表紙 > 人物伝 > 袁氏から後漢王朝を守った、外戚風の宮廷政治家・董卓伝

01) 潁川生まれ、西北の守護神

「魏志」巻6より、董卓伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

今回は、以下の董卓像を、史料から提示。
●董卓は、辺境からの乱入者でなく、目ざとい、宮廷闘争の勝者
●董卓の政権運営&闘争は、後漢の外戚に則ったスタイル
●後漢の滅亡につながる、大規模な戦争を始めたのは、董卓でなく袁氏
●董卓は、皇帝を殺したい名士から、献帝を守りつづけた保護者だ
(5ページ目に、オマケ「董卓と平清盛は似てる」を書きました)

董卓は、漢史の人か、魏史の人か:『集解』より

魏書六、董卓二袁劉表伝、第六

『集解』のめぼしい注釈を訳します。
杭世駿はいう。董卓の死は、初平3年だ。曹操は政権を握らず、まだ三国に分かれていない。謝承、華キョウ、司馬彪、袁山松ら歴史家は、みな董卓伝を『後漢書』に立てた。陳寿が、董卓伝を「魏志」に入れたのは、どういうつもりか。

袁山松も『後漢書』を書いた。知らなかった。調べねば。


劉知幾はいう。漢室にとっての董卓は、秦室にとっての趙高と同じだ。董卓は打倒されて、漢室の歴史から、あぶれた。董卓が「魏志」に載るのは、乱を始めたからだ。また董卓は、前漢にとっての項羽に等しい。

趙高と項羽に例えてある。漢末魏初を、秦末漢初になぞらえるのは、ふつうに行われることです。


周寿昌はいう。董卓、袁紹、袁術、劉表は、曹魏の臣下ではない。
にも関わらず、「魏志」がわざわざ列伝を立てたのは、おそらく董卓が乱を始めたからだ。董卓が牛耳ったとき、まだ曹操に権力はなく、天下は三分していない。董卓は、曹魏とまったく関わりがない。
ただ董卓は、天下が三分する源をつくった。袁紹と袁術と劉表は、曹操が兵を交えて戦った。曹操は、袁紹たちに勝って領土を広げたから、強くなった。だから魏臣の前に、列伝があるのだ。

董卓、袁紹、袁術、劉表、という順序に意味はあるのか。曹操が倒した順、ではないしなあ。っていうか曹操が、戦って、じかに殺した人は、ひとりもいない。袁紹は官渡で負けたが、直接の死因じゃないし。

范曄『後漢書』は、董卓についてあまり詳しくない。なぜなら董卓の前半の功績は、辺境で立てたものだ(情報不足だ)。後半は漢室に対して、暴虐&シイ逆したから(むごくて)詳しく載せられない。陳寿は、董卓が何進に召されて、洛陽に入ってからが詳しい。

王鳴盛はいう。董卓、袁紹、袁術らの列伝は、范曄のほうが陳寿より、数倍も詳しい。裴松之が集めた注釈は、どれも范曄が参考にしたものと同じだ。陳寿の引き締まった文体は、范曄よりは優れているけどね。

おなじ袁術伝でも、「魏志」と『後漢書』ではけっこう違います。


董卓は、名士の産地・潁川郡で生まれた

董卓字仲穎,隴西臨洮人也。

董卓は、あざなを仲穎という。

章懐注は、董卓の別の列伝でいう。父の董君雅は、潁川の輪氏の尉だった。董君雅は潁川で、董卓と弟の董旻を生んだ。だから董卓のあざなは仲穎で、董旻のあざなは、叔潁だ。
ぼくが補足します。あざなの「潁」は、誕生の地・潁川郡からきている。
劉フンが注釈をみるに。董卓と董旻は、潁川で生まれた。あざなの由来は、章懐注のいうとおりだ。

董卓は、隴西郡の臨洮県の人である。

英雄記曰:卓父君雅,由微官為潁川綸氏尉。有三子:長子擢,字孟高,早卒;次即卓;卓弟旻字叔穎。

『英雄記』はいう。董卓の父は、董君雅だ。低い官位からスタートし、潁川郡の綸氏県の尉となった。

『郡国志』はいう。豫州の潁川郡にある、綸氏県である。建初4年(79年)設置された。
ぼくは思う。董卓の父の時代、すでに潁川は名士の産地だ。荀彧、陳羣、鍾会の祖父たちと、交わったかも知れない。もっとも、董君雅は相手にされなっただろうが。董卓のが名士を厚遇した政策は、潁川で生まれたことと関わりがある? あざなに残っちゃってるし。

董君雅には、3人の子がいた。長男は董擢、あざなは孟高。早くに卒した。次男は董卓。董卓の弟は董旻、あざなは叔穎。

董卓に兄は、父が潁川郡に赴任する前に生まれたらしい。


ウシを殺して羌族とむすび、袁隗の部下となる

少好俠,嘗游羌中,盡與諸豪帥相結。後歸耕於野,而豪帥有來從之者,卓與俱還,殺耕牛與相宴樂。諸豪帥感其意,歸相斂,得雜畜千餘頭以贈卓。

董卓は任侠を好み、羌族とむすんだ。

董卓の態度は「涼州の三明」のマネッコ=継承です。『集解』は、董卓伝のこの文に注釈してくれない。ただ、董卓を立体的に理解するなら、『後漢書』列伝55を見たらよいと思う。以前、やりました。
ユニット名は「涼西の三明」、皇甫規・張奐・段熲


