表紙 > ~後漢 > 曹操と対比して単純化せず、袁紹の河北平定と皇帝政策を読む

05) 献帝をねらって官渡に南下

『三国志集解』で袁紹伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。

曹操が献帝を手に入れ、袁紹はイラつく

初,天子之立非紹意,及在河東,紹遣潁川郭圖使焉。圖還說紹迎天子都鄴,紹不從。

はじめ袁紹は、献帝を奉戴したくない。献帝が河東にきた。潁川の郭図をつかわす。郭図は、献帝を鄴県にむかえろという。袁紹は、郭図をゆるさず。

『後漢書』袁紹伝はいう。興平二年(195)、献帝は袁紹を、右将軍とする。同年(195)冬、献帝は曹陽で、李傕に追われる。沮授は袁紹に、天子を迎えろと言った。
ぼくは思う。裴注『献帝伝』が、沮授のセリフを載せる。郭図と淳于瓊が反対する。はぶく。裴松之が言うとおり、本文とちがう。『献帝伝』は、袁紹のダメぶりを強調するためか、やたらと沮授をヒーローにする。あまり読む価値を感じない。


會太祖迎天子都許,收河南地,關中皆附。紹悔,欲令太祖徙天子都鄄城以自密近,太祖拒之。天子以紹為太尉,轉為大將軍,封鄴侯,

曹操は、許県に献帝をむかえ、河南をおさえ、関中がつく。袁紹は曹操に「献帝を鄄城におけ」と言った。袁紹は太尉となり、大将軍に転じる。

杭世駿は『典論』をひく。献帝は許県にきた。光禄大夫の劉松を、袁紹におくる。劉松は、袁紹の子弟たちと、宴会した。
鄄城は、武帝紀の初平四年(193)年にある。


獻帝春秋曰:紹恥班在太祖下,怒曰;「曹操當死數矣,我輒救存之,今乃背恩,挾天子以令我乎!」太祖聞,而以大將軍讓于紹。

『献帝春秋』はいう。袁紹は曹操の下となることを恥じた。「曹操を救ってやったのに」と怒った。曹操は、袁紹に大将軍をゆずる。

胡三省はいう。曹操が滎陽の卞水でやぶれたとき、袁紹にしたがい河内にゆく。袁紹は上表し、曹操を東郡太守とした。呂布に兗州を襲われると、「連和」を申し出て、家族を鄴県に置いてあげると言った。
章懐注はいう。太尉は、大将軍の上である。はじめ前漢の武帝は、衛青を大将軍にした。もっと衛青を尊ぶため、大司馬を置いた。衛青は、大司馬を官号のあとにつけた。霍光と王鳳らも、おなじだ。後漢の明帝は、弟の劉蒼を尊ぶため、驃騎大将軍とした。劉蒼は王だから、三公の上にいた。和帝は、竇憲が匈奴を討ったので、大将軍として、三公の上にした。このように、事例はバラバラである。
『後漢書』袁紹伝は、曹操が袁紹を責めた文を載せる。ながい!はぶく。
建安二年(197)、曹操は、将作大匠の孔融を持節させ、袁紹を大将軍とした。河北の4州を督させた。袁紹は、献帝の詔をもらうたび、イラついた。献帝を鄄城に遷させたい。何焯はいう。曹操は、呂布をやぶるまで、袁紹の下でガマンした。


袁紹が皇帝に即位したい

紹讓侯不受。頃之。擊破瓚于易京,並其眾。

袁紹は、献帝から封じられた侯爵をことわる。公孫瓚を易京でやぶる。

建安四年(199)である。「魏志」公孫瓚伝にくわしい。
公孫瓚05) 易京で5年間、袁紹を献帝から遠ざける


典略曰:自此紹貢禦希慢,私使主薄耿苞密白曰:「赤德衰盡,袁為黃胤,宜順天意。」紹以苞密白事示軍府將吏。議者鹹以苞為妖妄宜誅,紹乃殺苞以自解。

『典略』はいう。袁紹は、献帝への貢献をおこたる。ひそかに主簿の耿苞に言わせた。「赤徳がおとろた。袁氏は黄徳だ。天意にしたがえ」と。諸将が耿宝をウソつきと言う。袁紹は、耿苞を殺した。

