表紙 > 人物伝 > 袁氏から後漢王朝を守った、外戚風の宮廷政治家・董卓伝

04) 袁紹挙兵は、董卓の甘さの結果

「魏志」巻6より、董卓伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

董卓を暴君に仕立てるため、歴史家がウソを並べる

卓遷相國,封郿侯,贊拜不名,劍履上殿,又封卓母為池陽君,置家令、丞。卓既率精兵來,適值帝室大亂,得專廢立,據有武庫甲兵,國家珍寶,威震天下。卓性殘忍不仁,遂以嚴刑脅眾,睚眥之隙必報,人不自保。

董卓は、相國にうつり、郿侯に封じられた。贊拜不名,劍履上殿。

黄山はいう。前漢の哀帝のときから、丞相は大司徒と改められた。光武帝も、そのままとして、「相」を置かなかった。献帝のとき「相」が復活し、董卓と曹操がついた。董卓は相国となったが、司徒の仕事をしなかった。司徒の王允は、ひそかに権限をにぎり、董卓を牽制した。
ぼくは思う。相国の元ネタは、司徒のポジションだ。法制の担当である。つまり王允と董卓は、官位がカブッていたことになる。

董卓の母を封じて、池陽君とした。家令と丞をおいた。

『郡国志』はいう。池陽とは、司隷の左ヒョウヨクだ。
『後漢書』では令と丞を置いたとする。語順が逆である。
沈家本は『続漢志』をひく。公主には、家令を1人、丞を1人立てた。董卓は母親を、公主と同じ待遇にしたのだ。(公主=皇帝の娘)

董卓は強兵をひきい、皇帝を取り替えた。国家の武器と珍宝を盗み、天下を震わした。董卓は性格が残忍で、わずかな恨みにも、かならず復讐した。人々は脅かされた。

このくだり、抽象的だ。ぼくでも書ける。笑
史書の体裁として、董卓を悪者に描かなければならない。だから、加えられたんだろう。今までの記述とは、矛盾する。はじめから強兵をつれていない。国庫をコジ開けたかどうかも、分からない。人に対しては(本心はどうあれ)施しをした話はあるが、報復の話はない。取って付けたのだ。


魏書曰:卓所原無極,語賓客曰:「我相,貴無上也。」

『魏書』はいう。董卓はトップに昇りつめたいと思った。だから賓客に「私の顔相は、貴いこと、この上ないのだ」と語った。

『魏書』が董卓を悪者にするために、挿入した逸話。このセリフがあろうが、なかろうが、他の記述とまったく衝突しない。もっとエスカレートさせても、面白かったのに。そこは王沈の良心かな。笑


英雄記曰:卓欲震威,侍御史擾龍宗詣卓白事,不解劍,立撾殺之,京師震動。發何苗棺,出其屍,枝解節棄於道邊。又收苗母舞陽君殺之,棄屍於苑枳落中,不復收斂。

『英雄記』はいう。董卓は、侍御史の擾龍宗が、剣をおびて会いにきたから、殺した。

胡三省はいう。擾龍が姓である。おそらく、古代の擾龍氏の子孫だ。
ぼくは思う。ほかに擾龍氏を知らない。ウソ話なら、もっとありふれた姓を、持ち出せばいいのに。もしホントウだとすると、董卓が神経質なまでに、暗殺を恐がっていたことが分かる。

董卓は、何苗の棺をあばいた。何苗の母を殺した。

梁商鉅はいう。『後漢書』何進伝では、呉匡らが何苗を殺して、死体をさらしたとある。范曄が誤りで、陳寿が正しい。呉匡でなく、董卓のしわざだろう。
盧弼は、『後漢書』蓋勲伝と朱儁伝で、董卓の暴れぶりを示す。
ぼくは思う。何苗の死体をさらした犯人を、イメージだけで、董卓に決めつけてはいけない。盧弼も、いい加減である。『後漢書』が呉匡が犯人だと云えば、真面目に検討しよう。笑
蓋勲と朱儁に対し、董卓がツラく接したのは、ホントウかも。でも政治的な対立者に向かっては、誰だって厳しくあたる。数例をあげて「すべて、この調子だ」と決めるのは、短絡的だと思うなあ。


