表紙 > 人物伝 > 呂布が なり損ねたハーフな騎馬隊の群雄・張楊伝

01) 并州を守り、大司馬となる

「魏志」巻8より、張楊伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

張楊は、もう1人の呂布です。同じ并州出身、丁原の元部下。おそらく北方異民族の血が混じり、強そうな騎馬隊を率いただろう。
故郷から切り離されて、徐州に入り込んだ呂布とちがう。張楊は、并州&河内の地縁を有効活用した。ついに献帝を手に入れるに到りました。
張楊は、誰の味方なのか、非常に分かりにくい。呂布に劣らず、ウロウロする。張楊の行動原理について、整理することを狙います。

西園八校尉について、まとめて読める史料

張楊字稚叔,雲中人也。以武勇給並州,為武猛從事。

張楊は、あざなを稚叔という。雲中郡の人だ。

雲中郡は、武帝紀の建安20年のところで盧弼が注釈した。
馬興龍がいう。魏の黄初年間、牽招が雲中郡で、鮮卑の軻比能を破った。牽招伝に書いてあることだ。
ぼくは思う。鮮卑が暴れるようなお土地柄で、張楊は生まれた。

武勇をもって、并州に仕えた。武猛從事となった。

沈家本がいう。州の従事に「武猛」という名はない。おそらく後漢末に、臨時に置かれたポジションだろう。張燕伝にある「将兵従事」と同じだ。


靈帝末,天下亂,帝以所寵小黃門蹇碩為西園上軍校尉,軍京都,欲以禦四方,徵天下豪傑以為偏裨。太祖及袁紹等皆為校尉,屬之。

霊帝の末年、天下は乱れた。霊帝は、寵愛する小黃門の蹇碩を、西園上軍校尉とした。

范曄『後漢書』霊帝紀がいう。中平5年8月、はじめて西園八校尉をおいた。『山陽公載記』がいう。小黄門の蹇碩は、上軍校尉となった。八校尉は、蹇碩がトップとして率いた。

蹇碩を洛陽におき、四方を守らせた。天下の豪傑を集めて、偏裨とした。

「偏裨」って何だろう。偏将軍、裨将軍という、比較的ひくい将軍位がある。それにつながるのかなあ? ちくまでは「副将」だ。

曹操および袁紹らは、みな校尉となった。蹇碩に属した。

靈帝紀曰:以虎賁中郎將袁紹為中軍校尉,屯騎校尉鮑鴻為下軍校尉,議郎曹操為典軍校尉,趙融、馮芳為助軍校尉,夏牟、淳於瓊為左右校尉。

『霊帝紀』がいう。虎賁中郎將の袁紹は、中軍校尉となった。屯騎校尉の鮑鴻は、下軍校尉となった。議郎の曹操は、典軍校尉となった。趙融と馮芳は、助軍校尉となった。

章懐太子がひく『山陽公載記』は、馮方と記す。
潘眉はいう。助軍のポストには、左右の校尉があった。ときに趙融は、助軍左校尉になった。馮芳は、助軍右校尉となった。

夏牟と淳于瓊は、左右校尉となった。

『通鑑考異』はいう。范曄『後漢書』袁紹伝には、佐軍校尉とする。何進伝では、淳于瓊が佐軍校尉になったとする。
ぼくは思う。異説はあれど、8人の名を揃えたのが偉い。


并州牧の董卓に対抗する

並州刺史丁原遣楊將兵詣碩,為假司馬。靈帝崩,碩為何進所殺。楊複為進所遣,歸本州募兵,得千餘人,因留上黨,擊山賊。進敗,董卓作亂。楊遂以所將攻上党太守于壺關,不下,略諸縣,眾至數千人。

并州刺史の丁原は、張楊を送り、張楊を蹇碩に会わせた。蹇碩は、張楊を仮司馬にした。

この1文を言いたいがために、西園八校尉について、長々と本文や注釈がついていました。張楊は、八校尉からは漏れたが、それに準じる立場だ。中央へのパイプを作った、丁原の抜け目のなさも分かる。

霊帝が死ぬと、蹇碩は何進に殺された。張楊は、何進に命じられ、故郷の并州で兵を募った。1000人余りが集まった。張楊は上党郡で、山賊を撃った。何進が敗れた。
董卓が乱をなした。張楊は、上党太守を、壺関で攻めた。

上党郡は、武帝紀の建安9年に盧弼が注釈した。壺関は、武帝紀の建安10年に注釈がある。
ところでこの上党太守って誰? 姓名が分からなくても、せめて董卓の敵か味方か、明らかにしてほしい。董卓は并州牧だから、太守は董卓の味方か?