ぼくは思う。袁術の皇帝即位の権威づけをするのも、『典略』。原書では、今回の袁紹の記述と、連続して書いてあったのだろうか。再現したいなあ。
『後漢書』袁紹伝はいう。耿苞でなく、耿包だと。章懐注は『献帝春秋』をひく。袁氏は、舜の後裔だ。黄色は赤色に代わると。ぼくは思う。『漢晋春秋』は、袁術伝にひく『典略』をひいたものだろう。別ルートから、舜後や黄徳を語っているなら、うれしい。袁紹に該当するなら、袁術にも使える話なので。
王補はいう。『後漢書』袁紹伝の賛にある、袁紹への批評は、この耿苞の話を言うんだろう。袁紹は耿苞を殺したが、失敗は消えない。袁紹は、諸将の心を知りたいから、耿苞にこれを言わせた。諸将に回覧した。
何焯はいう。袁紹は、献帝を迎えないから、失敗した。ぼくは思う。何焯みたく、曹操と袁紹を比較し、優劣を論じる話は、盧弼もおおくひく。つまらん。それよりも、袁術と袁紹を比較したい。
袁術は、献帝を得たかったが、曹操に敗北して失敗した。この話を、ぼくは論文にした。史料で袁術は、はじめから献帝を無視しているような印象を与えるけど、ウソだよと。袁紹も、もとから献帝を得たくないという記され方をする。沮授や田豊のような「賢者」が、献帝奉戴をすすめたのに、袁紹は拒否した。袁紹は、軍事的には献帝を獲得できるのに、わざわざ献帝を避けたと描かれる。ぼくは違うと思う。袁紹も、献帝を獲得したかった。なぜなら、献帝を尊重するにしても、廃位するにしても、手元にあるのがベストだ。しかし袁紹が献帝を得られなかったのは、公孫瓚が背後にいたからである。公孫瓚を殺した後、袁紹は献帝を得るために、満を持して進軍するじゃないか。官渡の戦いである。
曹操を引き立てるため、袁紹は、「軍事的に強大」だが、「判断力が劣悪」というキャラに仕立てられた。結果、袁紹が河北平定に忙しく、まだ献帝獲得に乗り出せない段階が、イメージ操作で隠された。袁紹は、問答無用の安定勢力というイメージになった。そして袁紹はバカだから、河北で余裕をかましているくせに、あえて献帝に手出ししなかったと描かれた。ひどい単純化だなあ。


九州春秋曰:紹延徵北海鄭玄而不禮,趙融聞之曰:「賢人者,君子之望也。不禮賢,是失君子之望也。夫有為之君,不敢失萬民之歡心,況於君子乎?失君子之望,難乎以有為矣。」英雄記載太祖作董卓歌,辭雲:「德行不虧缺,變故自難常。鄭康成行酒,伏地氣絕,郭景圖命盡于園桑。」如此之文,則玄無病而卒。餘書不見,故載錄之。

『九州春秋』はいう。袁紹は、北海の鄭玄をまねくが、礼遇しない。『英雄記』は、曹操が歌った董卓の歌を載せ、鄭玄の末路に異説をつたえる。

王鳴盛はいう。曹操は鄭玄の末路を歌い、袁紹の罪を言いたかった。梁商鉅はいう。袁紹は、よく下士にへりくだったと言われるが、鄭玄への対応を見ると、ウソだと分かる。
ぼくは思う。鄭玄の六天説は、渡邉義浩先生の、高いほうの本を買いました。


