04) 長安から許県までの道のり
『三国志』巻6・董卓伝にくっつく、李傕・郭汜伝をします。
袁氏から後漢王朝を守った、外戚風の宮廷政治家・董卓伝
の続編にあたります。董卓伝をやってから、9ヶ月も放置してしまった。
楊奉が李傕にそむき、張済が献帝を逃がす
傕將楊奉與傕軍吏宋果等謀殺傕,事泄,遂將兵叛傕。傕眾叛,稍衰弱。張濟自陝和解之,天子乃得出,至新豐、霸陵間。
李傕の部将は、楊奉である。李傕の軍吏は、宋果である。楊奉と宋果は、李傕を殺そうとした。バレたので、李傕にそむいた。李傕は、衰弱した。
袁宏『後漢紀』はいう。侍中の楊琦と、黄門侍郎の丁沖、鍾繇、尚書左丞の魯充、尚書郎の韓ヒンと、李傕の部将・楊奉、李傕の軍吏・楊帛らは、李傕を殺そうとした。李傕は、他ごとにかこつけ、楊帛を殺す。楊奉は、楊帛の軍をあわせ、郭汜をたよる。
ぼくは思う。李傕の部将・楊奉の叛乱がトリガーです。楊奉は、前に史料をあつめました。
楊奉と韓暹は、献帝をうつし、董卓の代替政権をめざした
張済は、陜県から出てきて、献帝を連れ出した。
ぼくは思う。弘農楊氏は、汝南袁氏と交流がある。楊奇も、弘農楊氏の一員で、献帝を洛陽から連れ出した。袁術が、献帝を保護するプランは、順調に進んでいるように見えるなあ。
『後漢書』董卓伝はいう。張済は、献帝を弘農にうつしたい。献帝は、洛陽にもどりたい。ゆえに献帝は、あつく李傕に「東へ帰せ」と言った。10回も言われて、李傕は許した。
張済は、新豊、覇陵のあいだにくる。
袁宏『後漢紀』を見るに。羌族や胡族が、しばしば問うた。「天子は、ここにいるか」と。李傕は、みずからの宮殿に美女をはべらせる。献帝がどこにいるか、わからない。侍中の劉艾は、宣義将軍の賈詡に言った。「賈詡は、献帝をたすけて、いまの地位を得た。だがいま、羌族や胡族が、道路に満ちている。李傕の協力をやめて、献帝をたすけろ」と。賈詡は、李傕を裏切った。李傕は孤立した。
ぼくは思う。いま賈詡は将軍職だ。地位が軽くない。のちに洛陽に出た献帝は、劉表から物資をもらった。劉表は、張済の従子・張繍とむすび、曹操と戦う。賈詡が、張繍に献帝を得させたかったのだろう。賈詡が、献帝をどうするつもりか。賈詡の意図が、献帝の運命をわりと左右する。賈詡が曹操に降伏した時点で、「曹操が献帝を保護する」という体制が、ひと段落する。ちょっと先の話を書いてしまった。
『郡国志』はいう。司隷の京兆に、新豊県がある。覇陵は、明帝紀の景初元年に、盧弼が注釈した。
『獻帝起居注』はいう。天子は、宣平門から出て、橋を渡りたい。郭汜の兵が、天子を止めた。「天子の車か」と。李傕の兵が、天子をかこむ。侍中の劉艾が、大声で言った。「天子である」と。侍中の楊琦が、車のカーテンをあけた。天子は、李傕と郭汜の兵たちに言った。「近よるな」と。郭汜の兵は、さがる。天子は、橋をわたった。士衆はバンザイをした。
袁宏『後漢紀』はいう。興平二年(195)7月甲子、献帝の車駕は、宣平門をでた。郭汜がとめた。劉艾が「天子だ」と言った。郭汜は兵をひいた。夜に、覇陵にきた。献帝の従者は、みな飢える。張済が、食糧をとどける。李傕は、河陽にいる。ぼくは思う。献帝の脱出を可能にしたのは、張済でキマリですね。
