持ち上げられた。
辟陽侯を見かけると、鉄のツチで辟陽侯を打ち、従者の魏敬にくびきらせた。闕下に馳走し、肉袒して謝罪した。漢文帝は(母の仇討に)共感してゆるした。このとき薄太后と太子・諸大臣は、みな淮南王をはばかった。淮南王は、帰国してますます驕恣となり、出入するときは警蹕を称して、稱制は天子になぞらえた。袁盎はいさめた。「諸侯がひどく驕れば、必ず患いを生じる」と。漢文帝は聴かず。

淮南王の謀反の張本である。


前177夏、東牟侯の劉興居が謀反

五月,匈奴右賢王入居河南地,侵盜上郡保塞蠻夷,殺略人民。上幸甘泉。遣丞相灌嬰發車騎八萬五千,詣高奴擊右賢王;發中尉材官屬衛將軍,軍長安。右賢王走出塞。
上自甘泉之高奴,因幸太原,見故群臣,皆賜之;復晉陽、中都民三歲租。留游太原十餘日。

5月、匈奴の右賢王が河南の地に入って住む。上郡の蠻夷を保塞したところ侵盜して、人民を殺略した。漢文帝は甘泉にゆく。丞相の灌嬰に車騎の八萬五千を動員させ、高奴で右賢王を撃たせた。中尉・材官は衛將軍に属して?、長安に進軍した。右賢王はにげて出塞した。
漢文帝は、甘泉から高奴にゆき、太原にゆき、もとの群臣に会って、賜与した。晋陽・中都の民に、3年分の租を免除した。太原に留まり游ぶこと十余日。

宋白はいう。漢文帝は代王となると、中都を都とした。もとの封地なのだ。


初,大臣之誅諸呂也,朱虛侯功尤大。大臣許盡以趙地王朱虛侯,盡以梁地王東牟侯。及帝立,聞朱虛、東牟之初欲立齊王,故絀其功,及王諸子,乃割齊二郡以王之。興居自以失職奪功,頗怏怏;聞帝幸太原,以為天子且自擊胡,遂發兵反。帝聞之,罷丞相及行兵皆歸長安,以棘浦侯柴武為大將軍,將四將軍、十萬眾擊之;祁侯繒賀為將軍,軍滎陽。秋,七月,上自太原至長安。詔:「濟北吏民,兵未至先自定及以軍城邑降者,皆赦之,復官爵;與王興居去來者,赦之。」八月,濟北王興居兵敗,自殺。

はじめ呂氏を誅したとき、朱虚侯の劉章の功績がもっとも大きい。大臣は、趙地のすべてを朱虚侯に、梁地のすべてを東牟侯に領有することを許した。

趙地と梁地は、もとは呂氏の王が領有した場所。

漢文帝が立ち、朱虚侯と東牟侯が、はじめは斉王を天子にしたかったことを聞いた。漢文帝は2人の功績をけずる。斉の2郡を割いて、ほかの王や諸子を与えた。東牟侯の劉興居は、官職と功績をうばわれたので、むかついて、漢文帝が太原に匈奴を討ちにいくと、その隙に挙兵した。

東牟侯にしてみれば、せっかく呂氏を除いたのに、自分が恩恵を受けられない。もっともありがちな理由の起兵だ。

漢文帝は、丞相と行兵を長安にもどして、棘浦侯の柴武を大將軍として、10万で東牟侯を撃たせた。祁侯の繒賀を將軍として、滎陽に進軍させた。
秋7月、漢文帝は太原から長安にいたる。詔した。「済北の吏民で、兵がこないうちに城邑ごと降った者は、みな赦して官爵をもどす。済南王(東牟侯)劉興居とともに去来した(はじめは謀反に加わったが後で離脱した)者も赦す」と。

どういう人が赦されるか解釈が微妙らしく、胡注に拠る。

8月、済北王(東牟侯)劉興居の兵は敗れ、自殺した。

袁盎が推挙した名臣・張釈之

初,南陽張釋之為騎郎,十年不得調,欲免歸。袁盎知其賢而薦之,為謁者僕射。
釋之從行,登虎圈,上問上林尉諸禽獸簿。十餘問,尉左右視,盡不能對。虎圈嗇夫從旁代尉對。上所問禽獸簿甚悉,欲以觀其能;口對響應,無窮者。帝曰:「吏不當若是邪!尉無賴!」乃詔釋之拜嗇夫為上林令。釋之久之前,曰:「陛下以絳侯周勃何如人也?」上曰:「長者也。」又復問:「東陽侯張相如何如人也?」上復曰:「長者。」釋之曰:「夫絳侯、東陽侯稱為長者,此兩人言事曾不能出口,豈效此嗇夫喋喋利口捷給哉!且秦以任刀筆之吏,爭以亟疾苛察相高。其敝,徒文具而無實,不聞其過,陵遲至於土崩。今陛下以嗇夫口辨而超遷之,臣恐天下隨風而靡,爭為口辨而無其實。夫下之化上,疾於景響,舉錯不可不審也。」帝曰:「善!」乃不拜嗇夫。上就車,詔釋之參乘。徐行,問釋之秦之敝,具以質言。至宮,上拜釋之為公車令。

はじめ、南陽の張釈之は騎郎となるが、10年も選ばれず(官職を得られず)もう帰りたい。袁盎は、張釈之の賢さを知って薦め、謁者僕射とした。
張釈之が漢文帝に従行すると、虎圈に登った。漢文帝は、上林尉に、禽獸の帳簿について質問した。10余問を聞くが、全ては答えられない。虎圈の嗇夫が代わりに答えた。漢文帝がいじわるな質問をしても、全て淀みなく答えた。

ぼくは思う。周勃のときも同じだが、漢文帝は質問が好き。

漢文帝「吏がこのようでは(職務に関して知らないのでは)困る」と。張釈之に詔して、(何でも淀みなく答えられた)嗇夫を上林令にせよと命じた。
張釈之は漢文帝の前にでて、「絳侯の周勃はどんな人でしたか」と問う。漢文帝「長者だった」と。張釈之「東陽侯の張相如はどんな人ですか」と。漢文帝「長者である」と。張釈之「周勃と張相如は長者であるが、どちらも(職務について聞かれて)うまく回答できなかった(でも長者には変わりない)。秦家は、文書をつくる吏を登用したら、争って事実と異なることを記録して、けっきょく天下を失った。口がたつだけの嗇夫を登用したら、天下が争ってぺらぺらしゃべり、弊害になるだろう」と。漢文帝は(張釈之の意見を入れて)嗇夫を登用しなかった。
漢文帝は、張釈之を参乗させた。徐行して(一緒にいられる時間を稼ぎ)秦家の政治の失敗をきいた。宮につくと、張釈之を公車令にした。

頃之,太子與梁王共車入朝,不下司馬門。於是釋之追止太子、梁王,無得入殿門,遂劾「不下公門,不敬」,奏之。薄太后聞之;帝免冠,謝教兒子不謹。薄太后乃使使承詔赦太子、梁王,然後得入。帝由是奇釋之,拜為中大夫;頃之,至中郎將。
從行至霸陵,上謂群臣曰:「嗟乎!以北山石為槨,用紵絮昔斮陳漆其間,豈可動哉!」左右皆曰:「善!」釋之曰:「使其中有可欲者,雖錮南山猶有隙;使其中無可欲者,雖無石槨,又何戚焉!」帝稱善。

このころ、太子と梁王が、同乗して入朝し、司馬門で下車しない。張釈之は追って太子と梁王をとめ、殿門に入れずに、「下車しないのは不敬だ」と上奏した。薄太后はこれを聞く。漢文帝は冠をぬいで謝った。薄太后は、太子と梁王に詔を受けさせ、その後で入門させた。漢文帝は張釈之を奇特として、中大夫にした。中郎將にした。
張釈之が霸陵に従行する。漢文帝は郡臣にいう。「ああ、北山石で(私の)槨をつくり、紵絮をつかい斮陳はその間を漆でぬれば?すばらしいなあ」と。

胡注もよく分からなかったが、ともかく「厚葬されたいなあ!」と言ってる。

左右のものが「善いですね」という。張釈之「もし陵墓の内部に(盗賊が)欲しがる財宝があれば、南山の石で閉じても隙間ができる(盗掘の恐れがある)。もし陵墓の内部に欲しがるものがなければ、石槨がなくても(盗掘を)心配しなくてもよいのに」と。漢文帝は「よい意見だ」と称えた。

是歲,釋之為廷尉。上行出中渭橋,有一人從橋下走,乘輿馬驚。於是使騎捕之,屬廷尉。釋之奏當:「此人犯蹕,當罰金。」上怒曰:「此人親驚吾馬,馬賴和柔,令它馬,固不敗傷我乎!而廷尉乃當之罰金。」釋之曰:「法者,天下公共也。今法如是,更重之,是法不信於民也。且方其時,上使使誅之則已。今已下廷尉。廷尉,天下之平也,壹傾,天下用法皆為之輕重,民安所錯其手足!唯陛下察之。」上良久曰:「廷尉當是也。」

