表紙 > 人物伝 > 袁術に徐州の経営を委任&期待された、一軍人の呂布伝

08) 呂布に政治を期待したのが失敗

「魏志」巻7より、呂布伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

河内兵、丹楊兵らを制御できなかった呂布

布雖驍猛,然無謀而多猜忌,不能制禦其黨,但信諸將。諸將各異意自疑,故每戰多敗。太祖塹圍之三月,上下離心,其將侯成、宋憲、魏續縛陳宮,將其眾降。

呂布は、個人的な武勇には優れたが、頭も性格も悪かった。兵たちを制御できず、ただ諸将だけを信じた。

ちくまは「党」を「身内の者」とする。妻のこと?
ぼくは、丹楊兵とか河内兵を指すと思う。兵たちは、呂布の主力を形成しつつも、忠誠心はない。食糧の供給を求める、烏合の衆である。命令系統が整備されていない。扱いづらい。

諸将の意見は割れた。呂布は、戦うたびに敗れた。曹操は下邳城を、3ヶ月包囲した。

盧弼はいう。武帝紀は包囲の期間を、ひと月余りとする。曹操は、10月に下邳に着いた。同じ季節の記事内で、呂布を殺したとある。3ヶ月でなく、ひと月余りが正解だろう。
ぼくは思う。包囲期間が、短いなあ。呂布の自立は、ほぼ風前の灯だった。バランスを取って政治できなかった点、陶謙の死後、劉備が失敗したことに通じる。・・・陶謙、どうやったんだろう。笑
「徐州の支配」というより、「下邳城の保持」すら、難しかった。

宋憲と魏続は、陳宮をしばり、曹操に降った。

九州春秋曰:初,布騎將侯成遣客牧馬十五匹,客悉驅馬去,向沛城,欲歸劉備。成自將騎逐之,悉得馬還。諸將合禮賀成,成釀五六斛酒,獵得十餘頭豬,未飲食,先持半豬五鬥酒自入詣布前,跪言:「間蒙將軍恩,逐得所失馬,諸將來相賀,自釀少酒,獵得豬,未敢飲食,先奉上微意。」布大怒曰:「布禁酒,卿釀酒,諸將共飲食作兄弟,共謀殺布邪?」成大懼而去,棄所釀酒,還諸將禮。由是自疑,會太祖圍下邳,成遂領眾降。

呂布は酒がらみで、侯成と対立した。侯成は、曹操に降った。

細かい話を、どこまで拾うべきか分かりません。ともかく呂布は、軍馬や食べ物などを調達する、経営手腕がなくて、臣下の心を手放しました。


ひとりの軍人の最期

布與其麾下登白門樓。兵圍急,乃下降。遂生縛布,布曰:「縛太急,小緩之。」太祖曰:「縛虎不得不急也。」布請曰:「明公所患不過於布, 今已服矣,天下不足憂。明公將步,令布將騎,則天下不足定也。」太祖有疑色。劉備進曰:「明公不見布之事丁建陽及董太師乎!」太祖頷之。布因指備曰:「是兒最叵信者。」

呂布は生け捕られた。呂布は、曹操に自分を売り込んだ。
あなたがもっとも厄介に思うのは、この呂布でした。いま私は、あなたに服従しました。あなたは歩兵を率い、私に騎馬を率いさせてください。たちまち天下は定めるでしょう」

往生際が悪いのではない。君主の面倒な責務を負わず、ただ戦うことが、呂布の理想的な生き方だ。呂布のキャラは、一貫している。
思えば呂布は、徐州の人が、徐州に袁術を迎えるまでの間、仮置きされただけ。呂布に政治の才能がないことは、諒解ずみだった。むしろ才能がないから、据えられたのだ。逆に、安定されたら困る。
呂布の立場は、陶謙死後の劉備と同じだ。たまたま劉備は袁術に叛いたから、代わりに呂布が置かれただけ。袁術がくるまで、守る部将の役目。
不作により、袁術の北上が遅れたから、曹操が徐州を奪った。

曹操は迷った。劉備が、曹操に口ぞえした。
「あなたは、丁原さまと董卓さまが、呂布にどういう目に遭わされたか、お忘れではないでしょうね」
曹操は頷いた。 呂布は劉備を指して云った。
「こいつが、もっとも信用できんのだ」

劉備は、多くの裏切りをした。近いところでは、袁術を裏切った。


英雄記曰:布謂太祖曰:「布待諸將厚也,諸將臨急皆叛布耳。」太祖曰:「卿背妻,愛諸將婦,何以為厚?」布默然。
獻帝春秋曰:布問太祖:「明公何瘦?」太祖曰:「君何以識孤?」布曰:「昔在洛,會溫氏園。」太祖曰:「然。孤忘之矣。所以瘦,恨不早相得故也。」布曰:「齊桓舍射鉤,使管仲相;今使布竭股肱之力,為公前驅,可乎?」布縛急,謂劉備曰:「玄德,卿為坐客,我為執虜,不能一言以相寬乎?」太祖笑曰:「何不相語,而訴明使君乎?」意欲活之,命使寬縛。主簿王必趨進曰:「布,勍虜也。其眾近在外,不可寬也。」太祖曰:「本欲相緩,主簿複不聽,如之何?」

『英雄記』がいう。曹操は呂布に云った。「諸将の妻に手を出しておきながら、どうして呂布は、諸将を厚遇したと云えるのか」と。
『献帝春秋』がいう。曹操は呂布に云った。「むかし会ったときより、痩せましたね。いま主簿の王必が許さないから、あなたの縄を緩めることが、できないなあ」と。

