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方詩銘氏の曹操論を翻訳 (1)

方詩銘氏の曹操論「曹操は兗州に拠る」等(『論三国人物』)を翻訳。
長いですが、もとが面白いので、読んでいただけると思います。
翻訳が下手で、読むに堪えなかったら、申しわけありません。

「遊侠」の士・曹操と記される

曹操の父は、曹嵩だ。曹嵩は、大宦官・曹騰の養子だ。武帝紀は、血筋が明らかでないする。曹嵩は、来歴が不明だ。建安七子の1人・陳琳は、袁紹のために檄文をつくり、曹騰を「こじき」と言った。曹操を「ゼイエンのイシュウ」と言った。これは、曹操の出身が、大宦官の家だと強調したものだ。なぜ宦官の家の曹操は、宦官に対立する人に重視され、信任されたか。なぜ曹操は、袁紹が宦官と闘争するとき、ブレーンとなったか。カギはここにある。曹操は、袁紹と、親密な朋友である。
袁紹伝はいう。わかくから袁紹は、曹操と交際したと。これは、袁紹の「士人にへりくだる」性格をあらわす。早くから洛陽で、曹操と袁紹は友誼をむすぶ。
曹操の父・曹嵩は、どんな人物か。武帝紀にひく『続漢書』はいう。かつて司隷校尉となる。霊帝は大司農に抜擢した。大鴻臚となる。崔烈に代わり、太尉となると。袁紹の父・袁逢は、三公である。袁紹も曹操も、大官僚の家に生まれた貴公子だ。

さらに重要なのは、曹操も袁紹も、遊侠だったことだ。武帝紀はいう。曹操は、任侠で放蕩したと。袁紹伝にひく『英雄記』も、袁紹の遊侠をいう。張邈、何顒、呉子卿、許攸、伍徳瑜らが、奔走の友となった。性格がおなじことが、曹操と袁紹の友誼のベースである。
『世説新語』仮譎篇は、有名な2つのエピソードである。花嫁ドロボウと、袁紹による曹操危機イッパツだ。

2つのエピソードの真実性は、疑わしい。『世説新語』に注釈した劉孝標は、早くも真実性を疑った。ただ2つのエピソードは、曹操と袁紹の関係を思わせる。当時の遊侠は、放蕩な一面がある。あわせて2つのエピソードは、曹操がもつ機警と権数を反映している。
いわゆる「放蕩」とは、遊侠の表現の1つだ。ただ後漢末において、「放蕩」は重要でない。遊侠について、同時代の傑出した政論家・荀悦は、『前漢紀』で記述した(引用は省略)。荀悦は、前漢の武帝の時代を書いたようだが、後漢末の遊侠をあらわす。遊侠とは、曹操や袁紹のような人だ。当時の遊侠とは、「時難をすくい、同類をすくう」ことを、最高の行動ルールとした。「時難」とは、後漢末に朝廷が傾いたことを指す。宦官が朝廷をおさえた。「同類」とは、宦官に反対する人たちである。遊侠は、宦官に反対する人たちの一部だ。

方氏の「遊侠」は、毎回でてくる概念。そろそろ、荀悦の引用にも飽きてきた。ひらたく言えば、「宦官に反対して、助け合う人々」だ。宦官に反対するというのが、キーである。「後漢は宦官に滅ぼされた」という、范曄の歴史観を踏襲したものか。


曹操と袁紹は、政治集団のトップとなる

袁紹のチームに入り、曹操は遊侠となった。曹操は、宦官との闘争に参加した。前述のように袁紹には、5人の奔走の友がいる。呉子卿は経歴が不詳だ。張邈、何顒、許攸の3人は、曹操とも親密な朋友となった。ここで張邈ら3人について、考察を加えねばならない。曹操への理解が深まるからだ。袁紹と曹操は、遊侠の士という共通点だけでなく、政治の目的を共有した。

