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03) 景丹、王梁、杜茂、馬成

『後漢書』列伝12・朱祐、景丹、王梁、杜茂、馬成、劉隆、傅俊、堅鐔、馬武
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

馬成伝だけ、去年やったので、今回はぶきます。
『後漢書』馬成伝を抄訳、江淮の間を、水軍をつかわず平定


景丹:うわさに聞く、烏桓突騎の司令官

景丹字孫卿,馮翊櫟陽人也。少學長安。王莽時舉四科,丹以言語為固德侯相,有幹事稱,遷朔調連率副貳。

景丹は、あざなを孫卿。馮翊の櫟陽の人。わかく長安でまなぶ。王莽のとき、四科にあげらる。景丹は、言語の科目で、固德侯相となる。

『東観漢記』はいう。王莽のとき、徳行があり、言語にたけ、政治につうじ、文学にあかるい士人を、四科として選挙した。

有能だから、朔調連率(上谷太守)の、副貳(次官)となる。

更始立,遣使者徇上谷,丹與連率耿況降,複為上谷長史。王郎起,丹與況共謀拒之。況使丹與子弇及寇恂等將兵南歸世祖,世祖引見丹等,笑曰:「邯鄲將帥數言我發漁陽、上穀兵,吾卿應言然,何意二郡良為吾來!方與士大夫共此功名耳。」拜丹為偏將軍,號奉義侯。從擊王郎將宏等於南,郎兵迎戰,漢軍退卻,丹等縱突騎擊,大破之,追奔十餘裏,死傷者從橫。丹還,世祖謂曰:「吾聞突騎天下精兵,今乃見其戰,樂可言邪?」遂從征河北。

更始がたつと、使者がくだしにくる。景丹は、連率(太守)の耿況とともに、更始にくだる。上谷長史となる。王郎がたち、景丹と耿況がこばむ。耿況は、景丹と、子の耿弇と耿純に、南して光武につかせる。

渡邉注はいう。耿況は、漁陽太守。のちに彭寵をたいらぐ。耿況は、漁陽太守の彭寵と、上谷太守の耿況を説得して、光武につく。烏丸突騎をひきいる。46郡をたいらげた。いずれも『後漢書』耿弇伝にある。
渡邉注はいう。寇恂は、上谷の人。上谷の著姓。関中における鄧禹の役割を、河北でやる。将よりも、相としてのはたらきが、おおきい。執金吾。『後漢書』寇恂伝

光武は景丹にあい、わらって「王郎は、つよい漁陽と上谷の兵を発するという。私も、おなじことをすると言い返していた。実現するとは思わなかった。2郡の士大夫たちと、功名をともにしよう」と。

李賢はいう。王郎も光武も、2郡の兵をつかう目処がなかった。実態がない。両軍が、遠くから、からかいあうのと、おなじである。

景丹を、偏將軍、奉義侯。光武につき、王郎の將ゲイ宏を、南レンでやぶる。光武はひいたが、景丹が突騎でつっこむ。光武は「突騎は、天下の精兵ときいた。この戦いでみた。うれしい」といった。光武にしたが、河北をうつ。

景丹:驃騎大将軍、マラリアにかかる

世祖即位,以讖文用平狄將軍孫咸行大司馬,眾威不悅。詔舉可為大司馬者,群臣所推惟吳漢及丹。帝曰:「景將軍北州大將,是其人也。然吳將軍有建大策之勳,又誅苗幽州、謝尚書,其功大。舊制驃騎將軍官與大司馬相兼也。」乃以吳漢為大司馬,而拜丹為驃騎大將軍。

光武が即位すると、讖文により、平狄將軍の孫咸に行大司馬させた。みな、よろこばず。光武が、大司馬の適任をきくと、郡臣は、呉漢と景丹をおした。

『東観漢記』はいう。讖文はいう「孫咸は狄を征す」と。
渡邉注はいう。平狄将軍は、雑号。孫咸のほか、龐萌もつく。

光武は「景丹は、北州の大將で、大司馬にふさわしい。だが呉漢は、漁陽の兵をあつめた。呉漢は、更始の幽州牧・苗曾と、尚書・謝躬をころし、功績がおおきい。旧制では、驃騎将軍と大司馬は、かねられた」という。呉漢を大司馬、景丹を驃騎大將軍とする。

