表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝8,9,10を抄訳して、光武の功臣をならべる

05) 耿弇伝・下、耿国伝

『後漢書』列伝9・耿弇伝、弟の耿国伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

耿弇:幽州で匈奴2王をきり、彭寵をたいらぐ

光武即位,拜弇為建威大將軍。與驃騎大將軍景丹、強弩將軍陳俊攻厭新賊于敖倉,皆破降之。建武二年,更封好C549侯,食好C549、美陽二縣。三年,延岑自武關出攻南陽,下數城。穰人杜弘率其眾以從岑。弇與岑等戰於穰,大破之,斬首三千餘級,生獲其將士五千餘人,得印綬三百。杜弘降,岑與數騎遁走東陽。

光武が即位すると、建威大將軍。耿弇は、驃騎大將軍の景丹、強弩將軍の陳俊とともに、厭新の賊を敖倉でくだす。建武二年,更封好ジ侯、2県をはむ。
三年(027)、延岑が武関から南陽をせめた。穰県の杜弘は、延岑につく。耿弇は、延岑を穣県でやぶり、印綬3百をえる。杜弘はくだり、延岑は東陽ににげる。

弇從幸舂陵,因見自請北收上穀兵未發者,定彭寵于漁陽,取張豐於涿郡,還收富平、獲索,東攻張步,以平齊地。帝壯其意,乃許之。四年,詔弇進攻漁陽。弇以父據上谷,本與彭寵同功,又兄弟無在京師者,自疑,不敢獨進,上書求詣洛陽。詔報曰:「將軍出身舉宗為國,所向陷敵,功效尤著,何嫌何疑,而欲求征?且與王常共屯涿郡,勉思方略。」況聞弇求征,亦不自安,遣舒弟國入侍。帝善之,進封況為CD58糜侯。乃命弇與建義大將軍朱祐、漢忠將軍王常等擊望都、故安西山賊十余營,皆破之。

耿弇は、光武にしたがい舂陵にゆく。耿弇は「上谷の兵を、さらに集める。彭寵を漁陽に、張豊を涿郡にさだめ、富平、獲索をおさめ、東して斉地で張歩にたいらぎたい」という。光武はゆるす。

ぼくは補う。幽州牧の彭寵は、このとき光武にそむいてる。
渡邉注はいう。張豊は、もと光武の涿郡太守。道士のウソを信じて謀反し、無上大将軍をとなえた。彭寵とむすんだ。祭遵とたたかい、部下にころされた。『後漢書』列伝10・祭遵伝にあり。

四年(028)、耿弇は漁陽にゆく。耿弇の父は上谷にいて、彭寵と同功だ。耿弇の兄弟は、光武に人質してない。上書して「人質をだしたい」という。光武は「耿氏をあげて、私につくしている。心配ない。王常と涿郡で、作戦をねれ」と。
それでも父の耿況は、耿弇の弟・耿国を入侍させた。光武はよろこび、耿国をユ糜(右扶風)侯とする。

耿国は、この耿弇伝のつぎに列伝がつく。

耿弇と、建義大將軍の朱祐、漢忠將軍の王常らは、望都県(中山国)、故安県、西山の賊をやぶる。

時,征虜將軍祭遵屯良鄉,驍騎將軍劉喜屯陽鄉,以拒彭寵。寵遣弟純將匈奴二千餘騎,寵自引兵數萬,分為兩道以擊遵、喜。胡騎經軍都,舒襲破其眾,斬匈奴兩王,寵乃退走。況複與舒攻寵,取軍都。五年,寵死,天子嘉況功,使光祿大夫持節迎況,賜甲第,奉朝請。封舒為牟平侯。遣弇與吳漢擊富平、獲索賊于平原,大破之,降者四萬餘人。

ときに征虜將軍の祭遵は、良鄉(涿郡)にいる。驍騎將軍の劉喜は、陽鄉(涿郡)にいる。2人は彭寵をふせぐ。彭寵の弟・彭純は、匈奴をつかい、祭遵と劉毅をうつ。彭寵が、軍都(広陽)で匈奴の2王をきったので、彭寵はひく。耿況は、弟の耿舒と、軍都をとった。
五年(029)、彭寵がしぬ。光武は光祿大夫に持節させ、耿況をむかえた。甲第(高級な邸宅)をたまい、朝請によぶ。耿舒を牟平侯。耿弇と呉漢は、富平、獲索の賊を、平原でくだす。

