05) 耿弇伝・下、耿国伝
『後漢書』列伝9・耿弇伝、弟の耿国伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
耿弇:幽州で匈奴2王をきり、彭寵をたいらぐ
光武が即位すると、建威大將軍。耿弇は、驃騎大將軍の景丹、強弩將軍の陳俊とともに、厭新の賊を敖倉でくだす。建武二年,更封好ジ侯、2県をはむ。
三年(027)、延岑が武関から南陽をせめた。穰県の杜弘は、延岑につく。耿弇は、延岑を穣県でやぶり、印綬3百をえる。杜弘はくだり、延岑は東陽ににげる。
耿弇は、光武にしたがい舂陵にゆく。耿弇は「上谷の兵を、さらに集める。彭寵を漁陽に、張豊を涿郡にさだめ、富平、獲索をおさめ、東して斉地で張歩にたいらぎたい」という。光武はゆるす。
渡邉注はいう。張豊は、もと光武の涿郡太守。道士のウソを信じて謀反し、無上大将軍をとなえた。彭寵とむすんだ。祭遵とたたかい、部下にころされた。『後漢書』列伝10・祭遵伝にあり。
四年(028)、耿弇は漁陽にゆく。耿弇の父は上谷にいて、彭寵と同功だ。耿弇の兄弟は、光武に人質してない。上書して「人質をだしたい」という。光武は「耿氏をあげて、私につくしている。心配ない。王常と涿郡で、作戦をねれ」と。
それでも父の耿況は、耿弇の弟・耿国を入侍させた。光武はよろこび、耿国をユ糜(右扶風)侯とする。
耿弇と、建義大將軍の朱祐、漢忠將軍の王常らは、望都県(中山国)、故安県、西山の賊をやぶる。
ときに征虜將軍の祭遵は、良鄉(涿郡)にいる。驍騎將軍の劉喜は、陽鄉(涿郡)にいる。2人は彭寵をふせぐ。彭寵の弟・彭純は、匈奴をつかい、祭遵と劉毅をうつ。彭寵が、軍都(広陽)で匈奴の2王をきったので、彭寵はひく。耿況は、弟の耿舒と、軍都をとった。
五年(029)、彭寵がしぬ。光武は光祿大夫に持節させ、耿況をむかえた。甲第(高級な邸宅)をたまい、朝請によぶ。耿舒を牟平侯。耿弇と呉漢は、富平、獲索の賊を、平原でくだす。
耿弇:劇県の張歩をうち、斉地がたいらぐ
耿延に張歩をうたせる。耿弇は、騎都尉の劉歆、太山太守の陳俊をひきい東して、朝陽(済南)から黄河をわたる。張歩は、大將軍の費邑を祝阿におき、太山の鐘城にも軍営をおき、耿弇をまつ。耿弇は、まず祝阿をうち、午前のうちにぬく。包囲をゆるめ、鐘城にながした。鐘城は、祝阿がつぶれたと聞き、にげた。
費邑は、弟の費敢を巨裏聚におく。耿弇は「木を切って、巨里のホリをうめる。費邑が助けにくるまえに、3日で巨里をおとす」と、ひそかに宣伝した。費邑は、弟の費敢をすくいにきた。耿弇は「費邑をつりだすのが、ねらいだった」といい、費邑をきった。済南がたいらぐ。
ときに張歩は劇県に都し、弟の張藍を西安(斉郡)におく。諸郡の太守は、臨菑をまもり、それぞれ40里へだつ。耿弇は、劇県と西安のあいだにある、畫中邑にきた。作戦により、臨菑をぬいた。
『全訳後漢書』573ページに、現代語訳あり。
耿弇は、ももに矢をうけた。張歩の劇県をぬき、光武をむかえた。
『全訳後漢書』576ページに、現代語訳あり。
袁山松『後漢書』はいう。耿弇は上書した。「私は臨菑のホリをふかく、カベをたかくしています。張歩は劇県からきて、つかれている。張歩がすすめば攻め、されば追います。10日以内に、張歩のクビをとれるでしょう」と。光武は、これを正しいとした。
