表紙 > ~後漢 > 献帝の動向を知るために、李傕・郭汜伝

02) 李傕、郭汜、樊稠の3人体制

『三国志』巻6・董卓伝にくっつく、李傕・郭汜伝をします。
袁氏から後漢王朝を守った、外戚風の宮廷政治家・董卓伝
の続編にあたります。董卓伝をやってから、9ヶ月も放置してしまった。

王允の長安が陥落する

與卓故部曲樊稠、李蒙、王方等合圍長安城。十日城陷,與布戰城中,布敗走。傕等放兵略長安老少,殺之悉盡,死者狼籍。誅殺卓者,屍王允於市。

もと董卓の部曲である、樊稠、李蒙、王方らが、李傕らにあわさり、長安をかこむ。10日で陥落した。呂布はにげた。李傕らは、長安で殺しまくる。王允の死体をさらす。

『後漢書』董卓伝はいう。長安が守りが固い。呂布軍に、李傕を手びきする人があり、李傕軍が入城した。衛尉のチュウフツらが殺された。王允は天子をつれ、宣平城の門楼にこもる。王允は、天下に大赦した。李傕、郭汜、樊稠は、王允に董卓を殺した罪を問い、数日後に殺した。
ぼくは思う。王允は、大赦することで、李傕らが大人しくなると思ったか。献帝というカードが、どこまで戦乱を治める力があるか。のちの曹操までふくめ、考えたい問題。


張璠漢紀曰:布兵敗,駐馬青瑣門外,謂允曰:「公可以去。」允曰:「安國家,吾之上原也,若不獲,則奉身以死。朝廷幼主恃我而已,臨難苟免,吾不為也。努力謝關東諸公,以國家為念。」傕、汜入長安城,屯南宮掖門,殺太僕魯馗、大鴻臚周奐、城門校尉崔烈、越騎校尉王頎。吏民死者不可勝數。

張璠『漢紀』はいう。呂布がやぶれ、馬を青瑣門のそとにつなぎ、王允に言った。「王允は去れ」と。王允は呂布に答えた。「国家のために、幼主をまもる。呂布は国家のために、関東の諸公にあやまれ」と。

盧弼は、青瑣門に注釈する。はぶく。『後漢書』王允伝は、セリフが少しちがうが、内容は同じである。ぼくは思う。関東の「諸公」って、誰だろう。在外三公?劉虞たち?董卓が、関東の盟主・劉虞を、太尉から大司馬に任じたのは、前に見ました。
劉虞と袁紹と袁術を知るために、公孫瓚伝 02

李傕と郭汜は、長安にはいり、太僕の魯馗、大鴻臚の周奐、城門校尉の崔烈、越騎校尉の王頎を殺した。

太僕の魯馗は、ロキと読む。『後漢書』献帝紀は、魯旭とする。『後漢書』魯恭伝はいう。魯恭の長子は、魯謙である。魯謙の子は、魯旭である。官位は、太僕となる。魯旭は、司徒の王允と、董卓を殺した。李傕と郭汜に殺された。趙一清はいう。馗と旭は、つうじる。
『三輔決録注』はいう。周奐は、あざなを文明という。茂陵の人だ。
ぼくは補う。盧弼は、崔烈の注釈をサボってるが、有名だからですね。
王頎は、オウキと読む。『後漢書』献帝紀はいう。太僕の魯旭は、太常のチュウフツ、校尉の王頎のつぎに名を記され、みな戦没したとされる。『後漢書』董卓伝はいう。衛尉のチュウフツは、一緒に死なない。

李傕らに殺された吏民は、数え切れない。

『後漢書』献帝紀はいう。吏民は、1万余人が死んだ。李傕は、司隷校尉の黄允を殺した。『後漢書』黄琬伝はいう。黄琬は、長安で司隷校尉となった。王允とともに、董卓を殺した。黄琬は李傕に殺された。52歳だった。
ぼくは思う。王允に同調した高官は、とてもおおい。呂布と王允の繋がりばかり注目するのは、『三国演義』を引きずった妄想だ。いま李傕に殺された人たちを巻きこんだ、大規模なクーデターだった。


