方詩銘氏の曹操論を翻訳 (2)
方詩銘氏の曹操論「曹操は兗州に拠る」等(『論三国人物』)を翻訳。
長いですが、もとが面白いので、読んでいただけると思います。
翻訳が下手で、読むに堪えなかったら、申しわけありません。
曹操が兗州をまもる戦争
兗州は、軍事上に重要だ。曹操は、これを理解している。このとき袁紹は、冀州を根拠とする。冀州をあらそう主要な相手は、公孫瓚だ。公孫瓚は、幽州を根拠とする。袁紹と公孫瓚は、河北を争う。このほかに、袁紹と公孫瓚は、河北に手をつっこむ。曹操が兗州を得る前、袁紹と公孫瓚は、どちらも兗州をねらった。程昱伝にある。
公孫瓚は、袁紹に敗れた。これは界橋の戦いを指す。公孫瓚は、早くから幽州の騎兵(范方)を兗州におくった。公孫瓚は、兗州を奪うつもりだ。袁紹は劉岱に妻子をあずけ、人質とした。袁紹は、曹操を支持した。曹操に兗州を抑えてもらうためだ。『後漢書』公孫瓚伝はいう。公孫瓚は、青州、冀州、兗州の刺史をおいた。すべて郡県に守令をおいたと。公孫瓚は、袁紹と界橋で戦ったと。『三国志』公孫瓚伝はいう。公孫瓚は、界橋にすすむ。厳綱を冀州に、田楷を青州に、単経を兗州においた。界橋の戦いのとき、公孫瓚は、袁紹を消滅させるつもりだ。冀州と青州を占拠し、しかも劉岱から兗州をうばうつもりだ。だから公孫瓚は、刺史を任命した。兗州刺史の単経は、劉岱から兗州をうばう準備をした。
公孫瓚のほかに、南陽に割拠する袁術も、兗州をうかがう。呂布伝にひく『英雄記』はいう。呂布が徐州に入ると、袁術に手紙した。袁術は返信した。「むかし金元休をひきい、兗州にはいった。封丘で曹操に敗れた」と。おなじ呂布伝にひく『典略』は、金元休とは金尚だという。ここに3つの問題が生じた。
第一、金尚は兗州刺史だが、これは後漢が任命したのか、袁術が派遣したのか。第二、袁術はどんな目的で、金尚をひきいて兗州に向かったか。第三、袁術が曹操に敗れたとは、どの戦争を指すのか。答えを出そう。
第一の答え。董卓を討伐する戦争のあと、董卓に敵対した関東の州牧や太守は、涼州軍団がおさえる後漢から、任命してもらえない。同様に、涼州軍団は、関東の州牧や太守の地位を、承認し続けるワケにはいかない。兗州刺史の劉岱は、董卓と敵対した。金尚は、後漢に任命されて、兗州に赴いたのだ。劉岱の代わりである。史料には、冀州牧に任じられた壺寿という人がいる。袁紹伝にひく『英雄記』はいう、袁紹が于毒を斬ると、長安の朝廷は、壺寿を冀州牧としたと。金尚も、壺寿と同じだ。だから、金尚は後漢に任じられた人だ。兗州に赴く途中、袁術につかまった。袁術が任命したのでない。
第二の問題は、カンタンに答えが出た。袁術は、金尚を兗州刺史に着任させるため、兗州に行った。武力で曹操を追いだすためだ。袁術は金尚を連れて、袁紹と曹操をたたき出したい。兗州を、自己の地盤としたい。
第三の問題には、説明が必要だ。後漢が任命した兗州刺史を、当然、曹操は承認できない。袁紹は、陳留の封丘で曹操と戦った。曹操は、袁術を痛撃した。
袁術と曹操が、封丘で戦った記事は、このとき以外には、ない。武帝紀は、初平四年の戦いを、くわしく書く。袁術伝も書く。武帝紀と袁術伝は、記述が一致する。おなじ戦争を書いたものだ。袁術は、九江ににげた。
ただ1つだけ、この戦いに関して、武帝紀と袁術伝にない記述がある。「太祖と袁紹が、合わさって袁術を撃った」というもの。当時の史官は、曹操の戦績を強調するあまり、袁紹と協力したことを隠した。『三国志』で、曹操バンザイに歪められることは、比較的おおい。
ともあれ、『英雄記』で袁術が呂布に手紙した戦いとは、武帝紀と袁術伝にある戦いを指す。後漢が任命した兗州刺史の金尚は、袁術についた。最後は、金尚は袁術に殺されたが。