この歳、張釈之が廷尉となる。天子が、

いままで「漢文帝」としましたが、天子でいきます。

中渭橋に出ると、1人が橋の下から走って、天子の乗輿の馬がおどろいた。騎者がつかまえて、廷尉にわたす。張釈之は、「この人は蹕を犯したから、罰金である」という。天子は怒り、「この人は私の馬を驚かした。この馬は和柔な性格だから良かったものの、もし他の馬なら、私がケガしたかも知れない。それなのに廷尉は、ただの罰金とするか」と。張釈之「法は天下に公共なものです。法では罰金と定める罪です。法をやぶって罪を重くすれば、民は法を信じなくなる。もし天子がその場で誅殺すれば、それで済んだ。だが廷尉に引き渡したのだから、法どおりに裁く」と。しばらくして天子は「張釈之の言うとおり」と納得した。

其後人有盜高廟坐前玉環,得;帝怒,下廷尉治。釋之按「盜宗廟服御物者」為奏當:棄市。上大怒曰:「人無道,乃盜先帝器!吾屬廷尉者,欲致之族;而君以法奏之,非吾所以共承宗廟意也。」釋之免冠頓首謝曰:「法如是,足也。且罪等,然以逆順為差。今盜宗廟器而族之,有如萬分一,假令愚民取長陵一抔土,陛下且何以加其法乎?」帝乃白太后許之。

のちに高廟(高祖廟)の坐前にある玉環を盗んだ者がおり、捕まった。天子は怒り、廷尉に引き渡す。張釈之「宗廟の服御物を盗んだ者である」として「棄市せよ」と判決した。天子は大怒した。「人 無道にして、乃ち先帝の器を盜む。吾 廷尉に属けるは、之を族(族殺)に致さんと欲すればなり。而るに君 法を以て之を奏す。吾の宗廟を共に承くの意の所以に非ず」と。張釈之は免冠・頓首して謝した。「法 是の如きにして足る。且つ罪等、然して逆順を以て差と為す。今 宗廟の器を盜みて之を族せば、萬分して一の如きもの有り。假令 愚民 長陵の一抔の土を取るとも、陛下 且に何を以て其の法を加ふるや」と。
帝 乃ち太后に白して之を許す。140615

「宗廟から盗難すれば、棄市とする」という規則がある。それが誰の宗廟なのか、なにを盗難するのか、までは決まってないのだろう。高祖廟から、玉環を盗む、というのは1万分の1のレアケースである。レアケースのために、「宗廟から盗難すれば、族殺とする」とすれば、のこりの9999通りのときも、族殺にしなければならない。そんなの、法の運用として適切でないと。
1万分の1のひどいことをしたから、天子は族殺を望んだんだろうが。

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前四・五年(前176・175) 貨幣の鋳造を許す

文帝前四年(前176)周勃が誅殺されかかる

冬,十二月,穎陰懿侯灌嬰薨。
春,正月,甲午,以御史大夫陽武張蒼為丞相。蒼好書,博聞,尤邃律曆。

冬12月、穎陰懿侯の灌嬰が薨じた。
春正月甲午、御史大夫たる陽武の張蒼を丞相とした。張蒼は書を好み、博聞で、もっとも律曆に精通していた。

上召河東守季布,欲以為御史大夫。有言其勇、使酒、難近者;至,留邸一月,見罷。季布因進曰:「臣無功竊寵,待罪河東,陛下無故召臣,此人必有以臣欺陛下者。今臣至,無所受事,罷去,此人必有毀臣者。夫陛下以一人之譽而召臣,以一人之毀而去臣,臣恐天下有識聞之,有以窺陛下之淺深也!」上默然,慚,良久曰:「河東,吾股肱郡,故特召君耳。」

天子は、河東守の季布を召して、御史大夫にしたい。季布は発言に勇があり、酒を飲めば、天子に近づけられるような人物ではないという。
季布は長安にいたり、邸に1ヶ月留まるが、帰ってよいと言われた。
季布は進んでいう。「私は功績がないが、寵をぬすみ、罪を河東に待った。陛下は理由なく私を召したが、私の誤った評判を陛下に吹きこんだ者がいたのだろう。いま私は長安にきたが、仕事を任されず、去ることになった。誰かが私をそしったのだろう。陛下は、誰かの口添えで私を召し、誰かの口添えで私を去らせる。天下の識者がこれを聞けば、陛下の浅はかさを知るだろう」と。
天子は黙然と恥じ、しばらくして、「河東は、私の股肱の郡(もとの封地)である。ゆえに特別にきみを召したのだよ」と言った。

天子がごまかしたのだ。わりに人間味があるひと!


上議以賈誼任公卿之位。大臣多短之曰:「洛陽之人,年少初學,專欲擅權,紛亂諸事。」於是天子後亦疏之,不用其議,以為長沙王太傅。

天子は議して、賈誼を公卿の位につけたい。大臣の多くは賈誼をそしった。「洛陽の人は、年少で学びはじめ、もっぱら権力を振るいたくて、諸事を紛乱させる」と。
天子も賈誼をうとみ、賈誼の登用をやめて、長沙王(呉差)の太傅にした。

絳侯周勃既就國,每河東守、尉行縣至絳,勃自畏恐誅,常被甲,令家人持兵以見之。其後人有上書告勃欲反,下廷尉。廷尉逮捕勃,治之。勃恐,不知置辭。吏稍侵辱之,勃以千金與獄吏,獄吏乃書牘背示之曰:「以公主為證。」公主者,帝女也,勃太子勝之尚之。薄太后亦以為勃無反事。帝朝太后,太后以冒絮提帝曰:「絳侯始誅諸呂,綰皇帝璽,將兵於北軍,不以此時反,今居一小縣,顧欲反邪?」帝既見絳侯獄辭,乃謝曰:「吏方驗而出之。」於是使使持節赦絳侯,復爵邑。絳侯既出,曰:「吾嘗將百萬軍,然安知獄吏之貴乎!」
作顧成廟。

絳侯の周勃は、すでに封国にゆく。つねに河東の守と尉は、県をめぐって絳県にゆく。

河東郡の長官と次官が、周勃にあいにいく。周勃の封地が、河東の配下にある。

周勃は誅されるのを恐れて、いつも武装して面会した。のちに人が「周勃は謀反しそうだから、廷尉にくだせ」と上書した。廷尉は周勃を逮捕した。周勃は恐れ、言うべきことが分からない。吏は周勃を侵辱した。周勃は、千金を獄吏にあたえた。獄吏は木簡に「公主(天子の娘)が証人である(周勃に反意はない)」と。周勃の太子の周勝之は、公主をめとっていた。薄太后もまた、周勃に反意がないと思った。
天子は太后に会ったとき、太后は(怒って)頭上の巾で天子を打って、「絳侯は、はじめ諸呂を誅して、皇帝の璽と北軍を掌握したときも、漢家に反さなかった。いま1つの小県にいて、どうして反するものか」と。天子は、獄吏の文書を見ていたから、謝って「吏に(無実を)証明させて出獄させる」と言った。持節した使者をやり、周勃をゆるして、爵邑をもどした。周勃は出獄してから、「私はかつて1百万の軍をひきいた。そのときは、1人の獄吏の貴さを知らなかった」と。

獄吏に賄賂をおくり、口添えをしてもらって、出獄できたから。

顧成廟をつくった。

463頁にこれが何なのかの胡注あり。


文帝前五年(前175)貨幣の鋳造を自由化

春,二月,地震。
初,秦用半兩錢,高祖嫌其重,難用,更鑄莢錢。於是物價騰踴,米至石萬錢。夏,四月,更造四銖錢,除盜鑄錢令,使民得自鑄。

春2月、地震あり。
はじめ秦では半両錢をつかう。高祖は、重くて使いにくいのを嫌って、莢錢(五分銭)に改鋳した。(貨幣価値がさがったために)物価が高騰した。夏4月、改めて四銖銭をつくり、盜鑄錢令を除き、民がみずから銭を鋳造できるようにした。

賈誼諫曰:「法使天下公得雇租鑄銅、錫為錢,敢雜以鉛、鐵為它巧者,其罪黥。然鑄錢之情,非殽雜為巧,則不可得贏;而殽之甚微,為利其厚。夫事有召禍而法有起奸;今令細民人操造幣之勢,各隱屏而鑄作,因欲禁其厚利微奸,雖黥罪日報,其勢不止。乃者,民人抵罪多者一縣百數,及吏之所疑搒笞奔走者甚眾。夫縣法以誘民,使入隱阱,孰多於此!又民用錢,郡縣不同:或用輕錢,百加若干;或用重錢,平稱不受。法錢不立,吏急而壹之乎?則大為煩苛而力不能勝;縱而弗呵乎?則市肆異用,錢文大亂;苟非其術,何鄉而可哉!今農事棄捐而采銅者日蕃,釋其耒耨,冶熔炊炭;奸錢日多,五穀不為多。善人怵而為姦邪,願民陷而之刑戮;刑戮將甚不詳,奈何而忽!國知患此,吏議必曰『禁之』。禁之不得其術,其傷必大。令禁鑄錢,則錢必重;重則其利深,盜鑄如雲而起,棄市之罪又不足以禁矣。奸數不勝而法禁數潰,銅使之然也。銅佈於天下,其為禍博矣,故不如收之。」賈山亦上書諫,以為:「錢者,亡用器也,而可以易富貴。富貴者,人主之操柄也;令民為之,是與人主共操柄,不可長也。」上不聽。