4州に息子を置き、河北平定、沮授に諌めらる

出長子譚為青州,沮授諫紹:「必為禍始。」紹不聽,曰:「孤欲令諸兒各據一州也。」

袁譚を青州におく。沮授が諌めた。「必ず禍いの始まりとなる」と。袁紹はゆるさず。「私は息子たちに、それぞれ1州を任せたい」と。

何焯はいう。天子を迎えず、長子を外に出す。滅亡を促進する。歴史家は、袁紹を反面教師にせよという教訓をのこした。


九州春秋載授諫辭曰:「世稱一兔走衢,萬人逐之,一人獲之,貪者悉止,分定故也。且年均以賢,德均則卜,古之制也。原上惟先代成敗之戒,下思逐兔分定之義。」紹曰:「孤欲令四兒各據一州,以觀其能。」授出曰:「禍其始此乎!」譚始至青州,為都督,未為刺史,後太祖拜為刺史。其土自河而西,蓋不過平原而已。遂北排田楷,東攻孔融,曜兵海隅,是時百姓無主,欣戴之矣。然信用群小,好受近言,肆志奢淫,不知稼穡之艱難。華彥、孔順皆奸佞小人也,信以為腹心;王脩等備官而已。然能接待賓客,慕名敬士。使婦弟領兵在內,至令草竊,巿井而外,虜掠田野;別使兩將募兵下縣,有賂者見免,無者見取,貧弱者多,乃至於竄伏丘野之中,放 兵捕索,如獵鳥獸。邑有萬戶者,著籍不盈數百,收賦納稅,參分不入一。招命賢士,不就;不趨赴軍期,安居族黨,亦不能罪也。

『九州春秋』は、沮授が袁紹を諌めた言葉を載せる。「誰かがウサギを得れば、みなは追いかけるのをやめる」と。袁紹は言った。「息子に、それぞれ1州をまかせ、能力を見たい(息子たちに、ウサギ獲りを競わせたい)」と。

はじめから長子を後継とすれば、次男以下はあきらめる。沮授は正しい。
周寿昌はいう。袁紹の子は、袁譚、袁煕、袁尚だが、その下に四男の袁買がいる。「魏志」袁紹伝の末尾にひく『呉書』にある。袁尚が幼いから手元におき、并州を高幹に任せた。袁買には、まだ国を与えていなかったか。ぼくは思う。袁買は、兗州あたりかなあ。

はじめ袁譚が青州にきて、都督した。まだ刺史にならず、のちに曹操が、袁譚を青州刺史とした。袁譚の領土は、黄河より西で、平原だけだ。ついに公孫瓚がおいた青州刺史の田楷を、北に退けた。東に孔融を攻めた。

ぼくは思う。平原だけって、ほんとうに北西の狭い領域!
『後漢書』孔融伝はいう。孔融は、北海相となる。北海に6年いた。劉備は上表して、孔融を青州刺史とする。ぼくは思う。劉備は、袁譚を孝廉にあげ、孔融を青州刺史とする。敵対する両者に、恩を売る。劉備は曹操に近づき、献帝に近づいた立場を利用して、やりたい放題である。ひどいやつだ。
建安元年(196)、孔融は袁譚に攻められた。春から夏に戦い、孔融の数百人が斬られた。孔融はびびらず、談笑して読書した。城が落ちると、孔融はにげたが、妻子は袁譚にとらわれた。
ぼくは思う。孔融と袁譚が、本気で戦闘している。孔融は、袁譚がキライだから、曹操を頼ったのですね。袁譚は、袁紹とは独立して、領土拡大につとめている。袁譚を青州に派遣して、よかったじゃないか。袁譚が孔融を攻めた時期は、袁術や劉備が、袁譚に逃げこもうとしたタイミングだ。袁譚は、袁紹と並行して、海沿いの最強勢力の1つだった?

袁譚は悪政して、華彦や孔順ら、奸佞小人を用いた。王脩は昇進しない。袁譚は、ろくに課税しない。

盧弼はいう。王脩は、あとで活躍する。
袁譚の悪政は、どこまで信じたものか。領内の荒廃とか、課税の甘さとかは、戦乱や飢饉の影響だろう。袁譚がデタラメだから、治安が悪いのではない。人材登用については、なんとでも言えるし。幽州の袁煕は知らんが、并州の高幹、青州の袁譚は、袁紹の期待を上まわる勢いで、ちゃんと機能しているんだ。沮授の言い分にも理があるが、袁紹だって駆け出しの勢力だし、「仕事は、ヒマな人でなく、忙しい人(できる人)のところに回ってくる」という不文律が適応されるのは、当然だろう。


又以中子熙為幽州,甥高幹為並州。眾數十萬,以審配、逢紀統軍事,田豐、荀諶、許攸為謀主,顏良、文醜為將率,簡精卒十萬,騎萬匹,將攻許。

袁煕は幽州、高幹は并州にいる。袁紹軍は、数十万だ。審配、逢紀は、軍事をすべる。田豊、荀諶、許攸は、謀主となる。顔良、文醜は、将卒となる。精鋭10万、馬は1万匹で、曹操の許都に攻めかかる。

