表紙 > ~後漢 > 献帝の動向を知るために、李傕・郭汜伝

04) 長安から許県までの道のり

『三国志』巻6・董卓伝にくっつく、李傕・郭汜伝をします。
袁氏から後漢王朝を守った、外戚風の宮廷政治家・董卓伝
の続編にあたります。董卓伝をやってから、9ヶ月も放置してしまった。

楊奉が李傕にそむき、張済が献帝を逃がす

傕將楊奉與傕軍吏宋果等謀殺傕,事泄,遂將兵叛傕。傕眾叛,稍衰弱。張濟自陝和解之,天子乃得出,至新豐、霸陵間。

李傕の部将は、楊奉である。李傕の軍吏は、宋果である。楊奉と宋果は、李傕を殺そうとした。バレたので、李傕にそむいた。李傕は、衰弱した。

胡三省はいう。皇甫酈の言うとおり、李傕は足をすくわれた。
袁宏『後漢紀』はいう。侍中の楊琦と、黄門侍郎の丁沖、鍾繇、尚書左丞の魯充、尚書郎の韓ヒンと、李傕の部将・楊奉、李傕の軍吏・楊帛らは、李傕を殺そうとした。李傕は、他ごとにかこつけ、楊帛を殺す。楊奉は、楊帛の軍をあわせ、郭汜をたよる。
ぼくは思う。李傕の部将・楊奉の叛乱がトリガーです。楊奉は、前に史料をあつめました。
楊奉と韓暹は、献帝をうつし、董卓の代替政権をめざした

張済は、陜県から出てきて、献帝を連れ出した。

『後漢書』楊震伝はいう。楊震の長子は、楊牧だ。楊牧の孫は、楊奇だ。楊奇は、侍中、衛尉となる。献帝にしたがい、西へゆく。李傕は献帝をおどし、献帝をみずからの軍営にうつす。楊奇は、黄門侍郎の鍾繇とともに、李傕の部将・宋曄、楊昴とむすび、李傕にそむかせる。李傕は孤立した。献帝は、長安を出られた。
ぼくは思う。弘農楊氏は、汝南袁氏と交流がある。楊奇も、弘農楊氏の一員で、献帝を洛陽から連れ出した。袁術が、献帝を保護するプランは、順調に進んでいるように見えるなあ。
『後漢書』董卓伝はいう。張済は、献帝を弘農にうつしたい。献帝は、洛陽にもどりたい。ゆえに献帝は、あつく李傕に「東へ帰せ」と言った。10回も言われて、李傕は許した。

張済は、新豊、覇陵のあいだにくる。

章懐注は、袁宏『後漢紀』をひく。張済は、天官令の孫篤、校尉の張式に、東に戻りたいと言わせた。盧弼はいう。袁宏は、太官令の狐篤、スイ民校尉の張裁に、東に戻りたいと言わせた。章懐注は、名がちがう。
袁宏『後漢紀』を見るに。羌族や胡族が、しばしば問うた。「天子は、ここにいるか」と。李傕は、みずからの宮殿に美女をはべらせる。献帝がどこにいるか、わからない。侍中の劉艾は、宣義将軍の賈詡に言った。「賈詡は、献帝をたすけて、いまの地位を得た。だがいま、羌族や胡族が、道路に満ちている。李傕の協力をやめて、献帝をたすけろ」と。賈詡は、李傕を裏切った。李傕は孤立した。
ぼくは思う。いま賈詡は将軍職だ。地位が軽くない。のちに洛陽に出た献帝は、劉表から物資をもらった。劉表は、張済の従子・張繍とむすび、曹操と戦う。賈詡が、張繍に献帝を得させたかったのだろう。賈詡が、献帝をどうするつもりか。賈詡の意図が、献帝の運命をわりと左右する。賈詡が曹操に降伏した時点で、「曹操が献帝を保護する」という体制が、ひと段落する。ちょっと先の話を書いてしまった。
『郡国志』はいう。司隷の京兆に、新豊県がある。覇陵は、明帝紀の景初元年に、盧弼が注釈した。


獻帝起居注曰:初,天子出到宣平門,當度橋,汜兵數百人遮橋問「是天子邪」?車不得前。傕兵數百人皆持大戟在乘輿車左右,侍中劉艾大呼雲:「是天子也。」使侍中楊琦高舉車帷。帝言諸兵:「汝不卻,何敢迫近至尊邪?」汜等兵乃卻。既度橋,士眾咸呼萬歲。

