表紙 > 人物伝 > 袁氏から後漢王朝を守った、外戚風の宮廷政治家・董卓伝

06) 後漢を延命させた、臆病な保守派

「魏志」巻6より、董卓伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

袁紹と董卓の小競り合い、についての小説

獻帝紀曰:卓獲山東兵,以豬膏塗布十餘匹,用纏其身,然後燒之,先從足起。獲袁紹豫州從事李延,煮殺之。

『献帝紀』はいう。董卓は山東の兵を、焼き殺した。董卓は、袁紹が任じた、豫州従事の李延を煮て殺した。

『後漢書』董卓伝はいう。董卓は、潁川太守の李旻を、煮て殺した。
恵棟は『英雄記』をひく。董卓は李旻と張安を、畢圭苑で生け捕って、煮て殺した。2人は煮られる前に云った。「生まれたのは違う日でも、同じ日に煮られるとはねえ」
ぼくは思う。董卓の残虐さは、注目しなくていい。その理由は「董卓はヒューマニストなんだ」と云いたいからではない。戦争が起これば、残酷さは、お互いさまだからだ。
それよりも、袁紹が豫州従事(もしくは潁川太守)を独自に任命していたのは、面白い。ちなみに袁術は、孫堅を豫州刺史にしている。二袁の争いが、早くも始まっているのかなあ。笑


卓所愛胡,恃寵放縱,為司隸校尉趙謙所殺。卓大怒曰:「我愛狗,尚不欲令人呵之,而況人乎!」乃召司隸都官撾殺之。

董卓が目をかけた胡族が、横暴をはたらいた。胡族は、司隷校尉の趙謙に殺された。董卓は、
うちのイヌですら、他人からは、叱られたくないものだ。まして、人間が叱られたら、許せない」
と云って、司隷の役人を殴り殺した。

元本版では「司隷都官」は「司隷部官」だ。
『後漢書』献帝紀はいう。初平元年2月、光禄勲の趙謙を、太尉とした。
章懐注は、謝承『後漢書』をひく。趙謙は、あざなを彦信という。太尉・趙戒の孫である。蜀郡の成都県の人だ。この趙謙は(役職と時期が合わないから)司隷校尉の趙謙とは、別人だろう。
・・・けっきょく董卓に殺された人の素性は、分からなかった! 冗談みたいな注釈です。ぼくが思うに、同じ時期に同姓同名の人がいたのではない。『献帝紀』を書いた人が、それっぽい人名を拾うとき、ミスったのだ。
セリフが面白すぎるときは、大抵はウソなのだ。残念なことに。笑


後漢を再興させる、とても臆病な権力者

卓至西京,為太師,號曰尚父。乘青蓋金華車,爪畫兩轓,時人號曰竿摩車。 卓弟旻為左將軍,封鄠侯;兄子璜為侍中中軍校尉典兵;宗族內外並列朝廷。

董卓は長安にうつり、太師となり、尚父を号した。

潘眉はいう。漢の制度で、三公の上は、太傅だけだ。太師はない。
応邵『漢官儀』はいう。太師は、古代の官位だ。平帝の元年、孔光は太傅となり、太師となった。その待遇ぶりから、太師は太傅の上なんだと、認識された。
范曄はいう。太師のランクは、諸侯王の上である。
ぼくは思う。『集解』は当たり前すぎて書かないが、「尚父」とは、太公望である。董卓は、本気で後漢を立て直すつもりで、この位に昇ったのだろう。「外戚の一族が高位を占めて、王朝の危機を支える」という構図は、後漢で頻出する。董卓は、直接には外戚ではないが、董太后との関係が、チラつく。王朝の破壊者・袁氏から、幼帝を守る構図だ。
董卓は、つくづく、保守派なんだと気づくことができます。笑

董卓は、天子に迫る仕様の、乗り物に乗った。
弟の董旻を、左将軍にした。兄の子・董璜を侍中とし、中軍校尉とした。董卓の宗族は、内外で朝廷の高位についた。

『太平御覧』は董卓別伝をのせる。7歳の孫に、子供用の武具を揃えてやった。人の子を殺す遊びをさせた。


公卿見卓,謁拜車下,卓不為禮。召呼三台尚書以下自詣卓府啟事。築郿塢,高與長安城埒,積穀為三十年儲,雲事成,雄據天下,不成,守此足以畢老。嘗至郿行塢,公卿已下祖道於橫門外。

三公や尚書以下が、董卓を訪問して、判断を仰いだ。

皇甫嵩との確執が、裴注についてますが、後日。
「わざわざ高官を訪問させるとは、董卓は尊大だなあ」という気がする。だが反面、暗殺を極度に恐れていたことが分かる。自分の城に籠もれば、何進のように、ウッカリ殺されることは、なかろうと。
董卓は、何進との対比で、自分をとらえ続けたと思う。

董卓は、郿塢に30年の食糧を蓄えた。
「もし天下のことに失敗したら、余生をここで過ごそう」

ぼくは思う。董卓の目標たる「天下」とは、袁氏たち名士から、後漢を守り通すことだ。郿塢で防ぎとめたいのは、袁氏からの攻撃である。
「もし袁氏に長安を奪われ、後漢が滅びてしまったら、どうするか。私は後漢をしのんで、ひっそりと郿塢で老いよう」
です。『史記』の列伝の初めにある、伯夷と叔生を意識したのかも?