同時に兗州は、北から公孫瓚に進攻された。公孫瓚は、界橋で敗れたあとも、兗州をねらい続けた公孫瓚は、袁術と同盟した。だから袁術が金尚をつれて兗州にきたとき、公孫瓚は袁術と合わさった。武帝紀はいう。袁術と袁紹は対立した。袁術は、公孫瓚に救いをもとめた。公孫瓚は、劉備を高唐におく。単経を平原におく。陶謙を発干におく。公孫瓚は、袁紹にせまった。曹操と袁紹は、劉備たちを、すべて破ったと。
この記載のすぐあと、武帝紀はいう。袁術は軍をひき、陳留に入ったと。まず公孫瓚が兵を出してから、陳留に入った袁術と合わさったように読める。公孫瓚と袁術には、それぞれ打算があった。それぞれ兗州をねらった。袁術は、後漢が任命した金尚をつれてきた。公孫瓚は、兗州刺史の単経をつれてきた。袁術と公孫瓚、それぞれに打算があったことが、兗州刺史のダブりからわかる。
ほかに2つの問題がある。公孫瓚は、河北の幽州が根拠地だ。なぜ公孫瓚は、兗州を取りにきたか。これが1つめの問題だ。2つめの問題は、陶謙はこのとき徐州牧なのに、なぜ公孫瓚の命令にしたがって、駐屯したか。
まず、武帝紀をひこう。劉備は、高唐にいた。単経は、平原にいた。高唐も平原も、青州の平原郡に属す県である。劉備伝はいう。公孫瓚は上表し、劉備を別部司馬とした。青州刺史の田楷は、冀州牧の袁紹をこばんだ。劉備は戦功があるので、平原令、平原相となった。これは、青州の平原あたりが、公孫瓚の勢力範囲だとしめす。袁紹が、青州のうちで抑えた範囲は、「黄河より西、おそらく平原をこえない(袁紹伝にひく『九州春秋』)」と。劉備は、もとは高唐にいた。単経は、幽州から軍をひきい、平原にきた。だから袁紹と公孫瓚は、青州のなかで戦った。
つぎに、陶謙は徐州牧だが、軍隊は発干にいた。発干は、兗州の東郡に属す県だ。陶謙は、東の徐州から、兗州に進入した。陶謙は、曹操を攻撃したい。なぜ陶謙は、公孫瓚とむすび、公孫瓚の命令を受けたか。これには、2つの面から考察が必要だ。陶謙伝は、陶謙の経歴を載せる。陶謙の経歴のうち、1つ注意が必要だ。陶謙は、かつて幽州刺史だった。公孫瓚は、遼西の令支の人だ。遼西は、幽州に属す。おなじとき、公孫瓚は、遼西で門下書佐に就職した。公孫瓚は、すぐに遼東属国の長史になった。公孫瓚は、幽州で活動した。陶謙と公孫瓚にあいだには、一定の関係がある。比較的、密接な関係だと考えられる。これが、1つの面である。
もう1つの面は、陶謙の根拠地・徐州が、兗州と青州と接することだ。曹操と袁紹から、威嚇される。徐州は、「百姓が殷盛(陶謙伝)」である。ますます、曹操に狙われる。陶謙は徐州をたもつため、公孫瓚に支援をもとめた。袁紹と曹操に対抗するためだ。きわめて自然なことだ。
この兗州の戦争で、曹操と袁紹は、袁術、公孫瓚、陶謙による進攻をしりぞけた。強敵が外から狙っている情況だから、曹操と袁紹の対立は、オモテに出てこない。
ふたたび曹操は、兗州を防衛する
曹操は董卓からにげ、陳留で張邈を頼った。董卓との戦いのなか、袁紹と張邈の対立が始まった。曹操は、袁紹から張邈を守った。ただし曹操が兗州に拠ったのち、張邈と曹操は対立を始めた。つまり張邈は、曹操が袁紹に助けられて、陳留を奪いにくることを恐れた。この説明では、史料にある「張邈の心は、おのずと安からず」を完全に言い当てていないが、張邈の恐れは、あり得ることだ。また曹操は兗州刺史となったが、一部の在地豪族は、曹操に不満だ。ただ袁紹の強大な軍事力に屈して、曹操の下にいるだけだ。張邈も、袁紹に屈した1人だ。
曹操と袁紹に対抗するため、張邈は有力な支援をもとめた。張邈は、兗州豪族の代表的な人物・王匡の支援をもとめた。武帝紀にひく『英雄記』はいう。王匡は、泰山の人だ。財を軽んじ、施しを好む。任侠をもって聞こゆ。王匡は何進に辟され、徐州の弩兵をつれて、京師にゆく。何進が敗れると、王匡は故郷にもどった。河内太守となったと。張邈と王匡は、財を軽んじるから、同じタイプの遊侠の士だ。洛陽で、張邈と王匡は友となったはずだ。董卓との戦争で、王匡は河内太守となり、泰山兵をひきいた。武帝紀にひく謝承『後漢書』はいう。王匡は、泰山にもどり、数千人をあつめ、張邈と合わさると。泰山は、兗州に属す郡だ。王匡は泰山の強兵をひきいて、張邈と連合した。曹操にとって、腹心の患だ。兗州の安定にとって、脅威である。