賈誼が貨幣政策をいさめた。はぶく。賈誼伝で読むべきですね。
天子は聴かず。

是時,太中大夫鄧通方寵幸,上欲其富,賜之蜀嚴道銅山,使鑄錢。吳王濞有豫章銅山,招致天下亡命者以鑄錢;東煮海水為鹽;以故無賦而國用饒足。於是吳、鄧錢布天下。
初,帝分代為二國,立皇子武為代王,參為太原王。是歲,徙代王武為淮陽王;以太原王參為代王,盡得故地。

このとき、太中大夫の鄧通は寵幸され、天子は鄧通を富ませるため、蜀の嚴道の銅山を賜り、鄧通に銭を鋳造させた。吳王の劉濞は、豫章の銅山をもっており、天下の亡命者をあつめて銭を鋳造した。東では海水を煮て塩をつくる。呉国では、賦を課さなくても、国費をまかなえた。呉国と鄧通がつくった銭は、天下に流通した。
はじめ天子は、代国を2つにわけて、皇子の劉武を代王、劉参を太原王とした。この歳、代王の劉武を淮陽王として、太原王の劉参を代王として、代国の分割をやめた。140615

代王から中央で皇帝になった漢文帝と、魏王から中央で皇帝になった曹丕は、じつは境遇が似ているのかも。漢文帝は、代国にやたらとこだわる。

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前六年(前174) 賈誼が封建や周勃につき上疏

淮南王の劉長が、謀反して移され、餓死

冬,十月,桃、李華。
淮南厲王長自作法令行於其國,逐漢所置吏,請自置相、二千石;帝曲意從之。又擅刑殺不辜及爵人至關內侯;數上書不遜順。帝重自切責之,乃令薄昭與書風諭之,引管、蔡及代頃王、濟北王興居以為儆戒。

冬10月、桃と李が花をつけた。
淮南厲王の劉長は、みずから法令をつくって淮南国で施行した。漢の吏を追いはらい、みずから相と二千石を起きたい。天子は、不本意ながら認めた。無罪の人をほしいままに刑殺し、関内侯までも罰した。

関内侯は、20等爵の19番目。関内侯より上ならば、侯や王が、すきに裁くことができないはずである。

しばしば天子に上書するが、遜順でない。天子はこまって、外戚の薄昭から淮南王を諭させた。管王・蔡王や代頃王、済北王の劉興居の前例をもちだして、淮南王を戒めた。

王不說,令大夫但、士伍開章等七十人與棘蒲侯柴武太子奇謀以輦車四十乘反谷口;令人使閩越、匈奴。事覺,有司治之。使使召淮南王。王至長安,丞相張蒼、典客馮敬行御史大夫事,與宗正、廷尉奏:「長罪當棄市。」制曰:「其赦長死罪,廢,勿王;徙處蜀郡嚴道邛郵。」盡誅所與謀者。載長以輜車,令縣以次傳之。
袁盎諫曰:「上素驕淮南王,弗為置嚴傅、相,以故至此。淮南王為人剛,今暴摧折之,臣恐卒逢霧露病死,陛下有殺弟之名,奈何?」上曰:「吾特苦之耳,今復之。」

淮南王はよろこばず、大夫の但、士伍の開章ら70余人と、棘蒲侯の柴武の太子である柴奇とともに、谷口(長安の北の険阻な地)で天子に反そうと謀った。閩越と匈奴に使者を出した。発覚して、有司が淮南王を治めた。
淮南王を長安に召した。丞相の張蒼、典客の馮敬は、行御史大夫事する。宗正・廷尉とともに奏した。「劉長の罪は棄市にあたる」と。天子の制にいわく、「劉長の死罪を赦し、廃して、王でなくする。蜀郡の嚴道の邛郵に移す」と。計画に参加した者は、すべて誅した。劉長を輜車に載せて、県から県に伝えた。
袁盎が諌めた。「淮南王がおごるから、天子は淮南に厳しい傅・相(もりやくと輔佐)を置かず、今日のようになった。淮南王の人となりは剛であり、いま暴摧してこれを折る。淮南王が道中で霧露にあって病死して、陛下が『弟殺し』の名を負うことを、私は恐れる。どうしますか」と。天子「私はとても悩んでいた。いま淮南王を呼びもどそう」と。

淮南王果憤恚不食死。縣傳至雍,雍令發封,以死聞。上哭甚悲,謂袁盎曰:「吾不聽公言,卒亡淮南王!今為奈何?」盎曰:「獨斬丞相、御史以謝天下乃可。」上即令丞相、御史逮考諸縣傳送淮南王不發封饋侍者,皆棄市;以列侯葬淮南王於雍,置守塚三十戶。

淮南王は、はたして憤恚して食わずに死んだ。県からの伝令が雍県にきた。雍令は封書をだして、天子に淮南王の死を伝えた。天子は哭してひどく哀しみ、袁盎にいう。「私はきみの言葉をきかず、淮南王を死なせた。どうしよう」と。袁盎「丞相と御史を斬って、天下に謝ればよい」と。天子は上書と御史大夫に命じて、淮南王を送り伝えた諸県のうち、淮南王が食事しなかった県の者ををとらえて棄市した。列侯の礼で、淮南王を雍県に葬り、守塚30戸をおいた。

中行説があおって、匈奴が自文化を誇る

匈奴單于遣漢書曰:「前時,皇帝言和親事,稱書意,合歡。漢邊吏侵侮右賢王;右賢王不請,聽後義盧侯難支等計,與漢吏相距。絕二主之約,離兄弟之親,故罰右賢王,使之西求月氏擊之。以天之福,吏卒良,馬力強,以夷滅月氏,盡斬殺、降下,定之;樓蘭、烏孫、呼揭及其旁二十六國,皆已為匈奴,諸引弓之民並為一家,北州以定。願寢兵,休士卒,養馬,除前事,復故約,以安邊民。皇帝即不欲匈奴近塞,則且詔吏民遠舍。」帝報書曰:「單于欲除前事,復故約,朕甚嘉之。此古聖王之志也。漢與匈奴約為兄弟,所以遺單于甚厚;倍約、離兄弟之親者,常在匈奴。然右賢王事已在赦前,單于勿深誅!單于若稱書意,明告諸吏,使無負約,有信,敬如單于書。」

匈奴の単于が漢家に文書をよこした。「匈奴と漢は、先代に和親した。だが漢の辺境の吏が、匈奴の右賢王を侵侮した。漢の吏と対立した右賢王を罰した。右賢王は西へゆかせ月氏を撃たせた。月氏を平定した。西方の26国は匈奴についた。兵力を休めたいので、漢と匈奴の居住の地域を遠ざけたい」と。
天子は返書した。「単于は約束を守ってくれて嬉しい。漢と匈奴は兄弟である。右賢王はトラブルを起こしたが、右賢王のことは、もういいから。単于の言うとおりで」

ちっとも和親の内容ではないのは、匈奴が屈辱外交をしかけているからだろう。単于は「匈奴は西方を平定して、強いのだ」と自慢したいだけ。右賢王のトラブルは、漢に話しかける口実であって、とくに交渉のテーマではない。


後頃之,冒頓死,子稽粥立,號曰老上單于。老上單于初立,帝復遣宗室女翁主為單于閼氏,使宦者燕人中行說傅翁主。說不欲行,漢強使之。說曰:「必我也,為漢患者!」中行說既至,因降單于,單于甚親幸之。
初,匈奴好漢繒絮、食物。中行說曰:「匈奴人眾不能當漢之一郡,然所以強者,以衣食異,無仰於漢也。今單于變俗,好漢物;漢物不過什二,則匈奴盡歸於漢矣。」其得漢繒絮,以馳草棘中,衣胯皆裂敝,以示不如旃裘之完善也;得漢食物,皆去之,以示不如湩酪之便美也。於是說教單于左右疏記,以計課其人眾、畜牧。其遺漢書牘及印封,皆令長大,倨傲其辭,自稱「天地所生、日月所置匈奴大單于」。

のちに冒頓単于が死に、子の老上単于がたつ。天子は、宗室の娘である翁主を単于の閼氏(妻)にした。宦者である燕人の中行説(中行が姓、説が諱)が、翁主をつれてゆく。中行説は行きたくないが、むりに行かせた。中行説「私は必ずや、漢家のわざわいとなってやる」と。中行説は匈奴にゆき、単于の臣になった。
はじめ匈奴は、漢の織物や食物がほしい。中行説「匈奴の人口は、漢の1郡の分もいないが、強い。衣食は漢と異なるが、漢のものを欲しがる必要はない。いま単于は習俗を変えて、漢のものを欲しがるが、10分の2も行き渡らない。もう匈奴ごと漢に帰服しちゃえよ」と。
中行説にあおられ、単于は漢の衣食をやめた。習俗に自信をもち、「天地の生ずる所、日月 匈奴の大単于を置く所なり」と自称した。