吳書曰:郡召卓為吏,使監領盜賊。胡嘗出鈔,多虜民人,涼州刺史成就辟卓為從事,使領兵騎討捕,大破之,斬獲千計。並州刺史段熲薦卓公府,司徒袁隗辟為掾。

『呉書』はいう。隴西郡は、董卓を召して、役人とした。盜賊を取り締まらせた。胡族が、盗みとラチをした。涼州刺史の成就は、董卓を刺史の從事とした。

『続百官志』はいう。州刺史は、みな従事、史、仮佐をもった。 沈家本は『後漢書』董卓伝をひく。董卓は、涼州の兵馬をひきいて、掾となった。
ぼくは思う。ちくま訳は「成就」を人名としていたが、それでいいかなあ。ただの文章の一部として、読めなくはない。笑

涼州刺史は董卓に、兵騎をまかせた。董卓は、兵騎をおおいに破った。千人ばかりを斬獲した。并州刺史の段熲は、董卓を三公府に推薦した。司徒の袁隗は、董卓を召して、掾とした。

『続百官志』はいう。司徒の掾属は、31人である。
・・・っていうか、掾属の人数なんて、どうでもいいのだ! のちに董卓は、袁隗を殺す。董卓にとって袁隗は、ただの「その他大勢の文人」でなく、元上司である。上司への恩知らずは、最低だとされる。
もっとも『呉書』は、孫堅をほめる立場。孫堅の敵・董卓を悪く書くために、この話を作ったのだろうか。ほかに記録が少ないので、ウソだと証明できない。これに漬け込んだか。
袁隗が司徒になるのは、2回だ。172年12月から176年10月。182年3月から185年2月。いずれも霊帝のとき。つぎの「桓帝末」と年代が合いません。韋昭の創作か、裴松之が注釈をつけた位置が悪いか。


羽林郎、張奐の部将、後漢でもっとも頼れる将軍

漢桓帝末,以六郡良家子為羽林郎。卓有才武,旅力少比,雙帶兩鞬,左右馳射。為軍司馬,從中郎將張奐征並州有功,

後漢の桓帝の末(167年)6郡から、良家の子を、羽林郎とした。

『続百官志』はいう。羽林郎は、比300石だ。つねに宿衛&侍従した。漢陽、隴西、安定、北地、上郡、西河から集められた。

董卓は武術の才覚があり、小さいころから腕力が強く、左右から弓を発射できた。軍の司馬となった。

盧弼がいう。中郎将の軍司馬のことだ。范曄『後漢書』董卓伝で「中郎将の張奐に従った」とあるのが、証拠である。

董卓は、中郎將の張奐に従い、并州で戦功があった。

梁商鉅は『後漢書』董卓伝をひく。董卓は張奐にしたがい、漢陽郡で、そむいた羌族を破った。郎中となった。漢陽郡は涼州だから、陳寿が書く「并州」とちがう。陳寿のミスだろう。潘眉も、同じ意見だ。
盧弼は、陳寿を弁護する。
『後漢書』で張奐は、幽州、并州、涼州の3州を督した。張奐は、司馬の尹端や董卓をつかって、三輔を攻める先零羌を破った。3州は平和となった。董卓が戦功をたてたのは、漢陽郡だけとは限らない。


拜郎中,賜縑九千匹,卓悉以分與吏士。遷廣武令,蜀郡北部都尉,西域戊己校尉,免。徵拜並州刺史、河東太守。

董卓は、郎中となった。縑9000匹をもらった。董卓は、すべて吏士に分け与えた。

『後漢書』張奐伝はいう。董卓は張奐が有名なので、兄を送り、縑100匹を張奐に贈った。張奐は、董卓のやり方が気に食わず、絶交した。
ぼくは思う。パシった兄とは、董擢か? 可哀想になあ。
ぼくは、絹を部下に配る董卓も、張奐にワイロする董卓も、矛盾しないと思う。モノを配ることが、どんな宣伝効果があるか、分かっていたのだ。この話だけでは、董卓は「清廉な人だ」とも「貪欲な人だ」とも言えない。ただ、いくらか頭が切れた、と分かるのみ。

董卓は、廣武令にうつった。

『郡国志』はいう。并州の雁門郡だ。曹魏は、雁門郡の治所を、広武にうつした。

董卓は、蜀郡の北部都尉となった。

『郡国志』はいう。辺境の郡には、だいたい都尉が置かれた。県を分割して、まるで郡のように民を治めた。
蜀郡都尉は、前漢の武帝が、ビン山郡においた。宣帝がはぶき、蜀郡に併せた。後漢の霊帝が、ふたたび置いた。いま桓帝末だから、霊帝がふたたび置く前である。
ぼくは思う。蜀郡は、異民族と戦うの前線だ。自称・無上将軍の霊帝が、ふたたび置いたのが面白い。霊帝は、前漢の武帝ばりに、対外戦争をするつもりだった?
董卓の官位歴は、年代がよく分からん。すでに霊帝の時代に入っていても、おかしくない。「まだ北部都尉はないはずだ」と、指摘しなくていい。

董卓は、西域の戊己校尉となった。免ぜられた。

『後漢書』明帝紀はいう。永平17年、はじめて西域都護、戊己校尉がおかれた。章懐注はいう。前漢の元帝は、戊己校尉をおいた。はじめ戊己校尉は中央を守ったが、国境が騒がしいので、西域を守った。

董卓は、并州刺史となり、河東太守となった。

たまたま劉弁と劉協をひろった、幸運な野蛮人、というイメージがある。しかし、この職務経歴をみれば、後漢でもっとも頼りになる将軍の1人だろう。勝てる人、少ないから。袁紹や何進が招いた理由は、よく分かる。


英雄記曰:卓數討羌、胡,前後百餘戰。

董卓は、羌族、胡族と、百回あまりも戦った。

次回、黄巾の乱が起きます。三国志らしくなってきた。