盧弼はいう。『後漢書』董卓伝は、李傕が曹陽に屯したとする。『資治通鑑』は、李傕が池陽に屯したという。
曹陽で、献帝が李傕に敗れ、劉氏が微弱に
郭汜複欲脅天子還都郿。天子奔奉營,奉擊汜破之。汜走南山,奉及將軍董承以天子還洛陽。傕、汜悔遣天子,複相與和,追及天子於弘農之曹陽。
郭汜は、献帝をもどして、郿県におきたい。楊奉は、郭汜をやぶる。郭汜は、南山ににげた。
章懐注は、『帝王紀』をひく。献帝は、尚書郎の郭溥に、郭汜を説得させた。郭溥は、郭汜を罵った。「庸人のくせに、いばってるんじゃないよ。献帝に逆らうなら、私を殺してみろよ」と。郭溥の言葉がキツいので、郭汜は少し説得された。
ぼくは思う。前後関係のわからない、マイナーな延臣たちが、登場しては消えてゆく。平時なら、きちんと列伝を立てられて、ながい上表文なんかを、残してもらえる人たちなんだろう。
楊奉と、将軍の董承は、天子を洛陽にもどしたい。李傕と郭汜は、天子を手ばなしたことを悔い、仲なおりした。李傕と郭汜は、弘農の曹陽で、天子に追いついた。
恵棟はいう。曹陽は、亭である。弘農の東12里にある。杭世駿は、『太平カン宇記』をひく。李傕と郭汜は、天子を追い、東カンで戦った。天子は、曹陽にゆく。曹操は、曹陽を「好陽」に改めた。ぼくは思う。「曹」の字が、カブるしね。
王補はいう。このとき沮授が、袁紹に献帝を迎えろと言った。献帝を鄴県に迎えろと言った。袁紹伝にある。盧弼はいう。袁紹伝を見ると、車駕が曹陽で李傕に追いつかれたとき、沮授はこの進言をした。袁宏『後漢紀』、『資治通鑑』を見ると、沮授の発言は、興平2年(195)冬12月である。沮授は、曹操が献帝を保護する前に、発言したはずだ。郭図と淳于瓊が反対して、袁紹は献帝を保護しなかった。
ぼくは思う。献帝が曹陽で敗れたのは、袁術が1回目、皇帝即位を考えたタイミング!
奉急招河東故白波帥韓暹、胡才、李樂等合,與傕、汜大戰。奉兵敗,傕等縱兵殺公卿百官,略宮人入弘農。
楊奉は河東から、もと白波の韓暹、胡才、李楽らをまねく。李傕、郭汜と大戦する。
楊奉は敗れた。李傕らは、公卿百官を殺す。李傕らは、弘農に入る。
ふたたび李傕に追われ、献帝は敗れた。少府の田芬、大司農の張義らが戦没した。
趙一清はいう。2回の戦闘を、1回にまとめたようで、『後漢書』献帝紀は誤っているだろう。ぼくは思う。『後漢書』献帝紀は、ここよりも、場所と日付にくわしい。とりあえず、信じておけばいいのだ。
三輔決錄注曰:瑞字君榮,扶風人,世為學門。瑞少傳家業,博達無所不通,仕曆顯位。卓既誅,遷大司農,為國三老。每三公缺,瑞常在選中。太尉周忠、皇甫嵩,司徒淳于嘉、趙溫,司空楊彪、張喜等為公,皆辭拜讓瑞。天子都許,追論瑞功,封子萌澹津亭侯。萌字文始,亦有才學,與王粲善。臨當就國,粲作詩以贈萌,萌有答,在粲集中。
『献帝紀』はいう。尚書令の士孫瑞は、殺害された。
『三輔決錄注』はいう。士孫瑞は、董卓が殺されたあと、大司農、国三老となる。三公が欠員すると、推薦された。太尉の周忠、皇甫嵩、司徒の淳于嘉、趙溫、司空の楊彪、張喜らは、三公になると、士孫瑞にゆずった。士孫瑞の子は、士孫萌だ。王粲と仲が良かった。
