表紙 > ~後漢 > 曹操と対比して単純化せず、袁紹の河北平定と皇帝政策を読む

03) 韓馥から冀州を攻めとる

『三国志集解』で袁紹伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。

河北の別皇統を立てるため、冀州を得る

紹遂以勃海起兵,將以誅卓。語在武紀。紹自號車騎將軍,主盟,與冀州牧韓馥立幽州牧劉虞為帝,遣使奉章詣虞,虞不敢受。後馥軍安平,為公孫瓚所敗。瓚遂引兵入冀州,以討卓為名,內欲襲馥。馥懷不自安。

袁紹は、渤海で起兵した。董卓を殺したい。武帝紀にくわしい。袁紹は、車騎将軍を自称し、同盟をつかさどる。冀州牧の韓馥とともに、幽州牧の劉虞を皇帝に立てたい。劉虞は受けない。

『資治通鑑』はいう。袁紹は車騎将軍を自称し、諸将に官号をさずけた。胡三省はいう。董卓が献帝をにぎるから、官位の任命を受けられない。だから袁紹は、独自に官位を発行したのだ。武帝紀はこちら。
『三国志』武帝紀 05) 虎牢関の東が、起兵する
何焯はいう。袁紹は董卓を呼ぶミスを犯したが、この挙兵は、更なるミスである。

韓馥は安平国にゆき、公孫瓚に敗れた。公孫瓚は、冀州に入り、董卓を討って名をあげたい。韓馥は、公孫瓚をおそれた。

公孫瓚の中央志向は、こちらでやりました。
劉虞と袁紹と袁術を知るために、公孫瓚伝 03


英雄記曰:逢紀說紹曰:「將軍舉大事而仰人資給,不據一州,無以自全。」紹答雲:「冀州兵強,吾士饑乏,設不能辦,無所容立。」紀曰:「可與公孫瓚相聞,導使來南,擊取冀州。公孫必至而馥懼矣,因使說利害,為陳禍福,馥必遜讓。於此之際,可據其位。」紹從其言而瓚果來。

『英雄記』はいう。逢紀は、袁紹に説いた。「袁紹は、一州ももたず、兵糧がない。公孫瓚をさそい、冀州を攻めよう。劉虞は、袁紹に冀州をゆずる」と。果たして公孫瓚は、冀州を攻めにきた。

『後漢書』袁紹伝も、逢紀が同じ趣旨を、すこし違うセリフで説く。「韓馥は庸才だ」とも言う。そとでは董卓を攻める名目をつかい、内では韓馥を襲う。
ぼくは思う。袁紹は、董卓を討伐する気がない。董卓-献帝のラインから独立して、袁紹-劉虞という新しい皇統を立てるつもりである。すぐに董卓を討つ必要がない。それよりも、新しい皇統を支える地盤がほしい。この点、袁術はちがって、董卓の攻撃に熱心である。献帝を支えることを「忠」というなら、袁紹よりも袁術は、はるかに「忠」である。


會卓西入關,紹還軍延津,因馥惶遽,使陳留高幹、潁川荀諶等說馥曰:「公孫瓚乘勝來向南,而諸郡應之,袁車騎引軍東向,此其意不可知,竊為將軍危之。」馥曰:「為之奈何?」諶曰:「公孫提燕、代之卒,其鋒不可當。袁氏一時之傑,必不為將軍下。夫冀州,天下之重資也,若兩雄並力,兵交於城下,危亡可立而待也。夫袁氏,將軍之舊,且同盟也,當今為將軍計,莫若舉冀州以讓袁氏。袁氏得冀州,則瓚不能與之爭,必厚德將軍。冀州入於親交,是將軍有讓賢之名,而身安於泰山也。原將軍勿疑!」馥素恇怯,因然其計。