方氏の袁紹論でも、おなじ話を訳したなあ。

張邈について。張邈は、張邈伝と、『後漢書』党錮伝に載る。八廚の1人。「廚」とは、財産をつかって、人をすくうことだ。張邈は、当時の有名な遊侠だ。曹操、袁紹とも同じタイプだ。
何顒について。『後漢書』何顒伝はいう。何顒は曹操に、「天下を安んずるのは、この人だ」と言った。武帝紀はいう。曹操が無名のとき、何顒は曹操を見出した。すでに何顒は、有名だった。荀攸伝にひく、張ハン『漢紀』はいう。何顒は、曹操と荀彧をほめた。何顒は、袁術をつねには訪問しないので、袁術に怨まれたと。ここから何顒について、何がわかるか。何顒は、ただ太学生のなかで傑出しただけでない。太学生の領袖・郭泰や賈彪と交わり、党人の領袖・陳蕃や李膺に褒められた。党錮のとき何顒は、汝南に逃亡して、袁紹に匿われた。何顒と袁紹の行動こそ、遊侠の典型だ。『後漢書』何顒伝はいう。何顒は、友人・虞偉高のために、父の仇をうった。この話も、何顒が遊侠の士だとしめす。何顒は、曹操や袁紹とも朋友だ。当然のこと、おなじ政治集団に属す。
許攸について。崔琰伝がひく『魏略』はいう。許攸は、霊帝を廃する計画を立てた。許攸は、一挙に宦官を消滅させる計画を立てた。許攸は、曹操をさそったと。許攸と曹操が、密接だとわかる。また許攸は、何顒の朋友だ。武帝紀にひく、司馬彪『九州春秋』はいう。かつて袁術が、何顒の3つの罪を責めたとき、その1つは、許攸との交際を咎めたものだった。陶丘洪が、身を挺して、「許攸は難に赴き、難をすくう」と、許攸を弁護した。許攸は、遊侠のルールを体現した。許攸は河北にいても、ルールをつらぬいた。許攸は、袁紹と曹操と朋友である。遊侠で、おなじ政治集団に属す。

袁紹と曹操から、張邈、何顒、許攸まで、1つの共通点がある。まず彼らは、すべて当時の、傑出した遊侠の士だ。「時難をすくい、同類をすくう」を実践した。つぎに、行動の上で、張邈は党人で、「八廚」の1人となった。何顒は、党錮のとき、逃亡した。彼らは、すべて宦官と闘争した。許攸にいたっては、早くも河北にゆき、宦官を誅滅する作戦をねった。

袁紹論のとき。「袁紹が河北に行ったのは、まったく突然でない」ことを証明するため、許攸の話が引用された。許攸は、袁紹より先に河北にゆき、地盤を整えた。

袁紹と曹操も、すすんで宦官と闘争した。
さらに重大な行動がある。見出しづらいことだ。袁紹、曹操、張邈、何顒、許攸らの関係は、ただの朋友でない。袁紹とトップにおく、組織をつくった。遊侠の士は、政治集団となった。集団の目的は、宦官に反対し、後漢を厳重な危機から解放することだ。

当時、袁紹がトップの政治集団のほかに、もう1つ、呼び声のたかい集団がいた。2つの集団の政治目的は同じだが、かえって敵対した。袁術をトップとする政治集団だ。
袁紹は、袁紹の従弟だ。袁術は「侠気をもって聞こゆ」という人物。『後漢書』何進伝はいう。何進は、袁紹も袁術も重くもちいた。大権をもつ大将軍の何進から見れば、袁紹と袁術の地位は、並列した。袁術の集団も、何進が宦官を滅ぼす作戦に参加した。
袁紹と袁術はどちらも遊侠で、どちらも汝南袁氏に属する。ただし袁紹は、豪傑たちのランキングにおいて、袁術を「遠遠超過」する。袁紹は、豪傑を養い、豪傑を擁護したから、袁術よりランクが高かった。これが原因で、袁術と袁紹は対立した。