三老は、『三国志』曹髦紀の甘露三年で、盧弼が注釈した。
『三輔決録』趙岐注はいう。士孫萌は、15歳で文をつづった。士孫瑞は、王允が敗れると見て、長安を離れようとした。士孫萌に家属をひきい、荊州の劉表を頼らせた。はたして士孫瑞は、李傕に殺された。献帝が許県にきてから、董卓を誅した功績により、士孫萌は漁津侯に封じられた。
天子走陝,北渡河,失輜重,步行,唯皇后貴人從,至大陽,止人家屋中。
天子は、陜県ににげ、北へ黄河をわたる。荷物をうしない、徒歩となる。皇后と貴人たけが、献帝にしたがう。大陽にいたり、泊めてもらう。
『後漢書』献帝紀、伏皇后紀はいう。夜に黄河を渡った。
『太平御覧』817にひく、華嶠『漢書』はいう。董承は、夜に先回りして、舟を手配した。伏皇后や中宮は、手に10匹の絹だけをもつ。舟に乗れなかった人は、黄河に飛びこんで死んだ。ぼくは思う。『御覧』を見ないと分からないのがポイント!董承は、活躍しています。献帝を李傕から救出するとき、楊彪と董承に注目したい。
『後漢書』董卓伝はいう。伏皇后、宋貴人、楊彪、董承、皇后の父・執金吾の伏完らが救われた。のこりは掠奪されたり、凍死したり。
『郡国志』はいう。司隷の河東に、大陽がある。
『献帝紀』はいう。議者は、天子を河東にわたしたい。太尉の楊彪が言った。「私は弘農の人だ。急流だから渡れないと知っている」と。劉艾も、楊彪に同意した。
袁宏は、宗正の劉艾とする。『後漢書』は、侍中の劉艾とする。
河東に行けないので、天子は、黄河を北にわたる。李楽が舟を手配した。岸が高くて、黄河に降りられない。董承は、馬綱を天子の腰にむすぶ。中宮僕の伏徳が、皇后が持っていた絹をむすんだ。行軍校尉の尚弘が、献帝を降ろした。舟に乗れない人が、舟にとりつく。とりつく指を切り、指が舟にたまった。
河東の安邑を、小さな首都とする
奉、暹等遂以天子都安邑,禦乘牛車。太尉楊彪、太僕韓融近臣從者十餘人。
楊奉と韓暹は、天子を安邑にうつす。太尉の楊彪、太僕の韓融ら、10余人が従うだけ。
『後漢書』董卓伝はいう。河内太守の張楊は、数千人で、米を安邑にとどけた。河東太守の王邑は、綿をとどけた。
『後漢書』韓韶伝はいう。韓韶の子は、韓融だ。あざなは元長。献帝のはじめ、太僕となった。管寧伝の注釈『先賢行状』に見える。ぼくは思う。なぜに管寧伝?見ねば。
以暹為征東、才為征西、樂征北將軍,並與奉、承持政。遣融至弘農,與傕、汜等連和,還所略宮人公卿百官,及乘輿車馬數乘。是時蝗蟲起,歲旱無穀,從官食棗菜。
韓暹は征東将軍、胡才は征西将軍、李楽は征北将軍となる。楊奉、董承とともに、政権をもつ。
『後漢書』董卓伝はいう。胡才は、征東将軍となる。張楊は、安国将軍となる。どちらも仮節、開府。塁壁をきずき、天子にせまって印璽をつくらせ、酒肉をくらう。ぼくは思う。東西南北が、みんな微妙にちがうなあ。
韓融を弘農におくり、李傕、郭汜との仲をとりもつ。イナゴのせいで、食糧がない。棗菜をたべた。
