03) 李傕が献帝を奪い、郭汜と戦う
『三国志』巻6・董卓伝にくっつく、李傕・郭汜伝をします。
袁氏から後漢王朝を守った、外戚風の宮廷政治家・董卓伝
の続編にあたります。董卓伝をやってから、9ヶ月も放置してしまった。
3人体制の1人、樊稠を殺す
諸將爭權,遂殺稠,並其眾。
諸将はあらそう。ついに樊稠を殺し、軍をあわせる。
『九州春秋』はいう。馬騰と韓遂がやぶれた。樊稠は、陳倉に追いかける。韓遂は樊稠に言った。「私たちは同郷だ。手をむすぼう」と。
そして韓遂。怪しげなアジテーターとして、面目躍如のセリフ。
韓遂は樊稠と、単騎で話す。李傕の兄の子は、李利である。李利は、樊稠が韓遂と話したことをチクった。樊稠は、兵をひきいて函谷関から東へ出たいと言った。
『後漢書』董卓伝はいう。李傕は、樊稠と韓遂が、馬をならべて笑っていたと聞いた。李傕は、樊稠を疑い始めた。袁宏『後漢紀』はいう。李利は、馬騰との戦いで勝てない。樊稠は、李利をキツく叱った。李利は、樊稠にムカついて、樊稠を陥れた。
ぼくは思う。樊稠は志が高いから、李利が力をふるわないのを許せない。樊稠のような人が、もし実力を蓄えれば、後漢は立て直されたのかも。ミニ董卓みたいな感じかなあ。
李傕は、樊稠を会議によび、その席で殺した。
ぼくは思う。下手人の名前まで、分かるのだなあ。騎都尉が、細かい仕事をしているのが気になるが、、李傕も三公レベルだもんなあ。
195年春、李傕と郭汜が争い、献帝を奪いあう
汜與傕轉相疑,戰鬥長安中。
郭汜と李傕は、疑いあい、長安の城内でたたかう。
『典略』はいう。郭汜の妻が嫉妬し、郭汜に糞汁を飲ませた。李傕と郭汜は仲がわるくなり、攻めあった。
傕質天子於營,燒宮殿城門,略官寺,盡收乘輿服禦物置其家。
李傕は軍営で、献帝を人質とする。宮殿の城門を焼き、役所で略奪する。
『献帝起居注』はいう。はじめ郭汜は、みずからの軍営に、献帝を連れたい。
李傕にもれた。李傕の兄の子・李暹が、天子をうばった。楊彪が、「天子は人臣の家にゆかない」と言った。李暹は、楊彪を聞かない。献帝と伏皇后を、李傕が車にのせた。賈詡と左霊が、したがう。
ぼくは思う。李傕に抵抗するのが、楊彪。袁術の姉妹を、妻とする人です。こちらも四世三公。のちに袁術との関係をとがめられ、曹操が罪をかぶせる。
李傕は、天子を北塢におく。
恵棟はいう。『献帝春秋』はいう。虎賁の王曹ら300人は、献帝を車にのせた。献帝と伏皇后は、李傕の軍営にゆく。恵棟はいう。王曹は、王昌であろう。
趙一清はいう。『後漢書』献帝紀はいう。興平2年(195)3月、李傕は献帝をおどし、軍営につれてくる。宮室を焼く。夏4月、伏氏を立てて皇后とした。郭汜が李傕を攻め、献帝の御前に、矢が降る。この日、李傕は献帝を北塢にうつす。つまり李傕は、北塢にいた。
ぼくは補う。『後漢書』献帝紀は、日付まで明らかだ。はぶいたが。
『後漢書』董卓伝がひく『献帝紀』はいう。郭汜と、李傕の部将・張苞、張龍は、李傕を殺そうとした。夜に門をひらき、矢を射かけた。献帝の前に、矢が降った。
ぼくは思う。経緯を整理すると。献帝は、長安の宮殿にいた。郭汜が、軍営に連れこもうとした。李傕が先手をとり、献帝を北塢に連れこむ。楊彪が反対し、賈詡が随行する。郭汜が、李傕の部将の手引をうけて、李傕を攻めた。献帝の前に、矢が降った。これが、195年の3月や4月だ。長安を出る、直前ですね。
李傕は、献帝を北塢にとじこめた。衛尉に門を守らせ、外部と遮断した。侍臣たちは、飢えた。暑いさかりだが、みな心は寒い。
献帝が食事をもとめたら、李傕は腐った牛骨をだす。献帝は大怒した。侍中の楊琦が、なだめた。献帝はゆるした。
李傕は、司徒の趙温がしたがわないので、北塢に連れこむ。
