表紙 > 人物伝 > 袁術に徐州の経営を委任&期待された、一軍人の呂布伝

03) 食糧を配り、袁術が徐州を得る

「魏志」巻7より、呂布伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

張邈&呂布が起ち、袁紹&曹操の侵略主義に対抗

興平元年,太祖複征謙,邈弟超,與太祖將陳宮、從事中郎許汜、王楷共謀叛太祖。宮說邈曰:「今雄傑並起,天下分崩,君以千里之眾,當四戰之地,撫劍顧眄,亦足以為人豪,而反制於人,不以鄙乎!今州軍東征,其處空虛,呂布壯士,善戰無前,若權迎之,共牧兗州,觀天下形勢,俟時事之變通,此亦縱橫之一時也。」邈從之。

興平元年、ふたたび曹操は、陶謙を攻めた。張邈の弟・張超、曹操の部将・陳宮、從事中郎の許汜と王楷は、曹操に叛いた。

「魏志」高柔伝がいう。高柔は、陳留郡の人。高柔は、郷里の人に云った。「太守の張邈さんは、ここ陳留で、すでに志を得た。(曹操に攻められて)陳留が戦場になるのが恐い。皆さんと避難したいのだが」と。みなは、張邈と曹操が仲がいいので、高柔の心配を無視した。
盧弼は引用していないが、高柔は、高幹の従弟だ。もちろん高幹とは、袁紹の甥だ。曹操の足元・陳留に、袁紹の血縁がいた。その人が、張邈と曹操の決裂を、予想した。つながりが不思議な感じだ。
『通鑑』がいう。前の九江太守で、陳留出身の辺譲は、曹操をそしった。曹操は、辺譲と妻子を殺そうとした。兗州の士大夫は、曹操を恐れた。陳宮も内心で、曹操に疑問をもった。
ぼくは思う。辺譲は、とっくに死んでいる。陳琳の創作?らしいです。

陳宮は情勢を分析し、張邈に挙兵を勧めた。張邈は、挙兵した。

『後漢書』では、数字が具体的だ。張邈が10万人を持っていると。


太祖初使宮將兵留屯東郡,遂以其眾東迎布為兗州牧,據濮陽。郡縣皆應,唯鄄城、東阿、范為太祖守。太祖引軍還,與布戰於濮陽,太祖軍不利,相持百餘日。是時歲旱、蟲蝗、少谷,百姓相食,布東屯山陽。二年間,太祖乃盡複收諸城,擊破布於钜野。布東奔劉備。

陳宮は、呂布を兗州牧に迎えた。曹操が保つのは、3城のみ。濮陽で、呂布が勝った。食糧不足で、休戦。曹操が、兗州を回収した。呂布は、東に劉備を頼った。

くわしい戦争の経過は、太祖武帝紀と比べて、確認しましょう。


英雄記曰:布見備,甚敬之,謂備曰:「我與卿同邊地人也。布見關東起兵,欲誅董卓。布殺卓東出,關東諸將無安布者,皆欲殺布耳。」請備於帳中坐婦床上,令婦向拜,酌酒飲食,名備為弟。備見布語言無常,外然之而內不說。

『英雄記』はいう。呂布は、同じ辺境出身だから、劉備を弟と呼んだ。

「何をするにも、名声と人脈が必要。オレたちは不利だよね」と。

劉備は内心で、呂布をウザいと思った。

邈從布,留超將家屬屯雍丘。太祖攻圍數月,屠之,斬超及其家。邈詣袁術請救未至,自為其兵所殺。

張邈は、呂布に従った。張邈は、弟・張超に、家属を率いさせて、雍丘を守らせた。曹操は雍丘を、数ヶ月、包囲した。曹操は、張超と家族を殺した。

銭大昭が武帝紀をひく。雍丘が潰えて、張超は自殺した。張超は、曹操に斬られたのではない。

張邈は、袁術を頼った。袁術に到着する前に、自軍の兵に殺された。

陳宮や張邈の黒幕が、袁術だったことが分かる。一般に袁術は人望がなく、浮き上がった人だとされる。しかし、後漢の八廚である張邈が、生死の境をさまよい、袁術を頼った。見落としてはいけない。


獻帝春秋曰:袁術議稱尊號,邈謂術曰:「漢據火德,絕而複揚,德澤豐流,誕生明公。公居軸處中,入則享于上席,出則為眾目之所屬,華、霍不能增其高,淵泉不能同其量,可謂巍巍蕩蕩,無與為貳。何為舍此而欲稱制?恐福不盈眥,禍將溢世。莊周之稱郊祭犧牛,養飼經年,衣以文繡,宰執鸞刀,以入廟門,當此之時,求為孤犢不可得也!」按本傳,邈詣術,未至而死。而此雲諫稱尊號,未詳孰是。

