表紙 > 人物伝 > 袁氏から後漢王朝を守った、外戚風の宮廷政治家・董卓伝

05) 亡国の原因は、董卓でなく二袁

「魏志」巻6より、董卓伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

董卓は、平清盛に似ていないか

翻訳&注釈の途中ですが、ちょっと余談です。
今週は董卓について考えていますが、ふと、平清盛に似ていると感じました。以下、共通点を挙げてみます。

清盛については、記憶があいまい。後日、ウラを取ります。

自分から言い出しておいて、水を差しますが、
ぼくは『三国志』の人物を、日本史の人物に例えることに、慎重でありたいです。なぜなら、童門冬二『新釈三国志』が、死ぬかと思うほど、面白くなかったからです。トラウマになるほど、のた打ち回った。理由は、それだけです。笑

どこで読んだか、忘れましたが。曹操=信長、劉備=秀吉、孫権=家康と、例えている本があった。これを読んだときも、死ぬかと思った。笑

なぜいま、そんな危険行為をやるか。ひとえに、董卓を理解したいからです。
ここは日本です。董卓に関する考察は、少ない。しかし清盛に関する書籍は、多く出ています。清盛の話を、董卓に流用すれば、新しい董卓が見えてくるかも知れない。それを願って、確信犯として、規則違反をやります。では、始めます。

董卓も清盛も、
400年も続いた「平和」な王朝が、終わるキッカケもつくった。清盛は平安時代を終わらせたし、董卓は後漢を終わらせた。
また、当時の国家から見たら、フロンティアにあたる土地で、武功を立てた。商業に目をつけ、潤った。董卓は涼州で羌族と戦い、清盛は伊勢?や瀬戸内?で海賊と戦った。

董卓が「商業に精を出した」とは、歴史書にない。ただ、獲得した絹織物を、盛大に配ったとかかれるのみ。これって、商売じゃないのか? のちに董卓は、貨幣の品質を落としてインフラを招いたから、経済オンチだと評価されるが、、

董卓も清盛も、
宮廷闘争に勝利して、権力を握った。清盛が戦った、保元と平治の乱は、天下分け目の野戦ではない。せまい首都の中で、情報を収集し、機敏に駆け引きをし、幸運をつかって勝利した。河東郡で洛陽を狙いつづけた董卓と、同じである。

董卓も清盛も、
自分が操りやすい幼帝を立てた。清盛は、自分の孫・安徳天皇を立てた。董卓は、董太后の孫・献帝を立てた。
それから、敵対勢力を根絶やしにせず、地方に遠ざけるに留まった。旧敵への制裁が、徹底しなかったのだ。平清盛は源頼朝を許し、伊豆に流しただけで満足した。源義経を見落とした。董卓は、袁紹が渤海に逃亡したのを、追認してしまった。
(源頼朝も袁紹も、反対勢力の旗頭として、東方で挙兵した)
また、董卓は名士に遠慮したし、清盛は寺社勢力に遠慮したようだ。
董卓も清盛も、
東方がやばくなると、本拠地に近い西方に遷都した。清盛は福原に、董卓は長安に移動した。

董卓も清盛も、短期政権に終わったから、後世からの評価がカラい。のちに物語のなかで、暴君として描かれた。『平家物語』や『三国演義』のイメージでは、容貌まで重ならないか?

ウィキペディアからの引用でお恥ずかしいですが、『十訓抄』に、若いころの清盛についての逸話が載っていました。後日、ウラを取りますが、こんな感じです。
「他人から、ひどいことをされても、本気にしなかった」
「相手のネタがつまらなくても笑い、相手のミスを大声で叱らない
「寒いときは、身分の低い人に衣を与えた。寝かせてやった」
「最下層の召使でも、一人前の人間として扱った」
董卓が、羌族の信頼を得ていた、若いころの話と、みごとに一致。董卓を知るために、平清盛を学ぶ。有効なんじゃないか。清盛について、何冊か読んでみようかなあ。では今日は、本題の列伝に戻ります。

後漢を滅ぼしたのは、袁紹と袁術である

河內太守王匡,遣泰山兵屯河陽津,將以圖卓。卓遣疑兵若將於平陰渡者,潛遣銳眾從小平北渡,繞擊其後,大破之津北,死者略盡。卓以山東豪傑並起,恐懼不寧。

河内太守の王匡は、泰山の兵をやって、河陽津においた。

盧弼がひく。「河南太守」となっている本が多いらしい。だが盧弼が自ら解決したように、ここは河内太守でいいだろう。
っていうか、河南は首都である。河南尹が置かれているはずだ。河南太守は、いなかろう。
見落としがちだが、董卓への叛乱は、王匡がはじめた。

王匡は、董卓を殺そうとした。こっそり董卓は、精鋭を送り、小平の北から黄河を渡った。王匡の軍をやぶった。山東の豪傑が、みな兵を起こした。董卓は恐れ、気持ちが落ち着かない。

