01) 董卓の故将を赦した王允
『三国志』巻6・董卓伝にくっつく、李傕・郭汜伝をします。
袁氏から後漢王朝を守った、外戚風の宮廷政治家・董卓伝
の続編にあたります。董卓伝をやってから、9ヶ月も放置してしまった。
王允が、歴史家・蔡邕を殺す
長安士庶鹹相慶賀,諸阿附卓者皆下獄死。
長安の士庶は、みな祝った。董卓にへつらった人は、みな下獄され死んだ。
謝承『後漢書』はいう。蔡邕は王允の席にいる。董卓が死んだと聞き、なげいた。王允が蔡邕を責めた。「なに、なげいてるんだ」と。王允は、蔡邕を廷尉にわたす。蔡邕は王允にあやまる。「入墨して、私に漢の歴史を書かせてくれ」と。
ぼくは思う。董卓のネタというより、史学史の興味として、蔡邕伝を読みたい。
公卿は蔡邕の才能をおしみ、王允を諌める。王允は言った。「前漢の武帝は、司馬遷を殺さないから、著作でそしられた」と。
王允はいう。「いま後漢は衰えて、戦争がやまない。幼い皇帝のそばで、佞臣に筆をとらせれば、みなそしられる」と。王允は、蔡邕を殺した。
『後漢書』蔡邕伝はいう。董卓が司空となると、蔡邕を辟した。蔡邕がことわると、董卓がいかった。やむをえず、蔡邕は出仕した。侍御史、治書御史、尚書にうつる。3日にあいだに、三台をめぐり、巴郡太守となる。侍中、左中郎将となり、高陽郷侯に封じられる。董卓、、以下略。ぼくは思う。『三国志集解』の引用を斜め読むのでなく、『後漢書』蔡邕伝をきちんと読みたいなあ。
裴松之はいう。謝承『後漢書』は、デタラメだ。蔡邕が王允の前で、董卓の死にたいして、ガッカリするはずがない。
ぼくは補う。つまり恵棟は、裴松之に反対なのだ。
張璠『漢紀』はいう。蔡邕は失言のため、辺境に徙された。いちど洛陽にもどったが、海浜に亡命した。泰山の羊氏をたより、10年すごす。
董卓が太尉となると、蔡邕を掾に辟した。高第の科目で、侍御史、治書となる。3日で尚書にいたる。のちに巴東太守となる。董卓は蔡邕をとどめ、侍中とする。
巴東郡は、武帝紀の建安20年にある。潘眉はいう。蔡邕は、初平3年(192)に死んだ。まだ巴東郡はない。巴郡太守とすべきだ。建安6年(201)はじめて巴東郡がおかれた。蔡邕が死んでから、9年後である。
蔡邕は長安にゆき、左中郎将となる。董卓は、蔡邕を重んじた。いちいち董卓は、蔡邕の意見をきく。王允が蔡邕を殺そうとしたとき、名士が抗議した。王允が死刑を中止しようとしたが、すでに蔡邕は死んでいた。
李傕と郭汜の上司の上司、牛輔の死
初,卓女婿中郎將牛輔典兵別屯陝,分遣校尉李傕、郭汜、張濟略陳留、潁川諸縣。卓死,呂布使李肅至陝,欲以詔命誅輔。輔等逆與肅戰,肅敗走弘農,布誅肅。
はじめ董卓の娘婿・中郎将の牛輔は、べつに兵をひきい、陜県にいた。
ぼくは思う。董卓の残党の話が、はじまった。冒頭に名前があるのは、牛輔。董卓の娘婿だしね。牛輔は、李傕と郭汜の上司である。
牛輔は、校尉の李傕、郭汜、張済をわけて、陳留、潁川を攻略させた。董卓が死ぬと、呂布は李粛を陜県におくる。李粛は詔をもち、牛輔を殺したい。牛輔は、李粛を返り討ちにした。李粛は、弘農ににげる。呂布は、李粛を殺した。
ぼくは思う。董卓が殺されたタイミングで、主力が出払っていることに注意。王允は、このスキをねらったのだ。朱儁と戦うため、董卓は牛輔を外に出し、牛輔からさらに李傕や郭汜が分かれたときである。董卓が死んだのは、間接的には、朱儁のせい。朱儁を盟主にしたのは、陶謙でした。
袁紹と袁術に立ち向かい、袁術に敗れた野心家・陶謙伝
話がつながっていく。面白いが、めまいがしそうだ。笑
獻帝紀雲:筮人常為越所鞭,故因此以報之。
『魏書』はいう。牛輔は、びびった。中郎将の董越が、牛輔を頼った。占いの結果を見て、牛輔は董越を殺した。
『献帝紀』はいう。占い師は、董越への恨みを晴らした。
其後輔營兵有夜叛出者,營中驚,輔以為皆叛,乃取金寶,獨與素所厚(友)胡赤兒等五六人相隨,逾城北渡河,赤兒等利其金寶,斬首送長安。
牛輔は、負けたと思って逃げた。黄河を渡りたい。部下の胡族に裏切られ、牛輔のクビは長安に送られた。
胡軫、徐栄、楊定が、李傕と郭汜を迎撃