官渡の戦いを盛り上げるための記述だ。このタイミングで、キラ星の人材と、最大の兵力がいましたよと。曹操に破られる前提での記述である。つまらんなー。
荀諶は、荀彧の弟だ。荀彧伝とその注釈にある。


世語曰:紹步卒五萬,騎八千。孫盛評曰:案魏武謂崔琰曰「昨案貴州戶籍,可得三十萬眾」。由此推之,但冀州勝兵已如此,況兼幽、並及青州乎?紹之大舉,必悉師而起,十萬近之矣。

『世語』はいう。袁紹軍は5万、馬は8千。孫盛はいう。のちに曹操は崔琰に言った。「冀州の戸籍を見ると、30万の軍を編成できる」と。袁紹は河北をおさえる。袁紹軍は10万でよい。『世語』のように、削らなくてよい。

ぼくは思う。ハデさを削るばかりが、「客観的な考察」でない。


獻帝傳曰:紹將南師,沮授、田豐諫曰:「師出歷年,百姓疲弊,倉庾無積,賦役方殷,此國之深憂也。宜先遣使獻捷天子,務農逸民;若不得通,乃表曹氏隔我王路,然後進屯黎陽,漸營河南,益作舟船,繕治器械,分遣精騎,鈔其邊鄙,令彼不得安,我取其逸。三年之中,事可坐定也。」審配、郭圖曰:「兵書之法,十圍五攻,敵則能戰。今以明公之神武,跨河朔之強眾,以伐曹氏。譬若覆手,今不時取,後難圖也。」(中略)乃分監軍為三都督,使授及郭圖、淳於瓊各典一軍,遂合而南。

『献帝伝』はいう。沮授と田豊は、袁紹の許都攻めを諌めた。「冀州は疲弊した。曹操を攻めず、献帝に貢献せよ。3年待てば、曹操は降ってくる」と。

さっきも書いたが。『献帝伝』は、沮授を天才に仕立てて、袁紹のバカを強調する書物である。ぼくは、はぶく。無論ぼくは、沮授がバカだと言いたいのでない。『献帝伝』以外でも沮授は、河北を平定する戦略を示したし、「袁譚を青州に出すな」と言った。沮授は袁紹を善導する人だろう。しかし『献帝伝』は、やり過ぎるのだ。あまり褒めすぎると、逆にバカみたいになるのは、『三国演義』の諸葛亮の事例がある。

審配と郭図が、これに反対した。「曹操を攻めるときだ」と。

袁紹が南下すべきか。これは、袁紹の「奔走の友」や潁川組と、冀州組との対立で理解できる。これは有名な話。冀州組は、冀州の保全が最優先だと。
ただ、袁紹が献帝とは別の皇統を立てる、もしくは皇帝となるためには、南下が避けられない。袁紹は優柔不断だと言われるが、そんなことはなく、一貫して「南下の準備が整い次第、南下したい」という意見だろう。 袁術も袁紹も、献帝へのアクセスに失敗して、敗北してしまった。献帝との関係を明らかにしておかないと、諸将の支持は得られない。袁術がコケて、袁紹が耿苞を斬ったことから、明らかである。

袁紹は、沮授が監軍する権限を、3つの都督に分割した。郭図と淳于瓊に、1つずつ任せた。ついに南進した。

ふつうに沮授が敗北した、官渡の戦い

先是,太祖遣劉備詣徐州拒袁術。術死,備殺刺史車胄,引軍屯沛。紹遣騎佐之。太祖遣劉岱、王忠擊之,不克。建安五年,太祖自東征備。田豐說紹襲太祖後,紹辭以子疾,不許,豐舉杖擊地曰:「夫遭難遇之機,而以嬰兒之病失其會,惜哉!」太祖至,擊破備;備奔紹。

さきに曹操は、劉備を徐州にやり、袁術を防がせる。劉備が自立した。曹操が劉備を攻めた。建安五年(199)、田豊が「曹操の背後を攻めろ」と言ったが、袁紹は曹操を攻めず。

