表紙 > 人物伝 > 袁術に徐州の経営を委任&期待された、一軍人の呂布伝

06) 呂布は韓胤を斬っていない

「魏志」巻7より、呂布伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

陳珪が韓胤を殺し、呂布の許可なく、袁術と断交する

沛相陳珪恐術、布成婚,則徐、揚合從,將為國難,於是往說布曰;「曹公奉迎天子,輔贊國政,威靈命世,將征四海,將軍宜與協同策謀,圖太山之安。今與術結婚,受天下不義之名,必有累卵之危。」布亦怨術初不己受也,女已在塗,追還絕婚,械送韓胤,梟首許市。

沛国の陳珪は、恐れた。袁術と呂布が姻戚となり、徐州と揚州がむすび、国難となることを。陳珪は呂布に、曹操の正統性を説いた。呂布は、袁術に拒まれたことを思い出して怨み、娘を連れ戻した。

盧弼がいう。拒まれたのは、初平三年のことだ。
ぼくは思う。陳寿は、袁術が呂布を、はじめから拒んだとした。范曄は、袁術が呂布を、厚く持てなしたとした。正反対である。どちらが正しいか、分からない。
陳寿は、このとき呂布が娘を連れ戻す理由を説明するため、初平三年の記事で、袁術に呂布を冷遇させたのでは? 事実か否か、検討の余地がある。

呂布は、袁術の使者・韓胤の首を、許都に送った。

范曄『後漢書』がいう。呂布は韓胤をとらえ、許都に送った。曹操が韓胤を殺した。
ぼくは思う。『後漢書』で呂布は、袁術に敵意がない。なぜなら『後漢書』では、長安が陥落した後、袁術が呂布を冷遇していないから。怨む理由がないのだ。どうやら、陳珪が勝手に、袁術の使者を許都に送って殺し、婚姻を失敗させたのでは。呂布の意思に反して。
曹操は「袁術と呂布を裂くため、韓胤を殺した」のだ。汚いやり方だ。袁術は、こういう汚さを実践しないから、負けたのだろう。「勝てば官軍」という言葉を知らなかった。
いま、
韓胤が許都で死ねば、袁術は怒るだろう。呂布は、怒った袁術に娘を送るのは危険だから、やむなく道の途中で連れ戻した、とか。出来事は同じでも、意味を組み替えるだけで、呂布の意思がちがって読める。


珪欲使子登詣太祖,布不肯遣。會使者至,拜布左將軍。布大喜,即聽登往,並令奉章謝恩。

陳珪は、子の陳登を曹操に送りたい。呂布は許さず。

沛国の陳氏が、袁術のジャマをするのは、一族・陳瑀の恨み。また陳氏の沛国は、豫州である。「揚州と徐州がむすぶのを嫌った」とか、徐州を他人事みたいに書くのは、このためかな。
袁術派の呂布は、陳氏の真意をどこまで見抜いたか怪しい。だが、何もないのに、陳登の派遣をゆるす理由はない。韓胤が死に、袁術との関係が壊れかかっている。曹操への接近は、慎重にやりたい。

たまたま曹操から使者がきて、呂布を左将軍とした。呂布は大いに喜び、感謝を述べるため、陳登を曹操に送った。

官位を贈って手なずけるのは、天子を得た曹操の特権。曹操は、袁術が呂布に送った官位より、高いものをプレゼントしたはず。でないと、呂布を丸め込めない。


英雄記曰:初,天子在河東,有手筆版書召布來迎。布軍無畜積,不能自致,遣使上書。朝廷以布為平東將軍,封平陶侯。使人於山陽界亡失文字,太祖又手書厚加慰勞布,說起迎天子,當平定天下意,並詔書購捕公孫瓚、袁術、韓暹、楊奉等。布大喜,複遣使上書於天子曰:「臣本當迎大駕,知曹操忠孝,奉迎都許。臣前與操交兵,今操保傅陛下,臣為外將,欲以兵自隨,恐有嫌疑,是以待罪徐州,進退未敢自寧。」答太祖曰:「布獲罪之人,分為誅首,手命慰勞,厚見褒獎。重見購捕袁術等詔書,布當以命為效。」太祖更遣奉車都尉王則為使者,齎詔書,又封平東將軍印綬來拜布。太祖又手書與布曰:「山陽屯送將軍所失大封,國家無好金,孤自取家好金更相為作印,國家無紫綬,自取所帶紫綬以籍心。將軍所使不良。袁術稱天子,將軍止之,而使不通章。朝廷信將軍,使複重上,以相明忠誠。」布乃遣登奉章謝恩,並以一好綬答太祖。