嘗遣軍到陽城。時適二月社,民各在其社下,悉就斷其男子頭,駕其車牛,載其婦女財物,以所斷頭系車轅軸,連軫而還洛,雲攻賊大獲,稱萬歲。入開陽城門,焚燒其頭,以婦女與甲兵為婢妾。至於奸亂宮人公主。其凶逆如此。

董卓は、村祭りを血祭りにあげた。

この話について、勉強になったブログがありましたので、ご紹介します。
Dr.きのこるの もう、ゴールしてもいいよね・・・? 10年5月21日の記事「逆説の三国志(3)の前に、袁術編書く前に」より。
当時祭祀というのは今でいえば政治・言論活動に当たる。勝手にこれをやれば法に触れる=処罰は当たり前。後漢では三人以上の群飲禁止であったり、特定の祭祀に関与して処罰された例がある。(引用おわり)
このご指摘に照らせば、邪教を取り締まった、済南相・曹操だって、同類ということになる。同じことをしても、書き方ひとつで、印象が正反対だ。

董卓が凶逆なのは、この調子である。

『後漢書』董卓伝でも、好き勝手やった記述がある。読もう。
『後漢書』列女伝で、皇甫規の妻が、董卓に侮辱された話が載っている。これも読みましょう。せっかくなら吉川忠夫先生に習いつつ。
ぼくは思う。董卓が嫌われ者なのでなく、権力者が嫌われ者なのです。きっと例外はありません。
権力を握れば、今までの人間関係のバランスが崩れる。支持や追従する者が増える一方、不満をもつ人と、ぶつかる機会が増える。
曹操については、歴史家が美点を強調したつもりが、脚色しきれず。董卓については、美点を強調する意図が、初めからない。だから史書の董卓は、ひどいものです。
陳寿は、曹操を正統化するため、董卓をけなす。『後漢書』を書いた范曄は、南北朝にわたる数百年の乱世を始めた人として、董卓を怨んでいる。やはり、董卓をけなす。


汝南郡の伍瓊は、もう1人の袁紹である

初,卓信任尚書周毖,城門校尉伍瓊等,用其所舉韓馥、劉岱、孔伷、(張資)〔張咨〕、張邈等出宰州郡。而馥等至官,皆合兵將以討卓。卓聞之,以為毖、瓊等通情賣己,皆斬之。

はじめ董卓は、尚書の周毖を信任した。

『後漢書』董卓伝では、周毖の官位を、吏部尚書とする。盧弼は、吏部は誤りだと考察しているが、はぶきます。
裴注『英雄記』は、周毖を武威郡の人とする。だが『後漢書』と「蜀志」は、漢陽郡の人とする。どちらか分からない。
恵棟はいう。『後漢書』献帝紀は、董卓が殺したのは、督軍校尉の周毖とする。またもや、官位が違う。
『東観記』はいう。周毖は、豫州刺史・周慎の子である。名の漢字が、諸書でちがうから、本人だと特定するのが難しい。・・・ややこしいなあ。

董卓は、城門校尉の伍瓊を信任した。
周毖と伍瓊は、韓馥、劉岱、孔伷、張資、張邈らを推薦した。董卓は、推薦された人を、州郡の長官に任命した。

『後漢書』董卓伝はいう。尚書の韓馥は冀州刺史。侍中の劉岱は兗州刺史。陳留の孔チュウは豫州刺史。潁川の張咨は南陽太守。
『献帝春秋』はいう。張咨は、のちに孫堅に殺される。
ぼくは思う。孫堅は、董卓が任じた太守を殺した。孫堅が荊州を北上する快進撃は、董卓から、国を切り取る戦いである。
ただし、別の見方をすれば、もし張咨と、韓馥や劉岱や孔チュウが仲良しなら、孫堅は、のちに董卓に叛いた名士とも対立する。孫堅は、孤立勢力である。名声のある人物を、君主に頂きたい。これが袁術か。笑

