表紙 > 漢文和訳 > 『後漢書』朱儁伝を、狩野直禎氏の翻訳を横目に読む

02) うまく派閥に属せず、発病

「袁術本紀」を作ろうとしています。
袁氏のライバルである、朱儁親子について見ておきます。
原文に翻訳めいたコメントをつけつつ、狩野 直禎「後漢書列伝六十一朱儁伝訳稿」を参考に考察をしてみます。

黄巾の残党たくさん、張燕を討伐

明年春,遣使者持節拜俊右車騎將軍,振旅還京師,以為光祿大夫,增邑五千,更封錢塘侯,加位特進。以母喪去官,起家,複為將作大匠,轉少府、太僕。
185年に朱儁は、黄巾を討った褒美をもらった。

自黃巾賊後,複有黑山、黃龍、白波、左校、郭大賢、於氐根、青牛角、張白騎、劉石、左髭丈八、平漢、大計、司隸、掾哉、雷公、浮雲、飛燕、白雀、楊鳳、於毒、五鹿、李大目、白繞、畦固、苦晒之徒,並起山谷間,不可勝數。其大聲者稱雷公,騎白馬者為張白騎,輕便者言飛燕,多髭者號於氐根,大眼者為大目,如此稱號,各有所因。大者二三萬,小者六七千。
黄巾に連なる賊が、たくさんいます。大きい集団で、2万から2万。小さくても6千から7千。
賊の名前が不自然に勢ぞろいしている。どうやって記録に残ったのか。ぼくが報告者だったら、賊が名乗ったままに、記したくない。上司から、バカだと思われるのではないか。

賊帥常山人張燕,輕勇□捷,故軍中號曰飛燕。善得士卒心,乃與中山、常山、趙郡、上党、河內諸山谷寇賊更相交通,眾至百萬,號曰黑山賊。河北諸郡縣並被其害,朝廷不能討。燕乃遣使至京師,奏書乞降,遂拜燕平難中郎將,使領河北諸山谷事,歲得舉孝廉、計吏。
賊のトップは、常山の張燕である。燕平難中郎將に封じられ、半独立となった。

燕後漸寇河內,逼近京師,於是出俊為河內太守,將家兵擊卻之。其後諸賊多為袁紹所定,事在《紹傳》。複拜俊為光祿大夫,轉頓騎,尋拜城門校尉、河南尹。
張燕は、河内郡に進攻した。張燕は、洛陽に迫った。朱儁は、河内太守となり、張燕を討った。のちに袁紹が、朱儁の後始末をしてくれた。
狩野氏が補う。
『後漢書』袁紹伝より。191年、袁紹は韓馥から、冀州を奪った。193年4月に袁紹は、于毒を殺し、他の賊を討った。『三国志』武帝紀は、袁紹伝と同じ記述が、曹操を主語に書かれる。
205年に曹操に服するまで、張燕たちは10年も独立を保った。

朱儁による討伐と、袁紹による討伐は、つながってるのか!


董卓と、表面的には親しくする

時,董卓擅政,以俊雋宿將,外甚親納而心實忌。及關東兵盛,卓懼,數請公卿會議,徙都長安,俊輒止之。
朱儁は、外では董卓と親しくしたが、内では董卓を嫌った。
董卓は、長安への遷都を検討した。太尉の黄エン、司徒の楊彪が反対した。伍ケイと周ヒツも反対した。荀爽も反対した。
狩野氏曰く、
朱儁伝以外に、朱儁が遷都に反対したという記事はない。しかし、遷都に反対した顔ぶれを見ると、朱儁が混じっていても、おかしくない。

卓雖惡俊異己,然貪其名重,乃表遷太僕,以為己副。使者拜,俊辭不肯受。因曰:「國家西遷,必孤天下之望,以成山東之釁,臣不見其可也。」使者詰曰:「召君受拜而君拒之,不問徙事而君陳之,其故何也?」俊曰:「副相國,非臣所堪也;遷都計,非事所急也。辭所不堪,言所非急,臣之宜也。」使者曰:「遷都之事,不聞其計,就有未露,何所承受?」俊曰:「相國董卓具為臣說,所以知耳。」使人不能屈,由是止,不為副。
董卓は、朱儁を副官にしようと口説いた。失敗した。

いま、逐一訳しませんが、面白い押し問答です。


洛陽を守るが、董卓に殺される

卓後入關,儁守洛陽,而俊與山東諸將通謀為內應。既而懼為卓所襲,乃棄官奔荊州。
董卓は長安に移った。董卓は、朱儁に洛陽を守らせた。朱儁は、山東の諸侯と内応した。だが朱儁は、董卓に襲われるのを恐れた。官位を捨てて、荊州に逃げた。

史実として知らなかった。ふつうに面白い。

狩野氏は、荊州=劉表とする。本当か?
朱儁が頼ったのは、袁術かも知れないじゃないか。ちょうど、袁術と劉表が、荊州の主導権を争っている時期だ。

卓以弘農場懿為河南尹,守洛陽。俊聞,複進兵還洛,懿走。俊以河南殘破無所資,乃東屯中牟,移書州郡,請師討卓。徐州刺史陶謙遣精兵三千,餘州郡稍有所給,謙乃上俊行車騎將軍。董卓聞之,使其將李傕、郭汜等數萬人屯河南拒俊。俊逆擊,為傕、汜所破。俊自知不敵,留關下不敢複前。

董卓は、弘農の楊懿を河南尹にして、洛陽を守らせた。

弘農の楊氏って、三公の家柄、楊彪の親戚だろうか?