張璠漢紀曰:司徒王允挾天子上宣平城門避兵,傕等於城門下拜,伏地叩頭。帝謂傕等曰:「卿無作威福,而乃放兵縱橫,欲何為乎?」傕等曰:「董卓忠於陛下,而無故為呂布所殺。臣等為卓報讎,弗敢為逆也。請事竟,詣廷尉受罪。」允窮逼出見傕,傕誅允及妻子宗族十餘人。長安城中男女大小莫不流涕。

『漢紀』のつづき。司徒の王允は、献帝を宣平の城門にあげた。李傕は、献帝に叩頭した。献帝は李傕に言った。「李傕は、兵を動かし、どういうつもりだ」と。李傕は言った。「董卓の仇敵にむくいたい。むくいたら、廷尉に罪をうけます」と。

盧弼は、宣平門を注釈する。はぶく。
袁山松の書では、李傕は献帝の質問にこたえず、みずから将軍を任命した。『資治通鑑』で、献帝のセリフがちょっとちがう。でも、内容はだいたい同じだ。

李傕は、王允の妻子10余人を殺した。長安の城中は、流涕した。

『後漢書』王允伝はいう。王允は56歳だ。長子は、侍中の王蓋、次子は、景定だ。彼らは、みな殺された。ただ王允の兄の子・王晨、王陵は、郷里に帰った。
ぼくは補う。王允の兄の子から、曹魏の王淩が出てくるのですね。
ただ王允の故吏・平陵令の趙シンは、王允をとむらう。趙シンは、長陵の人。恵棟はいう。趙シンは、趙岐の従子だ。ぼくは補う。趙岐は、袁紹と公孫瓚を停戦させる人。


張璠漢紀曰:允字子師,太原祁人也。少有大節,郭泰見而奇之,曰:「王生一日千里,王佐之才也。」泰雖先達,遂與定交。三公並辟,曆豫州刺史,辟荀爽、孔融為從事,遷河南尹、尚書令。及為司徒,其所以扶持王室,甚得大臣之節,自天子以下,皆倚賴焉。卓亦推信之,委以朝廷。

『漢紀』のつづき。王允は、太原の人。郭泰に「王佐の才」とほめられた。郭泰が年長だが、王允と交際した。豫州刺史となる。荀爽、孔融に辟され、従事となる。河南尹、尚書令、司徒となる。天下に頼られた。

『後漢書』王允伝はいう。董卓は、朝廷の旧事を、王允に教わった。董卓が洛陽にとどまり、(孫堅と戦ったとき)、王允に長安をすべて任せた。王允は、董卓にムカつきながらも、朝廷を支えた。へえ!


華嶠曰:夫士以正立,以謀濟,以義成,若王允之推董卓而分其權,伺其間而弊其罪。當此之時,天下之難解矣,本之皆主於忠義也,故推卓不為失正,分權不為不義,伺間不為狙詐,是以謀濟義成,而歸於正也。

華嶠はいう。王允は、董卓を推挙して、権限を分与してしまった。だが王允は、董卓を殺した。王允は、正しいことをした。

『後漢書』王允伝の、范曄による「論」は、華嶠の意見をパクったものだ。以下、盧弼は、王允の評価について、范曄「論」と、『通鑑集覧』をひく。董卓を討ったが、李傕に討たれちゃったことの評価とか。はぶく。


李傕、郭汜、樊稠が3人で執政する

葬卓於郿,大風暴雨震卓墓,水流入藏,漂其棺槨。傕為車騎將軍、池陽侯,領司隸校尉、假節。汜為後將軍、美陽侯。稠為右將軍、萬年侯。傕、汜、稠擅朝政。濟為驃騎將軍、平陽侯,屯弘農。

李傕は、董卓を郿県にほうむる。大雨が、董卓の墓に流れこむ。

『後漢書』董卓伝はいう。李傕は、董卓の親族もほうむった。大風、大雨。章懐注は『献帝起居注』は、風雨のひどさを、もっと激しく記す。周寿昌はいう。天下の悪人め、ザマア見ろという趣向である。

