02) 董卓を招き、董卓から逃げる
『三国志集解』で袁紹伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。
蹇碩を殺せば、すでに満足だった何進
靈帝崩,太后兄大將軍何進與紹謀誅諸閹官, 續漢書曰:紹使客張津說進曰:「黃門、常侍秉權日久,又永樂太后與諸常侍專通財利,將軍宜整頓天下,為海內除患。」進以為然,遂與紹結謀。
霊帝が崩じた。何太后の兄・大将軍の何進は、袁紹と宦官誅殺をはかる。
『続漢書』はいう。袁紹は、食客の張津をつかい、何進に説く。「黄門、常侍は、永樂太后とともに、海内の患いだ」と。何進はみとめた。
『後漢書』何進伝にも、セリフがある。章懐注はいう。霊帝の母・董太后は、長楽宮にいた。盧弼は考える。董太后は、南宮の嘉徳殿にいた。これを永楽宮とよんだ。「長楽」でなく「永楽」がただしい。
何太后は、宦官を殺したくない。袁紹は董卓を召し、何太后をおどす。董卓を召すと聞き、宦官は、何進に謝った。
何焯はいう。袁紹が董卓を呼ぶせいで、天下が乱れた。
ぼくは思う。丁原と袁紹の連携がおもしろい。丁原も洛陽で、強者だ。
袁紹は何進に、宦官全滅をすすめるが、何進は許さない。
盧弼は考える。袁紹は司隷校尉、仮節である。何進の同意がなくても、軍権がある。なぜ袁紹は、何進を説得しつづけたか。不必要なことだ。また盧弼は考える。何進は、蹇碩と権力を争い、蹇碩を除きたいだけだ。宦官を掃討して、後漢を清める志があるのでない。蹇碩は、すでに郭勝らに殺された。いま宦官らは、何氏にすり寄った。だから何進は、袁紹に同意しない。
ぼくは思う。盧弼の指摘は、初めての意見。なるほど。袁紹は宦官を丸ごと殺したいが、何進は蹇碩を殺し、西園八校尉の軍権などがほしいだけ。蹇碩がいなければ、張譲も趙忠も、何氏の奴隷だから、ほおっておいてよい。むしろ、宮中の雑事を任せるために、宦官を残しておきたい。
じゃあ、なぜ袁紹は、宦官全滅なんて、急進的なことを言うか。霊帝時代の野党だからだ。「名士」の先がけたちを、党錮した霊帝の朝廷が許せない。テロリストだ。
袁紹は、洛陽の武官を動員した。
虎賁中郎將の袁術は、温厚する虎賁二百人を、禁中に入れる。宦官は、皇帝の門戸をまもる。
中常侍の段珪らは、何太后の詔を偽造して、何進を召しいれた。何進は殺された。宮中が乱れた。
『後漢書』何進伝はいう。従事中郎将の王允は、河南尹となる。袁紹は、洛陽の武官に、宦官を攻撃させた。董卓を、攻撃に参加させた。董卓は、平楽観にくる。何太后は、すべて中常侍、小黄門を解任して、故郷に帰らせる。宦官たちは、もとより何進に親しむから、何進に謝る。何進は宦官に言った。「天下を正せるのは、キミたち・宦官だけだ。しかし今、董卓がきた。早く故郷ににげろ」と。袁紹は、宦官全滅を再三せまるが、何進は許さない。ぼくは思う。何進は、宦官が逃げる時間をつくっているのだ。上で盧弼が言ったように、何進は、蹇碩だけ除けば充分だったようだ。
袁紹は、州郡に命令して、宦官の親属をとらえよと言った。宦官たちは恐れた。ぼくは思う。袁紹は、宦官の子弟がいる、地方にまで手を回していた。全国規模の闘争だったのだ。洛陽城内で、小さな政変があったのではない。
『後漢書』何進伝はいう。張譲の子婦は、何太后の甥(めい?)だ。子婦は、舞陽君に言って、何太后に願い出た。すべて宦官たちに、官位をもどされますようにと。 中平6年(189)、何進は長楽宮に入り、何太后に言った。宦官をすべて殺せと。張譲は、ひそかに何進の提案を、盗み聞いた。張譲は、常侍の段珪、ヒツ嵐ら数十人に兵をつけ、何進を呼び出して、何進を嘉徳伝で斬った。もと太尉の樊陵を、司隷校尉とした。 少府の許相を、河南尹とした。尚書は、この任命の詔を、ニセモノだと疑った。宦官は、何進の首級を投げつけた。「大将軍の何進は、謀反したので、すでに誅殺した」と。ぼくは思う。司隷校尉と河南尹は、袁紹と王允に対抗して任命したものだ。
『九州春秋』はいう。はじめ袁紹は何進に言った。「さきに竇武は、宦官に返り討ちにされた。五営の兵士から、作戦がモレたのだ。