趙温は、李傕を叱った。「あなたは郭汜とあらそい、黄白城に天子をうつすつもりだ。やめなさい」と。李傕は、趙温を殺したい。李傕の従弟・李応は、趙温の故掾である。李応は、李傕をいさめた。李傕は、献帝をうつすのを、やめた。
献帝は、侍中の常洽に言った。「李傕は善悪がわからず、趙温は言葉がキツい。心配だ」と。常洽が言った。「もう李応がとめました」と。献帝は悦んだ。
趙温は、蜀郡の成都の人だ。『華陽国志』はいう。曹操が献帝を許県にうつすと、諸侯の礼をこえて、曹操が政治した。曹操は、趙温を15年間、三公とした。『後漢書』趙典伝はいう。建安十三年、趙温は司空の曹操の子・曹丕を辟して、掾とした。曹操は怒り、趙温を免官にした。曹操は、忠臣の子弟を辟したことに怒り、上奏したのだ。
ぼくは補う。曹操が丞相となり、後漢の三公をなくすときまで、趙温は三公だった。趙温がやめて、曹操は丞相となった。
195年夏、郭汜が、楊彪と張喜をとらえる
傕使公卿詣汜請和,汜皆執之。
李傕は公卿をやり、郭汜に和睦をもとめる。郭汜は、みな公卿をとらえる。
恵棟はいう。袁宏『後漢紀』はいう。郭汜がとらえた公卿はだれか。尚書の王隆、光禄勲の劉淵、衛尉の士孫瑞、太僕の韓融、廷尉の宣璠、大鴻臚の栄郃、大司農の朱儁、将作大匠の梁邵、屯騎校尉の姜宣らである。
華嶠『漢書』はいう。郭汜は、李傕を攻めたい。楊彪が郭汜を叱った。郭汜は剣を手にとり、楊彪を殺したい。中郎將の楊密らが諌めたので、郭汜は楊彪を殺さない。
相攻擊連月,死者萬數。
月をまたぎ、李傕と郭汜は殺しあう。1万人が死ぬ。
『献帝起居注』はいう。李傕は、左道をこのむ。董卓を祭る。祭祀のための武器をもち、侍中や侍郎をびびらす。献帝は、李傕に調子を合わせて、「郭汜のバカ」と言った。李傕は、「献帝は賢いなあ」と、よろこんだ。
李傕は、献帝の近臣が帯刀することが、気に入らない。侍中の李禎は、「故事だから」と説明した。李傕は、納得した。
謁者僕射の皇甫酈は、涼州の旧姓である。献帝は皇甫酈に、李傕と郭汜を和睦させたい。
皇甫酈は、李傕に言った。「董卓は、董旻、董承、董璜らをひきいたが、呂布に叛かれた。李傕の見たとおりだ。李傕も、注意しなさい。張済、郭多(郭汜)、楊定は、李傕をねらっている。楊奉は白波だが、李傕をねらってる」
『後漢書』董卓伝はいう。李傕は、もと牛輔の部曲だ。董承は、安集将軍だ。このとき董承は、「行間」にいた。ぼくは思う。「行間」って、なんだろう。董承が、長安にいるってことでいいのか。もしくは李傕は、牛輔の部曲だった時代、董承を見たよねってことか。
李傕は、皇甫酈を聞かず、追いかえす。侍中の胡邈は、皇甫酈と李傕の口ゲンカを、言葉を飾って(おだやかにアレンジして)、献帝に報告した。
胡邈は、皇甫酈に言った。「李傕のおかげで、皇甫酈の伯父・皇甫嵩は、太尉となれた。李傕とケンカするなよ」と。皇甫酈は答えた。「胡邈(敬才)よ、なんで李傕を弁護するのか。私は李傕に殺されても、李傕に屈しない」と。
献帝は、皇甫酈の言葉がキツいので、李傕を刺激することを恐れた。皇甫酈を、長安から出した。李傕は、虎賁の王昌に、皇甫酈を追わせた。王昌は、皇甫酈を逃した。
献帝は、左中郎将の李固をやり、李傕を大司馬とし、三公の右とした。李傕は、鬼神のちからに感謝し、巫人に謝礼をだした。
潘眉はいう。大司馬は、太尉である。すでに(後漢では)、大司馬を改めて、太尉とした。ふたたび大司馬をおき、太尉の上とした。古制とはちがう。
ぼくは思う。献帝の基本的な態度が、「李傕を刺激しないように」であるのが、悲しい。出自や官位のたかい人を送り、李傕と郭汜を和睦させたい。しかし、出自や官位のたかい人は、プライドも高い。李傕と、折り合ってくれない。ジレンマだ。けっきょく、出自も官位も、中くらいの人が、仲介役になる。
ともあれ、献帝の意思が、ちゃんと記されているのは面白いなあ。『起居注』はいい!
次回、最終回。献帝が長安を出発します。110330