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04) 耿弇伝・上

『後漢書』列伝9・耿弇伝、弟の耿国伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

耿弇:更始に、王莽の上谷太守を保証してもらう

耿弇字伯昭,扶風茂陵人也。其先武帝時以吏二千石自巨鹿徙焉。父況,字俠游,以明經為郎,與王莽從弟亻及共學《老子》于安丘先生,後為朔調連率。弇少好學,習父業。常見郡尉試騎士,建旗鼓,肄馳射,由是好將帥之事。

耿弇は、あざなを伯昭。扶風の茂陵の人。祖先は、武帝のとき、吏二千石であるから、鉅鹿から扶風にうつった。

李賢はいう。武帝のとき、代々2千石の家柄、財産をもった富豪、豪族を、墓陵にうつした。

父の耿況は、あざなを俠游。儒教にあかるいので郎。王莽の從弟・王伋とともに『老子』を安丘先生にまなぶ。

李賢はいう。ケイ康『聖賢高士伝』はいう。安丘先生は、安丘望之。あざなは仲都。京兆の人。成帝にめされたが、ことわる。巫の医術をほどこした。渡邉注はいう。安丘先生の史料、ほかになし。

のちに耿況は、朔調連率(上谷太守)となる。耿弇は、父の学問をならう。郡尉の騎士を試験するとき、旗鼓をたて、馳射するのを見て、將帥之事をこのんだ。

袁山松『後漢書』はいう。耿弇は、わかくして『詩経』『礼記』をやる。
『漢官儀』はいう。年末、郡試のとき、武術をみせて、兵を指揮して、狩猟をおこなう。才能をはかる。ぼくは思う。父が試験するとき、同席したんだろう。たのしい子供時代。


及王莽敗,更始立,諸將略地者,前後多擅威權,輒改易守、令。況自以莽之所置,懷不自安。時,弇年二十一,乃辭況奉奏詣更始,因齎貢獻,以求自固之宜。及至宋子,會王郎詐稱成帝子子輿,起兵邯鄲,弇從吏孫倉、衛包於道共謀曰:「劉子輿成帝正統,舍此不歸,遠行安之?」弇按劍曰:「子輿弊賊,卒為降虜耳。我至長安,與國家陳漁陽、上穀兵馬之用,還出太原、代郡,反復數十日,歸發突騎以轔烏合之眾,如摧枯折腐耳。觀公等不識去就,族滅不久也!」倉、包不從,遂亡降王郎。

更始がたつと、諸将は、ころころ守令をかえた。耿況は王莽におかれたので、やすらがず。ときに耿弇は、21歳。更始に、父の官位を保証してもらいにゆく。

ぼくは思う。更始は、このように、王莽の官人が、保証をもとめて、きたのだね。更始でなくとも、権威がもとめられたのは、事実です。更始は、うまくのった。

耿弇が宋子県にきたとき、王郎が劉子輿を名のり、邯鄲でたつ。耿弇の從吏・孫倉と衛包は、道中で「劉子輿は、正統だ。とおく更始にいかなくていい」といった。耿弇は剣に手をかけ「劉子輿は、すぐとらわれる。私は、長安の更始にしたがう。漁陽と上谷の兵をつかい、太原や代郡から突騎をつれてこれば、更始の天下となる」と。孫倉と衛包は、耿弇にしたがわず、王郎にはしる。

ぼくは思う。更始か王郎か、という選択は、かなり悩まれたのだろう。


耿弇:上谷と漁陽の突騎をひきだし、王郎をやぶる

弇道聞光武在盧奴,乃馳北上謁,光武留署門下吏。BB32因說護軍朱祐,求歸發兵,以定邯鄲。光武笑曰:「小兒曹乃有大意哉!」因數召見加恩慰。弇因從光武北至薊。聞邯鄲兵方到,光武將欲南歸,召官屬計議。弇曰:「今兵從南來,不可南行。漁陽太守彭寵,公之邑人;上谷太守,即弇父也。發此兩郡,控弦萬騎,邯鄲不足慮也。」光武官屬腹心皆不肯,曰:「死尚南首,奈何北行入囊中?」光武指弇曰:「是我北道主人也。」