どちらも、読んで楽しい小説です。
王必の名は、武帝紀の建安23年にある。


於是縊殺布。布與宮、順等皆梟首送許,然後葬之。

ここにおいて、呂布は縊り殺された。呂布と陳宮、高順の首は、許都に送られた。のちに葬られた。

英雄記曰:順為人清白有威嚴,不飲酒,不受饋遺。所將七百餘兵,號為千人,鎧甲鬥具皆精練齊整,每所攻擊無不破者,名為陷陳營。順每諫布,言「凡破家亡國,非無忠臣明智者也,但患不見用耳。將軍舉動,不肯詳思,輒喜言誤,誤不可數也」。布知其忠,然不能用。布從郝萌反後,更疏順。以魏續有外內之親,悉奪順所將兵以與續。及當攻戰,故令順將續所領兵,順亦終無恨意。

『英雄記』はいう。高順は、呂布に忠誠を尽くした人だ。

陳宮は、袁術との連合を唱えつづけた

太祖之禽宮也,問宮欲活老母及女不?宮對曰:「宮聞孝治天下者不絕人之親,仁施四海者不乏人之祀,老母在公,不在宮也。」太祖召養其母終其身,嫁其女。

曹操は、陳宮を捕えた。「老母と娘を、生かしたいか」と聞いた。

沈家本は『典略』をひき、陳宮には妻子(妻と男子)があったとする。陳宮は「一族の祭祀を絶やさず」と云っている。男子がいたんだろう。娘だけではない。陳寿が間違えたのだ。

曹操は、陳宮の母を養い、娘を嫁がせた。

魚氏典略曰:陳宮字公台,東郡人也。剛直烈壯,少與海內知名之士皆相連結。及天下亂,始隨太祖,後自疑,乃從呂布,為布畫策,布每不從其計。下邳敗,軍士執布及宮,太祖皆見之,與語平生,故布有求活之言。太祖謂宮曰:「公台,卿平常自謂智計有餘,今竟何如?」宮顧指布曰:「但坐此人不從宮言,以至於此。若其見從,亦未必為禽也。」

魚氏『典略』がいう。陳宮は、あざなを公台。東郡の人だ。

『後漢書』呂布伝がいう。興平元年に曹操は、武揚の人・陳宮を、東郡においた。陳宮は、東郡の武揚県の人だと分かる。

剛直烈壯で、名を知られ、友人が多かった。曹操に仕えたが、のちに呂布に従った。呂布は、陳宮の計略を、いつも用いなかった。

陳宮は名士だ。袁術-張邈-陳宮の友情のこと、袁紹や曹操とはちがう、非戦略主義について、すでに書きました。

曹操は下邳で、陳宮を捕らえた。「陳宮は、なぜ負けたのかね?」
陳宮は答えた。「呂布が私の云うことを聞かなかったからだ」

盧弼は黄山をひく。これは、呂布が外に出ず、籠城をしたことだと。
ぼくは思う。陳宮はもっと大きな話をしている。呂布が、さっさと袁術を徐州に招いていれば、捕虜にならなかったと。陳珪が韓嵩を殺したとき、袁術の将軍・張勲が攻めてきた。あのとき、陳珪を殺して、袁術に詫びてれば、曹操の捕虜にならなかったのに!
献帝は、呂布が倒した董卓の立てた皇帝だ。呂布が献帝と敵対することは、行動に一貫性がある。敵対していい。しかし「徐州牧にしますよ」という言葉に惑わされ、呂布は陳珪を切れなかった。呂布は兵を養うため、牧として得られる税金や給与が、すぐにでも必要だったから。運転資金として。
これを陳宮は、恨みに思っている。・・・以上、妄想でした。


太祖笑曰:「今日之事當雲何?」宮曰:「為臣不忠,為子不孝,死自分也。」太祖曰:「卿如是,奈卿老母何?」宮曰:「宮聞將以孝治天下者不害人之親,老母之存否,在明公也。」太祖曰:「若卿妻子何?」宮曰:「宮聞將施仁政於天下者不絕人之祀,妻子之存否,亦在明公也。」太祖未複言。宮曰:「請出就戮,以明軍法。」遂趨出,不可止。太祖泣而送之,宮不還顧。宮死後,太祖待其家皆厚於初。

曹操は、陳宮の遺族の面倒をみた。

胡三省がいう。曹操は、孔融の遺族の面倒をみなかった。陳宮の遺族だって同じで、きっと生活に困ったのだろう。


おわりに:部下を信頼しすぎる袁術

呂布伝のあとに続く、陳登伝は、また後日やります。
ぼくは思います。袁術は、ただの武人に過ぎない部下に、君主のような役割を期待した。孫堅や孫策、呂布がそうである。
気前よく、権限を委譲する袁術は、とても度量の大きな「皇帝」である。しかし、荷が重過ぎる。期待のしすぎである。孫策も呂布も、統治に失敗して、ろくな死に方をしなかった。

名士出身でない人を、名士なみに扱う。これは、当時の風潮として、誰もやっていないことだ。袁術さんは、人物が大きいなあ。笑

袁術は呂布から、さっさと兵と国を取り上げ、護衛役が騎兵隊長にしていれば、袁術にとっても呂布にとっても、幸せでした。成功できたはずだ。呂布、残念な人でした。100610