表紙 > 人物伝 > 袁術に徐州の経営を委任&期待された、一軍人の呂布伝

04) 『英雄記』と呂布軍の派閥

「魏志」巻7より、呂布伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

『英雄記』の整理: 丹楊兵、河内兵、呂布の子飼

前ページで、『英雄記』を読みました。
呂布は袁術と結び、劉備から徐州を奪いました。袁術が食糧をくれるというから、呂布は袁術に手を貸したのです。

「食糧を提供し、自分のために猛将を働かせる」と。袁術の呂布に対するやり方は、孫堅に対するやり方と同じだ。

だが袁術は、お膝もとの揚州で、収穫が減った。

袁術が、廬江の陸氏に、食糧を差し出せというのは、次の歳だっけ。袁術は、断られてしまった。全国的に、不作だったのですね。

袁術は、コンスタントに食糧を呂布に提供できない。呂布は袁術をにくんだ。約束違反は腹立たしいが、それより、兵を食わせられないという、現実的な問題がある。

呂布が養うべき徐州の兵には、大きく分けて3つの派閥がいる。

こんな整理の仕方を、いちども読んだことはない。ぼくが呂布伝を読んでいたら、何となくそう指摘できるような気がしただけ。委細後述。

陶謙が遺した「丹楊兵」と、呂布が丁原から継いだ「河内兵」と、呂布の子飼の部将たちです。
たしかに丹楊兵と河内兵は、呂布に従い、劉備の追い出しに協力した。だが彼らは、呂布に徐州を与えたかったのではない。経営能力がありそうな、袁術に徐州を与え、養ってもらいたかったのだ。呂布は、使い捨ての武器にすぎない。

もし呂布が、袁術を招き入れるまでの短期間ですら、食糧を確保できなければ、どうなるか。河内兵たちは、すぐに呂布を殺すだろう。

案の定、つぎの裴注『英雄記』で、河内兵が呂布に叛乱します。

河内の郝萌が、下邳で呂布に叛乱する

建安元年六月夜半時,布將河內郝萌反,將兵入布所治下邳府,詣事閤外,同聲大呼攻閤,閤堅不得入。布不知反者為誰,直牽婦,科頭袒衣,相將從溷上排壁出,詣都督高順營,直排順門入。順問:「將軍有所隱不?」布言「河內兒聲」。順言「此郝萌也」。順即嚴兵入府,弓弩並射萌眾;萌眾亂走,天明還故營。萌將曹性反萌,與對戰,萌刺傷性,性斫萌一臂。順斫萌首,床輿性,送詣布。布問性,言「萌受袁術謀。」「謀者悉誰?」性言「陳宮同謀。」時宮在坐上,面赤,傍人悉覺之。布以宮大將,不問也。性言「萌常以此問,性言呂將軍大將有神,不可擊也,不意萌狂惑不止。」布謂性曰:「卿健兒也!」善養視之。創愈,使安撫萌故營,領其眾。

建安元年6月夜半、呂布の部将・河内の郝萌が、呂布に叛いた。呂布は「叛いた奴には、河内郡のなまりがあった」と云った。高順は「それは郝萌だ」と答えた。

ぼくは思う。『英雄記』は創作です。だが一面の真理を探そう。呂布軍内には、郝萌をトップとする、河内の派閥がいた。高順のように、個人的に呂布を慕う人から見て、河内閥は脅威だった。とか?
呂布は丁原に従い、はじめ河内にきた。丁原は、河内の兵を集め、洛陽に入った。河内兵は、丁原-董卓-呂布に従い、放浪した。呂布は、河内兵を食わせるために、就職先や根拠地を探した。
袁術から物資を盗んだのは、河内兵を養うため。袁紹に増兵を頼んだのは、河内兵の重みを削ぐため。
河内郡の農地は、李傕らに荒らされた。河内兵たちは故郷に帰れないから、呂布に従う。だが、呂布に忠誠を誓っているのではない。下へつづく。

郝萌は、呂布の根拠地・下邳を襲った。

呂布が袁術と袁紹に干され、行き場を失ったとき、河内郡に行った。心細いとき、最後の寄る辺なんだ。だが、このとき呂布は、張楊&河内郡の人に殺されかけた。養うキャパのない大将は、河内兵から見たら、要らない。殺してしまえばいい。
すでに、これも『英雄記』で見たように呂布は、武力を使わず、トンチで切り抜けた。呂布は、河内兵を敵に回せなかった。
以下、ぼくの妄想。
呂布がこんな苦しみを味わうのは、故郷の并州に帰れないからだ。并州に帰って国を保てば、張燕より強かったはずなのに。なぜか。故郷の丁原を殺し、故郷の王允を見殺しにしたからだ。
はじめ呂布は、単なる護衛係だった。身の丈にあった役目である。呂布には、人を養うという、経営者の発想は、なかった。しかし呂布は、丁原や董卓を殺したから、成り行きで、養うべき河内兵が付いてきてしまった。河内兵は「呂布は、丁原の後継者だろう。オレたちを養え」と求めた。
このころ呂布が「袁術は食糧をよこさない」と怒るのは、利に敏いからではない。河内兵を食わせられないから。

呂布は、郝萌を武力で鎮圧した。郝萌の部将・曹性は、郝萌を裏切って、呂布についた。呂布は曹性に、郝萌の兵を任せた。

河内兵を解体し、呂布の直轄にすることは、できない。郝萌は斬ることができたが、後任の指揮官は、河内の部将の中から、見繕わねばならない。
半独立した河内兵を抱える、呂布の苦悩が、見えてきます。

陳宮は、郝萌と同謀したことがバレた。呂布は、陳宮が「大将」なので、追及しなかった。

陳宮は、袁術の「非侵略」という方針に、共感している様子だ。陳宮は、徐州を袁術に差し出したかった。そのために、飢えた河内兵に対して「袁術は頼りがいがあるぞ」と宣伝し、暴発させたのかも。
袁術は「群雄としての呂布」にとっては、謀反人である。徐州での独立を、失敗させようとした。だが、「個人としての呂布」にとり、恩人かも知れない。河内兵を養う義務から、呂布を解放させてくれた。安眠できる。


以上、『英雄記』をもとに、呂布軍で派閥を形成する河内兵、呂布と袁術の食糧事情について見てきました。話が分岐し、進んでしまいましたが、次ページから、陳寿に戻ります。
念のために、直前の陳寿の文を、再掲載しておきます。

備東擊術,布襲取下邳,備還歸布。布遣備屯小沛。布自稱徐州刺史。

劉備は東に、袁術を擊った。呂布は、下邳を襲い取った。劉備はもどり、呂布に帰順した。呂布は劉備に、小沛へいかせた。 呂布は、徐州刺史を自称した。 (再掲載おわり)

『英雄記』を頭から、たたき出してください。兗州で曹操と泥仕合をして、徐州に移ってきた直後だ。袁術と呂布の関係は、とくに問題がない。頭をすこし巻き戻して、次ページへどうぞ。