耿弇:劇県の張歩をうち、斉地がたいらぐ

因詔弇進討張步。弇悉收集降卒,結部曲,置將吏,率騎都尉劉歆、太山太守陳俊引兵而東,從朝陽橋濟河以度。張步聞之,乃使其大將軍費邑軍曆下,又分兵屯祝阿,別于太山鐘城列營數十以待弇。弇度河先擊祝阿,自旦攻城,日未中而拔之,故開圍一角,令其眾得奔歸鐘城。鐘城人聞祝阿已潰,大恐懼,遂空壁亡去。

耿延に張歩をうたせる。耿弇は、騎都尉の劉歆、太山太守の陳俊をひきい東して、朝陽(済南)から黄河をわたる。張歩は、大將軍の費邑を祝阿におき、太山の鐘城にも軍営をおき、耿弇をまつ。耿弇は、まず祝阿をうち、午前のうちにぬく。包囲をゆるめ、鐘城にながした。鐘城は、祝阿がつぶれたと聞き、にげた。

ぼくは思う。張歩が、しっかり迎撃してるのが、おもしろい。まずは初戦、耿弇がうまいなあ、というエピソードでした。


費邑分遣弟敢守巨裏。弇進兵先脅巨裏,使多伐樹木,揚言以填塞坑塹。 數日,有降者言邑聞弇欲攻巨裏,謀來救之。弇乃嚴令軍中趣修攻具,宣敕諸部,後三日當悉力攻巨裏城。陰緩生口,令得亡歸。歸者以弇期告邑,邑至日果自將精兵三萬餘人來救之。弇喜,謂諸將曰:「吾所以修攻具者,欲誘致邑耳。今來,適其所求也。」即分三千人守巨裏,自引精兵上岡阪,乘高合戰,大破之,臨陳斬邑。既而收首級以示巨裏城中,城中凶懼,費敢悉眾亡歸張步。弇複收其積聚,縱兵擊諸未下者,平四十余營,遂定濟南。

費邑は、弟の費敢を巨裏聚におく。耿弇は「木を切って、巨里のホリをうめる。費邑が助けにくるまえに、3日で巨里をおとす」と、ひそかに宣伝した。費邑は、弟の費敢をすくいにきた。耿弇は「費邑をつりだすのが、ねらいだった」といい、費邑をきった。済南がたいらぐ。

時,張步都劇,使其弟藍將精兵二萬守西安,諸郡太守合萬余人守臨淄,相去四十裏。弇進軍畫中,居二城之間。弇視西安城小而堅,且藍兵又精,臨淄名雖大而實易攻,乃敕諸校會,後五日攻西安。藍聞之,晨夜儆守。至期夜半,弇敕諸將皆蓐食,會明至臨淄城。護軍荀梁等爭之,以為宜速攻西安。弇曰:「不然。西安聞吾欲攻之,日夜為備;臨淄出不意而至,必驚擾,吾攻之一日必拔。拔臨淄即西安孤,張藍與步隔絕,必複亡去,所謂擊一而得二者也。若先攻西安,不卒下,頓兵堅城,死傷必多。縱能拔之,藍引軍還奔臨淄,並兵合勢,觀人虛實,吾深入敵地,後無轉輸,旬日之間,不戰而困。諸君之言,未見其宜。」遂攻臨淄,半日拔之,入據其城。張藍聞之大懼,遂將其眾亡歸劇。

ときに張歩は劇県に都し、弟の張藍を西安(斉郡)におく。諸郡の太守は、臨菑をまもり、それぞれ40里へだつ。耿弇は、劇県と西安のあいだにある、畫中邑にきた。作戦により、臨菑をぬいた。

作戦は、『資治通鑑』029年秋、耿弇が斉地で張歩をくだす とおなじ。
『全訳後漢書』573ページに、現代語訳あり。


弇乃令軍中無得妄掠劇下,須張步至乃取之,以激怒步。步聞大笑曰:「以尤來、大彤十餘萬眾,吾皆即其營而破之。今大耿兵少於彼,又皆疲勞,何足懼乎!」乃與三弟藍、弘、壽及故大彤渠帥重異等兵號二十萬,至臨淄大城東,將攻BB32。弇先出兵淄水上,與重異遇,突騎欲縱,弇恐挫其鋒,令步不敢進,故示弱以盛其氣,乃引歸小城,陳兵於內。步氣盛,直攻弇營,與劉歆等合戰,弇升王宮壞台望之,視歆等鋒交,乃自引精兵以橫突步陳於東城下,大破之。飛矢中BB32股,以佩刀截之,左右無知者。至暮罷。弇明旦複勒兵出。是時,帝在魯,聞弇為步所攻,自往救之,未至。陳俊謂弇曰:「劇虜兵盛,可且閉營休士,以須上來。」弇曰:「乘輿且到,臣子當擊牛釃酒以待百官,反欲以賊虜遺君父邪?」乃出兵大戰,自旦及昏,複大破之,殺傷無數,城中溝塹皆滿。弇知步困將退,豫置左右翼為伏以待之。人定時,步果引去,伏兵起縱擊,追至钜昧水上,八九十裏僵屍相屬,收得輜重二千餘兩。步還劇,兄弟各分兵散去。