何進さまは外戚で、二府の兵をおさえている。
何進さまは、前殿に行ってはいけない」と。しかし何進は、宦官に呼ばれて、出て行った。殺された。
何進がやろうとしたのは、前代までと同じ、宮廷闘争。政敵を殺し、その他は抱きこむ。過剰に殺しまくると、朝廷がカラッポになるから、ほどよく妥協して、味方に抱きこむ。しかし袁紹は、前代までと違い、霊帝以来の朝廷を、全否定しようとした。下手すりゃ、後漢そのものへも、敵意が向かいがち。根っから、野党。
宦官を殺し、董卓から前将軍を受けない
袁術は虎賁をひきい、南宮嘉德殿の青瑣門を焼く。段珪は出てこず、劉弁と劉協をつれて、小平津に逃げる。
小平津も、董卓伝に盧弼が注釈した。
袁紹は、宦官がおいた司隸校尉の許相を斬る。
袁紹は、老若かかわらず宦官を殺す。ひげがない人が、誤って殺される。身体をあらわにする。死者は、2千余人。段珪は追いつめられ、黄河に飛びこむ。劉弁は、宮殿にもどる。
『後漢書』霊帝紀はいう。尚書の盧植は、張譲を追いつめる。張譲は、黄河に飛びこむ。章懐注のひく『献帝春秋』はいう。河南中部掾の閔貢は、天子を追って、黄河にいたる。天子は飢え、声をはげまして張譲を責めた(セリフは省略)。張譲はおそれ、叩頭して自殺した。ぼくは思う。張譲らを、自責させて殺した劉弁。言葉のトゲトゲしさが立派だが、、『漢晋春秋』だから、創作であろう。宦官をにくむ後世の士大夫が、代わりにしゃべったのである。内容がないから、はぶいた。
董卓は袁紹をよび、劉協を立てたいと議した。いつわって袁紹は、廃立をゆるした。「太傅する叔父の袁隗と、話してきましょう」と。董卓は言った。「劉氏なんて、飾りです」と。袁紹はこたえず、刀を引き寄せて去った。
臣松之以為紹於時與卓未構嫌隙,故卓與之諮謀。若但以言議不同,便罵為豎子,而有推刃之心,及紹複答,屈疆為甚,卓又安能容忍而不加害乎?且如紹此言,進非亮正,退違詭遜,而顯其競爽之旨,以觸哮闞之鋒,有志功業者,理豈然哉!此語,妄之甚矣。
『献帝春秋』はいう。董卓は袁紹に、廃立を説得した。
『後漢書』袁紹伝はいう。天下の主は、賢明であるべきだ。劉弁はダメである。恵棟はいう。劉協は、董太后に育てられたので、董侯と呼ばれた。
裴松之はいう。『献帝春秋』はデタラメである。
袁紹は、冀州ににげた。
ぼくは思う。袁紹は、劉虞を頼ったのだ。こちらで、やりました。
劉虞と袁紹と袁術を知るために、公孫瓚伝 02
侍中の周毖、城門校尉の伍瓊、議郎の何顒らは、みな名士だ。董卓が信じた。
盧弼が『後漢書』袁紹伝を見ると。侍中の周[王必]、城門校尉の伍瓊とある。『後漢書』献帝紀は、城門校尉の伍瓊、督軍校尉の周[王必]とする。章懐注はいう。[王必]は、ヒツと読む。『東観漢記』はいう。周[王必]は、豫州刺史・周慎の子だ。『続漢書』『三国志』は、周毖と記す。毖は、ヒと読む。董卓伝でも、周毖と記される。ぴー!
周毖らは、董卓に言った。「袁氏の故吏は、天下にあまねし。袁紹を太守とせねば、関東が自立する」と。董卓は、袁紹を勃海太守とし、邟郷侯に封じた。
『後漢書』黄瓊伝はいう。黄瓊は、邟郷侯に封じられた。章懐注は、潁川の邟県だというが、沈欽韓が『漢書』『後漢書』で邟県を見つけることができない。邟郷が正しい。
盧弼が『後漢書』袁紹伝を見るに。袁紹はなお司隷校尉をかねた。のちに挙兵して上書したとき、司隷の肩書も名のる。章懐注のひく『山陽公載記』はいう。董卓は袁紹を、前将軍、邟郷侯とした。袁紹は、邟郷侯を受けたが、前将軍を受けず。
ぼくは思う。前将軍は、もともと董卓が就任していた官位だ。おなじ官位をもらうことを、嫌ったのかな。袁術は、董卓から後将軍をもらい、受けております。対照的だなあ。袁紹は、はじめから董卓と対立する気がたっぷり。でも袁術は、なかなか董卓に敵対する態度を見せない。孫堅と合流する直前まで、涼しい顔して?洛陽にいる。叔父の袁隗、兄の袁基とともに、董卓政権に参加している。
次回、関東で挙兵し、冀州を手に入れる。つづく。110406