劉備や曹操の動きは、あちこちでやった。盧弼をひくまでもない。

劉備は、袁紹をたよった。

『魏氏春秋』が載せる、陳琳の檄文は、はぶく。目ぼしい情報は。
もと九江太守した陳留の辺譲を殺した。もと太尉の楊彪を罰した。 議郎の趙彦に諫言されて、弾圧した。梁の孝王の墓を掘った。兗州と豫州の民を苦しめた。公孫瓚とむすび、敖倉に進軍した。など。
ぼくは思う。袁術の義兄弟・楊彪を苦しめたこと。曹操の領地が、兗州と豫州の2つだと認識されたこと。公孫瓚と曹操が同盟したなど。知っているようで、知らないことが、書いてあって面白い。とくに公孫瓚。公孫瓚は、献帝を奉りたい人だ。あらたに献帝を得た曹操は、公孫瓚とナカマである。公孫瓚をつかい、袁紹の背後を199年まで脅かした。そのあいだに、袁術、呂布、劉備を片づけた。すごいなあ、曹操。


紹進軍黎陽,遣顏良攻劉延于白馬。沮授又諫紹:「良性促狹,雖驍勇不可獨任。」紹不聽。太祖救延,與良戰,破斬良。 紹渡河,壁延津南,使劉備、文醜挑戰。太祖擊破之,斬醜,再戰,禽紹大將。紹軍大震。

袁紹は黎陽にくる。顔良は、白馬(東郡)の劉延を攻めた。沮授が諌めた。「ひとり顔良に任せてはいけない」と。顔良は斬られた。

裴注『献帝伝』はいう。袁紹が出発するとき、一族に財産を分けた。「袁紹は負けるからね」と。ぼくは思う。こんどは沮授を予言者にしている。笑うべし。もし沮授が財産を分ける、合理的な理由があるのなら。南進に成功した袁紹が、冀州の沮授をお払い箱にすることを、恐れたくらいか。しかし『献帝伝』の記述に従えば、沮授は現在でも、軍の3分の1を仕切る。そんな心配はいらん。ってことは、この財産分与が、ウソだと思うのだ。

袁紹は黄河をわたり、延津の南にくる。文醜は曹操に斬られた。

裴注『献帝伝』はいう。袁紹が黄河をわたることを、沮授は諌めた。袁紹は、沮授の軍を解体し、郭図につけた。
ぼくは思う。矛盾した話だ。戦う前から、袁紹の不利がわかるものか。『三国志』の書きぶりでは、袁紹が圧倒的に有利だ。曹操バンザイのバイアスを除くとしても、少なくとも袁紹と曹操は対等だ。沮授の予言は、創作であろう。
また、袁紹が南下する目的は、「献帝を奉戴しにゆく」と、理解できなくもない。もし袁紹が、献帝から禅譲を受けるにしても、まずは献帝を大切にするところから、着手する。沮授の志とも合致する。黄河をわたるときから、不吉な予言を連発するのは、おかしい。


太祖還官渡。沮授又曰:「北兵數眾而果勁不及南,南穀虛少而貨財不及北;南利在於急戰,北利在於緩搏。宜徐持久,曠以日月。」紹不從。連營稍前,逼官渡,合戰,太祖軍不利,複壁。紹為高櫓,起土山,射營中,營中皆蒙楯,眾大懼。太祖乃為發石車,擊紹樓,皆破,紹眾號曰霹靂車。

曹操は官渡にもどる。沮授は言った。「曹操は兵糧がない。曹操は短期決戦を好み、袁紹は持久戦ができる。持久戦にしよう」と。袁紹は沮授をみとめず、連日、官渡を攻めた。曹操の発石車を、袁紹は霹靂車とよぶ。

ぼくは思う。沮授が、「消極策」を口にするのは、このときが初めてだ。しかし、腰のくだけた消極策でない。勝つための、積極的な持久戦だ。田豊は袁紹の出陣を諌めるが(後述)、沮授は戦闘そのものには、賛成である。
『魏氏春秋』は、発石車を注釈する。盧弼もおおい。はぶく。