『英雄記』がいう。献帝は、呂布を平東將軍とし、平陶侯に封じた。

平陶とは、并州太原郡の下にある。

呂布は袁術をなじり、献帝への忠誠を誓った。

『英雄記』は、ストーリーを惑わすから、信じちゃいけない。もし陳寿のいうとおり、呂布が袁術に正面から敵対したとしたら、こんな手紙の交換があったかもなあ、と。そういうイフ物語として、読み流したい。


曹操と陳珪が、トラとタカの比喩で、呂布をだます

登見太祖,因陳布勇而無計,輕於去就,宜早圖之。太祖曰:「布,狼子野心,誠難久養,非卿莫能究其情也。」即增珪秩中二千石,拜登廣陵太守。臨別,太祖執登手曰:「東方之事,便以相付。」令登陰合部眾以為內應。

陳登は、曹操と会った。陳登は、曹操から広陵太守にしてもらった。曹操は陳登の手を取り「徐州のことは、キミの頼んだ」と云った。

広陵とは、袁術が徐州に入るとき、必ず通過する南部の郡である。
曹操は、人をだます。パフォーマンスは、見え透いている。曹操は、陳氏が袁術を怨むことを、利用したのでは。「陳登が死んでも構わない」くらいの気持ちで、陳登を広陵太守にしたのかも。
わざと、物議をかもしそうな官位を、陳登に与えた。ひどい。


始,布因登求徐州牧,登還,布怒,拔戟斫幾曰:「卿父勸吾協同曹公,絕婚公路;今吾所求無一獲,而卿父子並顯重,為卿所賣耳!卿為吾言,其說雲何?」登不為動容,徐喻之曰;「登見曹公言:'待將軍譬如養虎,當飽其肉,不飽則將噬人。'公曰:'不如卿言也。譬如養鷹,饑則為用,飽則揚去。'其言如此。」布意乃解。

はじめ呂布は、陳登を送るとき「オレを徐州牧にしてもらってくれ」と頼んでおいた。だが曹操は、呂布を徐州牧にしない。呂布は戟を抜き、机を斬って陳登に云った。
「陳珪はオレに、曹操と協同しろと勧めた。袁術との婚姻をやめた。いまオレは徐州牧になれず、陳珪と陳登が昇進しただけだ。オレを売りやがったな」
陳珪は動ぜず、ゆっくりと云った。
「私の子・陳登は、曹操に云いました。呂布将軍を待遇するには、虎を養うのと同じようにしなさい。肉を腹いっぱい食わせれば、人を噛みませんと。曹操は陳登に云いました。そうではない。鷹を養うのと同じようにすべきだ。腹を空かしてこそ、役に立つ。腹がふくれれば、去ってしまうと。呂布将軍が、徐州牧にならなかったのは、こういう考えに基づきます」

陳寿がこれを書いたのは、呂布をバカ扱いするためだと思う。トラだタカだと、勇ましい動物に例えられた。それだけで、何を云われているのかも分からず、喜んでしまった。
陳寿ないしは王沈を読むとき、曹操がらみの逸話は、注意すべきだ。魏室万歳!の補正がかかっているから。

呂布は、怒りを解いた。

ぼくの読み方では、呂布は袁術派だ。袁術との関係が大切なのに、陳珪が勝手に、韓胤を死なした。袁術との関係が悪くなった。責任問題だ。陳珪は「袁術は呂布さんを、徐州刺史にした。だが曹操なら、呂布さんを徐州牧にしてくれる。だから韓胤が死んだことを、怒るな」と云った。しかし、陳珪の約束は、果たされなかった。きっと呂布は、陳珪のつくった状況に、納得していない。トラだ、タカだ、は後づけだ。
なぜ呂布は、徐州牧になりたいか。徐州から、たっぷり税収を得るためだ。権力と、金さえあれば、徐州の士大夫、河内兵、丹楊兵らを抑える。


「物資を供給する」約束を破るのは、曹操のやり方

術怒,與韓暹、楊奉等連勢,遣大將張勳攻布。布謂珪曰:「今致術軍,卿之由也,為之奈何?」珪曰:「暹、奉與術,卒合之軍耳,策謀不素定,不能相維持,子登策之,比之連雞,勢不俱棲,可解離也。」布用珪策,遣人說暹、奉,使與己並力共擊術軍,軍資所有,悉許暹、奉。於是暹、奉從之,勳大破敗。

