01) 李忠、万脩、邳彤
『後漢書』列伝11・任光、任隗、李忠、萬脩、邳彤、劉植、耿純伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
『後漢書』任光・任隗伝:父は光武帝を拾い、子は袁安と協調する
『後漢書』劉植伝を抄訳、光武帝に真定国を乗っ取らせたプロデューサー
『後漢書』耿純伝を抄訳、車1台で河北平定する光武帝を、支えた信者
李忠:光武に衣服をめぐみ、印綬と馬をもらう
李忠は、あざなを仲都。東萊の黃県の人。父は高密都尉となる。
劉ハンはいう。高密侯でなく、高密国とすべきだ。高密は、侯でなく国だ。
渡邉注はいう。傅は、官名。王国の傅。王を善導する。臣下として、あつかわれず。相は、官名。もとは丞相という。前漢の王国は、皇帝とおなじ官僚制度をもった。呉楚七国のとき、官制が縮小された。
李忠は、元始中(001-005)、父が役人のため、郎となる。署中にいる數十人のうち、李忠だけが、好禮修整だから、たたえられた。
王莽のとき、新博(信都国)の屬長(都尉)となる。みな郡中は、敬信した。
更始がたつと、使者を郡國にゆかす。李忠を、都尉の官とした。李忠は、任光とともに光武につかえる。右大將軍、武固侯。
ときに光武は、みずから佩綬をといて、李忠に帯びさせた。
信都の属県をせめた。苦陘(中山)にきて、光武は諸将に、財物をきいた。李忠だけは、財物をかすめず。光武は「とくに私は、李忠にたまわる。みなは、李忠とおなじ扱いをのぞむな」と。光武は、のる大驪馬と、きていた衣物を、李忠にたまう。
李忠:信都の大姓・馬寵が、王郎につき、妻子をとる
すすんで鉅鹿をかこむ。王郎は信都をせめた。信都の大姓・馬寵らは、王郎の将をむかえる。信都太守の宗廣と、李忠の母と妻をとらえた。親属に、李忠をよばせる。
ときに馬寵の弟は、李忠にしたがい校尉。李忠は「お前の兄・馬寵がそむいた」とせめ、馬寵の弟をなぐり殺した。諸将はおどろき「李忠の家族が、信都にいるのに」という。李忠は「もし馬寵をゆるさねば、光武への二心になる」という。
光武は「兵をととのえ、李忠の母、妻、子をすくおう」という。李忠は「光武のためなら、宗親は、かえりみない」といった。
光武は、任光に信都をすくわす。任光の兵が王郎ににげ、任光はもどる。たまたま更始の部将が信都をやぶり、李忠の家族はぶじ。李忠を、信都で行太守事させた。郡中の大姓で、王郎についた数百人をころした。
信都太守の任光がもどると、李忠は都尉にもどる。
建武二年(026)、中水(涿郡)侯。食邑三千戶。五官中郎將となる。光武にしたがい、龐萌や董憲をたいらぐ。
渡邉注はいう。龐萌は、山陽の人。光武の平狄将軍。賁休をすくえという詔が、蓋延にのみくだったので、謀反した。激怒した光武に親征され、にげた。呉漢の配下にきられた。『後漢書』列伝2・龐萌伝。
渡邉注はいう。董憲は、東海の人。王莽の末期、東海で自立。劉永の翼漢将軍となる。海西王。呉漢にきられた。『後漢書』呉漢伝。
ぼくは思う。すでに列伝をやったはずなのに、すぐに覚わらない。反復あるのみ。
李忠:丹陽の越俗を、教化する
子威嗣。威卒,子純嗣,永平九年,坐母殺純叔父。國除。永初七年,鄧太后複封純琴亭侯。純卒,子廣嗣。
六年(030)、丹陽太守にうつる。南方の海濱・江淮では、おおくの豪族が、自立する。李忠は丹陽につき、くだした。くだらないと、全殺した。旬月のうちに、たいらぐ。
丹陽は越俗であり、学問をこのまない。嫁娶の禮儀も、中原におとる。学校をつくり、礼儀をならわせた。春と秋に、鄉飲して、明經な人を選用した。郡中は、李忠をしたう。墾田して、3年で流民を5萬余口、定住させた。