『獻帝起居注』はいう。天子は、宣平門から出て、橋を渡りたい。郭汜の兵が、天子を止めた。「天子の車か」と。李傕の兵が、天子をかこむ。侍中の劉艾が、大声で言った。「天子である」と。侍中の楊琦が、車のカーテンをあけた。天子は、李傕と郭汜の兵たちに言った。「近よるな」と。郭汜の兵は、さがる。天子は、橋をわたった。士衆はバンザイをした。

盧弼が、宣平門を注釈する。長安の城東。
袁宏『後漢紀』はいう。興平二年(195)7月甲子、献帝の車駕は、宣平門をでた。郭汜がとめた。劉艾が「天子だ」と言った。郭汜は兵をひいた。夜に、覇陵にきた。献帝の従者は、みな飢える。張済が、食糧をとどける。李傕は、河陽にいる。ぼくは思う。献帝の脱出を可能にしたのは、張済でキマリですね。
盧弼はいう。『後漢書』董卓伝は、李傕が曹陽に屯したとする。『資治通鑑』は、李傕が池陽に屯したという。


曹陽で、献帝が李傕に敗れ、劉氏が微弱に

郭汜複欲脅天子還都郿。天子奔奉營,奉擊汜破之。汜走南山,奉及將軍董承以天子還洛陽。傕、汜悔遣天子,複相與和,追及天子於弘農之曹陽。

郭汜は、献帝をもどして、郿県におきたい。楊奉は、郭汜をやぶる。郭汜は、南山ににげた。

胡三省はいう。新豊の山は、西につらなり南山となる。袁宏『後漢紀』はいう。郭汜は、車駕を高陵にうつしたい。張済と公卿は、弘農にゆくか話したが、結論が出ない。献帝は、尚書の郭浦を、郭汜におくって言わせた。「朕は、天下が定まらなくて、歎いている。東にゆき、弘農で廟を祭りたい。郭汜は、朕の発言を疑うな」と。郭汜は、献帝に従わない。
章懐注は、『帝王紀』をひく。献帝は、尚書郎の郭溥に、郭汜を説得させた。郭溥は、郭汜を罵った。「庸人のくせに、いばってるんじゃないよ。献帝に逆らうなら、私を殺してみろよ」と。郭溥の言葉がキツいので、郭汜は少し説得された。
ぼくは思う。前後関係のわからない、マイナーな延臣たちが、登場しては消えてゆく。平時なら、きちんと列伝を立てられて、ながい上表文なんかを、残してもらえる人たちなんだろう。

楊奉と、将軍の董承は、天子を洛陽にもどしたい。李傕と郭汜は、天子を手ばなしたことを悔い、仲なおりした。李傕と郭汜は、弘農の曹陽で、天子に追いついた。

曹陽は、武帝紀の興平二年に、盧弼が注釈した。
恵棟はいう。曹陽は、亭である。弘農の東12里にある。杭世駿は、『太平カン宇記』をひく。李傕と郭汜は、天子を追い、東カンで戦った。天子は、曹陽にゆく。曹操は、曹陽を「好陽」に改めた。ぼくは思う。「曹」の字が、カブるしね。
王補はいう。このとき沮授が、袁紹に献帝を迎えろと言った。献帝を鄴県に迎えろと言った。袁紹伝にある。盧弼はいう。袁紹伝を見ると、車駕が曹陽で李傕に追いつかれたとき、沮授はこの進言をした。袁宏『後漢紀』、『資治通鑑』を見ると、沮授の発言は、興平2年(195)冬12月である。沮授は、曹操が献帝を保護する前に、発言したはずだ。郭図と淳于瓊が反対して、袁紹は献帝を保護しなかった。
ぼくは思う。献帝が曹陽で敗れたのは、袁術が1回目、皇帝即位を考えたタイミング!


