表紙 > ~後漢 > 曹操と対比して単純化せず、袁紹の河北平定と皇帝政策を読む

01) 霊帝期、野党として育つ

『三国志集解』で袁紹伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。

汝南袁氏の出自、父は不明

袁紹字本初,汝南汝陽人也。高祖父安,為漢司徒。自安以下四世居三公位,由是勢傾天下。

袁紹は、汝南の汝陽の人。四世三公。形勢は天下を傾ける。

『水経注』はいう。潁水は、東にまがり、西華県の北をすぎる。汝南県の北をすぎる。
胡三省はいう。袁安は司空、司徒となる。子の袁敞は、司空となる。孫の袁湯は、司空、司徒、太尉となる。袁湯の子、袁逢は、司空となる。袁湯の少子・袁隗も三公となる。ぼくは思う。コンパクトにまとまった。
朱邦衛はいう。袁紹は、董卓や袁紹と仲がわるい。しかし、漢室を匡輔する志がなく、失敗した人だ。董卓や袁術と、1つの列伝にまとめたのは、すぐれた見識だ。盧弼は考える。袁紹が誤ったのは、董卓を洛陽に召集したからだ。陳寿が、袁紹伝をここにまとめたのは、この召集を咎めたからか。


華嶠漢書曰:安字邵公,好學有威重。明帝時為楚郡太守,治楚王獄,所申理者四百餘家,皆蒙全濟,安遂為名臣。章帝時至司徒,生蜀郡太守京。京弟敞為司空。京子湯,太尉。湯四子:長子平,平弟成,左中郎將,並早卒;成弟逢,逢弟隗,皆為公。

華嶠『漢書』はいう。袁安は、後漢の明帝のとき、楚郡太守となる。

『郡国志』はいう。楚郡とは、徐州の彭城国のことだ。劉昭はいう。前漢の高帝は、祖軍をおいた。後漢の章帝が、彭城と改めた。
銭大昕はいう。袁安は、楚郡「太守」だから、国が除かれている。章帝は遺詔して、六安王・劉恭を、彭城王とした。楚郡は、彭城国となったのだ。彭城は、武帝紀の建安3年に盧弼が注釈した。

楚王の獄を治める。

『後漢書』袁安伝はいう。永平13年、楚王・劉英は、謀反した。以下、こちら参照。
『後漢書』列伝35より、「袁安伝」を口語訳

袁安は、章帝のとき、司徒となる。袁安は、蜀郡太守の袁京を生む。袁京の子は、袁湯。

袁湯を、袁「陽」とする史料がある。周寿昌はいう。「湯」が正しい。字形が似ているから、誤った。盧弼はいう。袁逢は、あざなが周陽だ。袁隗は、あざなが次陽だ。父の名に、かぶせないはずだ。「湯」がただしい。盧弼はいう。袁湯ははじめ、陳留太守となった。袁湯が陳留にいたことは、ふるく伝わり、袁宏『後漢紀』にも見える。

袁湯には、4人の子がいる。長子は、袁平。その弟は、袁成。

『後漢書』袁安伝は、長子・袁平を記さず、袁成から記しはじめる。章懐注はいう。『風俗通』はいう。袁湯には、12人の子があった。長子は、袁平である。

袁成は、左中郎將となるが、早くに死ぬ。袁成の弟・袁逢、袁隗は、どちらも三公となる。

『後漢書』袁安伝で袁成は、左中郎だ。『後漢書』袁紹伝では、五官中郎将だ。
恵棟はいう。『西嶽華山碑』はいう。袁逢はかつて、弘農太守、京兆太守を歴任した。太守をしたのは、桓帝の延熹中のことだ。