曹操は、王匡に対策するため、王匡に宿縁がある豪族を利用した。胡母斑の家族である。袁紹伝にひく『漢末名士録』はいう。胡母斑は、張邈とともに八廚の1人だと。張邈、王匡、胡母斑は、同じタイプの遊侠だ。だが董卓との戦争で、胡母斑は王匡に殺された。胡母斑の家族は、王匡を仇敵だと狙う。家族は、王匡と張邈が連合することを、容認できない。兗州豪族は、内部に矛盾がある。曹操は、これを利用した。曹操と胡母斑の家族は、軍勢をあわせた。曹操らは、王匡を殺すだけでなく、張邈をも攻撃した。王匡と張邈の連合を解除し、曹操は腹心の患をのぞいた。
張邈と王匡のほかに、曹操に挑戦したのは、さきの九江太守・辺譲だ。『太平御覧』巻213にひく『典略』はいう。辺譲は、陳留の人だ。何進に重んじられたと。辺譲は、兗州士族のうち、代表的な人物だ。『後漢書』辺譲伝はいう。初平中、辺譲は曹操に屈しなかったと。武帝紀にひく『曹瞞伝』はいう。陳留の辺譲は、曹操に族殺されたと。
王匡と辺譲の死は、曹操に反対する兗州豪族にとって、シンボルになった。兗州豪族は、完全に曹操に屈服しない。曹操に反対する連合をくんだ。殺されるのだから、ほかに選択できる方法がない。兗州豪族は、曹操に巨大な暴風をぶつける。
表面上、曹操と張邈の関係は、旧来どおり良好だ。しかし、ちがう。『三国志』高柔伝はいう。高柔は、陳留の人だ。高柔は、曹操と張邈のあいだに、異変を察知したと。曹操も、異変に気づいていた。では、なぜ曹操は、兗州の暴風を悟らなかったか。カギは、曹操が信任した陳宮である。
呂布伝にひく魚豢『典略』は、陳宮を載せる。陳宮は、兗州豪族を説得して、劉岱のあとに曹操を招いた。陳宮の言葉は、豪族に一定は聞き入れられた。なぜ陳宮は、曹操に叛いたか。『典略』は、陳宮が「自疑した」とのみ記す。具体的な説明がない。『資治通鑑』巻6はいう。曹操が辺譲を殺した。辺譲は、兗州で才名がある。兗州の士大夫は、みな恐れたと。『資治通鑑』は、陳宮が「自疑」した原因を、ここに帰結させる。だが、もっと重要な原因がある。曹操が王匡を殺したことだ。辺譲は文名があったが、当時の名士にすぎない。辺譲は、陳宮とちがう。陳宮は、王匡や張邈とおなじ豪族である。豪族は、軍事力をもつ。当然ながら陳宮は、曹操が豪族を警戒することを知る。
実際に、当時の人は「曹操は陳宮を、赤子のように待遇した(呂布伝にひく『魏氏春秋』)」と言った。陳宮は、曹操に信任された。曹操が陶謙を討ちにいくとき、陳宮は東郡におかれた。陳宮は曹操から、兗州を安定させる力量を見こまれた。陳宮が「自疑」したのは、陳宮自身が軍事力をもつことが原因だ。
『後漢書』呂布伝はいう。興平元年、陳宮は張邈を説得して、曹操の兗州を攻めた。呂布を迎えた。張邈は、呂布を兗州牧として、濮陽に拠った。叛乱を発動したのは、陳宮である。陳宮は、張邈を説得した。程昱伝はいう。程昱は、3城のみの曹操を支持したと。程昱のように、一部の兗州豪族は、曹操を支持した。だが曹操は、巨大な打撃を受けた。
曹操は兗州をたもつため、袁紹の助けを受けた。曹操が陶謙を攻めたとき、すでに袁紹は軍を派遣して、曹操を支援した。徐晃伝はいう。清河の朱霊は、袁紹の部将として、陶謙を討つ曹操を助けた。朱霊は、曹操に転職したと。
