表紙 > 漢文和訳 > 『後漢書』朱儁伝を、狩野直禎氏の翻訳を横目に読む

01) 会稽郡の貧民から、出世

「袁術本紀」を作ろうとしています。
袁術のライバルである、朱儁親子について見ておきます。
原文に翻訳めいたコメントをつけつつ、狩野 直禎「後漢書列伝六十一朱儁伝訳稿」を参考に考察をしてみます。
狩野氏曰く、朱儁は後漢王室を絶対視する視点から、抜け出せなかった。だから黄巾を討ったのに、次の時代を作れなかった。

朱儁は中央にこだわったが、朱儁の子供たちは、地方への割拠を志した。
ぼくが朱儁に注目する理由は、そういう子供たちがいるからだ。


会稽郡の田舎者は、お金に執着しない

朱俊字公偉,會稽上虞人也。少孤,母嘗販繒為業。俊以孝養致名,為縣門下書佐,好義輕財,鄉閭敬之。
朱儁は揚州の会稽郡の人。東南の辺境の人というのがキーか。
父親が早死に。母親は、絹織物を販売した。狩野氏は、劉備の母親と重ねている。未亡人が生活するには、織物の販売が通常だったと。

時,同郡周規辟公府,當行,假郡庫錢百萬,以為冠幘費,而後倉卒督責,規家貧無以備,俊乃竊母繒帛,為規解對。母既失產業,深恚責之。俊曰:「小損當大益,初貧後富,必然理也。」
同郡の周規が、三公府に召されたが、衣装代がない。郡府に借金したが、払えない。朱儁は、周規の衣装代を、代わりに払ってやった。母親が朱儁を責めた。朱儁は言った。
「損して、得とれ。これは必然のことわりだ」
狩野氏は、就職の莫大な費用を、役得で埋め合わせしたと解説する。役人は蓄財するために、ワイロや税金を搾り取った。後漢は、そういう時代だ。

資本主義から見たらフェアじゃなくても、これで経済の循環が成立していたなら、それはそれで、アリなのかも知れない。


許昭が反し、朱儁は会稽太守を救う

本縣長山陽度尚見而奇之,薦于太守韋毅,稍曆郡職。
朱儁は、故郷の県長をつとめる、山陽郡の度尚に見込まれた。度尚は朱儁を、会稽太守の韋毅に推薦した。朱儁は、会稽郡の仕事を歴任した。
この記事につき、
狩野氏が注釈する。度尚は『後漢書』列伝28。度尚は162年に、長沙と零陵の叛乱を抑えた。逆算すると、度尚が朱儁を見出したのは、150年代後半だろう、と。

荊州の叛乱を鎮めるのは、のちの孫堅もやること。揚州の田舎者が出世するときは、荊州に範囲を広げて、戦功を積む。キャリアパスが、ある。


後太守尹端以俊為主簿。
のちに会稽太守の尹端は、朱儁を主簿とした。
狩野氏が諸書を見るに、韋毅と尹端が交代した時期は、分からないそうだ。霊帝の時代だ、としか。

熹平二年,端坐討賊許昭失利,為州所奏,罪應棄市。俊乃贏服間行,輕齎數百金到京師,賂主章吏,遂得刊定州奏,故端得輸作左校。端喜於降免而不知其由,俊亦終無所言。
173年、許昭(許昌)が叛乱した。朱儁の上司の尹端は、敗れた。尹端は死刑になったが、朱儁がお金を払って主人を助けた。
狩野氏は、朱儁の財源を疑っている。衣装代すら苦しいのに、どうやって人の命を救うワイロを、捻出したのだろうかと。
ぼくが思うに、朱儁は交易ルートを押さえましたね。

狩野氏は言っておりませんが。172年から175年に許昌を討ったのは、揚州刺史の臧旻だ。尹端の上司だろう。
臧旻は、陸康を茂才にあげ、高成令に任命した。揚州の人脈のからみのため、ぼくが補足しておきました。