董卓が、関中に入る。袁紹は、延津にもどる。韓馥は、袁紹をおそれた。袁紹は、陳留の高幹、潁川の荀諶に命じ、韓馥を説得させた。

延津は、武帝紀の建安5年にある。官渡のときですね。
『後漢書』袁紹伝はいう。袁紹は外甥の陳留の高幹と、潁川の荀諶に命じたと。『資治通鑑』だと、韓馥に親しまれる潁川の辛評、郭図が加わる。
謝承『後漢書』はいう。高幹は、あざなを元才という。父の高[身弓]は、蜀郡太守である。祖父の高賜は、司隷校尉である。ぼくは思う。高幹は、高官の家柄だったのか!
『後漢書』臧洪伝はいう。むかし張景明(張導)は、壇にのぼり、血をすすり、韓馥に印章をゆずらせた。章懐注は、『英雄記』をひく。袁紹は、張導、郭図、高幹をゆかせ、韓馥に冀州をゆずらせた。
ぼくは思う。韓馥は潁川の人で、韓馥を説得したのも、潁川の人だ。つまり袁紹の冀州は、「潁川の士大夫の手で、霊帝系とは、別の皇統を立てよう」という約束のもと、手に入れたものである。豫州の人と、現地の冀州の人が、対立するのは必然だったわけで。失敗の原因は、つねに最初から内包されているもの、、

高幹たちは言った。「公孫瓚は、勝ちに乗って、北方の兵をつれて南下する。袁紹は、傑物だ。袁氏にゆずれば、韓馥の手柄にもなる」と。

『後漢書』袁紹伝も、荀諶による説得をのせる。韓馥に、「袁紹と比べて、韓馥の器量はどうですか」と迫り、3回も「袁紹にかなわない」と言わせる。サディスティックである。
ぼくは思う。「袁氏は一時の傑」というのが、殺し文句。ぎゃくに言えば。袁紹は、潁川の士大夫から、「あなたが一時の傑でなければ、冀州を保たせませんよ」と、匕首を突きつけられているに等しい。「一時の傑だから、冀州をとらせてあげるのだ」と。

韓馥は、高幹、荀諶の説得をみとめた。

馥長史耿武、別駕閔純、治中李曆諫馥曰:「冀州雖鄙,帶甲百萬,谷支十年。袁紹孤客窮軍,仰我鼻息,譬如嬰兒在股掌之上,絕其哺乳,立可餓殺。奈何乃欲以州與之?」馥曰:「吾,袁氏故吏,且才不如本初,度德而讓,古人所貴,諸君獨何病焉!」從事趙浮、程奐請以兵拒之,馥又不聽。乃讓紹,

韓馥の長史の耿武、別駕の閔純、治中の李曆は、韓馥を諌めた。韓馥は、「私は袁氏の故吏で、袁紹に敵わない」と言った。從事の趙浮、程奐は、兵をくれと言った。韓馥は、袁紹との戦いをゆるさない。

章懐注は『英雄記』をひく。耿武は、あざなを文威という。閔純は、あざなを伯典という。のちに袁紹がくると、韓馥の従事10人は、韓馥を捨てて去った。しかし、耿武と閔純だけは、袁紹に対抗した。袁紹に敗れた。のちに袁紹は田豊に命じ、耿武と閔純を殺した。
銭大昕はいう。『後漢書』袁紹伝も、『英雄記』と同じ記事を載せる。ただし韓馥を諌めた人に、騎都尉の沮授がくわわり、李歴がない。王補はいう。「魏志」では、沮授がおらず、李歴がいる。『資治通鑑』は「魏志」にしたがう。沮授の意思は、袁紹への味方であり、韓馥を諌めない。「魏志」が正しく、『後漢書』と『英雄記』が誤りである。
袁宏『後漢紀』は、4人が韓馥を諌め、沮授も李歴も韓馥をいさめる。ぼくは思う。『後漢紀』は、折衷的?