奉急招河東故白波帥韓暹、胡才、李樂等合,與傕、汜大戰。奉兵敗,傕等縱兵殺公卿百官,略宮人入弘農。

楊奉は河東から、もと白波の韓暹、胡才、李楽らをまねく。李傕、郭汜と大戦する。

薛ホウはいう。黄巾の郭泰らが、河西の白波谷にいた。だから白波とよばれた。ぼくは思う。本文と同じことだけど、もういちど、書いておく。楊奉が、韓暹らをまねいて、李傕や郭汜と戦った。こういう組み合わせね。

楊奉は敗れた。李傕らは、公卿百官を殺す。李傕らは、弘農に入る。

趙一清はいう。『後漢書』献帝紀はいう。李傕と郭汜は、東澗で献帝を攻めた。光祿勳の鄧泉、衛尉の士孫瑞、廷尉の宣播、大長秋の苗祀、步兵校尉の魏桀、侍中の朱展、射聲校尉の沮俊が殺された。ぼくは思う。士孫瑞は知っているけど、他の人は知らない。楊奉と董承は、白波の胡才、李楽、韓暹および、匈奴の左賢王・去卑をむかえ、李傕と戦う。李傕を破った。ぼくは思う。匈奴まで、連れてきた!
ふたたび李傕に追われ、献帝は敗れた。少府の田芬、大司農の張義らが戦没した。
趙一清はいう。2回の戦闘を、1回にまとめたようで、『後漢書』献帝紀は誤っているだろう。ぼくは思う。『後漢書』献帝紀は、ここよりも、場所と日付にくわしい。とりあえず、信じておけばいいのだ。


獻帝紀曰:時尚書令士孫瑞為亂兵所害。
三輔決錄注曰:瑞字君榮,扶風人,世為學門。瑞少傳家業,博達無所不通,仕曆顯位。卓既誅,遷大司農,為國三老。每三公缺,瑞常在選中。太尉周忠、皇甫嵩,司徒淳于嘉、趙溫,司空楊彪、張喜等為公,皆辭拜讓瑞。天子都許,追論瑞功,封子萌澹津亭侯。萌字文始,亦有才學,與王粲善。臨當就國,粲作詩以贈萌,萌有答,在粲集中。

『献帝紀』はいう。尚書令の士孫瑞は、殺害された。
『三輔決錄注』はいう。士孫瑞は、董卓が殺されたあと、大司農、国三老となる。三公が欠員すると、推薦された。太尉の周忠、皇甫嵩、司徒の淳于嘉、趙溫、司空の楊彪、張喜らは、三公になると、士孫瑞にゆずった。士孫瑞の子は、士孫萌だ。王粲と仲が良かった。

『後漢書』王允伝、『三国志』董卓伝で、士孫瑞は尚書僕射だ。ここでは尚書令だ。『後漢書』献帝紀では、衛尉である。士孫瑞の官職が、バラバラだなあ。
三老は、『三国志』曹髦紀の甘露三年で、盧弼が注釈した。
『三輔決録』趙岐注はいう。士孫萌は、15歳で文をつづった。士孫瑞は、王允が敗れると見て、長安を離れようとした。士孫萌に家属をひきい、荊州の劉表を頼らせた。はたして士孫瑞は、李傕に殺された。献帝が許県にきてから、董卓を誅した功績により、士孫萌は漁津侯に封じられた。


天子走陝,北渡河,失輜重,步行,唯皇后貴人從,至大陽,止人家屋中。

天子は、陜県ににげ、北へ黄河をわたる。荷物をうしない、徒歩となる。皇后と貴人たけが、献帝にしたがう。大陽にいたり、泊めてもらう。

陜県は、春秋のコ国があった。
『後漢書』献帝紀、伏皇后紀はいう。夜に黄河を渡った。
『太平御覧』817にひく、華嶠『漢書』はいう。董承は、夜に先回りして、舟を手配した。伏皇后や中宮は、手に10匹の絹だけをもつ。舟に乗れなかった人は、黄河に飛びこんで死んだ。ぼくは思う。『御覧』を見ないと分からないのがポイント!董承は、活躍しています。献帝を李傕から救出するとき、楊彪と董承に注目したい。
『後漢書』董卓伝はいう。伏皇后、宋貴人、楊彪、董承、皇后の父・執金吾の伏完らが救われた。のこりは掠奪されたり、凍死したり。
『郡国志』はいう。司隷の河東に、大陽がある。


獻帝紀曰:初,議者欲令天子浮河東下,太尉楊彪曰:「臣弘農人,從此已東,有三十六灘,非萬乘所當從也。」劉艾曰:「臣前為陝令,知其危險,有師猶有傾覆,況今無師,太尉謀是也。」乃止。及當北渡,使李樂具船。天子步行趨河岸,岸高不得下,董承等謀欲以馬羈相續以系帝腰。時中宮僕伏德扶中宮,一手持十匹絹,乃取德絹連續為輦。行軍校尉尚弘多力,令弘居前負帝,乃得下登船。其餘不得渡者甚眾,複遣船收諸不得渡者,皆爭攀船,船上人以刃櫟斷其指,舟中之指可掬。

