05) 虎牢関の東が、起兵する
言わずと知れた、『三国志』巻1、武帝紀。
原点回帰とレベルアップをはかります。『三国志集解』に頼ります。
今回は、董卓に起兵した人たちの紹介でおわりです。笑
筆頭の袁術、袁紹を制止できる韓馥
初平元年春正月,後將軍袁術、冀州牧韓馥、
初平元年春正月、後将軍の袁術と、
ぼくは補う。董卓は、前将軍だっけ? 袁術と董卓は、おなじ位のたかさ。一時的に。
冀州牧の韓馥が起兵した。
『英雄記』はいう。
ぼくは思う。『英雄記』は、同時代史料だ。だいたい、信じていいのでは?
韓馥は、潁川の人。禦史中丞となる。董卓は韓馥を、冀州牧とする。
「蜀志」許靖伝はいう。董卓は、尚書の韓馥を、冀州牧にした。侍中の劉岱を、兗州刺史とした。潁川の張咨を、南陽太守とした。陳留の孔伷を、豫州刺史とした。東郡の張邈を、陳留太守にした。ぼくは思う。なぜこれが、許靖伝に載るのか。必然性がないよなあ。
冀州殷盛で、兵糧がたっぷり。袁紹は、渤海(郡治は南皮)にいた。韓馥は、袁紹の起兵をおそれた。
東郡太守の橋瑁は、いつわりに三公の文書をつくり、州郡にまわした。韓馥は文書をもらい、從事らに問うた。「董卓と袁紹、どちらを助けるべきか」と。
『英雄記』はつづく。治中從事の劉子惠は言った。「国のために兵を起こす。袁紹か董卓かと、そういう疑問が出てくるじたい、おかしい」と。韓馥は言い返せず、はじた。劉子恵は言った。「冀州は、いちばん強い州だ」と。
『後漢書』袁紹伝の章懐注は、『英雄記』をひく。その文をひいてくる。
英雄記曰:「劉子惠,中山人。兗州刺史劉岱與其書,道『卓無道,天下所共攻,死在旦暮,不足為憂。但卓死之後,當復回師討文節。擁強兵,何凶逆,寧可得置』。封書與馥,馥得此大懼,歸咎子惠,欲斬之。別駕從事耿武等排閤伏子惠上,願并見斬,得不死,作徒,被赭衣,埽除宮門外。」と。
劉子恵は、袁紹につうじて、董卓のつぎに、韓馥をつぶすつもりだ。別駕従事の耿武らが、劉子恵をたすけた。ぼくは思う。裴注よりもくわしい『英雄記』が、章懐注におちているのですね。『三国志集解』さまさま。
韓馥は劉子恵をみとめ、袁紹に手紙した。「袁紹が、董卓を討つために、兵をあげろ。これをゆるす」と。
盧弼はいう。韓馥は、董卓のおかげで冀州牧となった。袁紹の渤海は、冀州に属す。ゆえに韓馥は、袁紹を制止することができた。韓馥の内には、三公からの文書(橋瑁の偽作)がある。韓馥の外には、州郡の蜂起がある。内外の情況をうけて、はじめて袁紹の挙兵を許したなら、韓馥は逢紀が言ったとおり、庸才である。
ぼくは思う。韓馥と袁紹の関係は、つきつめて考えたいところ。なぜ、韓馥の決断の時期が、史料によって一致しないかも、気になるところ。
弁舌をあきさせない孔伷
豫州刺史孔伷、
豫州刺史の孔伷が起兵した
賈逵伝によると。曹丕が出征した。賈逵は、曹丕にしたがい、譙県にきた。ここで賈逵は、豫州刺史となった。魏代の州治が譙県となったのは、これがはじめてだ。曹叡が即位すると、豫州の軍は項県にいて、州治とした。安成が州治となったのは、正始や嘉平のころだ。ぼくは思う。よくわかりました!
『英雄記』はいう。孔融は、陳留の人だ。張璠『漢紀』はいう。鄭泰は董卓に、「孔伷は、枯木に花をさかせる」と吹きこんだ。
ぼくは思う。孔伷も、いわゆる党人で、儒教を修めたのだろうね。ろくでもない、、李賢によれば、枯木に生命を吹き込むとは、抑揚をつけて談論することをいう。
劉繇の兄で、黄巾に殺される劉岱
兗州刺史劉岱、
岱,劉繇之兄,事見吳志。
兗州刺史の劉岱が起兵した。
裴注はいう。劉岱は、劉繇の兄だ。「呉志」にある。
何進がめした、泰山の弩将・王匡
河內太守王匡、
河内(郡治は解県)太守の王匡が、起兵した。
『英雄記』はいう。王匡は泰山(郡治は奉高)の人だ。財を軽んじて、施した。任侠をもって聞こえた。何進にめされた。徐州の強弩500をつれて、洛陽にむかう。
方詩銘氏の「世族、豪傑、遊侠 ― 袁紹的一個側面」を翻訳する
『後漢書』か神殿はいう。何進は、泰山の王匡と、東郡太守の橋瑁をめした。盧弼は考える。王匡がひきいたのは、泰山の兵だ。泰山は、徐州でなく兗州だ。裴松之がひいた『英雄記』は、誤りだ。
ぼくは思う。泰山は、徐州にくいこんでいる。べつに、徐州の兵を連れてくることは、不可能でない。「同郷の人でないと、兵がついてこない」なら、盧弼の言うとおり、兗州とすべきだが。そこまで厳密なもの?
