表紙 > ~後漢 > 劉虞と袁紹と袁術を知るために、公孫瓚伝

03) 袁紹と袁術を開戦させる

劉虞と袁紹のことが気になるので、公孫瓚伝をやります。

袁術が、劉虞の献帝救出を助ける

虞子和為侍中,在長安。天子思東歸,使和偽逃卓,潛出武關詣虞,令將兵來迎。和道經袁術,為說天子意。

劉虞の子は、劉和だ。劉和は侍中となり、長安にいた。天子は洛陽に帰りたい。いつわって劉和を董卓から逃がし、武関をでて、劉虞を迎えた。

『後漢書』劉虞伝はいう。劉虞は、掾する右北平の田疇と、従事をする鮮于銀を、長安にいかせた。献帝はすでに東に帰りたい。田疇らは喜んだ。劉和が武関を出て、劉虞に「兵をひきいて献帝を長安から連れ出せ」と伝えた。
『通鑑考異』はいう。「魏志」公孫瓚伝は、ただ天子が東に帰りたいと思うのみだ。田疇が長安に到着したと言わない。もし田疇が長安にいれば、田疇と劉和は、いっしょに長安を出たはずだ。田疇は、劉和が長安を出るとき、まだ長安にいなかった。田疇が幽州にもどるのは、劉虞の死後だ。劉虞は初平四年(193)冬に死ぬ。界橋の戦いは、初平三年(192)春だ。『後漢書』劉虞伝の誤りである。
盧弼は考える。『三国志』田疇伝で、劉虞は田疇を従事に任じて、みずから見送り、長安に行かせる。田疇は長安にいたり、復命する。田疇がもどる前に、劉虞は殺された。劉和と同行したと記さない。
ぼくは思う。みんなスルーしてるが。献帝がみずから劉和を長安から出し、劉虞に「兵をひきいて、助けにこい」と命じたことに、興奮する。献帝の意思は、袁紹というか、袁紹の背後にいる劉虞を頼っているのだ。武帝紀に、「袁紹が盟主となった」とあるから、董卓と袁紹の二項対立に描かれる。『三国演義』も同じだ。しかし実態は、董卓と劉虞の対立である。袁紹や韓馥は、劉虞の下の実働部隊。あとで劉虞に「六州」を統治させようとする話がある。東のトップは、劉虞でよいのだ。袁術は、董卓と劉虞の対立を、漁夫みたいに南から割りこんだ、第三勢力。


術利虞為援,留和不遣,許兵至俱西,令和為書與虞。

劉和は、道すがら袁術に、天子の意思を説いた。袁術は劉虞を利して、劉虞の援けになるため、劉和をとどめた。袁術は、劉虞とともに西に向かうことを許した。袁術は劉和に、袁術の意思を書かせ、レターを劉虞に送った。

ぼくは思う。原文「術利虞為援」を、ちくま訳は「袁術が劉虞を利用して、劉虞に(袁術を)援助させるつもりで」と書いてある。なんか違わないか。袁術は、劉虞を利そうとした。つまり劉虞に利益を提供しようとした。「援を為す」の主語は、袁術だろう。袁術が劉虞を援助するのだ。ぼくが読み間違ってたら、無視ってもらってかまいませんが、袁術はとくに他意なく、劉虞を助けるつもりだ。劉和を留めたのは、旅路が危険だからだろう。人質じゃない。


虞得和書,乃遣數千騎詣和。瓚知術有異志,不欲遣兵,止虞,虞不可。

劉虞は、劉和のレターを見て、数千騎で劉和のもとにゆく。公孫瓚は、袁術に異志があると知る。公孫サンは、劉虞が騎兵を送るのをとどめた。劉虞は、ゆるさず。

ぼくは思う。公孫瓚が、劉虞をとめた理由なんて、個人の胸の内である。いくら同時代の歴史家だって、知るわけがない。「異志」なんて、袁術が皇帝即位した結果から、遡った記述であろう。公孫瓚は、袁術に会ったこともないはずだ。
この時点で袁術は、「劉虞さんが献帝を救出する作戦に、私も協力します」としか、言っていない。公孫瓚は、軍人としての自分の存在感が下がるから、袁術に活躍の場を与えたくない。でも公孫瓚は、北方の異民族と敵対しているから、中央の戦いに参加することができない。公孫瓚は、後で出てくるが、天下をねらう人なので、辺境に留まることが悔しい。