「遠遠超過」という表現がおもしろい。訳さずに引用してみた。


袁紹に属する奔走の友は、何顒だ。張ハン『漢紀』はいう。何顒が袁術を重んじないから、袁術は何顒をねたみ、うらんだ。袁紹のべつの奔走の友は、許攸だ。前出の『漢末名士録』で、袁術が何顒を攻撃すると言ったとき、袁術は許攸の悪口も言った。「許攸は、凶淫の人で、性行は不純だ」と。
曹操は、袁紹の朋友で、何顒や許攸とも同一の政治集団である。袁術から見れば、当然、曹操は敵である。曹真伝にひく『魏略』はいう。袁術の部党は、秦伯南(曹真の父)を攻却し、曹操だと思って殺したと。これは、曹操と袁術が対立したと示す。口ゲンカに収まらず、「攻却」した。袁術は、曹操を殺そうとした。袁紹の集団のなかで、すでに曹操が重要な地位にあったとわかる。
中平五年、後漢は西園八校尉を置いた。曹操と袁紹は、八校尉の1人となった。曹操は典軍校尉となり、袁紹は佐軍校尉となった。一説に袁紹は、中軍校尉である。八校尉の官位から、何がわかるか。政治集団のトップは袁紹だが、曹操も代表だったとわかる。袁紹と曹操の2人がトップの、政治集団である。

おかしい。だったら、淳于瓊も政治集団の代表か。笑


「清平の奸賊、乱世の英雄」

後漢の政治の矛盾は、宦官にからめて起きた。宦官の家属は、高位にのぼり、郡国を横行した。人々は切歯した。曹操は大宦官の孫だから、宦官の家属と同じ道を選ぶことができた。だが曹操は、濁流とならず、宦官に反対した。濁流となることを、曹操は願わない。しかし、宦官に反対しても、人々から懐疑の視線をおくられた。曹操の出自は、曹操の身の上に、深刻な烙印をおした。

なんか文学めいた表現だが、原文がそうなのだ。っていうか、文飾が過ぎるとき、大抵は中身がうすくなる。案の定、「宦官はワルモノ」という、方詩銘氏の凝り固まったイメージを、強調しているに過ぎない。内容がない。笑

世論が、おおきな支配力をもつ時代である。曹操は、世論をつくる必要があった。前述のように、曹操は無名だが、何顒だけが評価してくれた。曹操の理解者・袁紹も重要だ。
曹操が世論を手に入れるとき、橋玄の影響が大きい。『後漢書』橋玄伝はいう。橋玄は曹操を評価した(引用は省略)。許劭の影響も大きい。武帝紀にひく『世語』はいう。許劭は曹操を、「清平の奸賊、乱世の英雄」と言った。武帝紀にひく『異同雑語』は、「治世の能臣、乱世の奸雄」という。『世説新語』識鑑篇は、「乱世の英雄、治世の奸賊」だ。これは、『後漢書』許劭伝に拠る。いずれにせよ、許劭のおかげで、曹操は世論を手に入れた。

許劭は曹操を、「英雄」と言った。李膺の子・李瓚は、「天下の英雄は、曹操がいちばん」と言った。「英雄」とは、後漢末に特定の意味をもつ。当時に書かれた、劉劭『人物志』巻中にいう。英雄の定義は、以下のとおりだ。聡明で、秀でることを「英」という。胆力が人に過ぎることを「雄」という。つまり、「文武が茂異する」ことをいう。武帝紀にひく『異同雑語』はいう。曹操の才武は、人に絶ゆと。おなじ意味だ。曹丕『典論』自叙で、曹操が文武どちらもスゴいと言う。これが当時の「英雄」である。

曹操は孝廉にあがり、洛陽北部尉、トン丘令をした。洛陽で「豪強を避けず」、大宦官・蹇碩の叔父を殺した。ほめられた。のちに「古学に明るい」から、議郎になった。議郎のとき、宦官に反対する旗幟をあげた。武帝紀にひく『魏書』はいう。曹操は、大将軍の竇武、太傅の陳蕃を弁護した。霊帝は、曹操をもちいず。『後漢書』劉陶伝はいう。光和五年、公卿に命じて、民を迫害する刺史や太守をあげさせた。ときに太尉の許イクと、司空の張済は、宦官にワイロをもらい、宦官の子弟をまもった。ぎゃくに清修な26人を責めた。陳耽と、議郎の曹操は、真実をあばいた。曹操は宦官に怨まれた。陳耽は、獄中で死んだ。曹操は上書をつづけ、宦官を責めた。曹操は、賞賛された。袁紹をトップとする政治集団のうちで、曹操は袁紹のつぎに重要なメンバーとなる。宦官との闘争に参加した。
のちに曹操は騎都尉となり、潁川の黄巾を討った。済南相となる。のちに袁紹とともに、前述の西園八校尉に参加し、典軍校尉となった。