李傕は、車騎将軍、池陽侯となり、司隸校尉、假節。郭汜は、後將軍、美陽侯となる。樊稠は、右將軍、萬年侯。李傕、郭汜、樊稠の3人が、朝政をつかむ。

李傕が封じられた池陽は、右扶風。郭汜が封じられた美陽は、左馮翊。樊稠が封じられた万年は、美陽の南西。
『後漢書』董卓伝はいう。李傕に、樊稠と郭汜をくわえ、三公のように開府した。六府となる。それぞれ人材を採用した。章懐注は、『献帝起居注』をひく。李傕らが採用したのに、逆らわれると、李傕らは怒った。まず李傕が人を選び、つぎに樊稠が選んだ。もとの三公が選んだ人材は、李傕に奪われて、採用できない。
王先謙はいう。このとき、じつは五府である。一府は名前だけである。

張済は驃騎将軍、平陽侯となり、弘農にいる。

平陽は、武帝紀のはじめに盧弼が注釈した。
『後漢書』献帝紀、董卓伝はどちらもいう。張済は、鎮東将軍となった。のちに驃騎将軍にうつった。ぼくは思う。陳寿が、プロセスをすっ飛ばして書いてしまったのだ。


英雄記曰:傕,北地人。汜,張掖人,一名多。濟為驃騎將軍、平陽侯,屯弘農。

『英雄記』はいう。李傕は、北地の人だ。郭汜は、張掖の人だ。郭多ともいう。

馬騰と韓遂、馬宇と种邵と劉範の叛乱

  是歲,韓遂、馬騰等降,率眾詣長安。以遂為鎮西將軍,遣還涼州,騰征西將軍,屯郿。侍中馬宇與諫議大夫種邵、左中郎將劉範等謀,欲使騰襲長安,己為內應,以誅傕等。騰引兵至長平觀,宇等謀泄,出奔槐裏。稠擊騰,騰敗走,還涼州;又攻槐裏,宇等皆死。時三輔民尚數十萬戶,傕等放兵劫略,攻剽城邑,人民饑困,二年間相啖食略盡。

この歳(192)、韓遂と馬騰らが、李傕らにくだり、長安にきた。韓遂は鎮西將軍となり、涼州にもどる。馬騰は征西將軍となり、郿県にいる。侍中の馬宇、諫議大夫のチュウ邵、左中郎將の劉範らは、謀略をねる。

ぼくは思う。韓遂と馬騰は、涼州の軍閥という点で、董卓にカブる。どういう関係か、整理がつかなかったが。「韓遂が、李傕にくだり、のちに叛いた」とすれば、理解ができた。つまり韓遂は、董卓と敵だった。李傕が政権をにぎるにおよび、下についた。
『後漢書』董卓伝はいう。劉範は、右中郎将である。恵棟はいう。『三国志』武帝紀と、チュウ邵は、どちらも左中郎将とする。李賢はいう。劉範は、劉焉の子である。ぼくは4年前、この叛乱と劉焉の関わりを書きました。ひそかに献帝討伐、劉焉伝

馬宇らは、馬騰に長安を襲わせ、みずから内応して、李傕を殺したい。馬騰は、長平観に兵を動かす。李傕にバレた。馬騰は、槐裏ににげた。樊稠は、馬騰を攻めた。馬騰は、涼州にもどる。

馬騰がいた長平観は、李傕が封じられた池陽の南にある。ぼくは思う。馬騰が李傕を攻撃する動きは、本格的だったんだなあ。馬騰は、『三国演義』で曹操暗殺に署名しますね。つくづく、中央の陰謀に縁のある人物です。