匈奴の習俗について、はぶく。


漢使或訾笑匈奴俗無禮義者,中行說輒窮漢使曰:「匈奴約束徑,易行;君臣簡,可久;一國之政,猶一體也。故匈奴雖亂,必立宗種。今中國雖云有禮義,及親屬益疏則相殺奪,以至易姓,皆從此類也。嗟!土室之人,顧無多辭,喋喋佔佔!顧漢所輸匈奴繒絮、米薛,令其量中,必善美而已矣,何以言為乎!且所給,備、善,則已;不備、苦惡,則候秋熟,以騎馳蹂而稼穡耳!」

漢の使者は、匈奴の使者の習俗が礼儀からはずれるので、笑った。中行説は漢の使者を追いつめて、「匈奴には匈奴の作法があるんだよ」とやり返した。

賈誼が呉王の脅威を説き、諸侯王の分割を提唱

梁太傅賈誼上疏曰:
「臣竊惟今之事勢,可為痛哭者一,可為流涕者二,可為長太息者六;若其它背理而傷道者,難遍以疏舉。進言者皆曰:『天下已安已治矣,』臣獨以為未也。曰安且治者,非愚則諛,皆非事實知治亂之體者也。夫抱火厝之積薪之下而寢其上,火未及然,因謂之安;方今之勢,何以異此!陛下何不壹令臣得孰數之於前,因陳治安之策,試詳擇焉!
使為治,勞智慮,苦身體,乏鐘、鼓之樂,勿為可也。樂與今同,而加之諸侯軌道,兵革不動,匈奴賓服,百姓素樸,生為明帝,沒為明神,名譽之美垂於無窮,使顧成之廟稱為太宗,上配太祖,與漢亡極,立經陳紀,為萬世法。雖有愚幼、不肖之嗣,猶得蒙業而安。以陛下之明達,因使少知治體者得佐下風,致此非難也。

梁太傅の賈誼 上疏して曰く、
「臣 竊かに惟るに今の事勢、痛哭を為す可き者 一あり、流涕を為す可き者 二あり、長太息を為す可き者 六あり。若し其の它 背理して傷道する者、遍く以て疏挙すること難し。

意見すべきことが、いっぱいあるんですけど。

進言する者 皆曰く、『天下 已に安じて已に治まる』と。臣 獨り以へらく未だしと為す。安じて且つ治まると曰ふ者、愚かにして則ち諛らふに非ず。皆 事實に治亂の體を知ること非ざる者なり。

賈誼は、「名君」漢文帝期を相対化する人。賈誼を読めば、漢文帝の問題点が見える。多面的にこの時代を捉えられる。まずは、まだ天下は安定していないよと。

夫れ抱火厝の積薪の下にて其の上に寢ね、火 未だ及ばず。然るに因りて之を安ずると謂ふ。方今の勢、何を以てか此に異ならん。陛下 何ぞ壹に臣をして孰んぞ之を前に數ふことを得しめざるか。因りて治安の策を陳ぶ。試しに詳らかに焉を擇れ。

危機的な状況について私が喋るから、よく聴きなさいよと。

治と為らしむるに、智慮を勞し、身體を苦しめ、鐘鼓の樂を乏しくすること、可たず。楽は今と同じく、而るに之に諸侯の軌道を加ふれば(音楽は今のままでも諸侯に規則を守らせれば)、兵革 動かず、匈奴 賓服し、百姓 素樸たり。生きては帝を明と為し、没しては神を明と為す。名譽の美 無窮に垂る。顧成の廟をして太宗と稱せしめ、太祖を上配し、漢の亡極と與に、經を立て紀を陳べ、萬世の法と為る。

諸侯が規則を守らないのが、現代の唯一の欠点である。それさえ修正すれば、天子は「太宗」の廟号を与えられ、規範として後世から参照されると。まるで予言者w

愚幼・不肖の嗣有ると雖も、猶ほ蒙業を得て安ず。陛下の明達を以て、因りて少きをして治體を知らしむれば、佐下風を得て、此の難あらざるを致す。

天子が漢の統治のあるべき姿を設計しておけば、幼児やバカが皇帝をついでも、漢王朝は安泰であると。今後、幼帝が出てくるのを予言しています。まだ本題じゃない。


夫樹國固必相疑之勢,下數被其殃,上數爽其憂,甚非所以安上而全下也。今或親弟謀為東帝,親兄之子西鄉而擊,今吳又見告矣。天子春秋鼎盛,行義未過,德澤有加焉,猶尚如是;況莫大諸侯,權力且十此者虖!
然而天下少安,何也?大國之王幼弱未壯,漢之所置傅、相方握其事。數年之後,諸侯之王大抵皆冠,血氣方剛;漢之傅、相稱病而賜罷,彼自丞、尉以上遍置私人。如此,有異淮南、濟北之為邪?此時而欲為治安,雖堯、舜不治。
黃帝曰:『日中必熭,操刀必割!』今令此道順而全安甚易,不肯蚤為,已乃墮骨肉之屬而抗剄之,豈有異秦之季世虖!其異姓負強而動者,漢已幸而勝之矣,又不易其所以然;同姓襲是跡而動,既有徵矣,其勢盡又復然。殃禍之變,未知所移,明帝處之尚不能以安,後世將如之何!

夫れ國を樹つれば固より必ず相疑の勢あり。下は數々其の殃ひを被り、上は數々其の憂ひを爽す。甚だ上を安じて下を全うする所以にあらず。今 或る親弟(淮南王の劉長)謀りて東帝と為り、親兄の子(済南王の劉興居)西郷して撃ち、今 呉(呉王の劉濞)又 告げらる。天子 春秋の鼎は盛んにして、行義 未だ過あらず、德澤 焉に加ふる有り。猶ほ尚ほ是の如し。況んや莫大なる(最大勢力の)諸侯、權力 且に此の者に十(十倍)するをや。

天子が集権している春秋時代には、天子は理想的な統治をした。まして、天子を脅かすような諸侯がいて、春秋時代の諸侯の10倍の勢力を持っている現代は、天子はまじで理想的な統治をしなければならない。そうしないと、諸侯に足をすくわれる。

然して天下 少しく安ずるは、何ぞや。大國の王 幼弱にして未だ壯ならず。漢の置く所の傅・相 方に其の事を握る。數年の後、諸侯の王 大抵 皆 冠し、血氣 方に剛たらん。漢の傅・相 病を稱して罷を賜ふ。彼 丞・尉より以上 遍く私人を置く。此の如くんば、淮南・濟北の為すに異なること有るや。

ここ、書き下し文でよく分かるけど、とてもおもしろい!

此の時にして治安を為さんと欲せば、堯・舜と雖も治まらず。
黃帝曰く、『日中に必ず熭あり。刀を操りて必ず割らん』と。今 此の道に順ひて安を全うせしむること甚だ易し。蚤(つと)に為すことを肯んじざれば、已に乃ち骨肉の屬を墮して之を剄ることに抗すれども、豈に秦の季世に異なること有るか。其れ異姓の強を負ひて動く者、漢 已に幸いにして之に勝つ。又 其の然る所以を易へず。同姓 是の跡を襲ひて動くこと、既に徵有り。其の勢 盡きるとも又 復た然り。殃禍の變,未だ移る所多きを知る。明帝すら之に處して尚ほ以て安ずること能はず。後世 將た之を如何せん。

異姓王の脅威は全て取り除いたが、同姓王の脅威は(皇族を封じるという制度を続ける限り)反復して生じてくる。いま漢文帝が辛うじて抑えていても、時間の問題で諸侯王は大人になり、牙を剥く。ましてや、漢文帝の後継者たちに、制御ができるか。できまいよと。


臣竊跡前事,大抵強者先反。長沙乃二萬五千戶耳,功少而最完,勢疏而最忠,非獨性異人也,亦形勢然也。曩令樊、酈、絳、灌據數十城而王,今雖以殘亡可也;令信、越之倫列為徹侯而居,雖至今存可也。然則天下之大計可知已:欲諸王之皆忠附,則莫若令如長沙王;欲臣子勿菹醢,則莫若令如樊、酈等;欲天下之治安,莫若眾建諸侯而少其力。力少則易使以義,國小則亡邪心。令海內之勢,如身之使臂,臂之使指,莫不制從,諸侯之君不敢有異心,輻湊並進而歸命天子。割地定製,令齊、趙、楚各為若干國,使悼惠王、幽王、元王之子孫畢以次各受祖之分地,地盡而止;其分地眾而子孫少者,建以為國,空而置之,須其子孫生者舉使君之;一寸之地,一人之眾,天子亡所利焉,誠以定治而已。如此,則臥赤子天下之上而安,植遺腹,朝委裘而天下不亂;當時大治,後世誦聖。陛下誰憚而久不為此!