曹操が兗州に拠る

袁紹が宦官を誅滅したが、董卓が政権をとった。袁紹は、許攸とともに洛陽を離れ、冀州に投じた。曹操は名声があるから、董卓からギョウ騎校尉に任じられた。曹操は袁紹とおなじく、今後の政治的な生涯で、洛陽にこない。京師以外のひろい地域を、まわる。この時代、勝利する条件は武力だ。曹操は、陳留にきた。陳留太守は、おなじ政治集団の張邈だ。陳留で、曹操は張邈に助けられた。この地で、著名な遊侠の衛茲に助けれた。衛シン伝は、衛茲を伝える。衛シン伝にひく『先賢行状』はいう。衛茲は曹操に兵を与えた。郭泰伝はいう。衛茲は郭泰に賞賛されたと。衛茲は、財をつかって人を救う人物だ。衛茲は、張邈とおなじタイプの人物だ。
衛茲に助けられ、曹操は5千人の隊伍をあつめた。張邈と連合し、董卓に挙兵した。衛茲も1支隊をひきい、張邈の指揮に入る。のちに張邈の支持のもと、衛茲の支隊も曹操に帰属した。董卓との戦争で、曹操が袁紹の政治集団のもと、武力を結集したとわかる。
袁紹の政治集団の主要メンバーは、3箇所に分かれた。袁紹と許攸は河北だ。曹操と張邈は陳留だ。何顒と伍瓊は京師だ。袁紹伝はいう。侍中の周毖、城門校尉の伍瓊、議郎の何顒らは、みな名士だ。董卓に信じられたが、ひそかに袁紹のために動いたと。袁紹は河北ににげ、渤海太守となり、地盤を得た。これは、何顒や伍瓊が、董卓を説得した結果である。袁紹集団の矛先は、宦官でなく、董卓にむかう。董卓は、袁紹が宦官を倒した勝利を、ぬすんだからだ。
袁紹は渤海太守で、集団のトップだ。袁紹ではいう。おおくの豪侠が袁紹についた。曹操は張邈をたより、自己の地盤がない。曹操は、袁紹に任命された、ただの奮武将軍だ。地盤の確保が、曹操の重大な問題だ。
曹操は滎陽で徐栄に敗れた。衛茲が戦死した。曹操も流矢を受けた。曹操は夏侯惇をつれ、揚州で募兵した。揚州刺史の陳温、丹楊太守の周昕は、4千人を曹操に与えた。曹操を助け、袁紹を助けたのだ。

武帝紀はいう。黒山の于毒、白ニョウ、眭固ら10余万が、魏郡、東郡を略した。曹操は濮陽で、白ニョウを破った。袁紹は曹操を、東郡太守とした。曹操は東武陽で治めたと。当時、黒山は河北で活動した。東郡太守の王肱は、白ニョウを抑えきれない。袁紹の支持のもと、曹操は東郡太守に任じられた。東郡を地盤とした。東郡は、陳留に隣接する。どちらも兗州に属する。曹操は、袁紹をたより、張邈と連合し、発展を開始した。

ぼくは補う。張邈は「お隣さん」なのですね。陳留は、のちに曹操が袁術を破る場所だ。注目。張邈は、袁術を追い出してないよなあ。


董卓との戦争が停滞した。関東の人々は、相互に争い始めた。袁紹集団で、矛盾が出現した。張邈伝はいう。張邈は袁紹を責めた。袁紹は、張邈を殺したい。曹操が張邈を守った。袁紹と張邈は、奔走の友なのに、亀裂が生じた。袁紹と張邈のあいだに、曹操がいる。曹操は、政治集団の利益のためと、さらに重要な、自分の利益のために、袁紹と張邈を調停した。曹操は、洛陽での友人たちに、寛容な態度をとる必要があった。曹操は、当時の政治情勢が「天下は、いまだ定まらず」であると強調した。袁紹集団が分裂し、関東を抑えられなくなると、曹操自身の立場が危うい。曹操は、全体を見ていた。
当時の形勢は、明確だ。河北で袁紹は、韓馥の冀州を占領する。だが、公孫瓚の強大な軍事力は、軽視できない。河南で曹操は、張邈と連合する。しかし、軍事力は弱く、四方は敵である。黒山と黄巾は、袁紹と曹操を、さらに厳重に威嚇する。曹操の意図は、こうだ。袁紹の軍事力にたより、張邈をたよって兗州の勢力を味方とする。最後に、兗州をうばい、河南を根拠地とする曹操は、袁紹と張邈が、分裂することを希望しない。理由は、袁紹と張邈の2人ともを、利用したいからだ。

張邈は、ただの踏み石だと思われてる。そうなの?