瓚懼術聞而怨之,亦遣其從弟越將千騎詣術以自結,而陰教術執和,奪其兵。由是虞、瓚益有隙。和逃術來北,複為紹所留。

公孫瓚は、袁術に怨まれることを懼れた。從弟の公孫越に1千騎をつけ、袁術のもとに行かせる。

ぼくは思う。参加が遅れてしまったが、公孫越は、劉虞軍の後続部隊として、袁術を協力しに行ったのだ。劉虞の直属軍だけに、手柄を取らせまいと。

しかし公孫越は、ひそかに袁術に「劉和をとらえ、劉虞の兵をうばえ」と教えた。これにより、劉虞と公孫瓚のあいだが、ますます仲がわるくなった。劉和は、袁術のもとをにげ、北にゆく。

ぼくは思う。袁術は献帝を救出する気持ちで、河北から援軍を取り寄せた。来た援軍は、劉虞と公孫瓚の対立をはらみ、援軍の指揮権をめぐって、互いを出し抜こうとしている。そんな援軍、袁術から見たら、いらないなあ。袁術は(この時点では)、真剣に朝廷のことを考えているのに、河北からの援軍は何をやっているんだと。
袁術が劉和を襲ったという記述がない。劉和は、危険を予知して逃げたのだ。劉虞と公孫瓚の争いは、河南で、劉和と公孫越に持ち越された。劉和は、公孫越に勝てないと思ったから、逃げたのだ。
公孫瓚が、劉虞への悪感情を持ち込んだせいで、劉虞-袁術連合は、献帝救出を失敗した。公孫瓚が元凶である。そう決めつけて、過言ではないと思う。笑

劉和は、袁紹に留められた。

袁紹が出てきたので、劉虞との関係性を軸に、登場人物を整理する。
公孫瓚は、中平年間(180s)に河北で軍事的に活躍したが、新たに赴任した上司・劉虞に、手柄を横取りさせた。劉虞がキライなので、劉虞の献帝救出を妨害した。
袁術は、劉虞とは独立して董卓と対決したが、劉和の申し出を受けて、遠隔地ながら劉虞に協力したい。河北からきた援軍の内部争いで、手持ち無沙汰になった。献帝を支持し、その例外となる行動を起こしていない。
袁紹は、劉虞のフトコロ・渤海に飛び込んできた。「名士」が得意な、新たなる独自の秩序を築くため、劉虞を皇帝や録尚書事に担ぎたい。劉虞に断られた。劉虞が名目上のトップに座ってくれないので、袁紹のプロデュースした連合軍は、求心しない。けっきょく董卓と戦わず。もし手柄を立てても、劉虞が見ててくれないなら、意味ないもんね。それでも袁紹は、劉虞に庇護してもらっているから、劉虞のために戦う。つまり、劉虞と対決する、公孫瓚と戦う。