『後漢書』董卓伝はいう。献帝が関に入ったとき、三輔の戸数は、なお数十万あった。李傕と郭汜が攻めあったあと、長安城は、40余日からっぽ。食糧がない。2、3年、関中には人の足跡がない。ぼくは思う。献帝が長安を出たのは、飢えから助かるためかな。戦争がつづくせいで、関中の物資が尽きた。だから、洛陽に帰りたくなった。現実的なニーズだな。
献帝は、姿を隠せない。兵士たちが、献帝を見物して、笑った。権限がみだれた。印璽が間に合わないので、キリで傷つけて、印璽の文字っぽくした。
諸將不能相率,上下亂,糧食盡。奉、暹、承乃以天子還洛陽。出箕關,下軹道,張楊以食迎道路,拜大司馬。語在楊傳。
上下の秩序がなく、食糧もない。楊奉、韓暹、董承は、天子を洛陽にもどす。箕關を出て、軹道をくだる。
ぼくは思う。安邑で、いちおう政権の体裁を整えようとしたが、失敗した。長安を出て、曹陽で敗れたのち、安邑でいちど人を集めた。このクッションは、記憶すべきだろうね。
張楊は、食糧をもって道路にむかえた。張楊は大司馬となる。張楊伝にある。
呂布が なり損ねたハーフな騎馬隊の群雄・張楊伝
『後漢書』董卓伝はいう。建安元年(196)春、諸将は権力をあらそう。韓暹は、董承を攻めた。董承は、張楊ににげる。張楊は董承をつかい、先に洛陽の宮殿を修繕させた。建安元年7月、献帝は洛陽にもどり、楊安殿にゆく。張楊の名をとった宮殿だ。張楊は、野王にかえり、梁県に屯する。張楊を大司馬とする。楊奉は車騎将軍となる。韓暹は大将軍、司隷校尉となる。どちらも仮節。韓暹と董承は、宿衛にとどまる。
天子入洛陽,宮室燒盡,街陌荒蕪,百官披荊棘,依丘牆間。州郡各擁兵自衛,莫有至者。饑窮稍甚,尚書郎以下,自出樵采,或饑死牆壁間。
洛陽は、宮殿も食糧もない。尚書郎以下、食糧をとりにゆく。飢え死ぬ。
『後漢書』董卓伝はいう。韓暹がおごり、政治を乱した。董承は韓暹をうれい、ひそかに兗州牧の曹操をよんだ。公卿以下は、韓暹と張楊の罪を上奏した。韓暹はおそれ、単騎で張楊のもとににげる。献帝は、韓暹と張楊に助けてもらったので、2人を不問にする。ここにおいて、衛将軍の董承、輔国将軍の伏完ら10余人は、列侯にする。沮儁に弘農太守を追贈する。曹操は、洛陽が荒れているから、許県にうつす。
恵棟はいう。後漢にある潁川の許県だ。もとは許国だった。曹丕が、許昌とあらためた。
ぼくは思う。長安、曹陽、安邑、洛陽、許県。このステップで献帝の画期がありますね。『後漢書』董卓伝で、董承は曹操を招きましたが。『三国志』武帝紀では、董承は袁術の部将・チョウ奴とむすび、曹洪をこばむ。董承は、曹操に来てほしくないのだ。どちらの史料も正しければ、董承はカメレオン。どちらか1つの史料が正しいとすれば、陳寿を選びたいなあ。曹操の敵は、おおいほうがいいじゃないか。笑
曹操が献帝を迎え、残りは皆殺し
太祖乃迎天子都許。暹、奉不能奉王法,各出奔,寇徐、揚間,為劉備所殺。
曹操が天子を許県にうつす。韓暹、楊奉は、献帝がいないから、にげた。徐州、揚州のあたりで、劉備に殺された。
『英雄記』はいう。劉備は楊奉をさそい、会見した。その席で、楊奉をとらえた。韓暹は孤立して、并州にかえりたい。杼秋の屯帥・張宣に殺された。