紹為地道,欲襲太祖營。太祖輒於內為長塹以拒之,又遣奇兵襲擊紹運車,大破之,盡焚其穀。太祖與紹相持日久,百姓疲乏,多叛應紹,軍食乏。會紹遣淳於瓊等將兵萬餘人北迎運車,沮授說紹:「可遣將蔣奇別為支軍於表,以斷曹公之鈔。」紹複不從。瓊宿烏巢,去紹軍四十裏。太祖乃留曹洪守,自將步騎五千候夜潛往攻瓊。紹遣騎救之,敗走。破瓊等,悉斬之。太祖還,未至營,紹將高覽、張郃等率其眾降。紹眾大潰,紹與譚單騎退渡河。餘眾偽降,盡坑之。

沮授は袁紹に言った。「蔣奇に命じ、曹操による兵糧掠奪をふせごう」と。袁紹は淳于瓊を烏巣におく。曹操は曹洪を官渡におき、烏巣を攻めた。高覧、張郃らが、曹操にくだる。袁紹は袁譚とともに、黄河をにげる。

曹操の攻撃は、武帝紀でやった。裴注の張璠『漢紀』はいう。8万人が殺された。『資治通鑑』は7万余人とする。司馬光は、『献帝起居注』の載る、曹操の上言にしたがったのだ。ぼくは思う。数が、だいたい合っている!


沮授不及紹渡,為人所執,詣太祖,太祖厚待之。後謀還袁氏,見殺。

沮授をとらわれた。沮授は袁紹のもとに逃げようとして、殺された。

裴注『献帝伝』は、曹操が沮授を惜しむ。「こんなに忠烈な人を活用できないなんて、袁紹はバカだなあ。曹操は度量がデカいなあ」という話である。つまらん。沮授は、やる気満々に袁紹に協力し、ふつうに負けたのだ。


初,紹之南也,田豐說紹曰:「曹公善用兵,變化無方,眾雖少,未可輕也,不如以久持之。將軍據山河之固,擁四州之眾,外結英雄,內脩農戰,然後簡其精銳,分為奇兵,乘虛迭出,以擾河南,救右則擊其左,救左則擊其右,使敵疲於奔命,民不得安業;我未勞而彼已困,不及二年,可坐克也。今釋廟勝之策,而決成敗於一戰,若不如志,悔無及也。」紹不從。豐懇諫,紹怒甚,以為沮眾,械系之。紹軍既敗,或謂豐曰:「君必見重。」豐曰:「若軍有利,吾必全,今軍敗,吾其死矣。」紹還,謂左右曰:「吾不用田豐言,果為所笑。」遂殺之。

田豊は南下に反対した。袁紹の敗北後、殺された。

裴注『先賢行状』は、田豊を載せる。はぶく。田豊は、鉅鹿または渤海の人。逢紀と対立した。ぼくは思う。逢紀は、袁紹の「奔走の友」だ。田豊は、冀州の現地採用組だ。典型的に、対立したのだなあ。
裴注で孫盛は、沮授と田豊をほめ、袁紹の失敗ぶりをあばく。ぼくは思う。曹操との比較論になったとたん、袁紹は、急につまらなくなる。ぼくがいつも言うことです。「なにが起きたか」は、全面的に頼るしかない。しかし「なぜ起きたか」は、必ずしも歴史書の筆者による説明に、たよる必要はない。ぼくら自身の頭で、推測をめぐらしてよいのだ。まして孫盛のような、広義の「後世人」の袁紹への論評なんて、奉らなくてよい。


冀州城邑多叛,紹複擊定之。自軍敗後發病,七年,憂死。

おおく冀州の城邑が、袁紹に叛いた。袁紹は平定した。袁紹は発病し、建安七年(202)、憂いて死んだ。

盧弼はいう。「憂いて死ぬ」のは、荀彧や、『傅子』が記す劉曄である。しかし袁紹伝の「憂」は、「夏」の誤りである。『三国志』武帝紀で、袁紹は夏5月に死ぬ。武帝紀でも、夏に死ぬ。ぼくは思う。すべて引用してないが、「夏」とする盧弼の説明は、説得力がある。つまり袁紹は、気に病んで死んだのでない。


袁紹が死んだので、終わりです。つぎは袁尚と袁譚の話になるので。もともと、袁術の「本」を書こうと思って、始めた袁紹伝でした。ここまでやれば、もう満足なのです。つぎは孫策伝だな。お付き合いください。110408