01) 河内から洛陽、長安へ出世
「魏志」巻7より、呂布伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。
いよいよ「超メジャーな武将」ですが、カゲの主人公は袁術です。
月曜から載せていました更新予告「河内兵を-」と、タイトルが変わってしまいました。笑ってお見逃しください。
丁原を殺せる理由は、護衛係だから
呂布字奉先,五原郡九原人也。以驍武給並州。刺史丁原為騎都尉,屯河內,以布為主簿,大見親待。靈帝崩,原將兵詣洛陽。
呂布は、あざなを奉先という。五原郡の九原県の人だ。驍武により并州に就職した。
并州刺史の丁原は、騎都尉となり、河内に屯した。呂布は、丁原の主簿になった。
『後漢書』呂布伝は、ここで呂布が騎都尉になったとする。だが盧弼は、范曄のまちがいだと説明した。ぼくも、それでいいと思います。
・・・この河内郡が呂布を読むカギです。お忘れなく。
呂布は丁原に、おおいに親しく待遇された。霊帝が崩ずると、丁原は兵をひきいて、洛陽にいった。
范曄『後漢書』何進伝がいう。武猛都尉の丁原は、孟津を焼いた。火は(洛陽)城中を照らした。
章懐太子がいう。武猛とは、武芸があり、勇猛な人な人を、ほめた名称。官名にした。
盧弼が張楊伝をひく。張楊は、武勇があるから、并州に就職した。武猛従事となった。同じ意味である。
英雄記曰:原子建陽。本出自寒家,為人粗略,有武勇,善騎射。為南縣吏,受使不辭難,有警急,追寇虜,輒在其前。裁知書,少有吏用。
丁原は、寒家の出身だ。粗略だが武勇があった。南県吏となった。役人としては、それほど有能ではなかった。
與何進謀誅諸黃門,拜執金吾。進敗,董卓入京都,將為亂,欲殺原,並其兵眾。卓以布見信于原,誘布令殺原。布斬原首詣卓,卓以布為騎都尉,甚愛信之,誓為父子。
丁原は、何進とともに、宦官を殺す作戦を立てた。丁原は、執金吾になった。何進が敗れ、董卓が洛陽に入った。董卓は何進を殺し、丁原の兵を手に入れたいと思った。董卓は、呂布が丁原に信用されて(近くに)いるから、呂布に丁原を殺させた。
まあ、その護衛役に殺されちゃあ、世話ないが。
呂布は丁原の首を切った。董卓は呂布を、騎都尉とした。わが子のように、愛して信じた。
盧弼がいう。董卓が洛陽にきたとき、歩騎は3000を過ぎない。もし、丁原が死ななければ、董卓は丁原をはばかった。
董卓を殺せる理由は、護衛係だから
布便弓馬,膂力過人,號為飛將。稍遷至中郎將,封都亭侯。卓自以遇人無禮,恐人謀己,行止常以布自衛。然卓性剛而褊,忿不思難,嘗小失意,拔手戟擲布。布拳捷避之,為卓顧謝,卓意亦解。由是陰怨卓。卓常使布守中閤,布與卓侍婢私通,恐事發覺,心不自安。
呂布は、飛将と呼ばれた。中郎将に移り、都亭侯に封じられた。
董卓は、呂布に護衛させた。董卓が機嫌をそこね、呂布に手戟を投げつけた。呂布は避け、謝った。董卓の侍婢と私通した。
汪継熊がいう。歌劇の貂蝉である。
ぼくは思う。武器を投げられたり、侍女と通じたり。どちらも、呂布が董卓にピッタリくっついて行動するから、起きることです。人間だから、感情の起伏がある。呂布は、董卓の起伏に、全て付き合わされる。呂布じゃなくても、ストレスが溜まり、主人を殺したくなるのだ。笑
暗殺を恐れ、呂布を一瞬も離さない董卓。イメージが変わるかも?
先是,司徒王允以布州裏壯健,厚接納之。後布詣允,陳卓幾見殺狀。時允與僕射士孫瑞密謀誅卓,是以告布使為內應。布曰:「奈如父子何!」允曰:「君自姓呂,本非骨肉。今憂死不暇,何謂父子?」布遂許之,手刃刺卓。語在卓傳。
司徒は、王允である。
韓遂は樊稠に「あなたと私は、州里がすこし違うが、だいたい同じだ」と云った。同郷の仲間意識をいだくには、州が同じなら充分である。
胡三省がいう。韓遂は涼州の金城郡の人で、樊稠も同じ涼州の人だ。
この呂布伝のうち、あとで呂布は張楊に「あなたは州里の人だ」と云う。張楊は(呂布と違って)雲中県の人だが、同じ并州の人である。
王允は、呂布が同じ并州の人で、壮健だから、手厚く接した。王允は、僕射の士孫瑞の士孫瑞と、董卓を殺そうとした。
王允は「あなたは董卓の骨肉ではない」と云い、呂布を内応させた。
允以布為(奮威)〔奮武〕將軍,假節,儀比三司,進封溫侯,共秉朝政。布自殺卓後,畏惡涼州人,涼州人皆怨。由是李傕等遂相結還攻長安城。
呂布は、奮威将軍となった。
胡三省はいう。奮武将軍は、前漢の元帝のとき、初めて置かれた。
潘眉はいう。奮威とは、奮武とするべきだ。
『宋書』百官志がいう。呂布がなったのは、奮武将軍だ。奮威将軍と書いたのは、陳寿の誤りだ。
假節,儀比三司,温侯に封じられた。
ぼくは思う。呂布の終生の拠点は、并州でない。河内郡である。并州は、遠すぎる。
はじめ丁原に従い、河内郡にきた。いま王允により、河内郡に封じられた。路頭に迷うと、河内郡にくる。後から徐州に入るが、呂布軍は、河内郡の兵が主力だったと思われる。詳細は後述。
王允と呂布は、政権をにぎった。涼州人は呂布をにくんだ。李傕らは、長安城を攻めた。
英雄記曰:郭汜在城北。布開城門,將兵就汜,言「且卻兵,但身決勝負」。汜、布乃獨共對戰,布以矛刺中汜,汜後騎遂前救汜,汜、布遂各兩罷。
『英雄記』はいう。呂布と郭汜は、一騎打ちした。
呂布が、袁術のもとに逃げる
布不能拒,傕等遂入長安。卓死後六旬,布亦敗。將數百騎出武關,欲詣袁術。
呂布は、李傕らを防げない。李傕は、長安に入った。董卓が死んで60日で、呂布は敗れた。数百騎をひきい、武関から出た。呂布は、袁術にむかった。
臣松之案英雄記曰:諸書,布以四月二十三日殺卓,六月一日敗走,時又無閏,不及六旬。
裴松之が『英雄記』をみる。呂布は4月23日に董卓を殺した。
袁紀と『通鑑』は、4月丁巳とする。
呂布は、6月1日に長安から逃げた。閏月がないから、呂布と王允の天下は、60日に及ばない。
次回、袁術と袁紹を頼ります。「赤兎」の出典あり。