耿弇は、光武が盧奴にきたので、あう。光武の門下吏となる。

『続漢書』はいう。耿弇は、かえると檄文を、父・耿況にわたす。父に「私では、若くて信用されない。耿況が、光武に会いに行け」という。耿況は、昌平で光武にあった。

耿弇は、護軍の朱祐にとき、兵をださせ、王郎の邯鄲をさだめたい。光武は「小兒曹は、大意がある」とわらった。

ぼくは思う。光武も30歳そこそこだろう。小児というセリフが、なんかおかしい。朱祐は、ここで出てくるのですね。漁陽と上谷は、光武の兵の中核だなあ。

光武にしたがい、薊県にゆく。王郎の兵がくるので、光武は南したい。耿弇はいう。「王郎が南からくる。ハチあわせする。いくな。漁陽太守の彭寵は、光武とおなじ南陽人だ。上谷太守は、私の父だ。2郡の兵をつかえば、王郎にかてる」と。
光武の官属は、耿弇にがえんじない。「北は、いきどまりだ」という。だが光武は、耿弇を指さし「こいつが、私の北道の主人だ」といった。

ぼくは思う。幽州をめざすのは、袋小路。官属たちの言い分が、わかるなあ。耿弇は「王郎が南からくるから、ハチあわせる」というが、これはレトリックだ。必ずしも、ぶつからない。そうでなく耿弇は、北に行かせたいのだね。
光武が、ムダに肝がすわり、判断がただしく、カッコいいのは、神話だからだ。


會薊中亂,光武遂南馳,官屬各分散。弇走昌平就況,因說況使寇恂東約彭寵,各發突騎二千匹,步兵千人。弇與景丹、寇恂及漁陽兵合軍而南,所過擊斬王郎大將、九卿、校尉以下四百餘級,得印綬百二十五,節二,斬首三萬級,定涿郡、中山、巨鹿、清河、河間凡二十二縣,遂及光武于廣阿。是時,光武方攻王郎,傳言二郡兵為邯鄲來,眾皆恐。既而悉詣營上謁。光武見弇等,說,曰:「當與漁陽、上谷士大夫共此大功。」乃皆以為偏將軍,使還領其兵。加況大將軍、興義侯,得自置偏裨。弇等遂從拔邯鄲。

たまたま薊中がみだれ、光武は南して、官屬はちる。耿弇は昌平(上谷)にゆき、父・耿況につく。父を説得して、寇恂を東させて、彭寵と約束させ、突騎をだす。耿弇と景丹と寇恂は、漁陽の兵をあわせ、南して王郎の大將、九卿、校尉より以下4百餘級をきる。突騎は、涿郡、中山、巨鹿、清河、河間の22県をさだめる。光武と、廣阿であう。

『続漢書』はいう。耿弇が上谷にもどると、薊県の城内がさわいだ。光武は、南の城門から出たいが、輜重でふさがれ、城中でうばいあった。耿弇は、光武を見失った。馬を城門の亭長にあたえ、耿弇は脱出した。
ぼくは思う。光武が薊県で孤立したとき、いったん耿弇はにげて、周囲で王郎軍をうって、光武をバックアップした。すぐに光武を、救わないのですね。まあ光武は、行方不明になってるが。 このあたりの列伝は、みな廣阿で合流する。廣阿、重要だなあ!

王郎は、漁陽と上谷2郡の兵をおそれた。光武は耿弇に「漁陽と上谷の士大夫と、王郎をたおす功績を、ともにしよう」という。耿弇のつれてきた士大夫を、偏將軍として、兵をもどす。耿況を大將軍、興義侯とする。耿況は、偏将軍や裨将軍をおける。耿弇らは、邯鄲をぬいた。

耿弇:更始から自立させ、幽州の賊を掃討

時,更始征代郡太守趙永,而況勸永不應召,令詣于光武。光武遣永複郡。永北還,而代令張曄據城反畔,乃招迎匈奴、烏桓以為援助。光武以弇弟舒為複胡將軍,使擊曄,破之。永乃得複郡。時,五校賊二十余萬北寇上穀,況與舒連擊破之,賊皆退走。

