06) 銚期伝、王覇伝
『後漢書』列伝10・銚期、王霸、祭遵、祭肜伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
銚期伝:薊県で光武の道をつくり、ひたいに受傷
銚期は、あざなを次況。潁川の郟県の人。身長は、八尺二寸(190センチ)で、容貌は絕異、矜嚴で威あり。父の銚猛は、桂陽太守。父に3年喪したので、鄉里でたたえられた。
光武が潁川をせめると、銚期の志義をきき、賊曹掾とする。
渡邉注はいう。賊曹掾は、3百石。盗賊をとりしまる。ぼくは思う。『漢官儀』の記述は、賊曹掾を、ぢかに注釈しているのでは、ない。だか渡邉注がおぎなったのですね。
光武にしたが、薊県をとなえる。王郎の檄書に、薊県がおうじた。光武の駕は、注目され、道をふさがれ、薊県をでられない。
銚期は騎馬して戟をふるい、目をいからせ「蹕(頭が高い)」とさけんだ。門を攻撃して、薊県をでられた。
信都にゆく。光武は銚期を裨將とする。傅寬、呂晏とともに、鄧禹につける。鄧禹は銚期を偏將軍として、2千人をつける。ほか2人は数百人だけ。光武は、これをみとめた。銚期をわけて、真定県、宋子県をとなえ、樂陽、槁県、肥累をぬかす。
乃因間說光武曰:「河北之地,界接邊塞,人習兵戰,號為精勇。今更始失政,大統危殆,海內無所歸往。明公據河山之固,擁精銳之眾,以順萬人思漢之心,則天下誰敢不從?」光武笑曰:「卿欲遂前蹕邪?」
光武にしたがい、王郎の部将・ゲイ宏、劉奉を巨鹿でやぶる。銚期は先登して陷陳し、手ずから50餘人をころす。ひたいに受傷した。幘(頭巾)をなおして、またたたかう。王郎がほろび、虎牙大將軍。
あるとき銚期は、光武に「更始はダメだ。河北で独立したら、みなしたがう」といった。光武は「薊県で蹕(頭が高い)と言ったことを、ほんとうにするのだな」とわらった。
ぼくは思う。「頭が高い」という、時代劇がかった訳語は、渡邉氏の本より。笑
ときに銅馬が、清陽、博平にはいる。銚期は、背水でやぶった。光武にすくわれ、館陶でくだす。光武にしたが、青犢、赤眉を射犬でうつ。賊の輜重をうばい、手ずから數十人をころし、3創をうけた。やぶった。
銚期:魏郡の豪族・李氏を懐柔する
光武が即位すると、安成侯、邑五千戶。ときに檀郷、五樓の賊入が、繁陽、內黃へはいる。また魏郡の大姓が、しばしばそむく。更始の将・卓京は、鄴城を光武にそむかせたい。光武は、銚期を魏郡太守、行大將軍事とする。銚期は、卓京をやぶった。繁陽、內黃にすすみ、群界は清平となる。
督盜賊の李熊は、鄴中の豪族である。李氏が檀郷をひきいれると聞いたが、すぐに銚期は信じない。李氏が自首して、自殺したので、あつくほうむる。李氏の職位をもどした。魏郡は、銚期の威信にふくした。
期重于信義,自為將,有所降下,未嘗虜掠。及在朝廷,憂國愛主,其有不得於心,必犯顏諫諍。帝嘗輕與期門近出,期頓首車前曰:「臣聞古今之戒,變生不意,誠不願陛下微行數出。」帝為之回輿而還。十年卒,帝親臨E831斂,贈以衛尉、安成侯印綬,諡曰忠侯。
子丹嗣。複封丹弟統為建平侯。後徒封丹葛陵侯。丹卒,子舒嗣。舒卒,子羽嗣。羽卒,子蔡嗣。
建武五年(029)、光武は、銚期のおさめる魏郡にくる。太中大夫となり、光武について洛陽にかえる。衛尉。
銚期は、信義をおもんじ、くだった城を虜掠しない。顔をおかして、諫諍した。光武が期門(近衛兵)とともに出かけると、銚期は頓首して、光武の車前で「変事をふせぐため、光武は、しばしば微行するな」といさめた。光武は、出かけず。
十年(034)、銚期は卒した。光武は、みずから納棺にたちあう。衛尉、安成侯の印綬をおくる。忠侯。子の銚丹がつぐ。
李賢は『東観漢記』をひく。光武は、銚期に医薬をあげた。母が銚期に「どの子に、爵位をつがせるか」ときいた。銚期は「まだ国にむくいない。爵位を子につがせるな」といった。ぼくは思う。つつしむなー。
王覇:法家の獄吏、父と客をすて、光武につく
王霸は、あざなを元伯。潁川の潁陽の人。世よ文法(法学)をこのむ。
渡邉注はいう。詔獄は、皇帝の詔により逮捕して、みずから皇帝が判決する獄。冨田健之「漢代における『詔獄』の展開」『古代文化』35-9、1983にある。
王覇の父は、郡の決曹掾となる。
