04) 冀州を平定するが、皇統樹立は失敗
『三国志集解』で袁紹伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。
袁隗らを殺され、韓馥から冀州をうばう
董卓は、袁紹が関東を得たと聞き、宗族を殺した。太傅の袁隗も殺した。
『後漢書』では、袁紹が冀州を得る前に、袁隗が殺された。『三国志』では、袁紹が冀州を得たあとに、袁隗が殺された。一致しない。『後漢書』が正しいであろう。ぼくは思う。「魏志」袁紹伝は、胡母斑の殺害も、袁隗の殺害も、袁紹が冀州を得たあととする。袁紹の冀州獲得を、よほど印象づけたかった。画期と捉えた。実際、袁紹が冀州を攻めたのは、董卓が長安にひっこみ、交渉がなくなった後である。
董卓伝にひく『英雄記』はいう。董卓の死後、袁氏の門生故吏が、改葬した。以後『三国志集解』に、董卓にひどい目に会わされた袁氏の話がある。董卓が袁氏を殺したのは、董卓が函谷関をとおり、長安にきた後である。ぼくは思う。董卓が長安に移ったのは、直接的には、袁術と孫堅がウザかったからだ。袁隗を殺した動機は、袁紹への怒りなのか、袁術への怒りなのか。袁術への怒りなんじゃないかなあ。
『三国志』袁術伝にひく『呉書』はいう。袁紹が劉虞の擁立を、袁術に打診した。このとき袁術の手紙から、すでに袁隗が殺されていることがわかる。武帝紀によれば、袁紹が韓馥ととも、劉虞をかつごうとしたのは、初平元年や、初平二年春である。袁紹が冀州を得るより前である。『後漢書』が載せる、袁隗が殺された日付は、正しい。
豪侠たちは、袁紹につく。袁隗の敵討という名目で、蜂起した。韓馥は、張邈をたよる。
『英雄記』はいう。袁紹は、河内の朱漢を、都官従事とする。
朱漢は、韓馥をにくむ。朱漢が韓馥を攻めた。袁紹は、朱漢を殺した。だが韓馥は、袁紹への恐怖がおさまらず、袁紹のもとを去ったのだ。
袁紹からの使者が、張邈にきた。韓馥はおそれ、自殺した。
袁隗の死と、韓馥の退去は、関係があるのだろうか。陳寿は、関係がありそうな書きぶりだ。「袁紹の取りまきが、袁隗の敵討でヒートアップした。韓馥は、その雰囲気を嫌って、張邈のもとに退いた」と。でも、陳寿が時系列を誤っている話は、すでに盧弼が証明した。
それでもなお、ムリにつなげて理解するなら。袁紹は袁隗を殺されて、「ぜったいに献帝を認めない」と、ますますガンコになった。だから、献帝をそこまで否定したくない韓馥は、冷静な張邈を頼った。とか。張邈は、袁紹と同格の英雄だから。
脱落した韓馥はさておき、袁紹と張邈の対立という観点で着目すべき事件。
192年正月、界橋の戦い
『英雄記』はいう。公孫瓚は、青州の黄巾を大破し、広宗にもどる。太守や県令を、公孫瓚の派閥に取りかえる。
『後漢書』袁紹伝では、公孫瓚は広宗でなく、磐河にくる。『三国志』公孫瓚伝でも、公孫瓚は磐河にくる。磐河である。
公孫瓚は、厳綱を冀州に、田楷を青州に、単経を兗州におく。郡県の長官も、任命した。ぼくは思う。公孫瓚が磐河に進んだのは、袁紹に、従子の公孫越を殺されたから。公孫越は、袁紹と袁術が豫州をうばいあう戦いに混じり、流矢で死んだ
公孫瓚03) 袁紹と袁術を開戦させる
冀州の長吏たちは、みな公孫瓚になびいて、門をひらく。界橋の南で、袁紹と公孫瓚は戦う。