『漢書』百官公卿表はいう。武帝は、大司馬をおき、大将軍、驃騎将軍と号した。
『後漢書』列伝8・呉漢伝


建武二年,定封丹櫟陽侯。帝謂丹曰:「今關東故王國,雖數縣,不過櫟陽萬戶邑。夫'富貴不歸故鄉,如衣繡夜行',故以封卿耳。」丹唐首謝。秋,與吳漢、建威大將軍耿弇、建義大將軍朱祐、執金吾賈複、偏將軍馮異、強弩將軍陳俊、左曹王常、騎都尉臧宮等從擊破五校於C62E陽,降其眾五萬人。會陝賊蘇況攻破弘農,生獲郡守。丹時病,帝以其舊將,欲令強起領郡事,乃夜召入,謂曰:「賊迫近京師,但得將軍威重,臥以鎮之足矣。」丹不敢辭,乃力疾拜命,將營到郡,十餘日薨。
子尚嗣,徙封余吾侯。尚卒,子苞嗣。苞卒,子臨嗣,無子,國絕。永初七年,鄧太后紹封苞弟遽為監亭侯。

建武二年(026)、櫟陽侯。光武はいう。「関東のふるい王国は、数県があるが、櫟陽の1萬戶邑よりすくない。富貴だが故郷にかえらないのは、ぬいとりを着て、夜にあるくようなもの。封地にゆけ」と。堅鐔は、頓首して感謝した。

李賢はいう。前漢の武帝は、朱買臣にいった言葉だ。

026年秋、吳漢と、建威大將軍の耿弇、建義大將軍の朱祐、執金吾の賈複、偏將軍の馮異、強弩將軍の陳俊、左曹の王常、騎都尉の臧宮らと、五校をキ陽でくだす。
たまたま陝賊の蘇況が、弘農郡をやぶり、郡守を生けどる。景丹は病気だが、景丹が舊將なので、しいて弘農太守をやらせたい。夜にめして「陜賊が、京師にせまる。丹陽の威重なら、臥しても鎮まる」と。

『東観漢記』景丹は、光武にしたがい、懐県にいる。マラリアをやむ。光武が目の前にいるとき、マラリアが悪化して、寒気でふるえた。光武はわらって「漢の大将軍は、マラリアを病むじゃないか」と。小黄門にたすけおこさせ、医薬をたまわる。洛陽にもどり、病気は、さらに悪化した。
ぼくは思う。光武は『後漢書』で、よく笑う。闊達な皇帝だなーという、イメージ戦略なんだろうが。他人の病気を、笑っちゃダメだよな。不謹慎と言われかねない。

景丹は、病をおして拜命し、弘農にゆく。10余日で薨じた。 子の景尚がつぐ。

王梁:

王梁字君嚴,漁陽要陽人也。為郡吏,太守彭寵以梁守狐奴令,與蓋延、吳漢俱將兵南及世祖于廣阿,拜偏將軍。既拔邯鄲,賜爵關內侯。從平河北,拜野王令,與河內太守寇恂南拒洛陽,北守天井關,朱鮪等不敢出兵,世祖以來梁功。及即位,議選大司空,而《赤伏符》曰「王梁主衛作玄武」,帝以野王衛之所徙,玄武水神之名,司空水土之官也,於是擢拜梁為大司空,封武強侯。

王梁は、あざなを君嚴。漁陽の要陽の人。郡吏となり、漁陽太守の彭寵から、狐奴令にされる。蓋延、呉漢と南して、光武と廣阿でおいつく。偏將軍。王郎をぬき、關內侯。從平河北、野王令。
河內太守の寇恂と南に洛陽をこばむ。北に天井關をまもる。朱鮪らが兵を出さず、これが王梁の功績とされる。光武が即位した。大司空を人選する。『赤伏符』に「王梁は、衛を主り、玄武となる」とある。
野王は、衛からうつった。玄武は、水神の名だ。司空は、水土之官だ。ゆえに王梁を大司空、武強侯とした。