韓馥らが、董卓を討つ兵をあげた。董卓は、周毖と伍瓊に「オレを売りやがったな」と怒り、斬り殺した。

『後漢書』董卓伝はいう。袁紹たち10余人は、兵を起こした。袁紹らは、董卓政権の内側に、味方がほしかった。董卓が長安に遷都すると云いだすと、周毖と伍瓊は、反対した。
ぼくは思う。周毖と伍瓊に、どこまで「反董卓」の意思があったのか、分かりかねる。うしろの『英雄記』を見たところ、伍瓊は、熱烈な何進派だ。董卓を、ロコツに憎んでいる。
しかし伍瓊にとって、袁紹たちの挙兵が、不測の事態だったとしたほうが、ぼくは面白いと思う。自分が韓馥たちを推薦した手前、オレたちは洛陽での立場が微妙になったな、と悩んでほしい。笑


英雄記曰:毖字仲遠,武威人。瓊字德瑜,汝南人。

『英雄記』はいう。周毖は、あざなを仲遠という。武威郡の人。

出身地だけ見ると、董卓の勢力圏だ。この周氏の血筋が分からない。一族から、高位の人が出たら、書いてもらえるだろうに。
周毖を、「名士の代表者」として扱っている本がある。韓馥たちを推薦したからね。でも、ほんとうに名士の友達なのか、それすら、分からない。
董卓が、政権安定のため、自分のご近所さんを、中枢に置いた。こちらの理解のほうが、ぼくはスンナリ納得できるのですが。

伍瓊は、あざなを德瑜という。汝南郡の人だ。

袁紹と同じ出身地。名士の産地。
周毖は辺境の出身で、伍瓊は中央の出身だ。董卓に殺されたタイミングが同じだからって、勝手にセットにしてはいけない。伍瓊は間違いなく、董卓内部に打ち込まれた、旧何進派のくさびだ。


謝承後漢書曰:伍孚字德瑜,少有大節,為郡門下書佐。其本邑長有罪,太守使孚出教,敕曹下督郵收之。孚不肯受教,伏地仰諫曰:「君雖不君,臣不可不臣,明府奈何令孚受教,敕外收本邑長乎?更乞授他吏。」太守奇而聽之。後大將軍何進辟為東曹屬,稍遷侍中、河南尹、越騎校尉。董卓作亂,百僚震栗。孚著小鎧,於朝服裏挾佩刀見卓,欲伺便刺殺之。語闋辭去,卓送至閤中,孚因出刀刺之。卓多力,退卻不中,即收孚。卓曰:「卿欲反邪?」孚大言曰:「汝非吾君,吾非汝臣,何反之有?汝亂國篡主,罪盈惡大,今是吾死日,故來誅奸賊耳,恨不車裂汝於市朝以謝天下。」遂殺孚。
謝承記孚字及本郡,則與瓊同,而致死事乃與孚異也,不知孚為瓊之別名,為別有伍孚也?蓋未詳之。

謝承『後漢書』はいう。伍孚は、故郷で上司に逆らって筋を通し、名をあげた。大将軍・何進に召されて、東曹屬となった。侍中、河南尹、越騎校尉になった。

袁紹と同じような経歴の持ち主。伍孚については、盧弼の注釈がいろいろついてます。今回ははぶいています。

伍孚は、董卓を暗殺しようとしたが、失敗した。伍孚は、董卓をののしって、殺された。

盧弼は「魏志」荀攸伝をひく。荀攸と、越騎校尉の伍瓊は、董卓を殺そうとした。失敗した。

裴松之はいう。伍孚と伍瓊は、出身地が同じで、死に方がちがう。同一人物なのか、よく分からない。

盧弼はいう。伍孚と伍瓊は、同一人物と見なしてよい。
内に残って董卓と戦った伍瓊(伍孚)と、外に飛び出して董卓と戦った袁紹。けっきょくどちらも失敗した。しかし、この汝南人の連携は、けっこう面白い。霊帝暗殺、董卓暗殺など、おだやかでないことを言い出す、名士たちの友情が、次の時代を作るわけだし。名士って、平気で暗殺をたくらむ。イメージ以上に、過激な革命派だ。荀攸もつながる。


次回、何進の旧臣たちが、関東で挙兵します。
董卓が失敗するのは、暴虐な政治をしたからではない。旧何進派(伍瓊や袁紹)を、根絶やしにしなかったからだ。伍瓊を重く用いたあたり、董卓は敵に対して、甘かったのかも知れない。甘さが命取りだなんて、自分で書いていて、意外な気がしますが。笑