交州刺史となり、朱符のタネづけをする

後太守徐珪舉俊孝廉,再遷除蘭陵令,政有異能,為東海相所表。會交阯部群賊並起,牧守軟弱不能禁。又交阯賊梁龍等萬餘人,與南海太守孔芝反叛,攻破郡縣。光和元年,即拜俊交阯刺史,令過本郡簡募家兵及所調,合五千人,分從兩道而入。既到州界,按甲不前,先遣使詣郡,觀賊虛實,宣揚威德,以震動其心;既而與七郡兵俱進逼之,遂斬梁龍,降者數萬人,旬月盡定。以功封都亭侯,千五百戶,賜黃金五十斤,征為諫議大夫。
178年、朱儁は交趾の叛乱を鎮めるため、刺史となった。朱儁は、会稽郡を経由して、5000人を引き連れて南下した。朱儁は交趾を、1ヶ月足らずで平定した。

のちに交州には、朱儁の子だと思わしき、朱符が治める。


黄巾討伐し、徐璆とともに戦う

及黃巾起,公卿多薦俊有才略,拜為右中郎將,持節,與左中郎將皇甫嵩討潁川、汝南、陳國諸賊,悉破平之。嵩乃上言其狀,而以功歸俊,於是進封西鄉侯,遷鎮賊中郎將。
潁川では、皇甫嵩が第一。つぎの南陽では、朱儁が第一。

時,南陽黃巾張曼成起兵,稱「神上使」,眾數萬,殺郡守褚貢,屯宛下百餘日。(以下、戦闘の経過なので小文字)
後太守秦頡擊殺曼成,賊更以趙弘為帥,眾浸盛,遂十余萬,據宛城。俊與荊州刺史徐璆及秦頡合兵萬八千人圍弘,自六月至八月不拔。有司奏欲征俊。司空張溫上疏曰:「昔秦用白起,燕任樂毅,皆曠年曆載,乃能克敵。俊討潁川,以有攻效,引師南指,方略已設,臨軍易將,兵家有忌,宜假日月,責其成功。」靈帝乃止。俊因急擊弘,斬之。
賊余帥韓忠複據宛拒俊。俊兵少不敵,乃張圍結壘,起土山以臨城內,因鳴鼓攻其西南,賊悉眾赴之。俊自將精卒五千,掩其東北,乘城而入。忠乃退保小城,惶懼乞降。司馬張超及徐璆、秦頡皆欲聽之。俊曰:「兵有形同而勢異者。昔秦、項之際,民無定主,故賞附以勸來耳。今海內一統,唯黃巾造寇,納降無以勸善,討之足以懲惡。今若受之,更開逆意,賊利則進戰,鈍則乞降,縱敵長寇,非良計也。」因急攻,連戰不克。俊登土山望之,顧謂張超曰:「吾知之矣。賊今週邊周固,內營逼急,乞降不受,欲出不得,所以死戰也。萬人一心,猶不可當,況十萬乎!其害甚矣。不如徹圍,並兵入城。忠見圍解,勢必自出,出則意散,易破之道也。」既而解圍,忠果出戰,俊因擊,大破之,乘勝逐北數十裏,斬首萬餘級。忠等遂降。而秦頡積忿忠,遂殺之。余眾懼不自安,複以孫夏為帥,還屯宛中。俊急攻之。夏走,追至西鄂精山,又破之。複斬萬餘級,賊遂解散。

徐璆は、袁術から玉璽を取り上げ、献帝に返却する人。
『後漢書』38に列伝がある。

徐璆伝は、訳さずには、おられまい。やります。狩野氏も要約して、列伝を載せておられました。

徐璆は、朱儁に戦闘を助けてもらった人です。弱そう。笑

次回、最終回。
朱儁が中央に進出して、董卓と微妙な関係になります。