魏書曰:自安以下,皆博愛容眾,無所揀擇;賓客入其門,無賢愚皆得所欲,為天下所歸。紹即逢之庶子,術異母兄也,出後成為子。

『魏書』はいう。袁安より以下、分け隔てず、人と付き合った。袁逢の庶子が、袁紹である。袁術の異母兄だ。袁紹は、袁逢の家を出て、袁成の養子となった。

章懐注の袁山松の書はいう。袁紹は、司空・袁逢の、メカケの子だ。袁成の家をついだ。袁山松は、『魏書』と同じである。袁術が公孫瓚に送った手紙「袁紹の母は、賎しい」とも一致する。
ちがう話もある。
『英雄記』で袁紹は、生まれてすぐ父が死んで、後から遡って服喪した。『後漢書』袁紹伝も、袁紹は幼いとき父が死んだので、後から追って服喪した。ところが、『魏書』で袁紹の父とされる袁逢は、霊帝の光和2年(179)、司空をやめて執金吾となり、死んでいる。袁紹は、中平3年(186)、すでに佐軍校尉となる。それ以前にも官位を歴任し、母父の喪に服す期間が6年いる。とっくに成人である。袁紹が子供のとき、袁逢が死んだとは言えない。袁紹が袁逢の子でないことを示す。『魏書』は、袁術と袁紹を異母兄弟とするが、ツジツマがあわない。陳寿、范曄、裴松之が合わない。
盧弼は考える。『後漢書』袁安伝で、袁紹は袁成の子である。袁術は袁逢の子である。袁逢が死んだら、袁基が嗣いだという。董卓は袁紹と袁術が叛いたので、袁隗と袁基を殺した。『後漢書』献帝紀の章懐注はいう。袁基は、袁術の同母兄である。『三国志』袁術伝は、袁術が袁紹の従弟だという。袁紹を袁成の子だと考えると、スジがとおる。
皇甫ヒツ『逸士伝』はいう。袁紹と、弟の袁術は、母の喪にあい、汝南で3万人をあつめて葬った。裴松之の注釈が、あちこちでスジが通らないのは、何か理由があるのだろう。
ぼくは思う。盧弼ですら、投げ出してしまった。ムリに納得するなら、袁紹は父の支援を受けられない立場である。袁成の子なら、袁成が早くに死んでしまっている。叔父の袁逢、袁隗に、主導権が移っている。袁逢の子なら、母が賎しいから、袁逢に可愛がってもらえない。いちおう、あたりさわりなく、スジを通すなら、こんな曖昧さを残すしかない。
妄想するなら。
袁紹は袁成の子だったが、袁成は梁冀と密着したから、梁冀と共倒れになった。汝南袁氏としては、梁冀と心中なんてしたくない。だから、袁成をクロ歴史だと抹殺して、弟の袁逢が、素知らぬ顔をして、汝南袁氏の家長をやった。袁成の子であれば、梁冀ともども殺される。だから袁紹を、「袁成の子ではないよ。袁逢のメカケの子だよ」と言い張って、養った。やがて桓帝から霊帝にかわり、ほとぼりが冷めると、袁成の子であることを隠す必然性がなくなった。袁紹は、「袁逢の家を出る」という名目で、実父の袁成をついだ。袁紹は、父・袁成を無念に思い、追って服喪した。なんてどうでしょう?


英雄記曰:成字文開,壯健有部分,貴戚權豪自大將軍梁冀以下皆與結好,言無不從。故京師為作諺曰:「事不諧,問文開。」

『英雄記』はいう。大将軍の梁冀より以下、みな袁成の言うことを聞いた。京師の人は、「こまったら、袁成に聞け」とウワサした。

『後漢書』袁敞伝は、このエピソードを、袁紹のものとする。何焯はいう。ちがう。父の袁成のエピソードである。


霊帝期、何進に召されて校尉となる

紹有姿貌威容,能折節下士,士多附之,太祖少與交焉。以大將軍掾為侍御史,

袁紹は、立派だけど、へりくだり、人士をあつめた。曹操も交流した。袁紹は、大将軍の掾となり、侍御史となる。

大将軍は、甄皇后伝。侍御史は、文帝紀の延康元年。


英雄記曰:紹生而父死,二公愛之。幼使為郎,弱冠除濮陽長,有清名。遭母喪,服竟,又追行父服,凡在塚廬六年。禮畢,隱居洛陽,不妄通賓客,非海內知名,不得相見。又好遊俠,與張孟卓、何伯求、吳子卿、許子遠、伍德瑜等皆為奔走之友。不應辟命。中常侍趙忠謂諸黃門曰:「袁本初坐作聲價,不應呼召而養死士,不知此兒欲何所為乎?」紹叔父隗聞之,責數紹曰:「汝且破我家!」紹於是乃起應大將軍之命。

