02) 少帝を拾ったのは、必然
「魏志」巻6より、董卓伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。
中郎将になり、黄巾と先零羌を討ち、并州牧へ
遷中郎將,討黃巾,軍敗抵罪。韓遂等起涼州,複為中郎將,西拒遂。於望垣硤北,為羌、胡數萬人所圍,糧食乏絕。
董卓は、中郎將にうつった。黄巾を討ったが、敗れて罪を受けた。
恵棟は『江表伝』をひく。董卓は、鉅鹿太守の郭典の計略に従わなかったから、負けたのだ。(郭典って、だれですか?)
盧弼は『続百官志』劉昭の注釈をひく。後漢末には、四中郎将がいた。みな討伐軍をひきいた。董卓がいつ東中郎将になったか、分からない。盧植は、北中郎将である。献帝は曹操を、南中郎将にした。これは「曹植を、南中郎将に」の誤りか。
以下、中郎将について注釈がありますが、省略。下の行で董卓は、また中郎将になる。後漢の主力部隊は、中郎将になるらしい。
韓遂らが涼州で起兵すると、ふたたび董卓は中郎将となった。董卓は、西に韓遂をふせいだ。
望垣硤の北で、董卓は、羌胡の数万人に囲まれた。
董卓は、食糧が尽きた。
卓偽欲捕魚,堰其還道當所渡水為池,使水渟滿數十裏,默從堰下過其軍而決堰。比羌、胡聞知追逐,水已深,不得渡。時六軍上隴西,五軍敗績,卓獨全眾而還,屯住扶風。拜前將軍,封斄鄉侯,徵為並州牧。
董卓は川を深くし、羌胡から逃げた。隴西から6軍が参加したが、董卓軍だけが無傷でかえった。董卓は、扶風にとどまった。
董卓は、前将軍となった。
斄郷侯に封じられた。召されて、并州牧になった。
転戦する董卓より、故郷に密着した丁原のほうが、兵が多い。
皇甫氏は、董卓以上に「董卓」になる可能性あり
靈帝紀曰:中平五年,徵卓為少府,敕以營吏士屬左將軍皇甫嵩,詣行在所。卓上言:「涼州擾亂,鯨鯢未滅,此臣奮發效命之秋。吏士踴躍,戀恩念報,各遮臣車,辭聲懇惻,未得即路也。輒且行前將軍事,盡心慰恤,效力行陳。」
靈帝紀はいう。中平五年(188年)董卓は少府に召された。
ぼくは思う。1年ズレてる。1年の違いが大切な時期なのに・・・
勅して、董卓がもつ軍営の吏士を、左将軍の皇甫嵩に移せと。董卓は、涼州が擾乱しているからと、勅命をことわった。
六年,以卓為並州牧,又敕以吏兵屬皇甫嵩。 卓複上言:「臣掌戎十年,士卒大小,相狎彌久,戀臣畜養之恩,樂為國家奮一旦之命,乞將之州,效力邊陲。」卓再違詔敕,會為何進所召。
中平六年(189年)董卓は并州牧になった。
ふたたび董卓に勅し、兵属を皇甫嵩に移せと命じた。董卓は、また断った。
董卓が2回も詔勅に逆らったタイミングで、何進が董卓を召した。
「天下を傾けるのは、董卓です。董卓を捕らえましょう」
皇甫嵩は、朝廷に董卓を裁かせるべきだと云った。皇甫嵩は朝廷に、董卓を裁くように上書した。董卓はこれを聞き、皇甫嵩を怨んだ。
ぼくは思う。皇甫レキの云うとおり、董卓を私刑にしたければ、董卓は100%負けただろう。董卓の乱は防げた。だが皇甫氏が、第二の董卓になった。「西北で活躍した将軍」という属性は、同じだ。むしろ皇甫氏のほうが大物。涼州の三明・皇甫規のときから、支持者がいる。
皇甫嵩は、あくまで後漢の権力に基づいた。正しい。正しいが、後漢が倒れてしまえば「時代を先読みできない腰抜け」となる。
幼帝の流浪は、文人の創作意欲をかりたてる
靈帝崩,少帝即位。大將軍何進與司隸校尉袁紹謀誅諸閹官,太后不從。進乃召卓使將兵詣京師,並密令上書曰:「中常侍張讓等竊幸乘寵,濁亂海內。昔趙鞅興晉陽之甲,以逐君側之惡。臣輒鳴鐘鼓如洛陽,即討讓等。」欲以脅迫太后。卓未至,進敗。
霊帝が崩じ、少帝が即位した。大将軍の何進と、司隷校尉の袁紹は、宦官を殺したい。何太后が許さない。何進は、董卓を洛陽に召した。
盧弼はいう。このとき董卓は、すでに河東郡にいた。上林苑は洛陽の西だ。西に行ってしまえば、何太后を脅せない。『通鑑考異』は違うだろう。
杭世駿は『後漢書』チュウショウ伝をひく。董卓はメン池にきた。チュウショウは董卓を制止した。董卓は夕陽亭にもどった。章懐注はいう。夕陽亭とは、河南城の西である。