公孫瓚が、袁紹と袁術を開戦させる

是時,術遣孫堅屯陽城拒卓,紹使周昂奪其處。

このとき袁術は、孫堅を陽城におき、董卓を拒ませた。袁紹は周昂に、陽城を奪わせたい。

陽城は、董卓伝の注釈にある。
胡三省はいう。孫堅は豫州刺史となり、陽城にいた。「呉志」孫堅伝はいう。袁術は上表し、孫堅を行破虜将軍、豫州刺史とした。魯陽におく。陽人で董卓と戦った。『後漢書』献帝紀はいう。初平2年(191)2月、袁術は孫堅を、胡軫と戦わせた。
『資治通鑑』はいう。袁紹は、会稽の周昂を豫州刺史として、孫堅の陽城を攻めた。ぼくは補う。この周昂は、周喁の誤りである。以下、盧弼が注釈してくれる。
銭大昕はいう。公孫瓚伝にひく『典略』は、周昂とする。孫堅伝にひく『呉録』と『会稽典録』は、会稽の周喁とする。周昂でない。周昂は周喁の兄であり、九江太守となり、袁術に破られた。ほかに孫賁伝、『呉録』、『典録』も同じだ。「魏志」公孫瓚伝は、『典略』に引きずられて誤った。いま孫堅を攻めたのは、「呉志」のいう周喁であろう。
ぼくは補う。くり返す。いま陽城を攻めたのは、周喁だ。
『後漢書』公孫瓚伝は、また違って、周昕とする。周昕は、丹楊太守だ。「呉志」孫静伝とその注釈にある。陽城を奪ったのは、周喁であり、周昕でない。范曄が誤った。
趙一清はいう。「魏志」公孫瓚伝は、周昂とし、『後漢書』公孫瓚伝は周昕とする。「呉志」孫静伝はいう。周昕は、孫策に殺された。孫堅伝にひく『呉録』はいう。袁紹は、会稽の周喁を豫州刺史として、豫州を奪おうとした。周喁は、周昕の弟だ。また孫堅伝にひく『会稽典録』はいう。周喁と孫堅は、豫州を争い、しばしば周喁は勝てない。たまたま次兄の九江太守・周昂は、袁術に攻められた。(袁紹の豫州刺史)周喁は、(九江太守)周昂に援軍をだした。周昂は敗れて郷里に帰り、許貢に殺された。つまり周昂は袁術から攻められたのであり、孫堅と豫州を争ったのでない。周昂、周喁、周昕の3兄弟は、みな孫氏に敵対した。ゆえに史書が混乱したのだ。ぴー。


術遣越與堅攻昂,不勝,越為流矢所中死。瓚怒曰:「余弟死,禍起於紹。」遂出軍屯磐河,將以報紹。紹懼,以所佩勃海太守印綬授瓚從弟范,遣之郡,欲以結援。範遂以勃海兵助瓚,破青、徐黃巾,兵益盛;進軍界橋。

袁術が命じ、公孫越と孫堅は、周昂を攻めた。

公孫越が、袁術の指揮に入っている。どういうことか。いま公孫越は、劉虞が劉和のために送った兵を手に入れ、袁術とともに董卓と戦った。公孫瓚は、袁術と協同することで、「董卓を倒した」という手柄を欲したのか。中央志向だから。
袁紹から見たら、これはどういう事態か。袁紹の気持ちを推測。「せっかく劉和が、袁術の軍事力を利用して、献帝を救出するはずだった。劉虞-劉和が手柄をとり、彼らを押し上げた私(袁紹)の存在感が増すはずだった。だが公孫越が、チャンスを横取りした。公孫越のジャマをしなければならない。ついでに、キライな袁術も攻撃してしまえ。劉和に協力する袁術を攻める理由はないが、公孫越に協力する袁術ならば、攻めてもいい」と。
劉虞が沈黙していて、意思が、よく分からないが。袁紹と劉虞は、けっきょく戦闘しない。劉虞は、汚れ役を袁紹にやらせながら、袁紹の思惑に賛成していたのでは。つまり、劉和が献帝を救出できたら嬉しいが、公孫越が献帝を救出するのは、ちょっと待てと。公孫越に手柄を取らせたら、ますます軍人の抑えが利かなくなるから、それは避けたいと。
もともと、
袁術と孫堅は、河北から見たら、どんな位置づけか。「洛陽を攻めるとき、現地で味方してくれる、都合のいい軍事力だ。袁術は董卓への敵意を持っているが、劉虞と公孫瓚、どちらに肩入れするわけでもない。早く味方にした者が勝ち」ってところ。けっきょく公孫瓚が、袁術と孫堅を、自分のために利用することができた。袁術は、献帝のために戦っているだけであるが、河北の連中が、袁術の軍事行動に、勝手な色づけをする。
以上から連想すると。袁術と袁紹の開戦は、公孫越と劉和が着火したことになる。さかのぼれば、公孫瓚と劉虞の対立である。袁紹と袁術は、個人的には仲が悪かっただろう。だが戦争を起こすまでになったのは、公孫瓚と劉虞の責任である。
すみません。やたら長いだけで、話がまとまってません。