比傕等還,輔已敗,眾無所依,欲各散歸。既無赦書,而聞長安中欲盡誅涼州人,憂恐不知所為。用賈詡策,遂將其眾而西,所在收兵,比至長安,眾十餘萬,
このころ、李傕らは長安にもどる。すでに牛輔が敗れ、行くところがない。散った。長安で、「涼州の人は皆殺し」だと聞き、恐れた。
ぼくは思う。陳留は、張邈が太守をする。兗州の西端だ。192年、袁術が入ってきたのも陳留。195年、さいごまで曹操に抵抗するのは、陳留。なにかとキーになる土地です。潁川は、このとき李傕らに荒らされた。曹操が196年に入るまで、史料でめぼしい動きがない。論文を書くために調べたから、わりと自信がある。
賈詡の策をもちい、李傕らは長安にくる。
ぼくは思う。胡軫と徐栄のような、董卓軍の重鎮は、王允に降っていた。李傕や郭汜のような、潁川に遠征してた下っ端がもどってきて、逆転をかました。徐栄は、呂布に握りつぶされたのでなく(笑)、長安を攻める李傕に敗れたのだ。もと董卓軍のなかで、下克上が起きたのが、この長安攻撃だ。
謝承『後漢書』はいう。董卓が死ぬと、陜県にいる諸将は、王允に赦しを求めた。尚書令の王允は、大赦は歳に1回だから、ダメだと言った。李傕は三輔で略奪した。隴西の郷里にもどり、兵をあつめた。
『三国志』賈詡伝にひく裴注は、賈詡を批難する。
李傕の兵は、10余万。
李傕と郭汜は、牛輔に命じられて、李粛をこばみ、并州の男女数百人を殺した。李傕らは、5月以降、新たに罪をつくったのだ。ゆえり王允は、李傕らを許さなかった。
ぼくは思う。王允は、かたくなに董卓の故将を拒絶したのでない。重鎮の、胡軫や徐栄を許した。李傕と郭汜が、おそらく牛輔が死んで命令系統を失い、ムチャをした。このムチャを許さなかっただけである。
盧弼はいう。王允は、胡軫と徐栄を、李傕にあたらせた。王允は、胡軫らを疑っていない。ただ胡軫らは、李傕らを軽んじたので、負けちゃっただけだ。追い詰められた獣のような李傕に、勝てなかった。もし皇甫嵩に長安を防御させ、朱儁に後詰をさせたら、王允は李傕に勝つことができただろう。賈詡の知恵など、吹き飛んだはずだ。
ぼくは思う。盧弼は、イフ物語を言ってる。仕方ないなあ。そして、胡軫が油断した理由も、わかる。胡軫は、董卓軍の重鎮。「涼州の大人」だ。李傕や郭汜は、下っ端の校尉だ。5月の大赦をうけ「官軍」となった胡軫は、気持ちに余裕があるよね。
柳従辰はいう。袁宏『後漢紀』はいう。王允と士孫瑞は、董卓の部曲を赦そうとした。王允は、涼州の人を赦さなかった。
『九州春秋』はいう。李傕らは陜県にいて、恐怖した。胡文才、楊整脩は、どちらも涼州の大人だ。だが司徒の王允と、仲がわるい。
恵棟はいう。楊整脩は、楊定である。興平元年(193)、安西将軍となった。興平二年(194)、後将軍にうつった。ぼくは思う。楊定だと、断定してくれてありがたい。
章懐はいう。「大人」とは、大家、豪右だ。とうとぶ呼び名でもある。
李傕らが叛くと、王允は胡文才、楊整脩をよんだ。東方の軍を、解体するためである。王允は言った。「関東のネズミを、呼びつけてこい」と。
ぼくは思う。董越も牛輔も、もう死んでるじゃん。彼らが死ぬ前の話か。王允が、胡軫と楊定を赦すときに、関東(=潁川にいる李傕)たちを解体することを、交換条件にしたのかも知れない。いま長安に攻め寄せる李傕は、関東でもなんでもない。裴松之が、注釈した位置が、ちょっと悪いらしい。
胡文才、楊整脩は、王允に従って、長安を出た。じつは兵をまとめて、長安を出ていったのだ。
今回の収穫は、王允がただの「ガンコな失敗者」でないと、わかったことだ。王允は、董卓の主力・胡軫、徐栄、楊定をゆるし、味方にした。王允は、胡軫らを指揮できる状態である。
たまたま、潁川に出かけていた下っ端の校尉・李傕と郭汜が、賈詡の策略にのって、長安を攻めた。王允にとって計算外だが、元董卓軍で、潰し合わせておけば解決するだろうと思った。これが失敗の原因。董卓の死後、「胡軫は、はるかに李傕より偉い」という董卓軍内の秩序は、通用しなかった。
次回、長安が陥落して、王允が斬られます。つづく。110329