九州春秋曰:馥遣都督從事趙浮、程奐將強弩萬張屯河陽。浮等聞馥欲以冀州與紹,自孟津馳東下。時紹尚在朝歌清水口,浮等從後來,船數百艘,眾萬餘人,整兵鼓夜過紹營,紹甚惡之。浮等到,謂馥曰:「袁本初軍無鬥糧,各己離散,雖有張楊、於扶羅新附,未肯為用,不足敵也。小從事等請自以見兵拒之,旬日之間,必土崩瓦解;明將軍但當開閤高枕,何憂何懼!」馥不從,乃避位,出居趙忠故舍。遣子齎冀州印綬於黎陽與紹。

『九州春秋』はいう。韓馥の都督從事は、趙浮、程奐である。1万をひきい、河陽にいる。韓馥が袁紹に冀州をゆずると聞き、孟津から東へくだる。ときに袁紹は、朝歌の清水口にいる。

胡三省はいう。河内の修武県である。袁紹と趙浮は、どちらも舟で黄河をわたり、鄴にむかった。清水口の南岸は、延津である。ぼくは思う。袁紹の冀州獲得は、けっきょく戦闘が発生した。地図で確かめたい。袁紹は、黄河をくだって、冀州にのりこんだ。

趙浮は韓馥にいう。「袁紹は、食糧がない。あらたに張楊と於夫羅を味方にしたが、袁紹は弱い。袁紹に冀州をゆずるな」と。だが韓馥は、黎陽にて、袁紹に冀州牧の印綬をゆずった。

沮授が戦略をえがき、献帝を助けよという

紹遂領冀州牧。従事沮授說紹曰:「將軍弱冠登朝,則播名海內;值廢立之際,則忠義奮發;單騎出奔,則董卓懷怖;濟河而北,則勃海稽首。振一郡之卒,撮冀州之眾,威震河朔,名重天下。雖黃巾猾亂,黑山跋扈,舉軍東向,則青州可定;還討黑山,則張燕可滅;回眾北首,則公孫必喪;震脅戎狄,則匈奴必從。橫大河之北,合四州之地,收英雄之才,擁百萬之眾,迎大駕於西京,複宗廟於洛邑,號令天下,以討未複,以此爭鋒,誰能敵之?比及數年,此功不難。」紹喜曰:「此吾心也。」即表授為監軍、奮威將軍。

ついに袁紹は、冀州牧となる。従事の沮授は袁紹にいう。

『後漢書』袁紹伝はいう。袁紹は沮授を、別駕とした。沮授は、春秋戦国の事例をひいて、袁紹に漢室をたすけろと言った。

「黄巾、黒山がいる。東へ青州を平定せよ。すると、黒山と張燕を討てる。北へ公孫瓚を滅ぼし、匈奴を従える。黄河の北4州をおさめ、長安の献帝をむかえよ。洛陽の宗廟を補修せよ」と。袁紹は言った。「沮授の戦略は、私の思いと同じだ」と。

袁宏『後漢紀』はいう。沮授のセリフは「劉虞をほろぼせ」だ。いま沮授は、袁紹に河北4州を得させたい。初平二年(191)の段階で、幽州の南は、劉虞に属す。公孫瓚に属さない。袁宏が、劉虞と記すのは、意味が通じる。しかし劉虞は、戦闘を喜ばない。袁紹が、わざわざ敵意をもつ相手ではない。陳寿も、的外れでない。
ぼくは思う。沮授の戦略では、献帝と、漢室の宗廟が、助ける対象である。宗廟の補修なら、ちょうどおなじ時期、袁術が孫堅をつかって実現した。袁紹は、「河北4州を得てから、献帝と宗廟を助けよう」なんて悠長な戦略をねっているが、袁術はもっと性急である。性急に董卓と戦い、いちおう成功した。
盧弼はいう。袁紹は沮授の言うとおりにすればよかったが。私欲に走って、失敗した。惜しむべきである。ぼくは思う。袁紹が、皇帝になろうとしたことを言うのか。