耿弇は、ももに矢をうけた。張歩の劇県をぬき、光武をむかえた。

ぼくは思う。ひきつづき、上記リンクの『資治通鑑』におなじ。
『全訳後漢書』576ページに、現代語訳あり。
袁山松『後漢書』はいう。耿弇は上書した。「私は臨菑のホリをふかく、カベをたかくしています。張歩は劇県からきて、つかれている。張歩がすすめば攻め、されば追います。10日以内に、張歩のクビをとれるでしょう」と。光武は、これを正しいとした。


後數日,車駕至臨淄自勞軍,群臣大會。帝謂弇曰:「昔韓信破曆下以開基,今將軍攻祝阿以發跡,此皆齊之西界,功足相方。而韓信襲擊已降,將軍獨拔勁敵,其功乃難於信也。又田橫亨酈生,及田橫降,高帝詔衛尉不聽為仇。張步前亦殺伏隆,若步來歸命,吾當詔大司徒釋其怨,又事尤相類也。將軍前在南陽建此大策,常以為落落難合,有志者事竟成也!」弇因複追步,步奔平壽,乃肉袒負斧鑕於軍門。弇傳步詣行在所,而勒兵入據其城。樹十二郡旗鼓,令步兵各以郡人詣旗下,眾尚十余萬,輜重七千餘兩,皆罷遣歸鄉里。弇複引兵至城陽,降五校餘黨,齊地悉平。振旅還京師。

数日して、光武は臨菑にきた。「耿弇は、韓信にちかいが、韓信にまさる。韓信は、くだった田広をきったが、耿弇はくだっていない張歩をきった」と。

ぼくは思う。上記リンクの『資治通鑑』におなじ。『資治通鑑』でぼくは、誤って「耿弇より韓信のほうがすごい」と抄訳してしまった。渡邉訳にしたがい、耿弇のほうがスゴイと、わかった。前漢の故事は、もちろん『全訳後漢書』にくわしい。579ページ。
伏湛が、子の報仇する話も、『資治通鑑』にあるので、はぶく。

耿弇は、城陽にいたり、五校の余党をくだす。すべて斉地がたいらぐ。耿弇は、軍旅を京師にもどす。

耿弇:斉地の功績のあと、なぜか何もしない

六年,西拒隗囂,屯兵於漆。八年,從上隴。明年,與中郎將來歙分部徇安定、北地諸營保,皆下之。 弇凡所平郡四十六,屠城三百,未嘗挫折。
十二年,況疾病,乘輿數自臨幸。複以國弟廣、舉並為中郎將。弇兄弟六人皆垂青紫,省侍醫藥,當代以為榮。及況卒,諡烈侯,少子霸襲況爵。十三年,增弇戶邑,上大將軍印綬,罷,以列侯奉朝請。每有四方異議,輒召入問籌策。年五十六,永平元年卒,諡為湣侯。
子忠嗣。忠以騎都尉擊匈奴于天山,有功。忠卒,子馮嗣。馮卒,子良嗣,一名無禁。延光中,尚安帝妹濮陽長公主,位至侍中。良卒,子協嗣。

六年(030)、西に隗囂をこばみ、漆県(右扶風)にくる。八年、隴西にはいる。明年、中郎將の來歙と、安定、北地の營保をくだす。耿弇は46郡、300城をほふり、負けなし。

ぼくは思う。これが耿弇のキャラ。斉地をたいらぐときに、ただしい判断、うまい謀略をつかった。キャラがたつなあ。

十二年、父の耿況が疾病した。光武がみまう。耿国の弟・耿廣、耿舉を中郎將とした。耿弇の兄弟6人は、みな青紫をぶらさげ、父に医薬をあたえた。当代の栄誉とされた。

渡邉注はいう。青紫の綬(ヒモ)は、高貴な官位のあかし。

父の耿況が卒した。烈侯。少子の耿霸が、爵位をつぐ。十三年(037)、耿弇の戶邑をふやす。大將軍の印綬をかえし、列侯として朝請にでる。四方に異議があるごとに、籌策をきかれた。56歳で、永平元年(058)に卒した。湣侯。子の耿忠がつぐ。