朱儁は、洛陽を奪い返した。洛陽が荒廃しているから、朱儁は東の中牟に駐屯した。李傕と郭汜に敗れた。朱儁は、洛陽に進むのをやめた。

洛陽を奪い返している。孫堅とどちらが先だろう?孫堅のあとに入ったなら、あまりインパクトがない。

いま思いついた。朱儁は、袁術と同盟している。洛陽は、袁術の手にある。孫堅が占領したから。孫堅では位が軽すぎるので、孫堅の元上司・朱儁にお出まし願った。

妄想が過ぎるなあ。
孫堅が、いつ、なぜ、朱儁から袁術に乗り換えたか。気になります。


陶謙による、学者さん大同盟を捨てる

及董卓被誅,傕、汜作戰,俊時猶在中牟。陶謙以俊名臣,數有戰功,可委以大事,乃與諸豪傑共推俊為太師,因移檄牧伯,同討李傕等,奉迎天子。乃奏記於俊曰: 徐州刺史陶謙、前楊州刺史周乾、琅邪相陰德、東海相劉馗、彭城相汲廉、北海相孔融、沛相袁忠、太山太守應劭、汝南太守徐璆、前九江太守服虔、博士鄭玄等,敢言之行車騎將軍河南尹莫府:國家既曹董卓,重以李傕、郭汜之禍,幼主劫執忠良殘敝,長安隔絕,不知吉凶。是以臨官尹人,搢紳有識,莫不憂懼,以為自非明哲雄霸之士,曷能克濟禍亂!自起兵已來,於茲三年,州郡轉相顧望,未有奮擊之功,而互爭私變,更相疑惑。謙等並共諮諏,議消國難。僉曰:「將軍君侯,既文且武,應運而出,凡百君子,靡不顒顒。」故相率厲,簡選精悍,堪能深入,直旨咸陽,多持資糧,足支半歲,謹同心腹,委之元帥。
陶謙が学者を集めて、同盟をつくった。李傕たちに対抗した。

陶謙は、袁紹からも袁術からも独立しようとした、第三勢力だと思う。だから、勝手なことをやっているのだ。


會李傕用太尉周忠、尚書賈詡策,征儁入朝。軍吏皆憚入關,欲應陶謙等。儁曰:「以君召臣,義不俟駕,況天子詔乎!且C765、汜小豎,樊稠庸兒,無他遠略,又勢力相敵,變難必作。吾乘其間,大事可濟。」遂辭謙議而就C765征,複為太僕,謙等遂罷。
李傕は、太尉の周忠(周瑜の大伯父)と、尚書の賈詡のアドバイスを聞き、朱儁を招いた。朱儁の部下は、陶謙に従おうと言った。だが朱儁は、献帝のお召しだしに応えた。陶謙に味方しなかった。

董卓に歯向かったくせに、李傕に味方するのは、なぜだろうか。袁紹、袁術、陶謙が分裂した。それに嫌気が差したのだろうか。


初平四年,代周忠為太尉,錄尚書事。明年秋,以日食免,複行驃騎將軍事,持節鎮關東。未發,會李傕殺樊稠,而郭汜又自疑,與傕相攻,長安中亂,故俊止不出,留拜大司農。獻帝詔俊與太尉楊彪等十余人譬郭汜,令與李傕和。汜不肯,遂留質俊等。俊素剛,即日發病卒。
193年、周忠に代わって、朱儁は太尉になった。李傕と郭汜が、喧嘩を始めた。献帝は、楊彪と朱儁に、李傕と郭汜の仲裁を命じた。
郭汜は、朱儁を人質にした。朱儁は怒り、その日のうちに死んだ。

子晧,亦有才行,官至豫章太守。
朱儁の子の朱晧は、豫章太守になった。

おわりに

辺境を平定し、黄巾を平定し、董卓に立ち向かうまでは、見事。しかし、山東の諸侯が自立するとき、どこの派閥にも入れなかったのが下手。さらにスケールの小さな話で、李傕と郭汜が対立したとき、どちらにも属せなかったのも、下手でした。
袁術との絡みでは、董卓から洛陽を取り戻したときに、朱儁がどんな役割を果たしたのか、着目したい。このころ袁術と、王朝のあるべき姿を話し合ったに違いあい。洛陽は、そういう話をしたくなる、象徴的な首都なのだ。
朱儁の2人の子、朱晧と朱符は、割拠した群雄として、袁術と張り合うことになる。子供たちは、時代に乗り遅れなかった。100429