02) 呉漢伝・下
『後漢書』列伝8・吳漢、蓋延、陳俊、臧宮伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
呉漢:026-030年、山東を平定する
建武二年春,漢率大司空王梁,建義大將軍朱祐,大將軍杜茂,執金吾賈複,揚化將軍堅鐔,偏將軍王霸,騎都尉劉隆、馬武、陰識,共擊檀鄉賊於鄴東漳水上,大破之。降者十余萬人。帝使使者璽書定封漢為廣平侯,食廣平、斥漳、曲周、廣年,凡四縣。複率諸將擊鄴西山賊黎伯卿等,及河內脩武,悉破諸屯聚。車駕親幸撫勞。複遣漢進兵南陽,擊宛、涅陽、酈、穰、新野諸城、皆下之。引兵南,與秦豐戰黃郵水上,破之。又與偏將軍馮異擊昌城五樓賊張文等,又攻銅馬、五幡於新安,皆破之。
建武二年(026)春、呉漢は、大司空の王梁,建義大將軍の朱祐,大將軍の杜茂,執金吾の賈複,揚化將軍の堅鐔,偏將軍の王霸,騎都尉の劉隆、馬武、陰識をひきい、檀郷の賊を、鄴東の漳水でやぶる。10余万をくだす。廣平侯となり、廣平郡にある4県をはむ。
渡邉注はいう。檀郷は、024年ごろ、更始にころされた力子都の残党が、檀郷であつまった集団。董次仲がひきいる。呉漢にうたれた。
西山の賊・黎伯卿、河內の脩武をやぶる。光武は、みずから呉漢をなぐさむ。
南陽にすすみ、宛県、涅陽、酈県、穰県、新野の諸城を、みなくだす。南して秦豐を、黃郵水でやぶる。
李賢はいう。新野県に、黃郵水と、黃郵聚がある。
偏將軍の馮異とともに、昌城にいる五樓の賊・張文らをうつ。銅馬、五幡を新安でやぶる。
明年春,率建威大將軍耿弇、虎牙大將軍蓋延,擊青犢於軹西,大破降之。又率驃騎大將軍杜茂、強弩將軍陳俊等,圍蘇茂于廣樂。劉永將周建別招聚收集得十余萬人,救廣樂。漢將輕騎迎與之戰,不利,墮馬傷膝,還營,建等遂連兵入城。諸將謂漢曰:「大敵在前而公傷臥,眾心懼矣。」漢乃勃然裹創而起,椎牛饗士,令軍中曰:「賊眾雖多,皆劫掠群盜,'勝不相讓,敗不相救',非有仗節死義者也。今日封侯之秋,諸君勉之!」於是軍士激怒,人倍其氣。旦日,建、茂出兵圍漢。漢選四部精兵黃頭吳河等,及烏桓突騎三千余人,齊鼓而進。建軍大潰,反還奔城。漢長驅追擊,爭門併入,大破之,茂、建突走。漢留杜茂、陳俊等守廣樂,自將兵助蓋延圍劉永于睢陽。永既死,二城皆降。
明年(027)春、建威大將軍の耿弇、虎牙大將軍の蓋延をひきい、青犢を軹西でくだす。驃騎大將軍の杜茂、強弩將軍の陳俊らをひきい、蘇茂を広楽でかこむ。劉永の部将・周建は、広楽をすくう。呉漢は周建にやぶれ、落馬してヒザにキズした。呉漢はキズをおさえ、牛をうち殺して、牛を軍士にふるまった。軍士は士気が2倍した。烏丸突騎をひきい、呉漢をかこむ蘇茂と周建をやぶった。
『続漢書』はいう。呉漢はみずからヨロイをつけ、ホコをぬき、部下にいった。「雷鼓をきいたら、ともにすすめ。おくれたら、きる」と。呉漢は、太鼓をならして、すすんだ。
呉漢は、杜茂と陳俊を広楽にのこした。みずから呉漢は、蓋延をたすけ、睢陽で劉永をかこむ。劉永が死に、広楽と睢陽の2城はくだる。
