表紙 > 人物伝 > 呂布が なり損ねたハーフな騎馬隊の群雄・張楊伝

02) 洛陽は、河内郡のミサイル圏内

「魏志」巻7より、呂布伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

死の伏線

英雄記曰:楊性仁和,無威刑。下人謀反,發覺,對之涕泣,輒原不問。

『英雄記』はいう。張楊は仁和な性格で、威刑のない甘い人だった。部下が謀反しても、部下と向き合って涙を流して、許してあげた。

『英雄記』は、テキトーだ。のちに張楊が部下に殺される結末から遡り、これを書いたに過ぎないだろう。新しい情報は、1つも追加されない。


呂布を慕いつつ、部下に殺された

楊素與呂布善。太祖之圍布,楊欲救之,不能。乃出兵東市,遙為之勢。其將楊醜,殺楊以應太祖。楊將眭固殺醜,將其眾,欲北合袁紹。太祖遣史渙邀擊,破之於犬城,斬固,盡收其眾也。

張楊は、呂布と仲が良かった。

呂布伝がひく『英雄記』で、張楊は李傕にそそのかされ、呂布を殺そうとした。『英雄記』は、無視すべきだね。ただでさえ、敵と味方が分かりにくいから、創作者がミスったっぽい。

曹操が呂布を囲んだ。張楊は呂布を助けたいが、できない。東市に兵を出し、はるかに徐州を見た。

胡三省がいう。野王県の東市だ。

部将の楊醜は、曹操に応じて、張楊を殺した。

『後漢書』献帝紀の建安3年11月にある。盗賊が、大司馬の張楊を殺したと。『後漢書』董卓伝では、建安4年に張楊は、部将の楊醜に殺されたと。陳寿「魏志」も建安4年とする。
盧弼がいう。呂布が死んだのは、建安3年の12月だ。張楊が死ぬのは、呂布より先である。武帝紀は、つづきの文に引きずられ、建安4年に記述が紛れ込んだだけで、張楊の死は建安3年である。

張楊は、部将の眭固に殺された。眭固は、兵をひきいて、袁紹に合わさった。曹操は、史渙に眭固を斬らせ、張楊の兵を合わせた。

典略曰:固字白兔,既殺楊醜,軍屯射犬。時有巫誡固曰:「將軍字兔而此邑名犬,兔見犬,其勢必驚,宜急移去。」固不從,遂戰死。

『典略』がいう。眭固は、あざなを白兎という。楊醜を殺し、射犬にいた。ときに占い師は、眭固に云った。
「眭固将軍のあざなは、兎です。ここの地名は、犬です。兎は犬に食われます。縁起が悪い。すぐに移動しなさい」

「犬を射る」んだから、兎には天敵が減り、縁起がよくないか? 笑

眭固は、射犬から動かなかった。ついに戦死した。

下克上に下克上が重なり、陣営の色がクルクル変わる。張楊の生前もそうだったが、死後もそうなる。


張楊は誰の味方でもなく、并州確保のために戦う

張楊の立場を整理しましょう。
張楊は、故郷を基盤とし、ほぼ異民族のように局外で独立した。漢民族の敵・味方に頓着しなかった。ぼくは、こう読みました。

張楊の列伝を、頭から整理します。
故郷の丁原に見込まれた張楊は、蹇碩や何進など、中央の権力者とつながった。蹇碩や何進の方針に共感したのではない。人脈があり、それに連なったのではない。ただ、異民族まじりの故郷で、有利に君臨するため、中央の権力者とのコネを求めた。

つぎに中央の権力者となった董卓は、張楊の故郷の利権を、脅かした。張楊としては、これが非常に気に食わない。

董卓は、并州牧だ。また董卓は、呂布に丁原を殺させた。董卓は、丁原が連れていた并州兵を奪った。

張楊は、董卓に「旧丁原の軍閥」を解体されたので、新しい基盤を故郷に求めた。并州で兵を集めて、董卓の上党太守に立ち向かった。壺関で戦ったが、勝てなかった。
折りしも、袁紹が董卓と戦うと聞いて、味方した。袁紹と、友情を通わせたのではない。董卓を倒すという目的でのみ、一致した。董卓の影響力を、并州から追い出すために、協力した。

董卓は、孫堅に敗れた。董卓は長安に遷都し、并州への影響力を失った。つぎは、冀州を得た袁紹が、并州にとって脅威となった。袁紹と対立するのは、匈奴の単于である。張楊は単于と手を組んで、并州から、袁紹を追い出そうとした。
このあたり、次の行から難しいので、ご注意ください。笑