『史記』巻15・六国年表はいう。「衛の元首は、濮陽より野王にうつる」と。
ぼくは補う。この大司空への抜擢が、みんなに不評だったんだよなー。


建武二年,與大司馬吳漢等俱擊檀鄉,有詔軍事一屬大司馬,而梁輒發野王兵,帝以其不奉詔敕,令止在所縣,而梁複以便宜進軍。帝以梁前後違命,大怒,遣尚書宗廣持節軍中斬梁。廣不忍,乃檻車送京師。既至,赦之。月余,以為中郎將,行執金吾事。北守箕關,擊赤眉別校,降之。三年春,轉擊五校,追至信都、趙國,破之,悉平諸屯聚。冬,遣使者持節拜梁前將軍。四年春,擊肥城、文陽,拔之。進與驃騎大將軍杜茂擊佼韁、蘇茂于楚、沛間,拔大樑、齧桑,而捕虜將軍馬武、偏將軍王霸亦分道並進,歲余悉平之。五年,從救桃城,破龐萌等,梁戰尤力,拜山陽太守,鎮撫新附,將兵如故。

建武二年(025)、大司馬の吳漢等らと、檀鄉をうつ。軍事は、すべて呉漢にぞくす。王梁は、(かつて県令した)野王の兵を発する。光武は、王梁が詔敕にしたがわないので、いる県にとどめる。しかし王梁は、かってに進軍した。光武は大怒して、尚書の宗廣に持節させ、王梁を斬らせる。宗廣はしのびず、檻車を京師におくる。ゆるさる。

ぼくは思う。なぜ勝手に、軍をうごかしたんだろう。同格のはずの呉漢に、しきられたのが、王梁の気にくわなかったのだろうか。でも図讖のおかげで大司空だが、河北の功績がすくないんだよね。

月余、中郎將、行執金吾事。北して箕關をまもり、赤眉の別校をくだす。三年(027)春、五校をうち、信都、趙國までおう。すべて屯聚をたいらぐ。冬、使者が持節して、王梁を前將軍とする。
四年(028)春、肥城(泰山)、文陽をぬく。驃騎大將軍の杜茂と、佼韁、蘇茂を、楚沛の間にうつ。大樑、齧桑をぬく。捕虜將軍の馬武、偏將軍の王霸らと、わかれて、1歲余ですべてたいらぐ。五年、桃城をすくい、龐萌らをやぶる。山陽太守。山陽を鎮撫したが、兵をひきいるまま。

數月征人,代歐陽歙為河南尹。梁穿渠引穀水注洛陽城下,東寫鞏川,及渠成而水不流。七年,有司劾奏之,梁慚懼,上書乞骸骨。乃下詔曰:「梁前將兵征伐,眾人稱賢,故擢典京師。建議開渠,為人興利,旅力既愆,迄無成功,百姓怨F530,談者F446嘩。雖蒙寬宥,猶執謙退,'君子成人之美',其以梁為濟南太守。」十三年,增邑,定封阜成侯。十四年,卒官。
子禹嗣。禹卒,子堅石嗣。堅石追坐父禹及弟平與楚王英謀反,棄市,國除。

山陽太守になって數月で、歐陽歙にかわり河南尹となる。

渡邉注はいう。歐陽歙は、『後漢書』列伝69・儒林の歐陽歙伝。楽安の千乗の人。伏生の今文尚書をうけつぐ、歐陽生の8世孫。王莽、更始、光武にもちいらる。汝南太守、大司徒。汝南での罪により、獄死。

王梁は、渠(運河)をうがち、穀水を、洛陽の城下にひく。東に鞏川へ、そそがせたいが、流れず。七年、有司は運河の失敗をせめ、王梁は辞職をねがう。光武は「王梁は、期待されて運河をつくったが、費用をムダにした。辞職をねがって、へりくだった。済南太守とする」と。
十三年(037)、增邑され、阜成侯。十四年、在官でしぬ。子の王禹がつぐ。