公孫瓚伝04) 193年劉虞の死、195年易京へ
『後漢書』献帝紀はいう。初平三年(192)正月、袁紹と公孫瓚は、界橋で戦う。公孫瓚が大敗した。ぼくは思う。界橋の戦いの時期は、よく覚えておきたい。くり返す。初平三年(192)正月である。 公孫瓚が、いちばん軍事的に強い時期。
公孫瓚は、白馬義従をつかう。袁紹は、涼州で鍛えられた麹義をつかう。麹義は、公孫瓚の冀州刺史・厳綱を斬った。
公孫瓚は撤退した。勝った袁紹は、鞍をはずして休む。公孫瓚の騎兵が、袁紹を襲った。別駕従事の田豊は、矢の雨から袁紹をまもる。麹義がきたので、公孫瓚は去った。
公孫瓚は、白馬義従をひきい、胡族におそれられた。
192年、冀州が叛乱し、曹操を兗州に入れる
『英雄記』はいう。袁紹は公孫瓚をやぶり、南下した。薄洛津にきた。
袁紹が諸将と宴会をしたら、魏郡の兵が反した。魏郡の兵は、黒山の于毒とともに、鄴城で魏郡太守の栗成を殺した。諸将は、鄴城に家族がいる。諸将は泣き叫ぶが、袁紹は顔色を変えない。
『献帝春秋』はいう。袁紹は、壺を投げて談笑し、余裕をかました。
賊の陶升は、もと内黄の小吏である。
ぼくは補う。初平3年春、曹操は兗州に迎えられ、東武陽にくる。于毒がルスにした本拠を攻撃した。于毒が帰ってくると、そこを迎撃した。
武帝紀07) 兗州牧を自称し、青州黄巾を降す
つまり、袁紹が曹操を必要とし、袁紹が曹操を兗州に入れてあげた理由は、今回の魏郡&于毒の叛乱である。袁紹は北の界橋で、公孫瓚と戦ったばかりだ。袁紹は南方を突かれたので、曹操を招きいれて、対処させた。それまで曹操は、勝ち目のない、董卓との戦線で、孤軍奮闘していた。曹操は、行き場が見つかってよかった。武帝紀と袁紹伝がつながった、感動的な瞬間だ。ぼくにとっては!
陶升は西城をまもり、袁紹や諸将の家族を、斥丘(鉅鹿)にとどけた。袁紹は、陶升を建義中郎将とした。
ぼくは思う。「平漢」という雑号から、漢室に敵対した叛乱だとわかる。しかし陶升は叛乱をやめて、袁紹を助けた。気まぐれに味方してくれる在地勢力という意味で、袁紹にとっての陶升は、曹操にとっての程昱にひとしい。兗州のすべてが、ひっくりかえったのに、兗州の程昱は曹操の味方をした。
袁紹は、朝歌にきて、于毒をやぶる。袁紹は于毒を斬り、長安が任命した冀州牧・壺寿を斬った。袁紹は、へんな名前の賊たちを斬り、鄴城にもどる。
このサイトの公孫瓚伝のところで、書きましたが。袁紹に界橋や龍湊でやぶれた公孫瓚は、幽州にもどり、劉虞を殺す。袁紹が、冀州で泥仕合をしているあいだに、劉虞は死んじゃうのだ。はじめから終わりまで、袁紹と劉虞の関係は良好だ。冀州に入った袁紹を、背後の幽州から、無言でバックアップしているような感じ。もし袁紹が、魏郡や于毒の平定に忙しくなければ、劉虞を助けただろう。
目線を高くすると。公孫瓚-于毒-袁術は、つながっている。劉虞-曹操-袁紹に対抗している。于毒が動いたせいで、袁紹が釘づけられ、公孫瓚が劉虞を殺す。偶然でなく、外交のなせるわざ!袁術陣営は、すごいなあ。笑
193年、李傕が趙岐をやり、河北の皇統を粉砕
初平四年(193)、天子は太傅の馬日磾、太僕の趙岐をやり、関東をなだめる。趙岐は河北にきて、献帝の命を伝えた。袁紹は、趙岐をむかえる。