『献帝春秋』はいう。張邈は、袁術の皇帝即位を諌めた。

裴松之も盧弼も、ウソだと云っている。訳しません。ここでは『献帝春秋』がデタラメだと、暴露しただけだ。笑
もし張邈が生き残っていれば、袁術を支持したかも知れない。


袁術は、食糧と恩徳をくばり、徐州を得ようとする

備東擊術,布襲取下邳,備還歸布。布遣備屯小沛。布自稱徐州刺史。

劉備は東に、袁術を擊った。呂布は、下邳を襲い取った。劉備はもどり、呂布に帰順した。呂布は劉備に、小沛へいかせた。

胡三省がいう。沛国の治所は、沛県だ。このとき小沛と呼ぶ。

呂布は、徐州刺史を自称した。

『後漢書』呂布伝がいう。劉備は下邳で、徐州を治めた。淮水で、袁術と戦った。袁術は呂布を味方につけ、劉備を撃とうとした。呂布は袁術から手紙をもらい、おおいに悦んだ。劉備の本拠・下邳を襲い、妻子を捕えた。劉備は海西に逃げた。劉備は飢えて、呂布に降伏した。
だが袁術は、約束をやぶり、呂布に食糧を送らない。呂布は、怒った。車馬をそなえ、呂布は劉備を迎えた。劉備を豫州刺史にして、小沛に行かせた。呂布は徐州牧を名乗った。袁術は、呂布と敵対するのを懼れて、婚姻を申し出た。呂布は、認めた。
さて、
ぼくは思う。徐州の勢力が、同盟相手をかえる動機は、すべて食糧だ。呂布が袁術に従った理由、劉備が呂布に従った理由、呂布が袁術に怒った理由。すべて食糧である。徐州は、曹操のせいで、飢えているのだ。呂布も劉備も、配下の兵を食わせられれば、戦略や正義は関係ない。だから経過を追っても、分かりにくい。
袁術は、食糧を配ることで、徐州への影響力を確保しようとした。
袁紹や曹操は、戦争で国取りをする。対する袁術は、ほとんど自分で戦争をしない。物資を援助して、帰順させる。名声が損なわれない方法だ。だが、たまたま飢饉の歳に遭い、裏目に出た。袁術は、呂布に対してケチったのでなく、揚州も苦しかった。


英雄記曰:布初入徐州,書與袁術。術報書曰:「昔董卓作亂,破壞王室,禍害術門戶,術舉兵關東,未能屠裂卓。將軍誅卓,送其頭首,為術掃滅讎恥,使術明目於當世,死生不愧,其功一也。昔將金元休向兗州,甫詣(封部)〔封丘〕,為曹操逆所拒破,流離迸走,幾至滅亡。將軍破兗州,術複明目於遐邇,其功二也。術生年已來,不聞天下有劉備,備乃舉兵與術對戰;術憑將軍威靈,得以破備,其功三也。將軍有三大功在術,術雖不敏,奉以生死。將軍連年攻戰,軍糧苦少,今送米二十萬斛,迎逢道路,非直此止,當駱驛複致;若兵器戰具,它所乏少,大小唯命。」布得書大喜,遂造下邳。

『英雄記』がいう。呂布が徐州に入ると、袁術は手紙を送った。

『後漢書』があったとする、手紙の文面を創作した? 文筆家は、史実に矛盾しないように、残存しない手紙を復元するのが好きである。
『英雄記』の成立は、范曄『後漢書』より前。類似史料を見たのだろう。

「呂布さんは、袁氏のカタキをとった。功績その1だ。

章懐がいう。董卓は、袁隗と、袁術の兄・袁基ら男女20人余りを殺した。

金元休が兗州の封丘に赴任したが、曹操に阻まれた。呂布さんが曹操を攻めた。功績その2だ。呂布さんは、劉備を攻めた。功績その3だ。米20万石を送りましょう」

英雄記曰:布水陸東下,軍到下邳西四十裏。備中郎將丹楊許耽夜遣司馬章誑來詣布,言「張益德與下邳相曹豹共爭,益德殺豹,城中大亂,不相信。丹楊兵有千人屯西白門城內,聞將軍來東,大小踴躍,如複更生。將軍兵向城西門,丹楊軍便開門內將軍矣」。布遂夜進,晨到城下。天明,丹楊兵悉開門內布兵。布于門上坐,步騎放火,大破益德兵,獲備妻子軍資及部曲將吏士家口。

『英雄記』がいう。劉備の留守に、丹楊の将兵が、呂布に下邳城を差し出した。張飛は曹豹を殺したせいで、下邳城を失った。

陶謙の旧兵は、丹楊の出身だ。下邳相の曹豹は、丹楊兵を食わせる役目だったか。それなのに、張飛が殺してしまった。
丹楊兵が、故郷の丹楊を抑えている袁術に従ったのは、自然だ。しかも、劉備は食わせてくれないが、袁術は確実に食わせてくれるらしい。丹楊兵が、袁術に従わない道理がない。


ただでさえ分かりにくい呂布の人生に、さらに裴松之が『英雄記』で補足する。厄介なので、次回は少し立ち止まり、整理します。