袁紹は沮授を、監軍、奮威将軍とした。

『後漢書』はいう。袁紹は上表し、沮授を奮武将軍ととし、諸将を監護させた。『資治通鑑』も、『後漢書』にしたがう。潘眉はいう。前漢には、千秋が奮武将軍となった。後漢末、曹操は行奮武将軍となった。奮威、奮武、どちらがほんとうか、わからない。趙一清はいう。『後漢書』袁紹伝は、奮武将軍がただしいとする。ときに韓馥を、奮武将軍とした。沮授と重複する。
周寿昌はいう。『後漢書』袁紹伝はいう。韓馥を奮威将軍としたが、兵をひきいる権限がなかったと。沮授は、韓馥とおなじ奮武将軍なのに、諸将を監護した。袁紹は、韓馥と沮授を、おなじ待遇としたのではない。韓馥を去らせ、沮授を迎えたのか。
盧弼は考える。呂布は、奮威将軍となる。『宋書』百官志では、呂布は奮武将軍になったとされる。雑号将軍なので、定員がなく、奮威と奮武の区別も、ゴチャゴチャである。


獻帝紀曰:沮授,廣平人,少有大志,多權略。仕州別駕,舉茂才,曆二縣令,又為韓馥別駕,表拜騎都尉。袁紹得冀州,又辟焉。英雄記曰:是時年號初平,紹字本初,自以為年與字合,必能克平禍亂。

『献帝紀』はいう。沮授は、広平の人。州の別駕となり、茂才となる。韓馥の別駕となり、騎都尉となる。袁紹が冀州を得ると、沮授を辟した。
『英雄記』はいう。年号が初平だから、袁紹は乱世を勝ち抜けると考えた。

後漢の後半、本初という年号があった。だから、袁紹の生年はこのあたりだ、という話がある。ホントウかなあ。本初が平らげる、といのは、どこまで本気になるものだか。


王匡が、董卓の使者・胡母斑を殺す

卓遣執金吾胡母班、將作大匠吳脩齎詔書喻紹,紹使河內太守王匡殺之。

董卓は、執金吾の胡母班、將作大匠の吳脩に詔書をもたせ、袁紹をなだめた。袁紹は、河內太守の王匡に、胡母斑と呉脩を殺させた。

趙一清はいう。『後漢書』袁紹伝はいう。董卓は、大鴻臚の韓融、少府の陰循、執金吾の胡母斑と、将作大匠の呉循、越騎校尉の王カイをつかわし、袁紹をなだめた。袁紹は王匡に命じ、胡母斑、王カイ、呉循らを殺させた。袁術は、陰脩をとらえて殺した。韓融だけは、名徳があるから、死なずにすむ。
『海内先賢伝』はいう。韓融は、あざなは元長、潁川の人。『楚国先賢伝』はいう。陰循は、あざなは元基、南陽新野の人。著一斉はいう。「循」「脩」は、古代は字形が似た。陰循、陰脩は、混乱したのだろう。
銭大昕はいう。『後漢書』献帝紀は、循とするが、ほかは脩とする。「魏志」は、呉脩とする。脩が正しい。『資治通鑑』も呉脩とする。
王匡のことは、武帝紀の初平元年の注釈にある。泰山の弩将・王匡でしたね。
『三国志』武帝紀を読んで、原点回帰する 05
沈家本はいう。『後漢書』献帝紀はいう。袁術と王匡は、胡母斑らを殺した。この記事は、初平元年(190)6月にある。しかし、袁紹が冀州を得たのは、初平二年(191)7月である。胡母斑はこの袁紹伝で、袁紹が冀州を得たあとに、殺されたことになる。『後漢書』と異なる。
ぼくは思う。胡母斑たちが死ぬのは、初平元年(190)6月でいいだろう。まだ袁紹が冀州にくだる前。袁紹と袁術が、べつのルートから、虎牢関をうかがった時期だろう。董卓の使者を殺すという「連携」を、袁紹と袁術がやっているのだから。