ときに更始は、代郡太守の趙永をめす。耿況は趙永に「更始におうじず、光武につけ」という。光武は、趙永を代郡太守に、ふたたび任じた。

ぼくは思う。更始が解任した太守を、光武が解任せずにとどめる。更始と光武は、袁紹と袁術のようにあらそうなあ。

代令の張曄が、匈奴と烏丸をむかえ、劉永をこばむ。光武は、耿弇の弟・耿舒を複胡將軍(ほかに就官なし)とし、張曄をやぶる。趙永は、代郡太守にもどる。ときに五校賊のが、上谷をせめる。耿況と耿舒が、やぶる。

更始見光武威聲日盛,君臣疑慮,乃遣使立光武為蕭王,令罷兵與諸將有功者還長安;遣苗曾為幽州牧,韋順為上谷太守,蔡充為漁陽太守,並北之部。時,光武居邯鄲宮,晝臥溫明殿。弇入造床下請間,因說曰:「今更始失政,君臣淫亂,諸將擅命於畿內,貴戚縱橫於都內。天子之命,不出城門,所在牧守,輒自遷易,百姓不知所從,士人莫敢自安。虜掠財物,劫掠婦女,懷金玉者,至不生歸。元元叩心,更思莽朝。又銅馬、赤眉之屬數十輩,輩數十百萬,聖公不能辦也。其敗不久,公首事南陽,破百萬之軍;今定河北,據天府之地。以義征伐,發號回應,天下可傳檄而定。天下至重,不可令它姓得之。聞使者從西方來,欲罷兵,不可從也。今吏士死亡者多,弇願歸幽州,益發精兵,以集大計。」
光武大說,乃拜弇為大將軍,與吳漢北發幽州十郡兵。弇到上谷,收韋順、蔡充斬之;漢亦誅苗曾。

更始は、光武の威声がたかまるので、光武を蕭王とし、兵権をとき、長安によぶ。かわりに苗曾を幽州牧、韋順を上谷太守、蔡充を漁陽太守とする。光武は邯鄲でねそべる。耿弇が「更始はダメだから、独立しろ。私は幽州の兵を発する」といった。
光武は耿弇を大将軍とし、呉漢と幽州10郡の兵をあつめた。耿弇は上谷で、韋順をとらえ、祭遵をきる。呉漢は、苗曾をきる。

『続漢書』はいう。耿弇が更始にそむくというと、光武は「耿弇は、失言した。きるぞ」といった。耿弇は「光武は、私を、父子のようにかわいがった。だから真意をのべたのです」といった。光武は「ふざけただけだ」といった。ぼくは思う。自立の瞬間だねー。
ぼくは補う。苗曾のだましうちは、呉漢伝にある。更始が、幽州牧、上谷太守、漁陽太守を任じたことから、ぎゃくに、このときの光武の勢力範囲がわかる。


於是悉發幽州兵,引而南,從光武擊破銅馬、高湖、赤眉、青犢,又追尤來、大槍、五幡於元氏,弇常將精騎為軍鋒,輒破走之。光武乘勝戰順水上,虜危急,殊死戰。時,軍士疲弊,遂大敗奔還,壁范陽,數日乃振,賊亦退去,從追至容城、小廣陽、安次,連戰破之。光武還薊,複遣弇與吳漢、景丹、蓋延、朱祐、邳彤、耿純、劉植、岑彭、祭遵、堅鐔、王霸、陳俊、馬武十三將軍,追賊至潞東,及平谷,再戰,斬首萬三千餘級,遂窮追于右北平無終、土垠之間,至俊靡而還。賊散入遼西、遼東,或為烏桓、貊人所抄擊,略盡。

幽州の兵を南させ、光武にしたがい耿弇は、銅馬、高湖、赤眉、青犢をやぶり、また尤來、大槍、五幡を元氏におう。光武は、順水で大敗し、范陽でふせぐ。おって、容城(涿郡)、小廣陽(広陽国)、安次でやぶる。
光武は薊県にかえる。耿弇は、吳漢、景丹、蓋延、朱祐、邳彤、耿純、劉植、岑彭、祭遵、堅鐔、王霸、陳俊、馬武の13将軍とともに、潞東にゆかせ、平谷で再戰する。賊は、右北平の無終県、土垠県のあいだににげる。俊靡県までおい、もどる。賊は、遼西、遼東にちり、あるいは烏桓、貊人におそわれた。幽州の賊は、ほぼつきた。

次回、耿弇伝のつづきと、弟の耿国伝。