臣 竊かに前事を跡するに、大抵 強者は先に反す。長沙(吳芮)乃ち二萬五千戸のみ。功 少なくして最も完たり。勢 疏にして最も忠たり。獨り性 人に異なること非ず。亦 形勢 然るなり。曩に樊・酈・絳・灌をして數十城に據りて王たらしめ、今 以て殘亡すると雖も可なり。信・越の倫をして列して徹侯と為して居らしむ。今に至るまで存すと雖も可なり。

諸侯王のうち、脅威でないものを、まず消去して見せた。

然れば則ち天下の大計 知る可し。諸王の皆 忠附たるを欲すれば、則ち長沙王の如くあらしむに若くこと莫し。臣子の菹醢せざるを欲すれば、則ち樊・酈らの如くあらしむるに若くこと莫し。天下の治安を欲すれば、衆く諸侯を建てて其の力を少とするに若くこと莫し。力 少なれば則ち易く以て義ならしめ、国 小なれば則ち邪心を亡ふ。海内の勢をして、身の臂を使ひ、臂の指を使ふが如し。制從せざること莫く、諸侯の君 敢へて異心有らず。輻湊・並進して天子に歸命す。

諸侯をたくさん立てて分割すれば良いと。ひるがえって、曹丕は、ちっとも孫権を分割できなかった。漢文帝どおりにやれてない。

地を割き製を定め、斉・趙・楚をして各々若干の国と為らしめ、悼惠王・幽王・元王の子孫をして畢に次を以て各々祖の分地を受けしめ、地 盡く止めよ。其の分地 衆くして子孫 少き者は、建てて以て国と為せ。空にして之を置き、須らく其の子孫の生ける者をして使を挙げて之に君たらしめよ。一寸の地、一人の衆たりとも、天子 亡へば利する所、誠に以て治を定むるのみ。此の如くんば、則ち臥したる赤子 天下の上たれども安ず。遺腹を植へ、朝 裘を委ねてども天下 乱れず。

幼帝や傍系からの即位でも、天下は乱れないと。

時に当たりて大いに治まり、後世 聖たりと誦す。陛下 誰をか憚りて久しく此を為さざるか。

天下之勢方病大瘇,一脛之大幾如要,一指之大幾如股,平居不可屈伸,一二指慉,身慮亡聊。失今不治,必為錮疾,後雖有扁鵲,不能為已。病非徒腫也。又苦蹠盭。元王之子,帝之從弟也;今之王者,從弟之子也。惠王之子,親兄子也,今之王者,兄子之子也。親者或亡分地以安天下,疏者或制大權以逼天子,臣故曰非徒病腫也,又苦蹠炙盭。可痛哭者,此病是也。
天下之勢方倒懸。凡天子者,天下之首。何也?上也。蠻夷者,天下之足。何也?下也。今匈奴嫚侮侵掠,至不敬也;而漢歲致金絮采繒以奉之。足反居上,首顧居下,倒縣如此,莫之能解,猶為國有人乎?可為流涕者此也。

天下の勢 方に大瘇を病み、一脛の大なること要(腰)の如きに幾く、一指の大なること股の如きに幾し。平居して屈伸す可からず。一二 指慉すれば、身 亡聊を慮る。今を失ひて治めざれば、必ず錮疾と為る。後に扁鵲有ると雖も、能く為さず。病 徒だの腫に非ず。又 蹠の盭を苦とす。元王(劉交)の子、帝の從弟なり。今の王たる者、從弟の子なり。惠王(劉肥)の子、親兄の子なり。今の王たる者、兄子の子なり。親しき者 或いは分地を亡ひて以て天下を安んじ、疏なる者 或いは大權を制して以て天子に逼る。臣 故に曰ふ、徒だの病腫に非ずと。又 蹠に苦しみ盭を炙る。痛哭す可きは、此の病 是れなり。

すぐに手を打てと、身体の病気の比喩で訴える。

天下の勢 方に倒懸せんとす。凡そ天子なる者、天下の首なり。何(いづこ)なるか。上なり。蠻夷なる者、天下の足なり。何なるか。下なり。今 匈奴 嫚侮して侵掠し、不敬に至る。而るに漢 歲ごとに金絮・采繒を致し、以て之に奉ぐ。足 反りて上に居り、首 顧みて下に居る。倒縣すること此の如し。之を能く解くこと莫ければ、猶ほ國の為に人有るや。

転倒してるという問題を解決できないのに、国に明智な人材がいると言えるのだろうか。言えないよね。と師古さんが注釈している。

流涕す可き者は此れなり。

匈奴の対策をいそげと。
病気の比喩、治療の優先順位について、ちょっとよく分かってないので後日。


今不獵猛敵而獵田彘,不搏反寇而搏畜菟,翫玩細娛而不圖大患,德可遠加而直數百里外,威令不伸,可為流涕者此也。
今庶人屋壁得為帝服,倡優下賤得為后飾;且帝之身自衣皁綈,而富民牆屋被文繡;天子之后以緣其領,庶人孽妾以緣其履;此臣所謂舛也。夫百人作之不能衣一人,欲天下亡寒,胡可得也;一人耕之,十人聚而食之,欲天下亡饑,不可得也;饑寒切於民之肌膚,欲其亡為姦邪,不可得也。可為長太息者此也。

今 猛き敵を獵さずして田の彘を獵す。反寇を搏たずして畜菟を搏つ。細娛を翫玩して大患を圖らず。德 遠くに加へて數百里外に直す可けれども、威令 伸びず。流涕と為す可き者 此れなり。

ここから雑多な批判になります。論点が飛び散ります。

今 庶人の屋壁 帝服と為ること得て、倡優の下賤 后飾と為ることを得たり。且つ帝の身 自ら皁綈を衣て、而れども富民の牆屋 文繡を被る。天子の后 以て其の領を緣るに、庶人の孽妾 以て其の履を緣る。此れ臣の舛と謂ふ所なり。夫れ百人 之を作れども、一人 衣ること能はざれば、天下 亡寒せんと欲す。胡(なんぞ)ぞ得可きや。一人 之を耕すとも、十人 聚まりて之を食せば、天下 亡饑せんと欲す。得可からず。饑寒 民の肌膚に切なれば、其の亡 姦邪を為さんと欲す。得可からず。長太息を為す可きは此なり。

「長太息」とか、冒頭に宣言した章立てに沿って喋っている。庶民のほうが、天子よりも贅沢をすれば、浪費がはげしくて、食糧も衣服も行き渡らない。ダメだよと。10人に耕させ、10人に織らせて、衣食を満たすのは天子だけがやってよい。庶民がそれをやったら、だれが耕し、だれが織るのかと。おもしろい。


◆礼儀と風俗の頽廃をうれう

商君遺禮義,棄仁恩,並心於進取;行之二歲,秦俗日敗。故秦人家富子壯則出分,家貧子壯則出贅;借父櫌鉏,慮有德色;母取箕帚,立而誶語;抱哺其子,與公並居;婦姑不相說,則反脣而相稽;其慈子、耆利,不同禽獸者亡幾耳。今其遺見餘俗,猶尚未改,棄禮誼,捐廉恥日甚,可謂月異而歲不同矣。逐利不耳,慮非顧行也;今其甚者殺父兄矣。而大臣特以簿書不報、期會之間以為大故,至於俗流失,世壞敗,因恬而不知怪,慮不動於耳目,以為是適然耳。夫移風易俗,使天下回心而鄉道,類非俗吏之所能為也。俗吏之所務,在於刀筆、筐篋而不知大體。陛下又不自憂,竊為陛下惜之!豈如今定經制,令君君、臣臣,上下有差,父子六親各得其宜。此業壹定,世世常安,而後有所持循矣;若夫經制不定,是猶渡江河亡維楫,中流而遇風波,船必覆矣。可為長太息者此也。

商君 禮義を遺し、仁恩を棄つ。心を並すに進取に於てす。之を行なふこと二歲、秦俗 日々敗る。故に秦人 家は富みて子は壯なれば則ち出して分ち、家は貧しくして子は壯なれば則ち贅を出す。父の櫌鉏を借りて、慮 德色有り。母 箕帚を取り、立ちて誶語す。其の子を抱哺し、公と與に並居す。婦姑 相ひ說ばざれば、則ち脣を反して相ひ稽みる。其の慈子、利を耆むこと、禽獸に同じからざる者 亡幾なるのみ。今 其の遺見 餘俗あり、猶ほ尚ほ未だ改めず、禮誼を棄て、廉恥を捐つること日々甚だし。月 異なりて、歲 同じからずと謂ふ可し。利を逐ひて耳かず、慮りて顧行するに非ず。