袁術は、呂布に怒った。袁術は、韓暹と楊奉らとむすび、大将の張勲をやり、呂布を攻めた。

『後漢書』呂布伝がいう。袁術は、大将の張勲と橋ズイをやり、韓暹と楊奉とむすんだ。歩騎数万、7道から呂布を攻めた。呂布は、兵が3千で、馬は400だけ。呂布は、袁術に勝てないことを懼れた。
ぼくは思う。『後漢書』はいつも数字が具体的。詳細な史料に基づくのか、成立年代が離れすぎて、開き直り、逆にテキトーなのか。それにしても、呂布軍は少ない。これが刺史の動員兵力だ。牧なら、もっと多い。

陳珪は、韓暹と楊奉に、物資の提供を約束した。韓暹と楊奉は、袁術から呂布に寝返った。

呂布は、貧しい。韓暹と楊奉に、差し出せる物資はない。そのくせ、陳珪は物資をあげると、ウソをついた。約束違反なのは、袁術じゃなく、陳珪(&曹操)である。このころ史書が記録する、袁術の約束やぶりは、曹操のやり方を、主語を変えて、袁術に押し付けたものでは?
楊奉と韓暹は、崩壊寸前にまで、飢えていたんだろう。

同盟相手を失った張勲は、呂布に大破された。

九州春秋載布與暹、奉書曰:「二將軍拔大駕來東,有元功於國,當書勳竹帛,萬世不朽。今袁術造逆,當共誅討,奈何與賊臣還共伐布?布有殺董卓之功,與二將軍俱為功臣,可因今共擊破術,建功於天下,此時不可失也。」暹、奉得書,即回計從布。布進軍,去勳等營百步,暹、奉兵同時併發,斬十將首,殺傷墮水死者不可勝數。

『九州春秋』は、呂布が、韓暹と楊奉に送った手紙を載せる。曹操の正統を語る内容だ。

手紙は、いくらでも後づけできる。いま『九州春秋』を否定して、呂布が積極的に曹操を支持したわけではなさそう、と云っても、不当ではないと思う。後世に書かれた本は、みな曹操を万歳するだろうから。
陳珪が韓胤を殺すから、呂布は仕方なく袁術と戦うハメになっただけ。ただ呂布は、座して死を待つ人じゃないから、袁術の攻撃に、抵抗したけどね。いくらぼくが、「呂布は袁術派であった」と強調する立場でも、合戦の記述を無視はできない。笑

韓暹と楊奉は、袁術の部将10人の首を斬った。袁術軍で、川に堕ちて死んだ人は、数え切れない。

『後漢書』呂布伝がいう。韓暹と楊奉は、呂布に手紙をもらい、大いに喜んだ。下邳で、張勲を討った。橋ズイを生け捕った。
盧弼はいう。武帝紀の建安2年9月、曹操は橋ズイらを破った。
『通鑑考異』はいう。橋ズイは呂布に捕えられたが、逃がされたか。でないと橋ズイが、曹操に破られることはない。「魏志」呂布伝には、橋ズイの記述がない。『後漢書』が、誤って橋ズイのことを書いたのか。
ちなみに。石井仁氏は、橋ズイを「橋玄に連なる人物」とした。橋玄の避難先は南方だ。袁術を頼ったのだろう。橋氏は、袁術に協力したのだろうと。二喬も袁術の下にいて、孫策と周瑜に嫁いだ、と。


英雄記曰:布後又與暹、奉二軍向壽春,水陸並進,所過虜略。到鍾離,大獲而還。既渡淮北,留書與術曰:「足下恃軍強盛,常言猛將武士,欲相吞滅,每抑止之耳!布雖無勇,虎步淮南,一時之間,足下鼠竄壽春,無出頭者。猛將武士,為悉何在?足下喜為大言以誣天下,天下之人安可盡誣?古者兵交,使在其間,造策者非布先唱也。相去不遠,可複相聞。」布渡畢,術自將步騎五千揚兵淮上,布騎皆于水北大咍笑之而還。

『英雄記』はいう。呂布は、韓暹と楊奉とともに、寿春に向かった。呂布は、袁術をけなした。

呂布が袁術を叩きのめしたという、勇ましい「小説」だ。
陳寿は次の文で、袁術と呂布が関係を修復させる。呂布が、正当防衛?で袁術に歯向かうことは、あるでしょう。死にたくないから。しかし、言わなくてもいい悪口を、わざわざ言うとは思えない。
『英雄記』は、袁術をピエロに単純化する。信じなくていい。


次回、ちょっと臧覇について見ます。