杜茂:北辺をまもり、盧芳を匈奴においやる

杜茂字諸公,南陽冠軍人也。初歸光武于河北,為中堅將軍,常從征伐。世祖即位,拜大將軍,封樂鄉侯。北擊五校於真定,進降廣平。建武二年,更封苦陘侯。與中郎將王梁擊五校賊于魏郡、清河、東郡,悉平諸營保,降其持節大將三十余人,三郡清靜,道路流通。明年,遣使持節拜茂為驃騎大將軍,擊沛郡,拔芒。時,西防複反,迎佼彊。五年春,茂率捕虜將軍馬武進攻西防,數月拔之,彊奔董憲。

杜茂は、あざなを諸公。南陽の冠軍の人。河北で、中堅将軍。光武が即位し、大将軍。五校を真定でうち、広平をくだす。中郎将の王梁と、五校を魏郡、清河、東郡でくだす。3郡は清静で、道路は流通した。

ぼくは思う。この3郡平定が、杜茂のめぼしい功績かな。

翌年、驃騎大将軍。沛郡で芒県をぬく。西防が佼彊をむかえた。五年(029)春、捕虜將軍の馬武をひきい、西防をぬく。佼強は、董憲にはしる。

東方既平,七年,詔茂引兵北屯田晉陽、廣武,以備胡寇。九年,與雁門太守郭涼擊盧芳將尹由於繁C549,芳將賈覽率胡騎萬餘救之,茂戰,軍敗,引入樓煩城。時,盧芳據高柳,與匈奴連兵,數寇邊民,帝患之。十二年,遣謁者段忠將眾郡弛刑配茂,鎮守北邊,因發邊卒築亭候,修烽火,又發委輸金帛繒絮供給軍士,並賜邊民,冠蓋相望。茂亦建屯田,驢東轉運。

東方がたいらぐと、七年(031)、北して晉陽、廣武で屯田して、胡寇にそなえる。九年(033)、雁門太守の郭涼擊と、盧芳の將・尹由を、繁ジでうつ。盧芳の將・賈覽が、胡騎をひきい、蘇茂はやぶれた。樓煩城にはいる。

渡邉注はいう。尹由は、やぶった賈丹を配下におき、うらぎらる。
渡邉注はいう。賈覧は、匈奴・胡騎をひきいた。つよさは、特筆すべき。漢軍を3たび、やぶる。その後があきらかでない。おそらく盧芳にしたがい、匈奴に亡命した。
ぼくは思う。「特筆すべき」強さをもち、敗れた記録がないなんて、なんてオイシイ部将だろう。キャラとしては、ものすごく、立つなあ。

ときに盧芳は、高柳にいる。光武がわずらう。十二年(036)、謁者の段忠に、ゆるした罪人をつけ、蘇茂に北邊をまもらせる。亭候、烽火をつくる。はこばれた金帛や繒絮を、みな軍士にくばる。杜茂は、ロバをひき、屯田した。

ぼくは思う。つぎの段落をふくめ、話がグチャグチャだが。杜茂は、北辺の守りを任され、盧芳の侵寇にそなえたのですね。


先是,雁門人賈丹、霍匡、解勝等為尹由所略,由以為將帥,與共守平城。丹等聞芳敗,遂共殺由詣郭涼;涼上狀,皆封為列侯,詔送委輸金帛賜茂、涼軍吏及平城降民。自是盧芳城邑稍稍來降,涼誅其豪右郇氏之屬,鎮撫贏弱,旬月間雁門且平,芳遂亡入匈奴。帝擢涼子為中郎,宿衛左右。

さきに雁門の賈丹、霍匡、解勝らは、尹由につれさられた。尹由は、賈丹らをひきい、平城をまもらす。

つぎから、光武が盧芳をおしかえす話。杜茂の功績は、盧芳を匈奴に押しやったことなのですね。

賈丹は、盧芳がやぶれたときき、尹由をころして、郭涼にはしる。郭涼は上狀して、賈丹らを列侯とする。光武は、金帛をはこび、蘇茂、郭涼の軍吏と、平城の降民にたまわる。これより、盧芳の城邑が、すこしずつ光武にくだる。郭涼は、豪右の郇氏の屬をころし、贏弱をいたわる。旬月のうち、雁門はたいらぎそう。盧芳は、匈奴にのがれた。光武は、郭涼の子を、中郎として、左右に宿衛さす。