とりあえず書き下してるけど、この段落は、意味わかってません。人々の暮らしぶりが、礼の規範から外れてきたなあ、という総論で良いのだろうか。

今 其の甚しき者は、父兄を殺すなり。而るに大臣 特に簿書を以て報せず、期會の間 以て大故と為す。俗に於いて流失するに至り、世々壞敗す。恬に因りて怪を知らず、慮りて耳目を動かさず、以て是れ適然たると為すのみ。
夫れ風を移して俗を易ふは、天下をして回心して郷道せしめ、類は俗吏の能く為す所に非ず。俗吏の務むる所、刀筆・筐篋に在りて、大體を知らず。陛下 又 自ら憂へず、竊かに陛下の為に之を惜む。豈に今の如く經制を定め、君をして君たらしめ、臣をして臣たらしめ、上下 差有れば、父子・六親 各々其の宜しきを得んや。此の業 壹たび定まれば、世世 常に安じ、而る後 持循する所有り。若し夫れ經制 定めざれば、是れ猶ほ江河を渡りて維楫を亡ひ、中流にして風波に遇ひ、船 必ず覆るなり。長太息と為す可き者は此なり。

◆王朝を数百年 存続させるための方法

夏、殷、周為天子皆數十世,秦為天子二世而亡。人性不甚相遠也,何三代之君有道之長而秦無道之暴也?其故可知也。古之王者,太子乃生,固舉以禮,有司齊肅端冕,見之南郊,過闕則下,過廟則趨,故自為赤子,而教固已行矣。孩提有識,三公、三少明孝仁禮義以道習之,逐去邪人,不使見惡行,於是皆選天下之端士、孝悌博聞有道術者以衛翼之,使與太子居處出入。故太子乃生而見正事,聞正言,行正道,左右前後皆正人也。夫習與正人居之不能毋正,猶生長於齊不能不齊言也;習與不正人居之不能毋不正,猶生長於楚之地不能不楚言也。

夏・殷・周 天子と為ること皆 數十世なり。秦 天子と為ること二世にして亡ぶ。人の性 甚だしくは相ひ遠からず。何ぞ三代の君 有道の長にして、秦 無道の暴なるや。其の故 知り可し。古の王者、太子 乃ち生まるるに、固より禮を以て挙げ、有司 齊肅にして冕を端め、之を南郊に見て、闕を過ぐれば則ち下る。廟を過ぐれば則ち趨る。故に自ら赤子と為し、而して教 固に已に行はる。孩 有識を提げ、三公・三少は孝・仁・禮・義を明らかにして以て道 之を習ひ、邪人を逐去し、悪行を見はしめず。是に於て皆 天下の端士を選び、孝悌・博聞にして道術有る者 以て之を衛翼し、太子と与に居處・出入せしむ。故に太子 乃ち生れて正事を見て、正言を聞き、正道を行なひ、左右・前後 皆 正しき人なり。

天子になるべき人物の教育環境を整えたから、夏・殷・周は、王朝が長続きした。すぐれた人物で固めれば、教育は必然的にうまくいくと。

夫れ習ふに正しき人と与に之に居すれば、正しからざることなす能はず。猶ほ齊に生長すれば、齊言(斉の方言)すること能はざるがごとし。習ふに正しからざる人と与に之に居すれば、正しからざることなさざる能はず。猶ほ楚の地に生長すれば、楚言すること能はざるがごとし。

育った地の言葉を母国語として当たり前のように話し、他の言葉を話せないように。正しい環境に生まれ育てば、正しいことを行う。誤った環境に生まれ育てば、誤ったことを行う。なるほど。母国語の比喩は優れているなあ。


孔子曰:『少成若天性,習貫如自然。』習與智長,故切而不愧;化與心成,故中道若性。夫三代之所以長久者,以其輔翼太子有此具也。及秦而不然,使趙高傅胡亥而教之獄,所習者非斬、劓人,則夷人之三族也。胡亥今日即位而明日射人,忠諫者謂之誹謗,深計者謂之妖言,其視殺人若艾草菅然。豈惟胡亥之性惡哉?彼其所以道之者非其理故也。鄙諺曰:『前車覆,後車誡。』秦世之所以亟絕者,其轍跡可見也;然而不避,是後車又將覆也。天下之命,縣於太子,太子之善,在於早諭教與選左右。夫心未濫而先諭都,則化易成也;開於道術智誼之指,則教之力也;若其服習積貫,則左右而已。夫胡、粵之人,生而同聲,嗜欲不異;及其長而成俗,累數譯而不能相通,有雖死而不相為者,則教習然也。臣故曰選左右、早諭教最急。夫教得而左右正,則太子正矣,太子正而天下定矣。《書》曰:『一人有慶,兆民賴之。』此時務也。

孔子曰く、『少成は天性の若し、習貫は自然の如し』と。習と智と長ずれば、故に切にして愧じず。化と心と成れば、故に中道にして性の若し。夫れ三代の長久する所以は、其の太子を輔翼するを以て此の具へ有ればなり。

つぎが本題。けっきょくは、趙高の「教育」が悪いせいで、秦が滅びたと。

秦に及びて然らず、趙高をして胡亥に傅せしめて之に獄を教へ、習ふ所の者 人を斬・劓するに非ず、則ち人の三族を夷するなり。胡亥 今日 即位して明日に人を射る。忠諫する者 之を誹謗すると謂はる。深計する者 之を妖言と謂はる。其の殺人を視るもの艾草の菅然たるが若し。豈に惟れ胡亥の性 悪なるゆえや。

おもしろい哲学の議論になってきた。先天的に残虐なのか、後天的に残虐なのか。賈誼は、後天的な教育の結果だとする。

彼の其の道とする所以の者 其の理なる故に非ず。鄙諺に曰く、『前車 覆れば、後車 誡しむ』と。秦世の亟絕する所以、其の轍跡 見る可し。然りて避けざれば、是れ後車 又 將に覆らんとす。

漢文帝のとき、秦を反面教師にして、天子のありかたを模索する議論がおおい。歴史に対する秦の影響は、とても大きい。二言目には、秦では、、だもんね。

天下の命、太子に縣かる。太子の善、早く諭教し與に左右を選ぶに在り。夫れ心 未だ濫れずして先に諭都すれば、則ち化して成り易し。道術・智誼の指を開けば、則ち之に教ふる力なり。若し其の服習 積貫すれば、則ち左右なるのみ。

つぎは、異民族も生まれた直後は、生存欲求が同じだという話。異民族を「人間として見ない」という解説を読んだことがあるが、必ずしもそうでない。

夫れ胡・粵の人、生れて声を同じくし、嗜 異ならざるを欲す。其の長ずるに及びて俗に成り、數譯を累ぬれども(通訳を何回も重ねても)相ひ通ずること能はず。死すると雖も相ひ為さざる者有れば、則ち教習 然るなり。臣 故に曰ふ、左右を選び、早く諭教すること最も急なりと。夫れ教へて得て左右 正しければ、則ち太子 正し。太子 正しくして天下 定まる。『書』に曰く、『一人 慶有れば、兆民 之に頼る』と。此れ時務なり。

太子の教育係を正しい人物で固めよと、念押し。


◆殷周の「礼」と、秦の官制・爵制を折衷する

凡人之智,能見已然,不能見將然。夫禮者禁於將然之前,而法者禁於已然之後,是故法之所為用易見而禮之所為生難知也。若夫慶賞以勸善,刑罰以懲惡,先王執此之政,堅如金石;行此之令,信如四時;據此之公,無私如天地,豈顧不用哉?然而曰禮雲、禮雲者,貴絕惡於未萌而起教於微眇,使民日遷善、遠罪而不自知也。孔子曰:『聽訟,吾猶人也;必也使毋訟乎!』為人主計者,莫如先審取捨,取捨之極定於內而安危之萌應於外矣。秦王之欲尊宗廟而安子孫,與湯、武同。然而湯、武廣大其德行,六七百歲而弗失,秦王治天下十餘歲則大敗。此亡他故矣:湯、武之定取捨審而秦王之定取捨不審矣。夫天下,大器也;今人之置器,置諸安處則安,置諸危處則危。天下之情,與器無以異,在天子之所置之。

凡そ人の智は、能く已に然るを見る。將に然らんとすを見ること能はず。

現前したことは見えるが、これから現前するもの(まだ顕現しないもの)は見えない。

夫れ禮なる者は、將に然らんとするの前に禁じ、而れども法なる者は、已に然るの後に禁ず。是の故に法の為す所 見ること易きを用ゐ、而れども禮の為す所 生ずること知り難きなり。

「礼」「法」のこれ以上ないほどの対比的な説明。

若し夫れ慶賞するに勸善を以てし、刑罰するに懲惡を以てするは、先王 此を執るの政、堅きこと金石の如し。此を行なふの令、信なること四時の如し。此に據るの公たること、無私なること天地の如し。豈に顧みて用ゐざるや。

勧善と懲悪をやるのがベストだと。他に選択肢はない。

然して禮雲と曰ふ。禮雲なる者、惡を未萌に絶ちて、教を微眇に起すことを貴ぶ。使民すること遷善と日ふ。罪を遠ざけて自ら知ざるなり。孔子曰く、『訟を聽けば、吾 猶ほ人のごとし。必ずや訟を毋からしめんや』と。

すでに起きてしまったトラブルを持ちこまれても、孔子は人並みにしか裁けない。それよりも、トラブルが起こらぬように、事前に教育するところに、孔子集団のオリジナリティがあるぞと。この段落では、起きてしまった罪を裁く「法」よりも、トラブルが起きないように教育する「礼」が優先であることが説かれる。