袁紹は河北を根拠とするが、河南にも手出しした。袁紹は、兗州刺史の劉岱と、連絡した。程昱伝はいう。劉岱と袁紹、公孫瓚は、和親した。袁紹は、妻子を劉岱にあずけた。公孫瓚は、范方をやり、劉岱を助ける。のちに袁紹と公孫瓚が、対立した。公孫瓚は、袁紹軍をやぶった。公孫瓚は劉岱に語り、袁紹の妻子を、袁紹から引き離せと言った。劉岱は、決められない。ほどなく、公孫瓚は袁紹に大敗したと。
劉岱は表面で、董卓から任命された「幽滞の士」である。侍中から、兗州刺史となった。のちに董卓との戦争に参加した。袁紹は、妻子を惜しまず、劉岱へ人質に出した。べつ方面で劉岱は、兗州の曹操を助けた。べつ方面で劉岱は、公孫瓚の勢力を、兗州から排除した。『後漢書』趙岐伝はいう。このとき、袁紹と曹操は、公孫瓚と冀州を争った。袁紹と曹操は、趙岐がきたと聞き、みずから迎えたと。ここから、公孫瓚が兗州から退いたのち、袁紹と曹操は力をあわせ、公孫瓚と戦ったとわかる。冀州を固めるだけでなく、兗州をうばう準備でもあった。

劉岱は兗州を統治した。おもに劉岱が頼ったのは、済北相の鮑信だ。鮑勛伝はいう。鮑信は泰山の人だ。霊帝のとき騎都尉となる。何進に命じられ、東で募兵した。曹操に協力して、死んだと。泰山は、兗州の一部だ。鮑信は兗州で、特殊な勢力だとわかる。鮑信は、何進が宦官に殺されると、泰山兵2万をひきいて帰った。強大な軍隊をもつ。すぐに鮑信は、済北相として、董卓と戦う。鮑信は、すでに劉岱と朋友だ。曹操や袁紹とも、朋友だ。彼らの友情は、洛陽で宦官に反対したとき、結ばれたのだろう。袁紹は豪傑を集めたが、かえって鮑信は、曹操に敬服した。鮑勛伝にひく『魏書』に、鮑信が曹操をほめたセリフがある。曹操は、袁紹の支持をもらい、張邈と連合して、さらに鮑信の保護をもらった。公孫瓚を兗州から追いはらった。兗州は、袁紹と曹操がおさえた。曹操が兗州をおさえるのは、時間の問題だ。

武帝紀にひく『世語』はいう。劉岱が死ぬと、陳宮が曹操を兗州にむかえた。陳宮は、侍中や別駕を説得したと。ここに、1つの問題がある。曹操は、在地勢力に奉戴されたのか。それとも袁紹の支持で兗州を取ったのか。見たところ、後者(袁紹の支持)が、実情にあう。『文選』巻44に、陳琳『袁紹のために、豫州を檄す』がある。袁紹は、曹操を東郡太守にしただけでなく、曹操を兗州刺史にしてやったという。李善は、謝承『後漢書』を注釈していう。劉岱が黄巾に殺されたので、曹操は兗州刺史となったと。謝承を読むと、曹操は劉岱の死をチャンスとして、兗州を取ったようだ。袁紹のおおきな支持にもとづき、袁紹から兗州刺史に任じられた。当然、兗州の在地勢力は、曹操をささえた。まず、兗州の特殊な勢力・鮑信が曹操をささえた。陳宮もささえた。呂布伝にひく魚豢『典略』はいう。陳宮は、当然のこと「海内の名士」袁紹と連結した。「剛直壮烈」な人物だから、陳宮も袁紹とおなじタイプの人物だ。
曹操が兗州を得たのは、なぜか。一面では(これは主要な一面だが)、兗州の在地勢力が、袁紹の強大な軍事力に屈した。べつの一面で、鮑信や陳宮らが、袁紹を支持した。袁紹の支持があるから、曹操は兗州を取れた。