明年,又率陳俊及前將軍王梁,擊破五校賊于臨平,追至東郡箕山,大破之。北擊清河長直及平原五裏賊,皆平之。時,鬲縣五姓共逐守長,據城而反。諸將爭欲攻之,漢不聽,曰:「使鬲反者,皆守長罪也。敢輕冒進兵者斬。」乃移檄告郡,使收守長,而使人謝城中。五姓大喜,即相率歸降。諸將乃服,曰:「不戰而下城,非眾所及也。」
明年(028)、陳俊と、前將軍の王梁をひきい、五校の賊を臨平でやぶる。東郡の箕山におい、やぶる。北して、清河の長直の賊と、平原の五裏の賊をたいらぐ。
李賢はいう。『東観漢記』と『続漢書』は、長直を「長垣」とする。長垣は県名で、河南にある。「北して」河南にゆくのは、おかしい。范曄がただしい。長直というのは、県名でなく、地名にちなむ、賊の名称だろう。
ときに鬲縣(平原)の五姓は、守長をおいはらい、城によってそむく。呉漢は「五姓をせめるな。五姓をそむかせたのは、守長のせいだ」と言った。
ぼくは思う。「わるいのは更始の守長だ」というのが、呉漢の言いぶん。光武は、更始の悪口をいって、天下をとった。更始という仮想敵(じつは光武の主君)をおいて、呉漢は平定戦をやったんですね。王莽への憎しみは、過去のもの。
郡に檄をうつし、守長をとらえた。五姓がくだった。呉漢は、戦わずに城をくだした。
冬,漢率建威大將軍耿弇、漢忠將軍王常等,擊富平、獲索二賊于平原。明年春,賊率五萬餘人夜攻漢營,軍中驚亂,漢堅臥不動,有頃乃定。即夜發精兵出營突擊,大破其眾。因追討餘黨,遂至無鹽,進擊勃海,皆平之。又從征董憲,圍朐城。明年春,拔朐,斬憲。事已見《劉永傳》。東方悉定,振旅還京師。
028年冬、建威大將軍の耿弇、漢忠將軍の王常らをひきい、富平、獲索の2賊を、平原でうつ。
明年(029)春、賊5万が、呉漢の夜営をおそった。呉漢は横になって、ジッとした。賊をやぶり、無鹽(東平国)にゆき、勃海までたいらぐ。光武にしたがい、董憲を朐城にかこむ。明年(030)春、朐城をぬき、董憲をきる。劉永傳にくわしい。すべて東方がたいらぎ、洛陽にかえる。
呉漢:成都で公孫述をころす
會隗囂畔,夏,複遣漢西屯長安。八年,從東駕上隴,遂圍隗囂於西城。帝敕漢曰:「諸郡甲卒但坐費糧食,若有逃亡,則沮敗眾心,宜悉罷之。」漢等貪並力攻囂,遂不能遣,糧食日少,吏士疲役,逃亡者多,及公孫述救至,漢遂退敗。
たまたま隗囂がそむく。夏、光武は呉漢を、長安におく。
建武八年(032)、光武は上隴にゆき、隗囂を西城にかこむ。光武は「軍士は、兵糧をついやす。もし逃亡したら、士気がくじける。攻撃をやめよう」といった。だが呉漢は、攻撃にこだわる。兵糧がへり、吏士がつかれた。公孫述が隗囂をすくったので、呉漢はひいた。
ぼくは思う。隗囂をせめたのは、光武だ。光武の判断ミスを、呉漢がかぶったのではないか。呉漢がこだわったことになっているが、やる気をだしたのは、光武である。