人の為に計を主る者、先に取捨を審らかにするに如くは莫し。取捨の極定 内に於いて、安危の萌應 外に於いてあり。秦王の宗廟を尊びて子孫を安ぜんと欲するは、湯・武と同じなり。然して湯・武 其の德行を廣大にし、六七百歳にして失なはず。秦王 天下を治むること十餘歲して則ち大敗す。此の亡 他の故なり。湯・武の取捨を定むること審らかにして、而れども秦王の取捨を定ること審らかならざればなり。夫れ天下は、大器なり。今 人の器を置くは、諸の安處に置けば則ち安じ、諸の危處に置けば則ち危ふし。天下の情,器と以て異なること無く、天子の之を置く所に在り。

どのように秦が「取捨」に失敗したか。次段につづく。


湯、武置天下於仁、義、禮、樂,累子孫數十世,此天下所共聞也;秦王置天下於法令、刑罰,禍幾及身,子孫誅絕,此天下之所共見也。是非其明效大驗邪!人之言曰:『聽言之道,必以其事觀之,則言者莫敢妄言。』
今或言禮誼之不如法令,教化之不如刑罰,人主胡不引殷、周、秦事以觀之也!人主之尊譬如堂,群臣如陛,眾庶如地。故陛九級上,廉遠地,則堂高;陛無級,廉近地,則堂卑。高者難攀,卑者易陵,理勢然也。故古者聖王制為等列,內有公、卿、大夫、士,外有公、侯、伯、子、男,然後有官師、小吏,延及庶人,等級分明而天子加焉,故其尊不可及也。

湯・武 天下に仁・義・禮・樂を置く。子孫を累ぬること數十世なり。此れ天下の共に聞く所なり。秦王 天下に法令・刑罰を置く。禍ひ幾く身に及び、子孫 誅絶す。此れ天下の共に見る所なり。是非 其の明效にして大験なるや。人の言に曰く、『聽言の道,必ず其の事を以て之を觀て、則ち言は敢へて妄言すること莫し』と。
今 或ひと言ふ、禮誼の法令に如かず、教化の刑罰に如かざれば、人主 胡ぞ殷・周を引かず、秦事 以て之を觀るやと。

なぜ官制や爵制は、理想的な殷周ではなく、失敗したはずの秦を参考にするのかと。現実的な官制や爵制を、直前の秦から借りてくることの説明をすることで、予想される反論を予防する。結論は、「序列をしっかり分別することで、支配に都合がいいから」である。

人主の尊きこと譬ふれば堂の如く、群臣 陛の如く、眾庶 地の如し。故に九級の上を陛て、遠き地に廉せば、則ち堂の高し。陛 級無く、近き地に廉せば、則ち堂 卑し。高ければ攀じ難く、卑ければ陵へ易し。理勢 然るなり。故に古の聖王の制 等列を為る。内に公・卿・大夫・士有り。外に公・侯・伯・子・男有り。然る後に官師・小吏有り。延して庶人に及び、等級 分明たりて天子 焉に加ふ。故に其の尊きこと及ぶ可からず。

◆高官の周勃を裁いても良いが、尊厳のある仕方でせよ

里諺曰:『欲投鼠而忌器。』此善諭也。鼠近於器,尚憚不投,恐傷其器,況於貴臣之近主乎!廉恥節禮以治君子,故有賜死而亡戮辱。是以黥、劓之罪不及大夫,以其離主上不遠也。禮:不敢齒君之路馬,蹴其芻者有罰,所以為主上豫遠不敬也。今自王、侯、三公之貴,皆天子之所改容而禮之也,古天子之所謂伯父、伯舅也;而令與眾庶同黥、劓、髡、刖、笞、傌、棄市之法,然則堂不無陛虖!被戮辱者不泰迫虖!廉恥不行,大臣無乃握重權、大官而有徒隸無恥之心虖!夫望夷之事,二世見當以重法者,投鼠而不忌器之習也。臣聞之:履雖鮮不加於枕,冠雖敝不以苴履。夫嘗已在貴寵之位,天子改容而禮貌之矣,吏民嘗俯伏以敬畏之矣;今而有過,帝令廢之可也,退之可也,賜之死可也,滅之可也;若夫束縛之,系媟之,輸之司寇,編之徒官,司寇小吏詈罵而榜笞之,殆非所以令眾庶見也。

里諺に曰く、『鼠に投ぜんと欲して器を忌む』と。此れ善き諭へなり。鼠 器に近く、尚ほ憚りて投げず、其の器を傷つくるを恐る。況んや貴臣の主に近きをや。

器のそばにいるネズミを撃退したい。手許が狂うと、器を壊すかも知れない。だから、ネズミの撃退にためらうと。器=天子、ネズミ=高官。こわい比喩。

廉恥・節禮 君子を治むるを以て、故に賜死すること有れども戮辱を亡なふ。是を以て黥・劓の罪 大夫に及ばず。其の主上より離るること遠からざればなり。

たかい爵位の者に、庶人の刑罰が適用されないのは、君主のそばにいるから。君主を保全するために、君主に近い者を特別扱いする。そういうロジックだったのか。

禮に、敢へて君の路馬を歯せず、其の芻を蹴る者 罰有り。主上の為に豫め遠ざけて敬はざる所以なり。今 王・侯より三公の貴きまで、皆 天子の容を改めて之に禮する所なり。古の天子の伯父・伯舅と謂ふ所なり。

師古はいう。天子が諸侯の年長者をよぶとき、同姓なら伯父、異姓なら伯舅という。

而るに衆庶とともに黥・劓・髡・刖・笞・傌・棄市の法を同じからしめ、然れば則ち堂に陛無からざるや。戮辱せらる者 泰迫せざるや。廉恥 行はず、大臣 乃ち重權を握ること無く、大官にして徒隸・無恥の心有るや。夫れ望夷の事、二世の見當 重法を以てする者、投鼠して器を忌まざるの習なり。

閻楽は二世皇帝を望夷宮で殺す。もとは秦制によれば、上位者を忌まない風潮があった。つまり、ネズミをつぶそうとして、器まで壊すことを厭わなかった。

臣之を聞く。履 鮮なくして枕に加へずと雖も、冠 敝なると雖も、苴履を以てせず。夫れ嘗て已に貴寵の位に在れば、天子 容を改めて之に禮貌す。吏民 嘗て俯きて伏して以て之を敬畏す。今にして過(とが)有れば、帝 之を廃せしむこと可なり、之を退かしむこと可なり、之に死を賜はること可なり。之を滅ぼすこと可なり。若し夫れ之を束縛し、之を系媟し、之を司寇に輸し、之を徒官に編めば、司寇・小吏 詈罵して之に榜笞す。殆ふく衆庶をして見せしめる所以に非ず。

いちどは一目置かれるほどの高い地位にある人でも、君主権力を強めるべき天子は、彼らにはばかることがないのだと。過失があれば、罰してもよい。器ごと壊した、秦の前例は(やり過ぎかも知れないが)必ずしも悪くない。君主(に限りなく近い者でも)果敢に罰しても良いと。
ただし、罰するにしても、作法があるよね、配慮がいるよね、というのが、次に始まる段落。これは、周勃の処置への批判だと。周勃に罪があったなら、裁いてもよい。だが、裁くにも、周勃の尊厳を保たせてあげないと、と賈誼は言いたいらしい。


夫卑賤者習知尊貴者之一旦吾亦乃可以加此也,非所以尊尊、貴貴之化也。古者大臣有坐不廉而廢者,不謂不廉,曰簠簋不飾』;坐污穢淫亂、男女無別者,不曰污穢,曰『帷薄不修』;坐罷軟不勝任者,不謂罷軟,曰『下官不職』。故貴大臣定有其罪矣,猶未斥然正以呼之也,尚遷就而為之諱也。故其在大譴、大何之域者,聞譴、何則白冠氂纓,盤水加劍,造請室而請罪耳,上不執縛系引而行也;其有中罪者,聞命而自弛,上不使人頸盭而加也;其有大罪者,聞命則北面再拜,跪而自裁,上不使人捽抑而刑之也。曰:『子大夫自有過耳,吾遇子有禮矣。』遇之有禮,故群臣自熹;嬰以廉恥,故人矜節行。上設廉恥、禮義以遇其臣不以節行報其上者,則非人類也。故化成俗定,則為人臣者皆顧行而忘利,守節而伏義,故可以托不御之權,可以寄六尺之孤,此厲廉恥、行禮誼之所致也,主上何喪焉!此之不為而顧彼之久行,故曰可為長太息者此也。」

夫れ卑賤は習知なり。尊貴は之 一旦にして吾 亦た乃ち以て此に加ふ可きなり。尊きを尊しとし、貴きを貴とするの化なる所以に非ず。古の大臣 不廉に坐して廃さるる者、不廉と謂はず、『簠簋不飾』と曰ふ。污穢・淫亂に坐して、男女 別無き者、汚穢と謂はず、『帷薄不修』と曰ふ。罷軟に坐して任に勝へざる者、罷軟と謂はず、『下官不職』と曰ふ。故に貴き大臣 定めて其の罪有るとも、猶ほ未だ然る正を斥け以て之を呼ぶなり。