張楊は、上党太守に勝てなかった。張楊は上党郡の諸県を荒らし、数千人を集めた。

張楊の政治的立場が分かりにくい。丁原は地元の親分だから、従うのは分かる。丁原は、蹇碩とのパイプを欲しがった。だから、蹇碩にもつながる。だが張楊は、蹇碩を倒した何進に、なぜ従ったか。
長いものに巻かれた?
何進についた後は、しばらくの間だけ、一貫性があるように見える。一貫して、董卓に反対した。丁原を殺した董卓(呂布)に叛き、并州の上党郡を切り取りにかかった。次の行で、董卓を撃ちたい袁紹に合流した。


山東兵起,欲誅卓。袁紹至河內,楊與紹合,複與匈奴單于於夫羅屯漳水。單于欲叛紹,楊不從。單于執楊與俱去,紹使將麹義追擊於鄴南,破之。單于執楊至黎陽,攻破度遼將軍耿祉軍,眾複振。卓以楊為建義將軍、河內太守。天子之在河東,楊將兵至安邑,拜安國將軍,封晉陽侯。

山東の兵が、董卓を誅すため、挙兵した。袁紹は河内にきて、張楊と合流した。匈奴の単于の於夫羅とともに、漳水にいた。單于は袁紹に叛きたいと考えたが、張楊は単于に味方しなかった。

ちくま訳は「単于が反逆したが、袁紹と張楊は従わなかった」だ。しかしこれでは、単于が、誰に反逆しようとしたのか、分からない。袁紹はトップなのに、誰に叛くの? 句読点の位置を変えれば、ぼくの訳文になる。

単于は張楊を捕えて、ともに袁紹の元を去った。袁紹は、麹義に単于を追わせた。鄴城の南で、麹義は単于を破った。
単于は張楊を捕え、黎陽にきた。

黎陽は、武帝紀の建安4年に盧弼が注釈した。
何焯は北宋本をひく。単于と張楊は、ともに黎陽にきた。(捕虜でない)
銭大昭がいう。2度目の「単于が張楊を捕えて」は、削除すべきだ。
周寿昌がいう。おそらく単于の軍は破れたが、張楊は捕えられたままだ。次の行の本文で、単于は盛り返す。張楊は、強い単于から逃げられない。だが、のちに張楊は、董卓から河内太守に任命された。張楊が単于の捕虜ならば、どうして太守になれるか。ムリだ。
盧弼が考える。「張楊が単于に捕えられた」と2回書いてあっても、どちらも意味は通る。わざわざ削除するほどではない。

単于は、度遼將軍の耿祉を攻め破り、ふたたび盛り返した。董卓は張楊を、建義將軍、河内太守とした。

銭大昭は『英雄記』をひく。張楊とその部曲の諸将は、李傕と郭汜が呂布のクビに賞金をかけたとき、呂布を襲った。李傕たちは、董卓のカタキを取りたかった。李傕と郭汜は、張楊を味方につけるため、建義將軍にした。董卓が、建義將軍に任命したのではない。
沈家本がいう。「魏志」呂布伝で、呂布は袁術、袁紹、河内の張楊、の順で頼る。『後漢書』呂布伝では、袁術、張楊、袁紹の順で頼った。張楊の部下が呂布を殺そうとしたから、呂布は袁紹に逃げたのだ。呂布が関中を出たとき、すでに張楊は河内郡にいた。李傕や郭汜から、呂布を殺させるため、張楊を河内太守にした。董卓が任じたというのは、誤りだ。


献帝の食事の面倒をみて、外から献帝を守る

天子之在河東,楊將兵至安邑,拜安國將軍,封晉陽侯。楊欲迎天子還洛,諸將不聽;楊還野王。

献帝が、河東郡に着いた。張楊は兵をひきいて、安邑にきた。張楊は、安國將軍となり、晉陽侯に封じられた。

『後漢書』董卓伝はいう。河内太守の張楊は、数千人に、米を背負わせ、献帝に寄付をした。献帝は、張楊に位をさずけた。
胡三省がいう。安国将軍という称号は、これが初めてだろう。

張楊は献帝を、洛陽に戻したいと考えた。だが諸将は、ゆるさず。張楊は、野王に還った。

野王という地名は、文帝紀の黄初2年に注釈がある。


建安元年,楊奉、董承、韓暹挾天子還舊京,糧乏。楊以糧迎道路,遂至洛陽。謂諸將曰:「天子當與天下共之,幸有公卿大臣,楊當捍外難,何事京都?」遂還野王。即拜為大司馬。

建安元年、楊奉と董承と韓暹は、献帝をつれて洛陽に戻ろうとした。だが、食糧は乏しい。張楊は、食糧をもって献帝を迎え、洛陽に到らせた。

『後漢書』献帝紀はいう。建安元年8月、洛陽の南宮・楊安殿に入った。董卓殿はいう。張楊は、自分の手柄を見せびらかしたくて、宮殿の名前をつけた。

張楊は、諸将に云った。
「天子は、天下の人と共に助けるものだ。移動した天子の身近には、公卿や大臣がいる。私は外を守るのが役目だ。私が洛陽にいても仕方ない」

ちくま訳は「幸」を「幸いにして」とした。違うでしょう。行幸の意味だ。「幸」つまり天子の移動先と、「外」が対句になっているのでは?
天子を中心とした中華があり、周辺を異民族が固めている。そういう概念図を、体現したセリフだ。陳寿の創作か。張楊の軍団は、異民族みたいなものだから、中華思想の概念図に則り、こう云わせたのだ。

ついに張楊は、野王に還った。ただちに大司馬となった。

「私はエンペラーのフードをヘルプした」・・・「張楊は、ただちにオオシバとなった」と読み間違えれば、こんな上表文を載せたくなる。


次回、張楊の死。分かりにくすぎる、張楊の行動原理を考察。