『献帝紀』はいう。議者は、天子を河東にわたしたい。太尉の楊彪が言った。「私は弘農の人だ。急流だから渡れないと知っている」と。劉艾も、楊彪に同意した。

袁宏『後漢紀』はいう。このとき、虎賁羽林の献帝にしたがう人は、100人に満たない。李傕と郭汜の軍の叫びをきくと、おそれた。李楽は、車駕を舟にのせ、孟津を出たい。
袁宏は、宗正の劉艾とする。『後漢書』は、侍中の劉艾とする。

河東に行けないので、天子は、黄河を北にわたる。李楽が舟を手配した。岸が高くて、黄河に降りられない。董承は、馬綱を天子の腰にむすぶ。中宮僕の伏徳が、皇后が持っていた絹をむすんだ。行軍校尉の尚弘が、献帝を降ろした。舟に乗れない人が、舟にとりつく。とりつく指を切り、指が舟にたまった。

袁宏はいう。董承と李楽が、指を切った。李楽の軍営にゆく。


河東の安邑を、小さな首都とする

奉、暹等遂以天子都安邑,禦乘牛車。太尉楊彪、太僕韓融近臣從者十餘人。

楊奉と韓暹は、天子を安邑にうつす。太尉の楊彪、太僕の韓融ら、10余人が従うだけ。

安邑は、武帝紀の興平二年の注釈にある。恵棟はいう。『献帝春秋』はいう。侍中の史ジ、太僕の韓融は、詔をたてまつる。張済に詔して、公卿や婦女を安邑に集めた。
『後漢書』董卓伝はいう。河内太守の張楊は、数千人で、米を安邑にとどけた。河東太守の王邑は、綿をとどけた。
『後漢書』韓韶伝はいう。韓韶の子は、韓融だ。あざなは元長。献帝のはじめ、太僕となった。管寧伝の注釈『先賢行状』に見える。ぼくは思う。なぜに管寧伝?見ねば。


以暹為征東、才為征西、樂征北將軍,並與奉、承持政。遣融至弘農,與傕、汜等連和,還所略宮人公卿百官,及乘輿車馬數乘。是時蝗蟲起,歲旱無穀,從官食棗菜。

韓暹は征東将軍、胡才は征西将軍、李楽は征北将軍となる。楊奉、董承とともに、政権をもつ。

袁宏はいう。胡才は征北将軍、并州牧となる。李楽は、征西将軍、涼州牧となる。韓暹は、征討将軍、幽州牧となる。みな仮節、開府は三公とおなじ。ぼくは思う。州牧、仮節、開府がくっついている点が、陳寿とちがう。
『後漢書』董卓伝はいう。胡才は、征東将軍となる。張楊は、安国将軍となる。どちらも仮節、開府。塁壁をきずき、天子にせまって印璽をつくらせ、酒肉をくらう。ぼくは思う。東西南北が、みんな微妙にちがうなあ。

韓融を弘農におくり、李傕、郭汜との仲をとりもつ。イナゴのせいで、食糧がない。棗菜をたべた。

袁宏はいう。後宮は、棗菜をたべた。『後漢書』伏皇后紀は、貧しさをつたえる。
『後漢書』董卓伝はいう。献帝が関に入ったとき、三輔の戸数は、なお数十万あった。李傕と郭汜が攻めあったあと、長安城は、40余日からっぽ。食糧がない。2、3年、関中には人の足跡がない。ぼくは思う。献帝が長安を出たのは、飢えから助かるためかな。戦争がつづくせいで、関中の物資が尽きた。だから、洛陽に帰りたくなった。現実的なニーズだな。


魏書曰:乘輿時居棘籬中,門戶無關閉。天子與群臣會,兵士伏籬上觀,互相鎮壓以為笑。諸將專權,或擅笞殺尚書。司隸校尉出入,民兵抵擲之。諸將或遣婢詣省閤,或自齎酒啖,過天子飲,侍中不通,喧呼罵詈,遂不能止。又競表拜諸營壁民為部曲,求其禮遺。醫師、走卒,皆為校尉,禦史刻印不供,乃以錐畫,示有文字,或不時得也。