漢末名士錄曰:班字季皮,太山人,少與山陽度尚、東平張邈等八人並輕財赴義,振濟人士,世謂之八廚。」

『漢末名士録』はいう。胡母斑は、泰山の人。山陽の度尚、東平の張邈らとともに、八廚と呼ばれた。

沈家本はいう。『漢末名士録』は、『隋書』『唐書』の目録にない。劉表伝、荀攸伝の裴注に出てくる。タイトルどおり、漢末の人物について記したものだ。
『後漢書』党錮伝は、八廚の名をあげる。「廚」とは、財産をかたむけて、他人をすくうこと。方詩銘は、魯粛が周瑜に倉をプレゼントした話を、おなじ系統のエピソードだとした。漫画『アレ国志』で、チョウバクさんが、「ハッチュー」という蹴技?をつかってた。


謝承後漢書曰:班,王匡之妹夫,董卓使班奉詔到河內,解釋義兵。匡受袁紹旨。收班系獄,欲殺之以徇軍。班與匡書雲:「自古以來,未有下土諸侯舉兵向京師者。劉向傳曰'擲鼠忌器',器猶忌之,況卓今處宮闕之內,以天子為籓屏,幼主在宮,如何可討?僕與太傅馬公、太僕趙岐、少府陰脩俱受詔命。關東諸郡,雖實嫉卓,猶以銜奉王命,不敢玷辱。而足下獨囚僕於獄,欲以釁鼓,此悖暴無道之甚者也。僕與董卓有何親戚,義豈同惡?而足下張虎狼之口,吐長之毒,恚卓遷怒,何甚酷哉!死,人之所難,然恥為狂夫所害。若亡者有靈,當訴足下於皇天。夫婚姻者禍福之機,今日著矣。曩為一體,今為血仇。亡人子二人,則君之甥,身沒之後,慎勿令臨僕屍骸也。」匡得書,抱班二子而泣。班遂死於獄。班嘗見太山府君及河伯,事在搜神記,語多不載。

謝承『後漢書』はいう。胡母斑は、王匡の妹の夫だ。王匡は、袁紹に命じられ、胡母斑を下獄した。胡母斑は言った。「私は、太傅の馬日磾、太僕の趙岐、少府の陰脩とともに、関東をなだめている。董卓はともかく、献帝にしたがえ」と。

侯康はいう。『通鑑考異』はいう。『後漢書』で、初平元年(190)6月、韓融らは関東をしずめるため、関東にゆく。袁術と王匡が、関東にきた使者を殺す。初平三年(192)8月、馬日磾と趙岐は、天下を慰撫した。袁宏は、馬日磾と趙岐は、初平三年8月に行ったとする。董卓の死後である。趙岐が太僕となるのは、何年かわからない。しかし初平元年(190)、太僕は王允や袁基である。初平二年、太僕は魯旭である。趙岐は、魯旭のつぎに太僕となる。董卓の死後である。いま胡母斑が、「馬日磾や趙岐とともに関東をめぐり」と言ったのは、誤りである。
ぼくは補う。関西から関東への使者は、2回あった。董卓が190年6月に出した、胡母斑。これは失敗し、袁紹や袁術に殺された。董卓の死後、193年8月に、李傕が出した馬日磾と趙岐。これは成功した。趙岐は袁紹と公孫瓚を停戦させた。袁術は、馬日磾をつかまえて、味方にしようとした。

王匡は、胡母斑の2子を抱いて泣いた。王匡は、胡母斑はを殺した。

「魏志」袁紹伝に従って書きましたが。胡母斑を殺す記事は、ここにあったらおかしいのだ。董卓と対峙した直後に置くべきである。冀州を得る前の出来事である。袁紹も王匡も、名声と侠気だけを売りにして、上下関係のない友人だった時代のお話。袁紹と王匡が、元何進の同僚として、あまり優劣なく付き合っていた時代の話。


次回、袁隗らが殺され、袁紹は公孫瓚と戦います。110407