董卓は「中常侍の張讓を討つべし」と上書した。董卓がつく前に、何進が敗れた。
中常侍段珪等劫帝走小平津,卓遂將其眾迎帝於北芒,還宮。
中常侍の段珪らは、少帝をうばい、小平津ににげた。
『方興紀要』はいう。小平城は、孟津の西北にある。張讓らは少帝をつれ逃げたが、小平津で黄河に投身自殺した。
董卓は、北芒で少帝をむかえ、洛陽にもどした。
(以下、裴注が充実する。幼帝が洛陽を連れ去られ、董卓が保護して乱入した。この珍しい事件に、文人は興奮したらしい。各人、自分が見てきたように、いきさつを描く。おかげで裴注の数が多い。)
張璠漢紀曰:帝以八月庚午為諸黃門所劫,步出穀門,走至河上。諸黃門既投河死。時帝年十四,陳留王年九歲,兄弟獨夜步行欲還宮,闇暝,逐螢火而行,數裏,得民家以露車載送。辛未,公卿以下與卓共迎帝於北芒阪下。
張璠『漢紀』はいう。少帝は8月庚午、宦官に連れられ、歩いて穀門を出て、黄河を逃げた。
宦官たちは、黄河に投身自殺した。少帝は14歳、陳留王は9歳だ。
『後漢書』皇后紀はいう。光和4年、王美人は劉協を生んだ。中平6年、陳留王に封じた。
少帝の兄弟は、夜に歩いて洛陽に帰ろうとした。ホタルを追い、数里を歩いた。民家で、露車をもらい、乗った。
8月辛未、董卓は、公卿以下とともに、北の芒阪の下で少帝を迎えた。
『通鑑』では、8月庚午に、張讓たちが少帝をうばった。
獻帝春秋曰:先是童謠曰:「侯非侯,王非王,千乘萬騎走北芒。」卓時適至,屯顯陽苑。聞帝當還,率眾迎帝。
『献帝春秋』はいう。童謡に「侯は侯でなく、王は王でない。北芒に逃げた」とあった。董卓は童謡にインスピレーションを得て、少帝をつかまえた。
盧弼はいう。献帝は、渤海王となり、陳留王にうつった。すでに王である。『続五行志』は、信用できない。
ぼくは思う。『続五行志』は、『献帝春秋』が書くことだから、どうせ質の低い創作だろう、と決めつけた。だから童謡を批判した。結果、ぎゃくに痛い目を見た。ぼくも気をつけねば。
典略曰:帝望見卓兵涕泣。群公謂卓曰:「有詔卻兵。」卓曰:「公諸人為國大臣,不能匡正王室,至使國家播蕩,何卻兵之有!」遂俱入城。
『典略』はいう。少帝は董卓軍を見て、泣いた。群臣は、董卓に「兵をひけ」と云った。董卓は「お前らに、国家を任せられるか」と云って、洛陽に入城した。
『典略』を書いた人は、暗に「曹氏が劉氏に代わっても、仕方ない状況だっただろ」と云いたい。だが直接、曹氏の言葉とするとカドが立つ。だから、董卓に代弁させた。
獻帝紀曰:卓與帝語,語不可了。乃更與陳留王語,問禍亂由起;王答,自初至終,無所遺失。卓大喜,乃有廢立意。
『献帝紀』はいう。董卓と少帝は話した。少帝は、何を云っているか分からない。弟の陳留王は、経緯をわかりやすく説明できた。董卓は大いに喜び、陳留王を皇帝に取り替える意思をかためた。
胡三省はいう。「了」とは「明らかに分かること」だ。
英雄記曰:河南中部掾閔貢扶帝及陳留王上至雒舍止。帝獨乘一馬,陳留王與貢共乘一馬,從雒舍南行。公卿百官奉迎於北芒阪下,故太尉崔烈在前導。卓將步騎數千來迎,烈呵使避,卓罵烈曰:「晝夜三百里來,何雲避,我不能斷卿頭邪?」前見帝曰:「陛下令常侍小黃門作亂乃爾,以取禍敗,為負不小邪?」又趨陳留王,曰:「我董卓也,從我抱來。」乃於貢抱中取王。
『英雄記』はいう。河南中部掾の閔貢は、少帝の兄弟をたすけた。もと太尉の崔烈は、先頭で導いた。董卓軍と、鉢合わせした。董卓は、少帝たちを保護した。
英雄記曰:一本雲王不就卓抱,卓與王並馬而行也。
『英雄記』はいう。以下のように伝える本もある。陳留王は、董卓が差し出した手をこばんだ。陳留王は、董卓と馬を並べて進んだ。
裴注は百花が咲き乱れておりますが。ぼくが思うに、河東郡は、洛陽をくわしく偵察できる土地だ。綿密な調査の上、少帝たちを得たのだろう。董卓は西方から乱入し、偶然に少帝を拾って、、というイメージは、捨てるべきだと思います。
次回から、董卓の政治が始まります。