献帝は、姿を隠せない。兵士たちが、献帝を見物して、笑った。権限がみだれた。印璽が間に合わないので、キリで傷つけて、印璽の文字っぽくした。

諸將不能相率,上下亂,糧食盡。奉、暹、承乃以天子還洛陽。出箕關,下軹道,張楊以食迎道路,拜大司馬。語在楊傳。

上下の秩序がなく、食糧もない。楊奉、韓暹、董承は、天子を洛陽にもどす。箕關を出て、軹道をくだる。

趙一清はいう。献帝は黄河を、陜県から黄河を北へわたり、安邑にわたった。安邑を東に出ると、箕關がある。
ぼくは思う。安邑で、いちおう政権の体裁を整えようとしたが、失敗した。長安を出て、曹陽で敗れたのち、安邑でいちど人を集めた。このクッションは、記憶すべきだろうね。

張楊は、食糧をもって道路にむかえた。張楊は大司馬となる。張楊伝にある。

張楊伝は、前にやりました。安邑から、洛陽への移動を可能にしたのは、張楊!
呂布が なり損ねたハーフな騎馬隊の群雄・張楊伝
『後漢書』董卓伝はいう。建安元年(196)春、諸将は権力をあらそう。韓暹は、董承を攻めた。董承は、張楊ににげる。張楊は董承をつかい、先に洛陽の宮殿を修繕させた。建安元年7月、献帝は洛陽にもどり、楊安殿にゆく。張楊の名をとった宮殿だ。張楊は、野王にかえり、梁県に屯する。張楊を大司馬とする。楊奉は車騎将軍となる。韓暹は大将軍、司隷校尉となる。どちらも仮節。韓暹と董承は、宿衛にとどまる。


天子入洛陽,宮室燒盡,街陌荒蕪,百官披荊棘,依丘牆間。州郡各擁兵自衛,莫有至者。饑窮稍甚,尚書郎以下,自出樵采,或饑死牆壁間。

洛陽は、宮殿も食糧もない。尚書郎以下、食糧をとりにゆく。飢え死ぬ。

『続百官志』はいう。尚書侍郎は、定員36人。400石だ。一曹に6人いた。文書の作成、起草をつかさどる。
『後漢書』董卓伝はいう。韓暹がおごり、政治を乱した。董承は韓暹をうれい、ひそかに兗州牧の曹操をよんだ。公卿以下は、韓暹と張楊の罪を上奏した。韓暹はおそれ、単騎で張楊のもとににげる。献帝は、韓暹と張楊に助けてもらったので、2人を不問にする。ここにおいて、衛将軍の董承、輔国将軍の伏完ら10余人は、列侯にする。沮儁に弘農太守を追贈する。曹操は、洛陽が荒れているから、許県にうつす。
恵棟はいう。後漢にある潁川の許県だ。もとは許国だった。曹丕が、許昌とあらためた。
ぼくは思う。長安、曹陽、安邑、洛陽、許県。このステップで献帝の画期がありますね。『後漢書』董卓伝で、董承は曹操を招きましたが。『三国志』武帝紀では、董承は袁術の部将・チョウ奴とむすび、曹洪をこばむ。董承は、曹操に来てほしくないのだ。どちらの史料も正しければ、董承はカメレオン。どちらか1つの史料が正しいとすれば、陳寿を選びたいなあ。曹操の敵は、おおいほうがいいじゃないか。笑


曹操が献帝を迎え、残りは皆殺し

太祖乃迎天子都許。暹、奉不能奉王法,各出奔,寇徐、揚間,為劉備所殺。

曹操が天子を許県にうつす。韓暹、楊奉は、献帝がいないから、にげた。徐州、揚州のあたりで、劉備に殺された。

『後漢書』董卓伝はいう。楊奉と韓暹は、車駕を許県にいかせたくない。曹操に敗れた。楊奉と韓暹は、袁術を頼ってにげた。揚州、徐州のあいだで、暴れた。翌年(197)、左将軍の劉備は、楊奉を誘って斬った。韓暹は、にげた。并州にいく道中で、韓暹は殺された。


英雄記曰:備誘奉與相見,因於坐上執之。暹失奉勢孤,時欲走還並州,為杼秋屯帥張宣所邀殺。

『英雄記』はいう。劉備は楊奉をさそい、会見した。その席で、楊奉をとらえた。韓暹は孤立して、并州にかえりたい。杼秋の屯帥・張宣に殺された。

杼秋は地名で、明帝紀の景初2年に盧弼が注釈した。
章懐注は、『九州春秋』をひく。韓暹は、楊奉を失った。韓暹は、1000騎だけひきい、并州に帰りたい。張宣に殺された。盧弼は考える。『資治通鑑』は、10余騎とする。
胡三省はいう。杼秋は、前漢では梁国、後漢では沛国に属す。ぼくは思う。韓暹は、并州に接近することができず、兗州で死んでしまった。