十一年春,率征南大將軍岑彭等伐公孫述。及彭破荊門,長驅入江關,漢留夷陵,裝露橈船,將南陽兵及B175刑募士三萬人溯江而上。會岑彭為刺客所殺,漢並將其軍。十二年春,與公孫述將魏党、公孫永戰於魚涪津,大破之,遂圍武陽。述遣子婿史興將五千人救之。漢迎擊興,盡殄其眾,因入犍為界。諸縣皆城守。漢乃進軍攻廣都,拔之。遣輕騎燒成都市橋,武陽以東諸小城皆降。
十一年(035)春、征南大將軍の岑彭らをひきい、公孫述をうつ。岑彭は荊門をやぶり、長驅して江關にはいる。呉漢は夷陵で、水軍をととのえ、南陽兵をあつめる。岑彭が刺殺されると、呉漢が岑彭軍をあわせる。
岑彭伝とつながった。岑彭伝とのリンク、整備中。
十二年(036)春、公孫述の部将・魏党と公孫永を、魚涪津(犍為郡の南安県)でやぶる。武陽をかこむ。武陽より東の小城をくだし、成都にせまる。
帝戒漢曰:「成都十餘萬眾,不可輕也。但堅據廣都,待其來攻,勿與爭鋒。若不敢來,公轉營迫之,須其力廢,乃可擊也。」漢乘利,遂自將步騎二萬余人進逼成都,去城十餘裏,阻江北為營,作浮橋,使副將武威將軍劉尚將萬余人屯於江南,相去二十餘裏。帝聞大驚,讓漢曰:「比敕公千條萬端,何意臨事勃亂!既輕敵深入,又與尚別營,事有緩急,不復相及。賊若出兵綴公,以大眾攻尚,尚破,公即敗矣。幸無它者,急引兵還廣都。」詔書未到,述果使其將謝豐、袁吉將眾十許萬,分為二十余營,並出攻漢。使別將將萬余人劫劉尚,令不得相救。漢與大戰一日,兵敗,走入壁,豐因圍之。漢乃召諸將厲之曰:「吾共諸君逾越險阻,轉戰千里,所在斬獲,遂深入敵地,至其城下。而今與劉尚二處受圍,勢既不接,其禍難量。欲潛師就尚於江南,並兵禦之。若能同心一力,人自為戰,大功可立;如其不然,敗必無餘。成敗之機,在此一舉。」諸將皆曰「諾」。於是饗士秣馬,閉門三日不出,乃多樹幡旗,使煙火不絕,夜銜枚引兵與劉尚合軍。豐等不覺,明日,乃分兵拒江北,自將攻江南。漢悉兵迎戰,自旦至晡,遂大破之,斬謝豐、袁吉,獲甲首五千餘級。於是引還廣都,留劉尚拒述,具以狀上,而深自譴責。帝報曰:「公還廣都,甚得其宜,述必不敢略尚而擊公也。若先攻尚,公從廣都五十裏悉步騎赴之,適當值其危困,破之必矣。」自是漢與述戰於廣都、成都之間,八戰八克,遂軍于其郭中。述自將數萬人出城大戰,漢使護軍高午、唐邯將數萬銳卒擊之。述兵敗走,高午奔陳刺述,殺之。事已見《述傳》。旦日城降,斬述首傳送洛陽。明年正月,漢振旅浮江而下。至宛,詔令過家上塚,賜谷二萬斛。
呉漢は、光武と文通して、成都をおとした。公孫述伝にある。公孫述の首級を、洛陽におくる。明年正月、長江をくだり、宛県で塚にまいる。
呉漢:もと岑彭の護軍・史歆が、成都でそむく
十五年,複率揚武將軍馬成、捕虜將軍馬武北擊匈奴,徙雁門、代郡、上穀吏人六萬餘口,置居庸、常山關以東。
十五年(039)、揚武將軍の馬成、捕虜將軍の馬武をひきい、匈奴をうつ。雁門、代郡、上穀の吏人6萬餘口をうつし、居庸関、常山關より東におく。