ぼくは補う。兗州全体は、袁紹のチカラに屈した。ただ、鮑信や陳宮が、個人的に、袁紹や曹操を支持した。しかし、あくまで個人的に支持するだけで、全体の諒解を得たわけでない。これは、のちの伏線ですね。


曹操の主要な軍師は、荀彧だ。荀彧伝で、荀彧は曹操に言った。「兗州は、曹操の根拠地だ。劉邦の関中、劉秀の河内にあたる」と。兗州は、曹操が華北を統一したとき、根拠となる。袁紹のおかげで、曹操は代表的な政治集団をつくった。荀彧の言うとおり、兗州は根拠となった。

「大河の南で、事変を待つ」

曹操は大宦官の家に生まれたが、袁紹の政治集団に属して、重要な人物となった。袁紹のおかげで、兗州を得た。だが袁紹と曹操は、闘争を始めた。
袁紹は強烈な野心をもつ。おなじく曹操も、強烈な野心をもつ。武帝紀はいう。袁紹は、「南は黄河、北は燕代をおさえる。黄河をわたり、天下を狙う」と言った。曹操は、「天下の智力をあつめる」と言ったと。ここに袁紹の意思が見える。黄河を南渡し、全国を統一するつもりだ。袁紹は冀州を確保し、この戦略どおりに行動した。
曹操も、おなじく行動した。曹操は董卓から逃げたとき、なぜ故郷の沛国でなく、陳留に留まったか。当時の慣例で、豪族は郷里の声望をあつめて、武力をあつめる。かつて曹操は、沛国で兵を集めた(劉備伝にひく『英雄記』)。郷里で軍隊をあつめるのは、慣例である。いちどは曹操も、慣例にしたがった。
曹操の戦略は、前述の袁紹との会話に見られる。しかし曹操は、戦略を隠して語らない。袁紹には、内容のないことを答えただけだ。「天下の智力をあつめる」に、内容はない。ほんとうの戦略はどんなか。鮑勛伝にひく『魏書』はいう。「黄河の南により、事変を待つ」と。これは、鮑信が曹操に語った言葉だ。鮑信は、曹操の野心にぴったり符合した。曹操は沛国にゆかず、河南をになう、陳留太守の張邈をたよった。張邈を頼った原因は、「黄河の南」にいるためだ。袁紹とちがい曹操は、「黄河の南で、チャンスを待つ」ことを、戦略とした。だから曹操は、袁紹との関係を、ながく維持した。

袁紹が、下手をこくのを、待ったということか。袁紹が河北を定めたあと、袁紹の後釜にすべり込む、ということか。確かにその作戦なら、沛国では袁紹に遠い。陳留でねばるのは、正解。どこまでが、「史家の後ヅケ」なんだろう。判定が難しいなあ。


陳留で曹操は、張邈、衛茲に助けられ、5千人を得た。滎陽で徐栄に大敗した。揚州で募兵した。奮武将軍となるが、地盤がない。曹操は、袁紹に頼らざるを得ない。
曹操を全面的に助けたのは、袁紹である。謝承『後漢書』はいう。袁紹は曹操を、東郡太守、兗州刺史に任じたと。曹操は、ただ劉岱のしたにいる東郡太守でなく、袁紹が正式に任命した東郡太守でもある。劉岱が黄巾に殺されると、兗州刺史に代えてもらった。曹操は、「黄河の南で、チャンスを待つ」を、じわじわ実現した。

後漢末、兗州は8つの郡国がある。陳留、東郡、東平、任城、泰山、済北、山陽、済陰である。軍事的に、重要な大州である。荀彧が言ったとおり、天下とりの根拠地である。兗州は、黄河と済水が流れる。荀彧の意見は正しい。

つぎのページにつづく。曹操だけ、2本立てなのです。つぎに兗州をねらってくるのが、袁術です。方詩銘氏は、袁術の重要性を、よくご認識でいらっしゃる。笑