数日して、光武は臨菑にきた。「耿弇は、韓信にちかいが、韓信にまさる。韓信は、くだった田広をきったが、耿弇はくだっていない張歩をきった」と。
伏湛が、子の報仇する話も、『資治通鑑』にあるので、はぶく。
耿弇は、城陽にいたり、五校の余党をくだす。すべて斉地がたいらぐ。耿弇は、軍旅を京師にもどす。
耿弇:斉地の功績のあと、なぜか何もしない
十二年,況疾病,乘輿數自臨幸。複以國弟廣、舉並為中郎將。弇兄弟六人皆垂青紫,省侍醫藥,當代以為榮。及況卒,諡烈侯,少子霸襲況爵。十三年,增弇戶邑,上大將軍印綬,罷,以列侯奉朝請。每有四方異議,輒召入問籌策。年五十六,永平元年卒,諡為湣侯。
子忠嗣。忠以騎都尉擊匈奴于天山,有功。忠卒,子馮嗣。馮卒,子良嗣,一名無禁。延光中,尚安帝妹濮陽長公主,位至侍中。良卒,子協嗣。
六年(030)、西に隗囂をこばみ、漆県(右扶風)にくる。八年、隴西にはいる。明年、中郎將の來歙と、安定、北地の營保をくだす。耿弇は46郡、300城をほふり、負けなし。
十二年、父の耿況が疾病した。光武がみまう。耿国の弟・耿廣、耿舉を中郎將とした。耿弇の兄弟6人は、みな青紫をぶらさげ、父に医薬をあたえた。当代の栄誉とされた。
父の耿況が卒した。烈侯。少子の耿霸が、爵位をつぐ。十三年(037)、耿弇の戶邑をふやす。大將軍の印綬をかえし、列侯として朝請にでる。四方に異議があるごとに、籌策をきかれた。56歳で、永平元年(058)に卒した。湣侯。子の耿忠がつぐ。
范曄の論にいう。韓信は、項羽でなく高帝が、謀略により勝つと知っていた。耿弇は、更始でなく光武が、勝つことを知っていた。だが耿弇は、斉地を平定してから、わずかな功績もない。不思議だ。
韓信は、最期に謀反をうたがわれて、高帝との鼎立すらめざした。斉地は、独立しやすい地域だ。斉地をおさえた耿弇にも、その資格がある。耿弇の功績がすくないのは、理由が2つ予想できる。(1) 斉地のあやうさを知り、つつしんだ。(2) 斉地で独立をにおわせ、事前におさえこまれた。功臣なので、おさえこんで、独立そのものが、なかったことになった。ゆるされた。(2) だと、おもしろいが。さすがに憶測がすぎるなあ。
耿弇の弟・耿国:南匈奴の帰順をゆるす
耿国は、あざなを叔慮。建武四年(028)、はじめて入侍した。黃門侍郎。応答がすぐれるので、射聲校尉。七年(031)、射聲校尉をやめて、駙馬都尉。父の耿況が卒した。耿国は「父をつぐのは、順序では私だ。だが父がかわいがった少子に、つがせたい」といった。頓丘、陽翟、上蔡令をして、ほめられた。五官中郎將。
このとき烏桓、鮮卑は、しばしば外境をおかす。耿国は、北辺の対策をのべ、光武がみとめた。匈奴の薁鞬日逐王の比が、みずから呼韓邪單元となる。後漢の外籓となりたい。公卿らは「財政がくるしく、匈奴は信じられないので、ゆるすな」という。
耿国だけがいう。「前漢の宣帝のように、うけいれよ。南匈奴に、鮮卑と北匈奴をふせがせよ」と。光武は、南匈奴をたてた。烏丸と鮮卑は、でてこない。後漢の戦費はへった。
二十七年(051)、馮勤にかわり、大司農となる。耿国は「度遼將軍、左右校尉をおき、五原で逃亡をふせがせよ」といった。永平元年(058)、官位にて卒す。
明帝は、耿国のいうとおり、度遼將軍、左右校尉をおいた。耿国に、2子あり。耿秉と耿夔。おしまい。110726