わかくして王覇も、獄吏となる。つねに慷慨して、吏職がなじまず。父は王覇を奇特として、長安にまなばす。漢兵がおきると、王覇は光武に「ついてゆく」といった。光武は「賢士をもとめている。こい」といった。光武にしたがい、王尋と王邑を昆陽でやぶり、故郷にかえる。
光武が司隸校尉となり、潁陽をとおる。王覇は父に「光武につこう」という。父は「私は老いた。王覇がゆけ」という。王覇は、光武につき洛陽へゆく。光武が大司馬となり、王覇は功曹令史となる。
光武にしたがい、河北へゆく。王覇の賓客は、数十人が減ってゆく。光武は王覇に「潁川からきた人は、王覇しかのこらない。つよい風が、つよい草をわからせる」といった。
王覇:氷がはるとウソつき、光武を王郎からにがす
王郎がたち、薊県が王郎につく。光武は王覇に兵をあつめさせたが、市中の人は「光武につけるか」とわらった。王覇ははじて、かえる。
光武は、下陽曲から、コ沱河ににげる。王覇は「河に氷がはり、わたれる」といつわり、王郎からにげた。わたりおえ、氷がとけた。光武は官属に「王覇のおかげだ。天瑞だ」といった。王覇を軍正、関内侯とした。
信都で兵をあつめ、王郎をやぶる。王郷侯となる。
河北をたいらぐ。つねに臧宮と傅俊と、軍衛にいた。王覇だけが、死者に自分の衣服をきせ、傷ついた人を養った。光武が即位すると、ほかの2人をおき、偏將軍となる。臧宮と傅俊の兵をあわせた。2人を騎都尉とした。建武二年、富波(汝南)侯。
王覇:味方の馬武を死地におき、死力をひきだす
合戰良久,霸軍中壯士路潤等數十人斷發請戰。霸知士心銳,乃開營後,出精騎襲其背。茂、建前後受敵,驚亂敗走,霸、武各歸營。
四年(028)秋、光武は譙県にゆく。王覇と、捕虜將軍の馬武に、周建を垂惠でうたす。蘇茂は五校をひきい、周建をすくう。馬武は王覇をたのみとし、やぶれた。王覇は「もし馬武をすくえば、馬武も私(王覇)もやぶれる」といい、塁壁をかため、馬武をすくわず。王覇はいう。「馬武と私は、心が1つでない。もし私がすくわねば、賊は油断する。馬武は死力をつくす。馬武がかつ」と。
賊の馬武ぜめが長びくと、王覇は、賊のうしろをおそった。賊は、おどろいた。馬武と王覇は、軍営にかえった。
賊が王覇の軍営をおそう。雨のように、矢がふる。王覇はねそべり、踊りをみた。王覇の前の酒ダルに矢があたったが、うごかず。王覇は「敵兵は遠征して、目先の手柄がほしい。私は、たたかわない。敵兵をつかれさせ、自兵をやすませる」といった。蘇茂と周建は、王覇にたたかってもらえず、かえった。周建の兄の子・周誦が、周建をうらぎり、城をさしだした。蘇茂と周建は、にげた。
王覇:盧芳と匈奴をうち、上谷に20年いる
五年春、光武は太中大夫に持節させ、王覇討虜將軍とする。六年、新安に屯田する。八年、函谷關に屯田する。滎陽、中牟の盜賊を、たいらぐ。
九年、王覇は吳漢と、橫野大將軍の王常、建義大將軍の朱祐、破奸將軍の侯進らと、盧芳の將・賈覽、閔堪を、高柳でうつ。匈奴が盧芳をたすけ、漢軍は雨にふられ、まけた。呉漢は洛陽にかえる。朱祐を常山,王常を涿郡,侯進を漁陽におかせる。璽書して、王覇を上谷太守とする。屯兵はもとどおり領する。胡虜(匈奴)をとらえるには、郡界をこえてよい。
明年、王覇と呉漢ら4将軍は、高柳で賈覽をうつ。光武は王覇に、漁陽太守の陳キンとともに、先鋒させた。匈奴の左南將軍は、賈覧をすくう。王覇は、平城でやぶり、出塞した。王覇らは雁門にもどり、驃騎大將軍の杜茂とあわさり、盧芳の將・尹由と、崞県(雁門)、繁ジ(雁門)でたたかい、かてず。
後南單于、烏桓降服,北邊無事。霸在上谷二十餘歲。三十年,定封淮陵侯。永平二年,以病免,後數月卒。子符嗣,徙封軑侯。符卒,子度嗣。度尚顯宗女浚儀長公主,為黃門郎。度卒,子歆嗣。
十三年(037)、邑戶がふえ、向(沛郡)侯。このとき盧芳と匈奴、烏恒は、しばしば辺境をくるしめる。王覇に、弛刑(恩赦された罪人)をつけ、杜茂とともに、飛狐道をなおす。代郡から平城まで、3百餘裏。辺境について知りつくす。王覇は、匈奴との和親をいう。温水で輸送し、陸諭のコストをやめた。
のちに、南単于、烏丸がくだる。北辺は、無事となる。王覇は、上谷に20余年いた。三十年(054)、淮陵(臨淮)侯。永平二年(059)、病で免ぜられ、数か月でしぬ。
王覇の子・王符がついだ。
つぎ、最終回。祭遵伝です。つづきます。