董承從太祖歲餘,誅。建安二年,遣謁者僕射裴茂率關西諸將誅傕,夷三族。汜為其將五習所襲,死於郿。濟饑餓,至南陽寇略,為穰人所殺,從子繡攝其眾。才、樂留河東,才為怨家所殺,樂病死。

董承は、曹操にしたがうが、1年余で誅された。

『後漢書』董卓伝はいう。献帝は曹操をきらい、董承に詔した。董承は、劉備とともに、曹操を殺したい。モレた。偏将軍の王子服、長水校尉の种シュウ、議郎の呉セキらと謀る。みな曹操に殺された。盧弼は考える。董承が死ぬのは、建安5年である。陳寿は「1年余」とするが、おかしい。
ぼくは思う。楊奉、韓暹につづき、董承も殺された。曹操は、董卓以降、献帝をささえた人を、みな殺す。伏皇后ですら、除かれる。曹操が、献帝を「まったく人脈のないお人形」として、利用したかったことがわかる。曹操は、後漢の兗州刺史・金尚をこばみ、190年代前半は、献帝に逆らってきた。突如、方針を転換して、

建安二年(197)、謁者僕射の裴茂は、関西の諸将をひきい、李傕を三族みな殺しした。

裴注『典略』はいう。李傕のクビは、詔により、さらされた。ぼくは思う。献帝は、李傕が、ほんとうにキライだったのですね。董卓には即位させてもらい、危害を受けていないが。李傕と郭汜の泥仕合は、献帝に苦しい旅行を強いたからなあ。
裴茂は、武帝紀の建安19年の注釈と、裴潛伝の注釈『魏略』に見える。『後漢書』献帝紀はいう。建安三年(198)、謁者の裴茂をやり、中郎将の段ワイを率いさせ、李傕を三族みなごろした。恵棟はいう。裴茂は、裴潛の父である。以下、裴茂については盧弼をはぶく。胡三省はいう。ここにおいて、董卓の党は全滅した。『後漢書』董卓伝はいう。段ワイは、安南将軍となる。趙一清はいう。安西将軍とすべきだ。
ぼくは思う。曹操が、関中の後始末のために、裴茂を送っていたことにおどろき。曹操は、このとき、呂布や張繍と戦い、まったく余裕がないはずだ。でも、人手を割いている。

郭汜は、部将の五習に、郿県で殺された。張済は、南陽に食糧をもとめ、殺された。従子の張繍が、張済の兵をつぐ。胡才、李楽は、河東にいた。胡才は怨まれて殺され、李楽は病死した。

銭大昭はいう。伍と五は通じる。
『資治通鑑』はいう。張済は、関中から、荊州の境界・南陽の穣県に侵入した。流矢にあたった。族子・建忠将軍の張繍が、兵をひきいた。
ぼくは思う。「楽、才」と書かれていたら。何も見ずに「李楽、胡才は」と、姓をおぎなって翻訳できる。きっと、来週になったら、もう忘れているだろうなあ。


遂、騰自還涼州,更相寇,後騰入為衛尉,子超領其部曲。十六年,超與關中諸將及遂等反,太祖征破之。語在武紀。遂奔金城,為其將所殺。超據漢陽,騰坐夷三族。趙衢等舉義兵討超,超走漢中從張魯,後奔劉備,死於蜀。

韓遂と馬騰は、涼州にいる。のちに衛尉として、許都にくる。馬超が、部曲をつぐ。建安16年、韓遂と馬超が反した。韓遂は金城ににげ、部将に殺された。馬超は漢陽から、張魯、劉備へとにげた。馬超は、蜀で死んだ。

韓遂は、麹演と蒋石に殺された。武帝紀の建安20年にある。
ぼくは思う。『三国志』董卓伝は、馬超の死で締めくくられる。ぶっ飛んだ構成だなあ。


董卓伝、おわり。ややこしいが、『後漢書』献帝紀を見れば、日付をともない、整理されている。以前、年表をつくりました。あわせて、ご参考に。
工具表:『後漢書』霊帝紀と献帝紀を、年表風に配置
名前が複数回出てくる人に着目すれば、あらかた整理できそう。110331