『英雄記』はいう。袁紹の父が死んだので、袁逢と袁隗は、袁紹を可愛がった。20歳のとき、濮陽の県長となる。

濮陽は、武帝紀の初平2年。『後漢書』許劭伝はいう。袁紹が濮陽の県長をおえたとき。許劭がいると聞いて、行列を質素にあらためた。

袁紹は、母と父で6年喪に服した。遊侠と付き合った。

周寿昌はいう。袁紹は、庶出である。服した喪とは、嫡母のためだろう。漢臣は、服喪の期間を短縮した。袁紹は、きっちり服喪することで、名声をえた。『献帝春秋』はいう。董卓は、袁紹の生母と姉妹、幼児ら50余人をとらえ、獄死させた。袁紹の生母は、むごい殺され方をした。この段階で、袁紹の生母は生きている。服喪したのは、嫡母のためだ。
何焯はいう。遊侠は、乱のはじまりだ。曹操は「王儁は、いちばんの遊侠だ」と。王儁のことは、武帝紀の建安13年の注釈にある。
袁紹が付き合った遊侠は、以前にこちらで確認した。
方詩銘氏の「世族、豪傑、遊侠 ― 袁紹的一個側面」を翻訳する

袁紹は、大将軍・何進の命に応じた。

『後漢書』袁紹伝はいう。袁紹は何進の掾となり、侍御史、虎賁中郎将となる。恵棟はいう。『英雄記』で袁紹は、高第にあげられ、侍御史にうつる。弟の袁術は、尚書となる。袁紹は、台下(役所)にいたくないので、病だと言って退いた。沈家本はいう。『後漢書』袁紹伝で袁紹は、叔父の袁隗に呼び出され、叱られた。『英雄記』の記述とちがう。
ぼくは思う。袁紹は、後漢がきらい。陳蕃の人脈とつきあっている。霊帝期、朝廷の野党と付き合っている。袁術は、ちゃんと尚書を務めているのに。袁紹は、アウトローだなあ。


臣松之案:魏書雲「紹,逢之庶子,出後伯父成」。如此記所言,則似實成所生。夫人追服所生,禮無其文,況於所後而可以行之!二書未詳孰是。

裴松之は考える。袁紹の父は、『魏書』と『英雄記』とちがう。さかのぼって服喪するのはおかしいし、袁成を嗣いだあとに、さかのぼるのは、さらにおかしい。袁紹の父のことは、わからない。

ぼくは思う。上に書いたぼくの妄想なら、いちおうツジツマはいう。しかし、複数の史料を、ムリにつなげて理解するのは、愚かなことである。真実は、どちらか1つなんだろうなあ。


稍遷中軍校尉,至司隸。

袁紹は、中軍校尉にうつる。

『後漢書』袁紹伝はいう。中平5年(188)、はじめて西園八校尉をおく。袁紹は、佐軍校尉となる。楽資『山陽公載記』はいう。虎賁中郎将の袁紹を、中軍校尉とする。『後漢書』何進伝では、袁紹は中軍校尉である。『後漢書』蓋勲伝、『後漢書』五行志は、どちらも袁紹を、佐軍校尉とする。
どっちだ!多数決だとしても、真っ二つに割れたままだ。

袁紹は、司隷校尉となる。

『後漢書』何進伝と、『資治通鑑』はいう。このとき何進が袁紹を、司隷校尉、仮節とするのは、董卓を召した後である。このタイミングでない。ぼくは思う。『後漢書』と『資治通鑑』が、ただしい。陳寿は、前後関係をザックリ無視して、記述をまとめてしまうことが多い。武帝紀で、ぼくは思い知った。


つぎ、霊帝が死にます。つづきます。110405