涼字公文,右北平人也。身長八尺,氣力壯猛,雖武將,然通經書,多智略,尤曉邊事,有名北方。初,幽州牧朱浮辟為兵曹掾,擊彭寵有功,封廣武侯。
十三年,增茂邑,更封脩侯。十五年,坐斷兵馬稟縑,使軍吏殺人,免官,削戶邑,定封參蘧鄉侯。十九年,卒。
子元嗣,永平十四年,坐與東平王等謀反,減死一等,國除。永初七年,鄧太后紹封茂孫奉為安樂亭侯。

杜茂とともに、盧芳をおいやった郭涼は、あざなを公文。右北平の人。身長は八尺、氣力は壯猛。武將だが、經書に通じ、智略おおく、邊事にあかるい。はじめ、幽州牧の朱浮が辟して、兵曹掾(州牧の属官、兵事をとる)となる。彭寵をうった功績で、廣武侯。
もどって杜茂は、十五年(039)、おおやけの兵馬の稟縑をうばい、軍吏に殺人させた罪にて、免官され、戶邑をけずらる。參蘧鄉侯におとす。十九年(043)、杜茂は卒した。子の杜元がつぐ。

馬成:廬江の天子・李憲をうつ

馬成字君遷,南陽棘陽人也。少為縣吏。世祖徇潁川,以成為安集掾,調守郟令。及世祖討河北,成即棄官步負,追及于蒲陽,以成為期門,從征伐。世祖即位,再遷護軍都尉。

馬成は、南陽の人。河北の蒲陽でおいつき、期門。護軍都尉。

渡邉注はいう。期門は、官名。近衛兵。隴西、北地の良家の子弟のうち、騎射にたけた人を、殿門に期したから、名づく。『漢書』東方朔伝。


建武四年,拜揚武將軍,督誅虜將軍劉隆、振威將軍宋登、射聲校尉王賞,發會稽、丹陽、九江、六安四郡兵擊李憲,時帝幸壽春,設壇場,祖禮遣之。進圍憲于舒,令諸軍各深溝高壘。憲數挑戰,成堅壁不出,守之歲餘。至六年春,城中食盡,乃攻之,遂屠舒,斬李憲,追及其黨與,盡平江淮地。

建武四年(031)、揚武將軍(後漢末の李傕がつく)。誅虜將軍の劉隆(列伝が同巻)、振威將軍(後漢初の馬武、後漢末の劉繇がつく)の宋登、射聲校尉の王賞を督して、會稽、丹陽、九江、六安の4郡から兵をだし、李憲をうつ。

渡邉注はいう。李憲は、頴川の許県の人。王莽の廬江の属令(都尉)。廬江で、天子をとなえる。馬成にせめられ、部下にきられた。
『後漢書』李憲伝を抄訳、揚州で天子となった、新末の群雄
『後漢書』馬成伝を抄訳、江淮の間を、水軍をつかわず平定
馬成伝を、去年やっていたことに、いま気づいた。以下、はぶく。

李憲をきり、江淮を平定した。

七年夏,封平舒侯。八年,從征破隗囂,以成為天水太守,將軍如故。冬,征還京師。九年,代來歙守中郎將,率武威將軍劉尚等破河池,遂平武都。明年,大司空李通罷,以成行大司空事,居府如真,數月複拜揚武將軍。
十四年,屯常山、中山以備北邊,並領建義大將軍朱祐營。又代驃騎大將軍杜茂繕治障塞,自西河至渭橋,河上至安邑,太原至井陘,中山至鄴,皆築保壁,起烽燧,十裏一候。在事五六年,帝以成勤勞,征還京師。邊人多上書求請者,複遣成還屯。及南單于保塞,北方無事,拜為中山太守,上將軍印綬,領屯兵如故。
二十四年,南擊武B32F蠻賊,無功,上太守印綬。二十七年,定封全椒侯。就國。三十二年卒。子衛嗣。衛卒,子香嗣,徙封棘陵侯。香卒,子豐嗣。豐卒,子玄嗣。玄卒,子邑嗣。邑卒,子醜嗣,桓帝時以罪失國。延熹二年,帝複封成玄孫昌為益陽亭侯。

上に貼った、馬成伝のリンクへ。2回やるなんて、バカだなあ。


つぎ、劉隆伝。列伝12は、つづきます。