高い地位にある者が、ふつうに職務でミスっても、直言しない。婉曲して、遠回しに失態を表現する。このように配慮してあげると。

尚ほ遷り就きて之の為に諱むなり。故に其の大譴・大何の域に在る者、譴を聞けば、何ぞ則ち白冠・氂纓し、盤水・加剣し、請室を造りて罪を請ふのみ。上 執縛・系引せずして行なふ。

過失があっても、公然とひっとらえない。舞台を整え、尊厳をたもったまま、しょっぴく。

其の中罪有る者は、命を聞きて自ら弛せ、上 人をして頸盭しめずして加ふ。其の大罪有る者は、命を聞けば則ち北面・再拜し、跪きて自ら裁く。上 人をして捽抑しめずして之を刑す。曰く、『子大夫 自ら過有るのみ。吾 子に遇ひて禮有り』と。

天子がむりに裁くのではなく、自発的な出頭があるだけ。

之を遇するに禮有り。故に群臣 自ら熹ぶ。嬰は廉恥を以てし、故に人 節行を矜ぶ。上 廉恥を設け、禮義 其の臣を遇するを以てし、節行を以て其の上に報いざれば、則ち人の類に非ず。故に化 成りて俗 定まれば、則ち人臣と為る者 皆 行ひを顧みて利を忘れ、節を守りて義に伏し、故に以て不御の權を托す可し、以て六尺の孤を寄す可し。此れ廉恥を厲まし、禮誼の所致を行なふ。
主上 何ぞ焉を喪ふや。此の為さずして彼の久しき行ひを顧る。故に長太息を為す可き者と謂ふは此なり」と。

さすがに疲れた。賈誼は、ちくま訳で列伝を読まねば。


誼以絳侯前逮系獄,卒無事,故以此譏上。上深納其言,養臣下有節,是後大臣有罪,皆自殺,不受刑。

誼 絳侯(周勃)の前に系獄に逮び、卒に無事なるを以て、故に此を以て上(天子)を譏る。上 深く其の言を納れ、臣下を養ふに節有り。是の後 大臣 罪有れば、皆 自殺し、刑を受けず。140616

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前七・八年(前173・172) 淮南王の子を封ず

文帝前七年(前173)

冬,十月,令列侯太夫人、夫人、諸侯王子及吏二千石無得擅征捕。
夏,四月,赦天下。
六月,癸酉,未央宮東闕罘罳災。
民有歌淮南王者曰:「一尺布,尚可縫;一斗粟,尚可舂;兄弟二人不相容!」帝聞而病之。

冬10月、列侯の太夫人・夫人、諸侯王子、および吏二千石が、ほしいままに征捕できないことにした。
夏4月、天下を赦した。
6月癸酉、未央宮の東闕の罘罳(連なった建物)が火災。
民に淮南王をうたう歌がある。「一尺の布、尚ほ縫ふ可し。一斗の粟、尚ほ舂(うすつ)く可し。兄弟二人 相ひ容れざるか」と。文帝はこれを聞いて、気に病んだ。

臣瓚はいう。一尺の布でも、縫って共に衣になる。一斗の粟でも、うすついて共に食べられる。ましてや天下は広いのに、兄弟が相容れないものかと。
ぼくは思う。曹丕が規範とした漢文帝にも、対立した弟(淮南王の劉長)がいた。歌によって、漢文帝は不寛容を批難されて、気に病んだと。曹植の件、そんなとこまで、マネなくても良いのにね。


文帝前八年(前172)

夏,封淮南厲王子安等四人為列侯。賈誼知上必將復王之也,上疏諫曰:「淮南王之悖逆無道,天下孰不知其罪!陛下幸而赦遷之,自疾而死,天下孰以王死之不噹!今奉尊罪人之子,適足以負謗於天下耳。此人少壯,豈能忘其父哉!白公勝所為父報仇者,大父與叔父也。白公為亂,非欲取國代主,發忿快志,剡手以沖仇人之匈,固為俱靡而已。淮南雖小,黥布嘗用之矣,漢存,特幸耳。夫擅仇人足以危漢之資,於策不便。予之眾,積之財,此非有子胥、白公報於廣都之中,即疑有專諸、荊軻起於兩柱之間,所謂假賊兵,為虎翼者也。願陛下少留計!」上弗聽。

夏、淮南厲王の子の劉安ら4人を列侯に封じた。賈誼は、文帝が4人を必ず王爵に戻すだろうと知り、上疏して諫めた。
「淮南王の悖逆・無道は、天下のだれもが罪を知る。陛下が淮南王を赦して遷そうとしたが、淮南王はみずから病んで死んだ。天下のだれもが淮南王の死を不当でないと知る。いま罪人の子に高い爵位を与えれば、天下にそしられるだけ。

師古はいう。淮南王の子を取り立てれば、淮南王は無罪であり、淮南王を死なせたのは、文帝の誤りだったと言うようなものだと。

淮南王の子たちは、彼らの父を忘れようか。白公の勝(楚平王の孫)が「父のかたき」と見なしたのは、大父と叔父だった。白公が乱をなしたとき、国の君主を代えたいとは思わず、ただ仇討をしただけだった。

故事について、481頁。

淮南は小国だが、かつて鯨布が封じられたことがある(高祖11年)。漢軍が鯨布に勝ったのは、ラッキーであり、鯨布=淮南が勝ってもおかしくなかった。文帝を父の仇だと思う人に地盤をあたえるな。文帝に復讐にくるぞ。よく考えなさい」と。文帝はゆるさず(淮南王の子を封建した)

春秋戦国の刺客の故事は、抄訳ではぶいた。


有長星出於東方。

長星が東方にでる。140615

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前九・十年(前171・170) 外戚の薄昭を殺す

文帝前九年(前171)

春,大旱。

春、おおいに日照。

文帝前十年(前170)

冬,上行幸甘泉。
將軍薄昭殺漢使者。帝不忍加誅,使公卿從之飲酒。欲令自引分,昭不肯;使群臣喪服往哭之,乃自殺。

冬、文帝は甘泉にゆく。
将軍の薄昭は、漢の使者を殺した。文帝は、薄昭を誅するのが忍びず、公卿をして薄昭に従って飲酒させ、薄昭が自殺するように促したが、薄昭は肯んじない。郡臣に喪服を着せて、薄昭のために哭かせた。薄昭は自殺した。

臣光曰:李德裕以為:「漢文帝誅薄昭,斷則明矣,於義則未安也。秦康送晉文,興如存之感;況太后尚存,唯一弟薄昭,斷之不疑,非所以慰母氏之心也。」臣愚以為法者天下之公器,惟善持法者,親疏如一,無所不行,則人莫敢有所恃而犯之也。夫薄昭雖素稱長者,文帝不為置賢師傅而用之典兵;驕而犯上,至於殺漢使者,非有恃而然乎!若又從而赦之,則與成、哀之世何異哉!魏文帝嘗稱漢文帝之美,而不取其殺薄昭,曰:「舅后之家,但當養育以恩而不當假藉以權,既觸罪法,又不得不害。」譏文帝之始不防閒昭也,斯言得之矣。然則欲慰母心者,將慎之於始乎!

臣光曰く、李德裕 以為へらく、「漢文帝 薄昭を誅するに、斷ずれば則ち明なり。義に於いて則ち未だ安からず。秦康 晉文を送り、存るが如きの感を興す。況んや太后 尚ほ存り、唯だ一弟 薄昭のみ。之を斷じて疑はざるは、母氏の心を慰むる所以に非ず」と。臣愚 以為へらく法は天下の公器なり。惟ふに善く法を持する者は、親疏 一の如く、行はざる所無く、則ち人 敢へて恃みて之を犯す所有る莫し。夫れ薄昭 素より長たるを稱せらると雖も、文帝 賢なる師傅を置きて之を用ゐて典兵せしむることを為さず。驕りて上を犯し、漢の使者を殺すに至り、恃みて然ること有るに非ざるや。若し又 從りて之を赦さば、則ち成・哀の世と何をか異ならん。魏文帝 嘗て漢文帝の美を稱して、其の薄昭を殺すを取らず、曰く、「舅后の家、但だ當に養育するに恩を以てすべし、而して藉を假るに權を以てすべからず。既に罪法に觸るれば、又た害せざるを得ず」と。

曹丕はいう。「外戚の家は、恩だけあたえて飼えば良いのであって、権限を与えてはいけない。権限を与えれば、法を犯す機会ができてしまう。法を犯せば、処罰しなければならない。ほら、権限を与えてはダメだろう」と。納得した。

文帝を譏るの始は昭を閑とするを防がざるとは、斯の言 之を得るなり。然れば則ち母心を慰めんと欲すれば、將に始めに之を慎ましめんとす。140615

外戚(というか実母)にショックを与えたくなければ、外戚の一族に権限を与えてはいけない。漢代にたびたび破られる考え方です。

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