ぼくは思う。趙岐らが出発したのは、李傕が王允を殺し、長安を奪還した直後だ。李傕は、董卓なきあと、関東の支持を取りつけたい。
袁紹が、献帝そのものを否定する行動をするのは、なぜか。董卓の存命中ですら、董卓の廃立が気に食わないから、献帝を支持しなかった。まして董卓が死んだら、献帝の後ろ盾は、何もない。だから袁紹は、献帝を無視した。趙岐は、こういう態度の袁紹たちを、献帝に従わせるために来た。目的は明確である。
公孫瓚は、袁紹に和睦の手紙を出した。
袁紹が立てようとした、河北の別皇統は、木っ端微塵になった。皇帝になるべき劉虞が死んだ。煽動した袁紹は、趙岐を通じて献帝に屈した。
注意したいことがある。この時点で公孫瓚は、けっして軍事的にジリ貧ではない。袁紹に界橋で敗れた後、六州を督する劉虞を破ったのだ。公孫瓚が趙岐を悦んだ理由は、「献帝の正統が、関東にも行き渡った」と思ったからだ。公孫瓚は、「軍事的に袁紹に負けていたが、趙岐が停戦してくれて助かった」から、悦んだのでない。
袁紹は、なぜ献帝に屈したか。冀州の叛乱平定で、ヘトヘトだからだろう。于毒の攻撃は、ちゃんと効いている。この時期、曹操は、荊州から北上した袁術を、陳留で迎撃している。まったくヒマがない。魏郡の叛乱、于毒、袁術は、軍事行動の時期がちかい。
話を飛躍させます。
李傕が関東を慰撫する政策をとったので、この政策に触発されて、公孫瓚が劉虞を殺し、袁術が曹操や袁紹を討つために、北上したか。献帝にさからう逆賊は数おおいが、袁紹と曹操が、その最大勢力である。李傕-献帝の後援に力を得て、袁術は荊州を飛び出したのだろうか。「献帝さんの代わりに、関東を平定して回りますよー」と。武帝紀に「劉表に糧道を断たれたから、袁術は荊州を出た」とあり、これを否定することはできないが、、袁術が荊州を飛びだすトリガーとして、李傕の政策や、趙岐や馬日磾の巡回があるのかもしれない。
のちに麹義がおごったので、袁紹は麹義を殺した。
『後漢書』袁紹伝は、袁紹が薄洛津にゆき、魏郡と黒山を平定したのを、すべて初平四年(193)におく。つまり、趙岐がきた後とする。『資治通鑑』は、『後漢書』にしたがう。
ぼくは思う。『三国志』袁紹伝の本文は、あまり年代がアテにならない。盧弼の注釈を読んできたとおりだ。ただし、いまぼくが話を見てきたのは、『英雄記』である。『英雄記』の年代が、とくに怪しいという話がない。話を、作り直さなくていいだろう。もし『後漢書』のとおり、すべて初平四年の出来事だとすると、今まで作ってきた話が、すべて壊れる。薄洛津、魏郡と黒山は、初平三年(192)、つまり公孫瓚と戦った直後で、よいだろう。
ぼくは思う。つぎ、献帝が関東に流れだす。いま193年で、献帝が流れてくるのが、195年秋冬である。ちょっと史料にブランクがある。袁紹は、何をしていたか。公孫瓚と、戦っていた。劉虞の仇討も兼ねて。つづく。110408
公孫瓚04) 193年劉虞の死、195年易京へ
袁紹は河北に皇統樹立をしたかったが、失敗した。理由は、劉虞に拒まれたからでない。献帝に忠実な、公孫瓚にジャマされたからだ。袁紹は、公孫瓚を追いつめることで、ふたたび献帝とは別の政権を作りたがる。しかし、もう劉虞はいないので、必要に応じ、袁紹が皇帝になるというプランも視野に入れつつ。公孫瓚が易京に籠もって奮闘するのは、献帝のためとなる。