公孫越は、流矢にあたって死んだ。公孫瓚は、公孫越の死は、袁紹が起こした禍いだ」と怒った。公孫瓚は、磐河にすすみ、袁紹に報復したい。

恵棟はいう。謝承『後漢書』で公孫瓚は、劉虞のせいだと言う。「魏志」で公孫瓚は、袁紹のせいだと言った。陳寿と謝承はちがう。
ぼくは思う。劉虞は、肩書きがないけれど、真のリーダー。袁紹は、劉虞に手柄を与えるために、コマゴマと動く実務上のリーダー。つまり劉虞と袁紹は、連なっている。公孫瓚の怒りが、劉虞に向かおうが、袁紹に向かおうが、けっきょくは同じことである。ただ直接に攻撃した相手は、袁紹でした、というだけで。
『後漢書』公孫瓚伝の章懐注は、磐河に詳しい。はぶく。

袁紹は、渤海太守の印綬を、公孫瓚の從弟・公孫範にわたす。袁紹は、公孫瓚と結びたい。公孫範は、渤海の兵をつれ、公孫瓚を助ける。公孫範は、青州と徐州の黄巾をやぶり、界橋に進む。

ぼくは思う。袁紹は、渤海を差し出したものの、公孫瓚と和解することができなかった。このときまで袁紹の動きは、けっこうブザマである。
袁紹は董卓を恐れて、劉虞のフトコロに飛びこむ。劉虞をリーダーに立て、董卓と対決するつもりが、劉虞が肩書きを賛成してくれない。袁紹は実務上の盟主となるが、求心力がない。袁紹が董卓を攻撃できないうちに、劉和が袁術を頼る。
袁紹がいただく劉虞は、劉和のために援軍を送る(援軍の件で、袁紹が劉虞から相談を受けたことは、確認できない)が、援軍を公孫越に奪われてしまう。劉虞に手柄を取らせたい袁紹は、公孫越と袁術を妨害する。やりすぎて公孫越を殺してしまい、公孫瓚の想定以上の怒りを買う。袁紹は、渤海太守の印綬を投げ出す。しかし太守の印綬でも怒りは収まらず、公孫氏は強くなるばかり。劉虞の勢力は、公孫瓚に圧迫されっぱなし。
ぼくは思う。劉虞が史料で沈黙するのは、劉虞の「自分勝手な行動」を、すべて袁紹のせいにしたいからではないか。劉虞は、皇帝即位こそ断ったが、河北でダラダラして、献帝を助けない。周喁を豫州刺史に任命したのは、袁紹みたいに描かれるが、袁紹は渤海太守である。なんでバックに幽州牧の劉虞がいるのに、劉虞の承認を得ずに、刺史任命をやるか。周喁を豫州に送り込んだのは、消極的にでも、劉虞の判断だ。
袁紹は、韓馥から冀州をうばうまで、うだつの上がらない実務リーダーだ。渤海太守の地位を根拠として、「割拠」しているのでないから、さっさと印綬を手放す。袁紹が公孫瓚を怒らせたせいで、劉虞がもつ渤海が、公孫瓚に侵食された。それくらいの表現になるか。


次回、袁紹と公孫瓚が戦います。公孫瓚の最盛期。110319