何進がやぶれ、王匡は州里にひき返した。
起家して、河内太守となった。
謝承『後漢書』はいう。
王匡は、蔡邕と仲がよい。董卓に敗れて、王匡は泰山にかえった。強兵をあつめ、張邈とあわさる。王匡は、執金吾の胡母斑を殺した。胡母斑の親族は、王匡に怒った。
胡母斑は、「魏志」袁紹伝の注釈にある。ぼくは補う。方詩銘氏は、言った。曹操は、不安定な兗州を治めるために、王匡と、胡母斑の遺族の対立に漬けこんだと。この解釈で、あっているのだろうか。抄訳した。
方詩銘氏の曹操論「曹操は兗州に拠る」等を翻訳する
胡母斑の遺族は、曹操とあわさり、王匡を殺した。
盧弼は考える。『後漢書』袁紹伝はいう。袁紹と王匡は、河内にいた。『三国志』は、べつのところで記す。王匡は本境(任地=河内)にいた。ゆえに必ずしも、王匡の屯所を書く必要がなかった。
たとえば、「魏志」董卓伝はいう。河内太守の王匡は、泰山の兵をのこし、河陽の津にいた。董卓の命をねらったと。「魏志」常林伝はいう。王匡は、諸生を属県にのこして、吏民をとりしまったと。これは、みずから死ぬ道を選ぶやりかただ。謝承『後漢書』は、常林伝の結末だけを記したのだ。王匡は、曹操に属したのでない。曹操に属したから、名を省かれた鮑信とはちがう。
沈家本はいう。鮑信は、ときに済北相となった。太守というランクで、鮑信と王匡は同じだ。官位の軽重を、はぶく基準とするのは、おかしい。鮑信は、兗州刺史の劉岱に属した。済北は、兗州に属すからだ。鮑信が曹操をたすけたのは、曹操が兗州牧になってからだ。この起兵のタイミングでない。
ぼくは思う。王匡について、考察できるとしたら、きっとこれで全部だろう。楽しかった。
袁紹、張邈、劉岱に殺される橋瑁
勃海太守袁紹、陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、
英雄記曰:瑁字元偉,玄族子。先為兗州刺史,甚有威惠。
渤海太守の袁紹、陳留太守の張邈、東郡太守の橋瑁は、起兵した。
ぼくは思う。何進は、王匡や橋瑁などの軍事力を、後漢に編入した。もともと、後漢とはべつに育った軍事力を、霊帝のしたに編入した。霊帝-霊帝の宦官-宦官の子弟がつとめる三公や地方官、というラインでは、王匡や橋瑁をとりこめない。その点、お肉屋さんの何進ならば、わりにニュートラルに、新興の軍事力を取りこめたのかも知れない。
もちろん、何進が取りこんだ最大の、はみだし勢力は、袁紹だ。
『英雄記』はいう。橋瑁は、橋玄の族子だ。さきに兗州刺史となった。
ぼくは思う。東郡は、兗州に属する。兗州刺史から、東郡太守に移ることは、昇格?降格?よくあることなのか?どこかで、聞いたような、、
袁紹の従兄で、袁術にやぶれる袁遺
山陽太守袁遺、
山陽太守の袁遺は起兵した。
裴注はいう。袁遺は、袁紹の從兄だ。長安令となった。
『後漢書』袁紹伝にひく『英雄記』は、袁遺を袁紹の従弟とする。
河間の張超は、かつて袁遺を、太尉の朱儁にすすめた。張超の著作は、『張超集』にある。
英雄記はいう。のちに袁紹は、袁遺を揚州刺史とした。袁遺は、袁術にやぶれた。
銭大昕は、劉昭の注釈にいう。漢代、刺史の治所は、『郡国志』と同じでない。後漢末、じっさい揚州の州治は、寿春だった。初平4年、袁術は刺史の陳温を殺して、寿春に拠った。淮南は、寿春である。『郡国志』が記すのは、順帝の永和のとき以前だ。応邵『漢官』は、献帝の時代に書かれた。ゆえに、順帝の時代と同じでない。劉繇は揚州刺史となり、州治を曲阿に移した。群雄が、揚州のそれぞれを拠点に、ならんだ。
曹操は言った。大人になっても勉強するのは、袁遺だけだ。文帝紀にある。
ぼくは思う。袁遺は、曹操のお友達。袁術は、袁遺の従弟だけど、袁遺を揚州から追い出した。曹操と袁術は、まったく仲がわるい。当人同士が、仲がわるいだけじゃなく、袁遺を媒介にしても、キッパリと敵である。
曹操をたすけた鮑信
濟北相鮑信同時俱起兵,眾各數萬,推紹為盟主。太祖行奮武將軍。
信事見子勳傳。
濟北(国治は盧県)相の鮑信が、起兵した。袁紹を盟主とした。曹操は、行奮武將軍となる。
裴注はいう。鮑信は、子の鮑勛伝にある。
次回、初平元年2月です。今回、紹介された関東の地方官たちが、董卓の并州&涼州軍団と、総力戦をするのですね。っていうぐらいの見せ場がないと、紹介に「紙幅」を割きまくったことが、ペイしないなあ。笑 110219