十八年,蜀郡守將史歆反于成都,自稱大司馬,攻太守張穆,穆逾城走廣都,歆遂移檄郡縣,而宕渠楊偉、朐徐容等,起兵各數千人以應之。帝以歆昔為岑彭護軍,曉習兵事,故遣漢率劉尚及太中大夫臧宮將萬餘人討之。漢入武都,乃發廣漢、巴、蜀三郡兵圍成都,百餘日城破,誅歆等。漢乃乘桴沿江下巴郡,楊偉、徐容等惶恐解散,漢誅其渠帥二百餘人,徙其黨與數百家于南郡、長沙而還。
十八年(042)、蜀郡の守將・史歆が成都でそむく。みずから大司馬をとなえ、蜀郡太守の張穆を、廣都にはしらす。宕渠の楊偉、朐ジの徐容らが、史歆におうじた。
渡邉注はいう。史歆は、もと光武の部将・岑彭の護軍。呉漢にかこまれ、100日でころされた。いつも渡邉注は、ネタバレするなあ。
光武は、呉漢に劉尚と、太中大夫の臧宮をつけ、武都にゆかす。廣漢、巴郡、蜀郡3郡の兵で、成都をくだす。史歆になびいた數百家を、南郡、長沙にうつした。
呉漢:口数がすくなく、霍光の故事でほうむらる
漢性強力,每從征伐,帝未安,恒側足而言。諸將見戰陳不利,或多惶懼,失其常度。漢意氣自若,方整厲器械,激揚士吏。帝時遣人觀大司馬何為,還言方修戰攻之具,乃歎曰:「吳公差強人意,隱若一敵國矣!」每當出師,朝受詔,夕即引道,初無辦嚴之日。故能常任職,以功名終。及在朝廷,斤斤謹質,形於體貌。漢嘗出征,妻子在後買田業。漢還,讓之曰:「軍師在外,吏士不足,何多買田宅乎!」遂盡以分與昆弟外家。
呉漢は、くじけない。呉漢は、士気をおとさず、兵器をメンテした。光武は「呉漢は、私の心を強くしてくれる。威厳のあるルックスが、1敵国のようだ」といった。
李賢はいう。「隠」とは、威厳あるルックスのこと。『漢書』劇孟伝で、周亜夫が「私が劇孟をえたのは、1敵国をえたのとおなじ」といった。
朝に詔されると、夕には出撃できた。妻子が田業をかうと、呉漢は「軍師はそとにいて、吏士は物資がたりない。私の家ばかり、田宅をもつな」といった。兄弟や妻の家に、田宅をあたえた。
『東観漢記』はいう。呉漢は、郷里の邸宅をなおし、新築しない。夫人が死ぬと、ちいさい墳墓にふおむり、祀堂をつくらず。
二十年,漢病篤。車駕親臨,問所欲言。對曰:「臣愚無所知識,惟願陛下慎無亦攵而已。」及薨,有詔悼湣,賜諡曰忠侯。發北軍五校、輕車、介士送葬,如大將軍霍光故事。子哀侯成嗣,為奴所殺。
初,漁陽都尉嚴宣與漢俱會光武于廣阿,光武以為偏將軍,封建信侯。
二十年(044)、呉漢は病死した。前漢の大将軍・霍光の故事でほうむった。子の呉成がつぐ。呉成は、ヌヒに殺された。
『東観漢記』はいう。霍光に「武」をおくろうと議論された。光武は「忠」とおくった。李賢と渡邉注が、霍光をほうむるスタイルについて、しるすが、はぶく。
はじめ漁陽都尉の嚴宣と霍光は、ともに光武に廣阿であわさる。光武は、厳宣を偏將軍、建信侯とした。
論曰:吳漢自建武世,常居上公之位,終始倚愛之親,諒由質簡而強力也。子曰「剛毅木訥近仁」,斯豈漢之方乎!昔陳平智有餘以見疑,周勃資樸忠而見信。夫仁義不足以相懷,則智者以有餘為疑,而樸者以不足取信矣。
范曄の論にいう。呉漢は、ベラベラしゃべらないので、光武に信頼された。高帝が、陳平を信頼せず、周勃を信頼したのと、おなじだ。次回、蓋延伝。つづく。