曹操が陶謙を攻めたのは、父・曹嵩の仇討を口実とした。だが目的は、兗州の東から、脅威を除くことだ。さらに曹操は、徐州を併合しようとした。これは、曹操と袁紹が連合した、第一次の行動だ。陶謙は、同盟する公孫瓚に救いを求めた。劉備伝はいう。劉備と田楷は、東へ斉国にきた。曹操は徐州をせめた。田楷と劉備は、陶謙を救ったと。田楷は、公孫瓚が任命した、青州刺史である。この徐州の戦いは、実際は、曹操と袁紹の連合と、陶謙と公孫瓚との戦いだ。まえの戦争を継続したものだ。
陳琳の檄文に、曹操が狼狽した描写がある。兗州が反し、居場所のない曹操をたすけたのは、袁紹である。謝承『後漢書』はいう。曹操は呂布を濮陽にかこんだが、呂布に敗れた。袁紹は曹操を哀れみ、兵5千を分けてやったと。『文選』巻44は、陳琳「袁紹のために豫州を檄す」を載せる。この檄文に、李善は注釈して、袁紹から曹操への援軍は、史実だとした。李善の注釈はいう。「幕府(袁紹)の軍は、呂布を追いはらった。曹操は死なずにすんだ」と。
曹操は、袁紹のおかげで、兗州を回復した。ほかの史料にない。唐代の李善は、『文選』の注釈で指摘する。「袁紹が呂布を征した話は、ほかの史書にない。おそらく史書が省略したのだ」と。おなじ唐代の李賢は、『後漢書』袁紹伝に注釈をつけた。李賢は『三国志』魏志をひいて、呂布を破ったのは曹操であり、袁紹でないと記す。みずから袁紹が呂布を征したとは、陳琳がつくった虚構だと、李賢はいう。清代の恵棟は、『後漢書補注』巻17でいう。李賢は、曹操が呂布を討ったとするが、これは誤りだと。つまり恵棟は、李善に賛成した。後漢末の情況を見れば、陳琳が書いた檄文は、基本的には事実だ。みずから袁紹が呂布を征したことは、重大な事実だ。重大な事実について、陳琳が虚構を記せば、どうなるか。曹操が有利となり、袁紹が不利となる。こんな虚構を、袁紹は許せない。
李善は「史家が省いた」というが、「史家が曹操のために、忌んで隠した」と考えるべきだろう。
曹操は、諸城をことごとく回復した。呂布を巨野で破った。張邈は、部下に殺された。陳宮は呂布についてゆき、主要な軍師になった。曹操に反対する、兗州豪族は消滅した。くわえて、東と北の両面から、強敵を追いはらった。曹操は、兗州をたもつ作戦を実現した。
旧来からの対立は、消滅した。兗州のなかの対立が解消すると、もっとおおきな対立が激化した。袁紹と曹操の対立である。
曹操と袁紹が対立する
袁紹と曹操は、たがいの利益のために、打算で付き合った。袁紹の軍事力は強大だ。曹操は、袁紹と連合するしかない。だが曹操は、自分の発展をのぞんだ。曹操が兗州を取得したあとから、袁紹との対立が表面化した。
兗州は、重要な軍事拠点だ。曹操は、完全に兗州を、自己のものにしたい。袁紹も、兗州を勢力範囲としたい。袁紹は、完全に曹操をおさえたい。兗州牧の呂布は、曹操を陥れた。呂布の叛乱は、袁紹が曹操をおさえるチャンスだ。武帝紀はいう。袁紹は曹操に、連和を申し出た。曹操は食糧が尽きたので、袁紹に従いたい。程昱伝で、程昱が曹操に反対した。このとき袁紹は、曹操と「連和」する必要がない。史家が、曹操のために、言葉を選んだのだ。曹操の家属を鄴県にうつし、袁紹は曹操の人質をとりたい。袁紹は、完全に曹操を抑えられる。『三国志集解』で、ヨウ范はいう。「袁紹は、曹操を臣下にしたい。史家は、これを忌んで隠した。連合というが、袁紹と曹操はまだ兵を構えていない。なにを連合するのか」と。
以上は、袁紹と曹操の対立が表面化した事例である。『文選』巻44で、陳琳の檄文に、李善は謝承『後漢書』を注釈していう。曹操は兗州を得て、兵が強い。内心で曹操は、袁紹への反意を抱いたと。曹操は、袁紹の下を離脱したい。
曹操が献帝を迎え、袁紹との対立は激化した。袁紹伝にひく『献帝春秋』はいう。袁紹は曹操の恩知らずを怒ったと。袁紹は曹操が離脱したから、憤怒した。曹操は、献帝を借りて、袁紹の下を離脱したい。袁紹と曹操は、敵対した。この対立は、官渡の戦いで曹操が勝って、解決した。110208