陳寿は張楊が、袁紹と対立した単于によって、不本意にもラチられたとする。「執楊」が、根拠です。だがぼくは、陳寿の書き方は、フィクションだと思う。歴史書の体裁を整えるためのレトリックだ。

のちに献帝を救う「忠臣」が、善玉の袁紹を切り捨て、異民族と協力しているのは、都合が悪い。だから、捕虜になったことにした。
もしくは、袁紹に付き合いきれなくなった張楊が、「私は匈奴の捕虜になった」という口実をつくり、宣伝してから離反したかも知れない。

こう読めば、董卓の残党が、張楊に官位を与えたことに、納得がいく。李傕たちにとってみれば、袁紹の敵は、自分の味方である。張楊から見れば、長安の李傕は并州にとって害がないので、手を結んでよい。

献帝は、李傕たちの下を脱出し、洛陽のあたりにきた。
袁紹や曹操の軍師が議論したように、献帝は(正統性に疑問符はつくが)切り札となり得る。すでに張楊は、李傕や郭汜と連なった。張楊が献帝を握れば、李傕や郭汜の政権を、きわめて円滑に継ぐことができる。

袁紹や曹操は、李傕や郭汜の敵である。袁紹や曹操が、献帝を手に入れても、自軍の補強になるか、確証がない。だから袁紹は、辞めたのだ。
その点、張楊は、すんなり後継政権となれる。献帝を助けるか、迷う必要がない。しかも河内郡は、地理的に洛陽に近い。有利すぎる。


洛陽は、じつは并州&河内郡から、カンタンに攻めることができる場所だ。洛陽は、河内郡からのミサイル圏内だ。
張楊は野王に引いたように見えて、公卿大臣たちを、いつでも殺せた。ちくま訳のように、延臣が多くいることを「幸いにも」なんて、思ってない。文人どもを、束の間、生かしてやっているに過ぎない。
だが、張楊の計算は狂った。献帝を手に入れて、董卓色をリセットしたい曹操に、張楊は殺された。

呂布と比較&対照する

張楊と呂布の分かれ道は、丁原の死だ。
呂布は丁原を斬り、故郷の反感を買いまくって、董卓についた。同じ并州の王允に説得され、あとから董卓を斬ったが、もう遅い。
呂布は、故郷に帰れないものだから、長安が陥落した後、袁術や袁紹を頼り、兗州で挙兵し、徐州に割拠した。
呂布ほどの武力?があり、もし故郷に拠ることができたら、張楊の何倍も、曹操や袁紹にとって、恐い存在だっただろう。

呂布は、河内郡の兵を連れていた。張楊に共通する。兵の構成も、似ていたか。并州出身者が、河内を足がかりに中原を望む。よくあるパタン?

呂布は、漢族の派閥対立の真っ只中、亀裂を真上をウロウロした。だから、裏切り者のレッテルを貼られた。

張楊は丁原の後継となり、故郷を大切にした。本拠の并州と、并州に隣接した河内郡に拠った。
張楊も、呂布に劣らず、裏切りをくり返している。しかし「張楊は信用ならないぞ」と歴史書に書かれないのは、なぜか。理由は2つ。
まず、居場所。并州から動かず、地理的に漢族の衝突から隔てられた。局外で傍観しているように見えた。感情的なぶつかり合いに、巻き込まれにくい。悪口が、記録に残りにくい。
つぎに、献帝を助けたこと。張楊は、血を構成する成分は、呂布に近かろう。きっと同時代「信用ならない」と思われた。だが、献帝に食べ物を供給したことにより、歴史家の手で、汚名が削除された。

張楊は、曹操に殺された。曹操が憎かろう。だが、曹操が献帝を守り立て、つぎの王朝を作ったおかげで、張楊の悪口は消された。張楊は逆に、曹操に感謝すべきかも知れない。笑
副作用として、記述が減り、張楊の正体が分かりにくくなったけれど。


異民族の王朝、前趙の先がけ

匈奴も鮮卑も并州兵も、だいたい同じだ。笑
匈奴と同盟したことからも分かるように、張楊軍は、異民族の色が濃かっただろう。
約120年後、西晋末。匈奴が并州で力を蓄え、河内郡から洛陽に侵入して、漢族の王朝を乗っ取った。前趙の劉淵が、建国した戦いだ。劉淵と同じ位置どりを、張楊は行った。もしかしたら同じ役割は、呂布が担ったかも知れなかった。
江統『徙戎論』が指摘してますが、異民族がすぐに傘下における洛陽を首都とするとは、油断のし過ぎである。だから、張楊のような辺境の騎馬隊が大司馬となり、専伝を手に入れたのだ。100612