『後漢書』董卓伝は、孫堅の快進撃を載せる。ぼくらは、「呉志」孫堅伝で読むことができるネタです。董卓は、李傕を送り、孫堅を味方に引き込もうとした。断られた。
董卓は、しばらく洛陽にのこり、戦いました。孫堅に追い出されました。好き好んで、積極的に長安に行ったのではない。
さて、
ぼくはずっと、梁冀と董卓は、何が違うか考えてました。外戚の争いを演じ、皇帝を取り替えたのは、梁冀も董卓も同じ。皇帝の交換&殺害は、もっとも歴史家に責められることです。ただし、梁冀は後漢を滅ぼさず、董卓は後漢を滅ぼした。何がちがうんだ?
思うに、袁術と袁紹のせいだと思う。梁冀の敵は、上疏など、文化的な手段で梁冀と戦った。最後は桓帝が宦官をつかい、梁冀から印綬を奪った。これは、王朝の命令系統を前提とし、秩序の内側で戦うやり方だ。
だが、
董卓に敵対した袁紹たちは、腕づくに訴えた。野蛮である。董卓だって、死にたくはないから、遷都せざるを得ない。洛陽よりも、長安が守りやすいのは、自明のことだ。
「董卓は、自分の本拠地・涼州の近くに、皇帝を移した」
と書けば、董卓の自分勝手さが浮き上がる。ただし、長安が涼州に近いのは、二次的なメリットである。それより、まず孫堅から逃げることが、遷都の理由だ。もう一度書くが、死にたくないから、遷都した。
思うに、
戦争を論じるとき「先に手を出したほうが悪い」と、カンタンに決めることはできない。だが、だいたい、それでいいと思う。となれば、董卓に後漢を滅ぼさせたのは、袁紹と袁術である。
いくら政権担当者が気に食わないからと云って、皇帝のおわします洛陽を攻めるとは、、50年前の梁冀の時代では、考えられないことだ。


後漢を滅ぼす気が満々なのは、名士たちだ

初平元年二月,乃徙天子都長安。焚燒洛陽宮室,悉發掘陵墓,取寶物。

初平元年(190年)2月、董卓は天子をうつして、長安に都した。洛陽の宮室を焼き、皇帝の陵墓をあばき、宝物をぬすんだ。

『後漢書』董卓伝はいう。洛陽の数百万口が、董卓に従った。飢えて死んだ人が多かった。呂布が墓を掘った。恵棟は、曹丕『典論』をひく。乱世が始まってから、すべての陵墓が掘り起こされた。
ぼくは思う。資材を調達する手段として、墓掘りは一般的だ。「みんな、やっているから、悪くない」というロジックはなかろうが、董卓だけがもつ、独特の無法さの証拠とはならない。曹操もやった。みんなやった。違うのは、歴史家に書かれるか否かだけだ。


華嶠漢書曰:卓欲遷長安,召公卿以下大議。司徒楊彪曰:「昔盤庚五遷,殷民胥怨,故作三篇以曉天下之民。(而)海內安穩,無故移都,恐百姓驚動,麋沸蟻聚為亂。」卓曰:「關中肥饒,故秦得併吞六國。今徙西京,設令關東豪強敢有動者,以我強兵踧之,可使詣滄海。」彪曰:「海內動之甚易,安之甚難。又長安宮室壞敗,不可卒複。」卓曰:「武帝時居杜陵南山下,有成瓦窯數千處,引涼州材木東下以作宮室,為功不難。」卓意不得,便作色曰:「公欲沮我計邪?邊章、韓約有書來,欲令朝廷必徙都。若大兵(來)下,我不能複相救,公便可與袁氏西行。」彪曰:「西方自彪道徑也,顧未知天下何如耳!」議罷。卓敕司隸校尉宣璠以災異劾奏,因策免彪。

華嶠『漢書』はいう。

『晋書』に華嶠伝がある。盧弼が引用している。後日、読もう。
『漢書』は光武帝から献帝までの、195年間を記した。帝紀12巻、皇后紀2巻、など。皇后を「外戚伝」に入れず、本紀を立てたことが特徴。

司徒の楊彪は「遷都してはいけない。民が混乱する」と述べた。
董卓は、楊彪に反論した。
「関中は土地が肥え、防御力も高い。前漢の武帝がのこした、材木が豊富だから、宮殿の建設にも困らない。辺章と韓約を味方にすれば、役に立つ」と。

よく読むと、楊彪の言い分は、きわめて抽象的だ。洛陽をたもつ、具体的なアイディアはない。太古の伝説を、引っぱっているだけ。つまり楊彪の発言をウラ読みすれば、
「洛陽の皇帝は、孫堅に殺されてしまえばいいのだ」
となる。 袁紹に連なる名士は、「奔走の友」としてつながっている。彼らは、霊帝を殺すだの、董卓を殺すだの、物騒である。董卓討伐にかこつけて、後漢を滅ぼす気ではないか。
のちに曹操が献帝を拾い、献帝の正統性にお化粧をする。だから、この時点でも、献帝への支持が厚かったように錯覚する。だが、違うかも。献帝と董卓は、一蓮托生。区別できたものじゃない。
反対に、
董卓は、長安で後漢を復興する、具体的な作業手順を語っている。サジを投げていない。期せずして、董卓の「忠誠心」を、証明してしまった。


續漢書曰:太尉黃琬、司徒楊彪、司空荀爽俱詣卓(後略)

『續漢書』はいう。太尉の黃琬、司徒の楊彪、司空の荀爽は、ともに董卓を訪れた。長安への遷都を反対した。

議論の中身は省略。彼らは三公になるだけあって、党錮の時代から、後漢を見放している人脈の人物だと思う。1ミリも腹の膨れない(だけど反論できない)抽象論を吐いて、袁紹や袁術に、洛陽へ踏み込ませようとしている?
董卓は、極めて現実的なプランを語ってる。かみ合ってない。


次回、ついに董卓が長安に遷都し、死にます!