章懐注は、『九州春秋』をひく。韓暹は、楊奉を失った。韓暹は、1000騎だけひきい、并州に帰りたい。張宣に殺された。盧弼は考える。『資治通鑑』は、10余騎とする。
胡三省はいう。杼秋は、前漢では梁国、後漢では沛国に属す。ぼくは思う。韓暹は、并州に接近することができず、兗州で死んでしまった。
董承從太祖歲餘,誅。建安二年,遣謁者僕射裴茂率關西諸將誅傕,夷三族。汜為其將五習所襲,死於郿。濟饑餓,至南陽寇略,為穰人所殺,從子繡攝其眾。才、樂留河東,才為怨家所殺,樂病死。
董承は、曹操にしたがうが、1年余で誅された。
ぼくは思う。楊奉、韓暹につづき、董承も殺された。曹操は、董卓以降、献帝をささえた人を、みな殺す。伏皇后ですら、除かれる。曹操が、献帝を「まったく人脈のないお人形」として、利用したかったことがわかる。曹操は、後漢の兗州刺史・金尚をこばみ、190年代前半は、献帝に逆らってきた。突如、方針を転換して、
建安二年(197)、謁者僕射の裴茂は、関西の諸将をひきい、李傕を三族みな殺しした。
裴茂は、武帝紀の建安19年の注釈と、裴潛伝の注釈『魏略』に見える。『後漢書』献帝紀はいう。建安三年(198)、謁者の裴茂をやり、中郎将の段ワイを率いさせ、李傕を三族みなごろした。恵棟はいう。裴茂は、裴潛の父である。以下、裴茂については盧弼をはぶく。胡三省はいう。ここにおいて、董卓の党は全滅した。『後漢書』董卓伝はいう。段ワイは、安南将軍となる。趙一清はいう。安西将軍とすべきだ。
ぼくは思う。曹操が、関中の後始末のために、裴茂を送っていたことにおどろき。曹操は、このとき、呂布や張繍と戦い、まったく余裕がないはずだ。でも、人手を割いている。
郭汜は、部将の五習に、郿県で殺された。張済は、南陽に食糧をもとめ、殺された。従子の張繍が、張済の兵をつぐ。胡才、李楽は、河東にいた。胡才は怨まれて殺され、李楽は病死した。
『資治通鑑』はいう。張済は、関中から、荊州の境界・南陽の穣県に侵入した。流矢にあたった。族子・建忠将軍の張繍が、兵をひきいた。
ぼくは思う。「楽、才」と書かれていたら。何も見ずに「李楽、胡才は」と、姓をおぎなって翻訳できる。きっと、来週になったら、もう忘れているだろうなあ。
遂、騰自還涼州,更相寇,後騰入為衛尉,子超領其部曲。十六年,超與關中諸將及遂等反,太祖征破之。語在武紀。遂奔金城,為其將所殺。超據漢陽,騰坐夷三族。趙衢等舉義兵討超,超走漢中從張魯,後奔劉備,死於蜀。
韓遂と馬騰は、涼州にいる。のちに衛尉として、許都にくる。馬超が、部曲をつぐ。建安16年、韓遂と馬超が反した。韓遂は金城ににげ、部将に殺された。馬超は漢陽から、張魯、劉備へとにげた。馬超は、蜀で死んだ。
ぼくは思う。『三国志』董卓伝は、馬超の死で締めくくられる。ぶっ飛んだ構成だなあ。
董卓伝、おわり。ややこしいが、『後漢書』献帝紀を見れば、日付をともない、整理されている。以前、年表をつくりました。あわせて、ご参考に。
工具表:『後漢書』霊帝紀と献帝紀を、年表風に配置
名前が複数回出てくる人に着目すれば、あらかた整理できそう。110331