李賢はいう。「校」も「学」という意味だ。注釈おおし。はぶく。
十四年(038)、三公は、李忠の治績を、天下第一とした。豫章太守。
やまい(痛風)で、官をさる。洛陽にめさる。十九年、卒した。子の李威がつぐ。
万脩:更始の信都令として、光武をむかえる
子普嗣,徙封泫氏侯。普卒,子親嗣,徙封扶柳侯。親卒,無子,國除。永初七年,鄧太后紹封脩曾孫豐為曲平亭侯。豐卒,子熾嗣。永建元年,熾卒,無子,國除。延熹二年,桓帝紹封脩玄孫恭為門德亭侯。
萬脩は、あざなを君遊。扶風の茂陵の人。更始のとき、信都令。信都太守の任光と、都尉の李忠とともに、城をまもる。光武をむかえる。偏將軍、造義侯。
王郎をやぶり、右將軍(比公将軍)。河北の平定にしたがう。建武二年(025)、槐裏侯。揚化將軍の堅鐔と、南陽をうつ。勝つまえに、軍中で病死した。子の万普がつぐ。
邳彤:和成太守として、光武の長安逃亡をとめる
邳彤は、あざなを偉君。信都の人。父の邳吉は、遼西太守。邳彤は、はじめ王莽の、和成卒正(和成太守)となる。光武が河北にきて、下曲陽にいたる。邳彤は、和成郡をあげてくだる。和成太守にとどまる。光武は数日とどまり、北して薊県へ。
王郎が起兵して、光武をむかえる郡県はない。和成と信都だけ、王郎をむかえず。邳彤は、光武が軍をうしない、薊県からもどるときく。光武は、信都へゆくときく。
さきに邳彤は、五官掾の張萬、督郵の尹綏に、精騎2千をつけて、光武をむかえる。邳彤は、光武と信都であった。光武は、和成と信都にたすけられたが、兵がこない。議者は「更始の長安にかえれ」という。邳彤は、反対した。
邳彤はいう。「みな漢室をしたう。1人の男が、戟をかついで呼びかければ、莽新にぞくす千里の将だって、城をすてて、くだる。王郎ですら、劉氏の名をかりた。いま光武が河北をされば、三輔まで王郎にせめられる。もし光武があきらめるなら、信都は王郎につく」と。
光武は、邳彤にしたがう。即日、邳彤の後大将軍とする。和成太守のまま。
邳彤は北して、堂陽にゆく。堂陽は、王郎につく。邳彤は、張萬、尹綏をやり、堂陽の吏民をさとす。よるに光武がきた。すぐ開門して、むかえた。白奢の賊を、中山でうつ。これより邳彤は、つねに光武にしたがう。
邳彤:行大司空、太常、少府した年長者
ふたたび信都が、王郎につく。王郎の信都王は、邳彤の父弟と妻子をとらえる。手書で、邳彤に呼びかけさせた。「くだれば封爵。くだらねば族滅」と。邳彤は涕泣して、返書した。「信都でくらせたのは、光武のおかげ。国事をするとき、念私しない」と。たまたま更始の将が、信都をぬいた。邳彤の家属は、たすかった。
王郎をぬき、武義侯。建武元年(025)、靈壽侯、行大司空事。光武が洛陽にはいると、太常。月餘して、少府。
ぼくは思う。すごく、昇進のペースがはやい。王莽に太守にしてもらうほどだから、年長者だろう。だから光武に「河北をすて、長安にいくな」なんて、説教ができた。
この歳、免ぜらる。左曹の侍中、つねに光武に従軍した。六年(030)、就國する。邳彤が卒し、子の邳湯がつぐ。
はじめ張萬と尹綏は、邳彤とともに光武をむかえた。どちらも偏將軍、光武に従軍する。張萬は、重平侯。尹綏は、平臺侯。
范陽による論と賛
贊曰:任、邳識幾,嚴城解扉。委佗還旅,二守焉依。純、植義發,奉兵佐威。
范曄の論はいう。成功した後で、説明するのはカンタンだ。邳彤は議者に反対して、成功する前に、光武を河北にとどめた。
范曄の賛はいう。任光と邳彤は、きざしを知り、信都郡と和成郡を、光武にさしだした。光武は、ゆくあてなく、任光と邳彤にたよった。耿純と劉植は、兵をほうじて、光武をたすけた。110728
つぎ、『後漢書』列伝12につづきます。