恐怖政治は、高い理想の裏返しか

卓豫施帳幔飲,誘降北地反者數百人,於坐中先斷其舌,或斬手足,或鑿眼,或鑊煮之,未死,偃轉杯案間,會者皆戰慄亡失匕箸,而卓飲食自若。太史望氣,言當有大臣戮死者。故太尉張溫時為衛尉,素不善卓,卓心怨之,因天有變,欲以塞咎,使人言溫與袁術交關,遂笞殺之。

董卓は、北地郡から降った数百人の舌を抜き、手足を切り、目をくりぬき、似て殺した。死に切れなかった人は、机のあいだを転がった。董卓だけが、飲食をつづけた。

典型的な「暴君」伝説です。ウソだとは決められないが、強調しすぎても、人物像がゆがむ。まあ、孤独な権力者が、精神的に異常をきたす、、という展開も好きですが。笑

もと太尉の張温が、袁術と通じているとして、ムチで殺した。

『後漢書』董卓伝はいう。まえに張温は、美陽令になった。董卓と辺章らが戦った。董卓は、戦功がなかった。また董卓は、張温が呼び出したとき、遅刻した。孫堅は張温に、董卓を斬れと勧めた。張温は、董卓を斬れなかった。董卓は、張温への恨みを忘れず、いま張温を殺したのだ。
著音は、あざなを伯慎という。若くして名誉があり、公卿に登った。ひそかに司徒の王允と、董卓を殺害しようと図った。事前にバレて、董卓に殺された。竇武伝の注釈では、董卓は自らムチで、張温を殺した。
さて。
張温に付随して、裴松之の注釈が充実してる。霊帝末から、カネで三公を買った人が多かったと。今日は、やりません。


法令苛酷,愛憎淫刑,更相被誣,冤死者千數。百姓嗷嗷,道路以目。

法令は過酷に執行された。好き嫌いだけで、告げ口された。無罪で死んだのは、1000人を数えた。つねに監視されているような、住みにくい世の中になった。

平清盛も、同じことやりましたね。「ヘイシの首が」とか。笑


魏書曰:卓使司隸校尉劉囂籍吏民有為子不孝,為臣不忠,為吏不清,為弟不順,有應此者皆身誅,財物沒官。於是愛憎互起,民多冤死。

董卓は、司隷校尉の劉囂をつかい、儒教的にまずい人を、殺させた。財産を没収させた。

劉囂は、宦官の身内として、三公になった人。
『魏書』の注釈だから、信用しましょう。董卓のこの政策は、後漢の国是にピッタリ一致している。良くも悪くも、儒教を重視したから。やはり董卓は、後漢の保護者である。
もっとも「なんとでも解釈できる、儒教を口実に、気に食わない人を殺した」 と読めますが。っていうか、『魏書』が董卓の政策を掲載した意図は、そちらだろうが。


悉椎 破銅人、鐘虡,及壞五銖錢。更鑄為小錢,大五分,無文章,肉好無輪郭,不磨鑢。於是貨輕而物貴,穀一斛至數十萬。自是後錢貨不行。

粗悪な銅銭を流通させた。インフレして、貨幣は停止した。

前述の、きのこる氏のご指摘。(引用はじめ)
貨幣の値が崩れた=貧民の借金がチャラになったということでしょう。値が崩れてタダになるんだから、そのうちに借金返せばいいわけです。董卓の政治は貧乏人に熱烈に支持されたでしょう。無論その後に混乱が待ってるわけですがね。(引用おわり)


暗殺をふせぐ、護衛係に殺されるという皮肉

三年四月,司徒王允、尚書僕射士孫瑞、卓將呂布共謀誅卓。是時,天子有疾新愈,大會未央殿。布使同郡騎都尉李肅等,將親兵十餘人,偽著衛士服守掖門。布懷詔書。卓至,肅等格卓。卓驚呼布所在。布曰「有詔」,遂殺卓,夷三族。主簿田景前趨卓屍,布又殺之;凡所殺三人,餘莫敢動。 長安士庶鹹相慶賀,諸阿附卓者皆下獄死。

初平三年(192年)4月、司徒の王允と、尚書僕射の士孫瑞は、呂布に董卓を殺させた。主簿の田景は、董卓の死体に、走りよった。呂布は、田景も殺した。

以下、蔡邕について、謝承『漢書』があります。後日やります。


おわりに

後半、力尽きていますが、、書きたいことは書けました。
董卓は、辺境からの乱入者でなく、目ざとい、宮廷闘争の勝者だった。董卓の政権運営&闘争は、後漢の外戚らしいスタイル。後漢の滅亡へとつながる、大規模な武力闘争を始めたのは、董卓でなくて袁紹&袁術である。董卓は、物騒な名士から、後漢を守りつづけた保護者だ。

そとに袁氏、うちに名士。董卓は、よく献帝を守り通しましたよ。結果、うちの名士に殺されてしまいました。

董卓は、後漢を滅亡させたのか、後漢を延命させたのか。「歴史的評価」って、どちらにでもカンタンに転ぶ、とてもいい加減なものだなあ、と味わっていただけたら、今回の董卓伝は成功です。100619