ぼくは補う。はぶきますが、耿氏は、安帝の外戚となる。外戚としては、小粒な権力でした。しかし、始祖が耿況と耿弇だと思えば、充分に栄達する条件がととのっている。文句がないなあ。

  

論曰:淮陰延論項王,審料成勢,則知高祖之廟勝矣。耿弇決策河北,定計南陽,亦見光武之業成矣。然弇自克拔全齊,而無複尺寸功。夫豈不懷?將時之度數,不足以相容乎?三世為將,道家所忌,而耿氏累葉以功名自終。將其用兵欲以殺止殺乎?何其獨能隆也!

范曄の論にいう。韓信は、項羽でなく高帝が、謀略により勝つと知っていた。耿弇は、更始でなく光武が、勝つことを知っていた。だが耿弇は、斉地を平定してから、わずかな功績もない。不思議だ。

ぼくは思う。斉地での功績だけでなく、光武を見こんだところまで、耿弇は韓信と似ていたのだなあ。范曄がむすびつけてくれて、はじめて知った。
韓信は、最期に謀反をうたがわれて、高帝との鼎立すらめざした。斉地は、独立しやすい地域だ。斉地をおさえた耿弇にも、その資格がある。耿弇の功績がすくないのは、理由が2つ予想できる。(1) 斉地のあやうさを知り、つつしんだ。(2) 斉地で独立をにおわせ、事前におさえこまれた。功臣なので、おさえこんで、独立そのものが、なかったことになった。ゆるされた。(2) だと、おもしろいが。さすがに憶測がすぎるなあ。


耿弇の弟・耿国:南匈奴の帰順をゆるす

國字叔慮,建武四年初入侍,光武拜為黃門侍郎,應對左右,帝以為能,遷射聲校尉。七年,射聲官罷,拜駙馬都尉。父況卒,國於次當嗣,上疏以先侯愛少子霸,固自陳讓,有詔許焉。後曆頓丘、陽翟、上蔡令,所在吏人稱之。征為五官中郎將。

耿国は、あざなを叔慮。建武四年(028)、はじめて入侍した。黃門侍郎。応答がすぐれるので、射聲校尉。七年(031)、射聲校尉をやめて、駙馬都尉。父の耿況が卒した。耿国は「父をつぐのは、順序では私だ。だが父がかわいがった少子に、つがせたい」といった。頓丘、陽翟、上蔡令をして、ほめられた。五官中郎將。

是時,烏桓、鮮卑屢寇外境,國素有籌策,數言邊事,帝器之。及匈奴薁鞬日逐王比自立為呼韓邪單元,款塞稱籓,願B473禦北虜。事下公卿。議者皆以為天下初定,中國空虛,夷狄情偽難知,不可許。國獨曰:「臣以為宜如孝宣故事受之,令東B473鮮卑,北拒匈奴,率厲四夷,完複邊郡,使塞下無晏開之警,萬世安寧之策也。」帝從其議,遂立比為南單于。由是烏桓、鮮卑保塞自守,北虜遠遁,中國少事。

このとき烏桓、鮮卑は、しばしば外境をおかす。耿国は、北辺の対策をのべ、光武がみとめた。匈奴の薁鞬日逐王の比が、みずから呼韓邪單元となる。後漢の外籓となりたい。公卿らは「財政がくるしく、匈奴は信じられないので、ゆるすな」という。
耿国だけがいう。「前漢の宣帝のように、うけいれよ。南匈奴に、鮮卑と北匈奴をふせがせよ」と。光武は、南匈奴をたてた。烏丸と鮮卑は、でてこない。後漢の戦費はへった。

二十七年,代馮勤為大司農。又上言宜置度遼將軍、左右校尉,屯五原以防逃亡。永平元年卒官。顯宗追思國言,後遂置度遼將軍、左右校尉,如其議焉。國二子:秉,夔。

二十七年(051)、馮勤にかわり、大司農となる。耿国は「度遼將軍、左右校尉をおき、五原で逃亡をふせがせよ」といった。永平元年(058)、官位にて卒す。

ぼくは思う。兄の耿弇とおなじ歳に死んだ。あやしく、、ないよな。

明帝は、耿国のいうとおり、度遼將軍、左右校尉をおいた。耿国に、2子あり。耿秉と耿夔。おしまい。110726