樊稠は槐裏を攻め、馬宇らが死んだ。

『後漢書』董卓伝はいう。はじめ董卓が関中に入ると、韓遂と馬超は、関東(劉虞や袁紹ら)とともに、謀った。馬騰は、天下が乱れるとにらむ。興平元年(193)、馬騰は隴右から出て、長安にきた。馬騰は霸橋にきて、李傕に味方になろうと言ったが、李傕がゆるさず。馬騰は怒った。馬宇、劉範、さきの涼州刺史のチュウ邵、中郎将の杜稟とともに、馬騰は李傕を攻めた。勝てない。韓遂が聞きつけて、馬騰に合わさる。
『後漢書』种嵩伝はいう。种フツは、あざなを潁伯という。初平元年(190)、荀爽に代わり、司空となる。地震で免じられた。ふたたび太常となる。李傕らが長安をつぶした。种フツは剣をふるい、李傕をしかる。种フツは、李傕に殺された。
『後漢書』种嵩伝のつづき。种フツの子が、种邵である。あざなは、申甫という。侍中となる。董卓は、种邵の力がつよいのを悪み、議郎に左遷した。益州、涼州の刺史に出された。父の种フツが死んだので、种邵は刺史に着任せず。少府、大鴻臚にめされる。どちらも受けず。种邵は言った。「父が殺された。国家のため、父の仇をとる」と。馬騰、韓遂、劉範、馬宇らとともに、种邵は李傕を攻めた。長平観で戦った。种邵らは、みな戦死した。
『後漢書』献帝紀は、袁宏『後漢紀』をひく。このとき馬騰は、益州刺史の劉焉が、宗室の大臣だから、引きいれた。劉焉は、子の劉範をよこした。もと涼州刺史の种邵は、太常・种フツの子だ。种邵は、仇討に燃えていた。


時三輔民尚數十萬戶,傕等放兵劫略,攻剽城邑,人民饑困,二年間相啖食略盡。

ときに三輔には、まだ数十万戸がある。李傕は、城邑をかすめ、人民は饑困した。2年間、食糧がなくて、民はほぼ全滅した。

『後漢書』董卓伝はいう。長安には盗賊がいた。李傕、郭汜、樊稠は、長安を3つに分けて、境界をまもった。李傕らの子弟は、略奪をした。ぼくは補う。天下三分!
『後漢書』献帝紀はいう。穀物の値段が、高騰した。白骨が積みあがる。献帝は、侍御史の侯汶に、公庫を開かせた。章懐注は、袁宏『後漢紀』をひく。献帝は、侍中の劉艾に命じ、調理させた。


獻帝紀曰:是時新遷都,宮人多亡衣服,帝欲發禦府繒以與之,李傕弗欲,曰:「宮中有衣,胡為複作邪?」詔賣廄馬百餘匹,禦府大司農出雜繒二萬匹,與所賣廄馬直,賜公卿以下及貧民不能自存者。李傕曰「我邸閣儲偫少」,乃悉載置其營。賈詡曰「此上意,不可拒」,傕不從之。

『献帝紀』はいう。献帝がお金をやりくりすると、李傕がとがめた。賈詡が「献帝の行動を、とがめるな」と言ったが、李傕は聞かない。

ぼくは思う。賈詡は、このとき李傕の勢力内にいて、ほぼ唯一、曹魏で高官にのぼった人だ。賈詡の美談が、あとから遡って作られたのかも知れない。
もともと、涼州に逃げようとする李傕に、賈詡が「逃げたら亭長につかまる。長安を攻めろ」と言ったのも、ウソくさい。どうして、いち校尉の敗残軍のなかで、賈詡のセリフが残るものか。どうせ遡って、賈詡の頭脳をほめるために、あとからプラスされた逸話だろう。けっきょく俯瞰すれば、「賈詡が余計なこと言うから、後漢が混乱したんでしょうが」と、裴松之に叱られることになるけど。創作するときは、慎重に!


次回、李傕と郭汜が、樊稠を殺す。3人の政権が、2人の政権になります。
ともあれ李傕らは、内部&外部が呼応した叛乱(馬騰ら)を、いちど平定した。王允よりは、成功していることになる。ただの校尉だったのに、すごいなあ。状況がなせるわざか、本人たちの有能のなせるわざか。つづく。110330